フォト
2024年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

« 人材立国をめざした成長戦略 by 生産性本部 | トップページ | 攝津正さんの書評その3:よくわからない点 »

2010年1月 2日 (土)

働くことそのものを報酬にしてはならない論の政策論的文脈

新年早々に、金子良事さんに拙ブログのエントリについてコメントいただきました。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-90.html(働くことそのものを報酬にしてはならない論)

わたくしの趣旨について適切に理解いただいているところと、若干意見が違うのかなというところがありますので、あまりくどくならないように簡潔に説明しておきたいと思います。

金子さんが(おそらく)適切に理解されていると思われるのは、わたくしは別にアカデミズムのなかでアカデミックな人々向けにアカデミックな理論を展開することが主目的なのではなく、まさに「なんらかの政策目的がある」という点です。わたくしは長く政策担当者として職業生活を送ってきましたし、現在も政策研究者という立場であって、「何らかの政策目的」なしに純粋にアカデミックな理論構築をすることを目指しているわけではありません。

そして、そういう立場からすれば、内田樹さんの議論それ自体というのは、そもそもわたくしがどうこう言うべき議論というわけではありません。というか、もとのわたくしのエントリを読まれればお判りになるように、わたくしは内田樹さんの議論の本来の射程であるミクロの人間学としての意味においては彼の議論に完全に賛成しています。もっとも、ここはわたくしの土俵ではありません。

>これはミクロの人間学としては正しい。少なくとも正しい面がある。

しかしそれだけではなく、内田氏の議論を超えての政策論的インプリケーションとしても、マクロ社会な原理として内田氏の議論に同意しています。ここはわたくしの土俵のうちの一つです。

>そして、マクロ社会的な原理としても、たとえば「捨て扶持」論的なベーシックインカム論に対して、人間にとって働くことの意義を説くという場面においてはきわめて重要だ。

わたくしが内田氏の議論に文句を付けている(ように見える)のは、内田氏がそもそも全く想定していない市場における交換と組織における権力関係によって特徴づけられる労使関係という枠組みにもってきた場合の問題なので、そもそも「これに対して内田さんがいっている世界は全然違う」というのは当たり前なのです。わたくしが議論しようとしているのは、内田氏の議論の文脈ではない世界なのですから、「これを互酬という。ここが濱口さんの議論で触れられていない点であり、実は核心部分なのである」というのはまさにその通りであって、その通り以上でも以下でもないわけです。

あえていうならば、ここで批判の対象になっている者があるとするならば、それは内田氏が全然想定していなかった世界に内田氏の議論をそのまま持ち込んで「お前は楽しくて働いてるんだから、賃金安くていいよな」という人間なのであって、内田氏自身ではありません。そのあたり、自分ではきちんと区分けした書いたつもりなのですが、やはり書き方がおぼつかなかったのでしょう。

ただ、あえて金子さんの議論に一点苦情を申し述べるならば、

>話を濱口さんの議論、あるいは政策という視点に戻してみよう。平たく言ったら、うまくいっているところは口出しする必要はない。強いて言えば、うまくいっていないところのためにこうやったらいいですね、と紹介するくらいであろう。だから、ターゲットはあくまで「お前が好きで働いてるんだから、賃金は安くていいよな」と考える人なのである。そして、そのことが分かれば、普通の人は「働くことは大事である。だからこそ働くことを報酬にしてはならない」という考え方に付き合う必要はないのである。

というところでしょうか。いや、構図自体はこの通りです。うまくいっているところに口出しする必要はない。問題は、「普通の人」という言い方であたかも社会の圧倒的大多数が「互酬」の麗しき世界で労働を行っているのであり、そうでない者などほとんどネグリジブルなごく少数派に過ぎないかのような印象を与えるところではないかと思います。

始めに述べたようにわたくしの関心は政策的なものです。

>仕事をやらせてもらえること自体がありがたい報酬なんだから、その上何をふてぶてしくも要求するのか、というロジックに巻き込まれてしまう。自分自身が自発的に権利を返上してしまうボランタリーな「やりがいの搾取」の世界

をどうするかというところから出発します。そういうのは「普通」じゃないから「つきあう必要はない」という発想とは、おそらく認識論的にはかなり共通するところを持ちつつも、実践論的にかなり離れていくことになるのだろうと思います。繰り返しますが、それはどちらが正しいとか間違っているという話ではないのです。

« 人材立国をめざした成長戦略 by 生産性本部 | トップページ | 攝津正さんの書評その3:よくわからない点 »

コメント

明けましておめでとうございます。

「普通の人」と表現したのは軽率でした。いろんな意味で。今、現にトラブルの渦中にない人はそこに引っ張られなくてもいい、くらいの意味で、考えています。

政策目的があると、どうしてもどこかに重点を置く必要があるし、それを融通無碍に変更すると、信頼を失う。
どうしても、ジレンマに陥る危険性と隣り合わせにならざるを得ない、というか、なりやすいんじゃないかと思います。

あけましておめでとうございます。

そうですね。実は、金子さんはよくわかっておられると思いますが、わたくしはかなり意識的に、わざと政策的思考を前面に打ち出しています。そうする理由もたぶん金子さんには見えていると思います。

政策的思考でものごとを進めると、提起された問題によって異なる議論を使い分けることになるではないかというのはその通りで、実際上の議論でも、マクロ社会的にはネーション国家は「互酬にもとづく麗しき共同体」であるべきというロジックに立ちながら、労使関係の文脈ではそれが権力関係に利用される危険性を強調するというのは「信頼を失う」ではないかという批判はあるでしょう。

これは突き詰めると社会問題を論ずる方法論をめぐる哲学的な議論になるのでしょうが、正月早々そこまで突き詰めて考えるだけの透徹した脳味噌の状態にもなっていないので、とりあえず問題の所在だけメモしておきます。

 濱口さん、あけましておめでとうございます。旧年は大変お世話になりました。

>「お前は楽しくて働いてるんだから、賃金安くていいよな」という人間なのであって
>>仕事をやらせてもらえること自体がありがたい報酬なんだから、その上何をふてぶてしくも要求するのか

 私は直接には経験していませんが、現在、このような論理が至る所で横行しています。
 このような論理が国民の首をどれだけ苦しめているのか、指導的立場にある人はまるでわかっていないようです。
 政策論的には、このような論理をどのようにして乗り越えていくかが、今年の課題の一つになりそうです。

 今年もよろしゅうお願い申し上げます。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 働くことそのものを報酬にしてはならない論の政策論的文脈:

« 人材立国をめざした成長戦略 by 生産性本部 | トップページ | 攝津正さんの書評その3:よくわからない点 »