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2010年1月 4日 (月)

攝津正さんの拙著に触発された感想

http://book.geocities.jp/tadashisettsusougou/roudousyakai4.html

攝津正さんによる拙著『新しい労働社会』書評シリーズの第4回ですが、今回は

>テキストに即して議論するのは大事だが、ちょっとしんどいところもある。それで今回は、自分自身の現状と照らし合わせるかたちで考えてみたい。

と、書評というよりも拙著に触発されて湧出してきた攝津さんの感想を随想風に綴ったものになっています。

>僕は物流倉庫で働くパートタイマーである。時給は1000円に届かない。月収は15万円に届かない。そういう立場からすると、正社員と非正規労働者の均衡待遇というのを、是非求めていきたい。前回も書いたが、コミュニティユニオンの要求は時給1000円以上、フルタイムで働いて月20万円以上を最低賃金とする、ということで、僕もそうなればいいなとは思うが、僕が働いている会社も中小企業であり、体力的に厳しいというのは十二分に分かっている。だから、住宅費や扶養家族の生活費などを公的に負担する社会保障の仕組みがあれば、どんなにいいだろうと思う。
 パート労働者として自社の正社員らを見ていると、かなり大変そうである。過重な責任、労働。長時間労働。自分にはできない、と思う。だから、虫のいい話かもしれないが、非正規でも生活できる賃金をして欲しい。賃金と社会保障を足した額で、自分と家族が安心して暮らせる額に達して欲しい。これは切実な要求である。全ての非正規労働者を正社員に、というのは無理で必ずしも望ましくない要求である。正社員的働き方が余りにきつ過ぎるし、新規学卒者一括採用から外れてしまった高年齢フリーターには余りに狭き門である。僕は前の会社から転職する時に、多くの企業で面接を受けたが皆落とされた。資格もなければ経験もない僕自身の駄目さ加減からかもしれないが、友人知人でもどうしても正社員になれないという人は多いので、これは普遍的な社会的問題なのではないかと思う。

わたしはここに示されている攝津さんのような人々の声をきちんと法政策に受け止めていく回路が必要なのだと思います。

>既成の正規雇用の労働者の労組(企業別組合)に非正規労働者を入れるようにしてそこを窓口に、という提言については、労組がある企業についてはいいかもしれないが、そもそも労組などない企業(僕が働く企業もそうだ)には当て嵌まらないと思う。僕はフリーター全般労働組合に加入しているが、それは解雇などがあった場合の保険という意味合いがある。争議が実質上「個別交渉」とならざるを得ないとしても、自分の権利を守るためにコミュニティユニオンは意味があると考えている。フリーター労組の事務所に置いてあった『新しい労働社会』には「コミュニティユニオンについての考え方が不安」と書き込みがされてあったが、著者は自発的結社でなく、自動的に誰もが入るような組織を労働者の代表として念頭に置いているようである。

この「不安」感はよく理解できます。労働問題に詳しい人ほど、第4章の議論には疑問を呈されます。せっかく非正規労働者がささやかな権利を主張する回路ができたというのに、それを潰そうというのか?お前は大資本経営者の手先か?というわけでしょう。

わたくしも拙著の188ページから190ページのコラムで、

>この形式的には集団的ですが実質的には個別的な「団体交渉」は、個別紛争を解決する上でかなり有効に機能してきました。近年の研究では、団体交渉を申し入れた事件の約8割が自主解決により終結しています。その意味で、コミュニティユニオンが社会的に存在意義の大きい団体であることは間違いありません。

と述べています。その意義を認めることに何らやぶさかではありません。しかしながら、

>しかしながら、制度の本来の趣旨とあまりにもかけ離れてしまった実態をそのままにしていいのかという問題はあります。これは、やり方によってはせっかく確立してきた純粋民間ベースの個別紛争処理システムに致命的な打撃を与えかねないだけに、慎重な対応が求められるところですが、やはり個別は個別、集団は集団という整理を付けていく必要があるのではないでしょうか。少なくとも、現行集団的労使関係法制が主として個別紛争解決のために使われているという現状は、本来の集団的労使関係法制の再構築を妨げている面があるように思われます。

事態がもうどうしようもないぐらいひどい状況に陥ってから個別に解決する仕組みだけが回ってしまうということは、それをそうなる前に職場の集団的な枠組みで解決する仕組みを作らなくてもいいということになってしまいかねません。

ここは大変入り組んだ領域であるとともに、政治的にもセンシティブな分野です。しかし、だからといって今のままにしておいていいとも思えないのです。

最後に、やや次元の異なる視点からの批評として、

>最後に。根本的で最終的な疑問だが、働くことはそんなに必要なのだろうか。怠惰はそんなにいけないことなのだろうか。夢追い型フリーターはそんなに非難・蔑視されるべきものなのだろうか。僕は(他人が考えたものとはいえ)惰民党なるものの名誉総裁に担ぎ出され、夢を追っている者である。そして、そういう自分で悪いとは思わない。

いや、わたしも別に「怠惰がいけない」などとは全然思っていないのです。ただ、怠惰であることの物質的報酬を社会一般に要求する根拠はないのではないかと思っているだけです。

そして、『日本の論点2010』に書いたように、怠惰の報酬を社会一般に要求するならば、それは直ちに怠惰ではなくても無能であるがゆえに社会から排除されることの報酬に転化してしまうと思っています。そしてわたしが「いけないこと」と考えるのはそういう社会的排除の正当化です。

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