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2010年1月

2010年1月31日 (日)

『エコノミスト』誌特集「ワーキングプアをつくらない社会保障」

20100129org00m020046000p_size6 明日発売の『エコノミスト』誌は、総力特集は「ザ・相続」ですが、サブ特集として「ワーキングプアをつくらない社会保障」を組んでいます。

http://mainichi.jp/enta/book/economist/news/20100129org00m020047000c.html

◇特集 ワーキングプアをつくらない社会保障

・勤労所得の低さを補う「補完型」保障への移行を ■宮本 太郎

・「年功賃金」は持続不可能 「ジョブ型賃金+福祉国家」で ■木下 武男

・支えきれなくなった「家族」 失業保険と生活保護の再構築が急務 ■濱口 桂一郎

わたくしの担当は、失業保険と生活保護と、その間のいわゆる第2層という外部労働市場におけるセーフティネットについてです。

このうち、宮本太郎先生の文章のはじめの部分が、チラリと公開されていますので、関心のある方はどうぞ。

http://mainichi.jp/life/money/kabu/eco/summary/news/20100130org00m020002000c.html(解体した日本型生活保障 勤労所得の低さを補う「補完型」保障への移行を)

米に入れば米に従う仏企業

ビジネスウィーク誌の興味深い記事。

http://www.businessweek.com/globalbiz/content/jan2010/gb20100122_716025.htm(U.S. Labor Takes Its Case to European Bosses)

アメリカに進出したフランス企業に対して、アメリカのサービス労働組合が、フランス企業のやり方がひどいと、フランスの本社に押しかけようという話です。

>The Service Employees International Union will picket the annual meeting of French food-service group Sodexo (SDXAY) in Paris on Jan. 25 as U.S. unions take their organizing efforts abroad.

Sodexo, which employs 380,000 people worldwide including 110,000 in the U.S., is "engaging in behavior around the world that would not be acceptable in their home country," says Mitch Ackerman, an SEIU executive vice-president who heads the Washington-based union's property services division.

仏ソデコ社は「自国だったら受け入れられないような行動」をアメリカでやっている、と。

具体的には、

>The SEIU alleges that Sodexo's U.S. subsidiary has used "harsh" though legal anti-union tactics, such as requiring employees to attend meetings where managers try to dissuade them from unionizing. The union also alleges that some Sodexo employees have been punished for taking sick days, and that the company's health-insurance plan is too expensive for many workers, who hold kitchen and cleaning jobs in schools, hospitals, military bases, and other facilities

従業員に対して、管理職が「組合にはいるな」と説得するための会合に出席するよう要求したり、そのほか病気休暇を取ったからと懲戒を受けたりしていると主張しています。

ソデコ社はそんなことしていないと云ってますが、

>Sodexo denies those allegations. "Sodexo respects unequivocally the rights of our employees to unionize or not to unionize, as they may so choose," the company says in a statement. "We will not discriminate against any employee for engaging in union organizing activities or otherwise supporting a union."

それはともかく、面白いのは「engaging in behavior around the world that would not be acceptable in their home country」ってとこですね。

ソデコ社は、自国フランスでは労働法規制が厳しくて出来ないことを、アメリカだからやれている、というわけです。ではその責任は誰にあるのか、といえば、民主主義国家である以上、そういうゆるい労働法規制しか認めていないアメリカ国民にあるとしかいいようがない。

自国の労働者を保護したら競争力が失われて没落するぞ、というのはある種の人々がよく言う台詞ですが、アメリカ国民は自国の労働者が保護されないことによって他国資本がやってくることの方が望ましいと判断してそうしているんだとすれば、それはまさに望んだとおりのことが実現しているわけであって、文句を言うんだったら、自国の有権者に云えよな、・・・とはもちろん云いはしないでしょうけど。

ソデコ社がフランスでそういうことが出来ないのは、フランス国民がそう望んでいるからでしょう。

>According to Ackerman, SEIU is hoping its complaints will cause a stir in France, which offers universal public health insurance and guarantees the right to unionize and strike in its national constitution.

"We want to tell our story to shareholders and to a larger public audience," he says.

アメリカ国民が望んでいないことをやれとアメリカの労働組合がフランスの株主や一般大衆に訴えにいくというのも、なんとなく皮肉な感じがしますねえ。

連合の「同一価値労働同一賃金」とは?

先日(1月26日)のエントリ「日本経団連の定義による「同一価値労働同一賃金」」について、労務屋さんが簡単にコメントされています。

話の流れを理解するために、一通り引用します。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-fb7d.html(日本経団連の定義による「同一価値労働同一賃金」)

>>ここで、同一価値労働同一賃金の考え方とは、将来的な人材活用の要素も考慮して、企業に同一の付加価値をもたらすことが期待できる労働(中長期的に判断されるもの)であれば、同じ処遇とするというものである。

>これは、通常の用語法における同一価値労働同一賃金とは逆に、同一労働であっても(中長期的に)同一価値じゃないから同一賃金にする必要がない、というロジックです。これはこれで、一つの完結したロジックなのですが、それは日本型システムにおける職能資格制における賃金決定原理の一つの軸であって、それを既に世界的に意味の確定している「同一価値労働同一賃金」という言葉であえて表現する意味がどこにあるのか、いささかよくわからないところがあります。

ちょっとググってみても、日本経団連以外にこの言葉をこういう意味で使っている用例はなさそうです。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20100129経労委報告に対する連合の見解・反論その2

>なお、「現実的には同一価値労働・同一賃金を否定しているものと同じと考える」というのはある意味そのとおりで、hamachan先生もご指摘のとおり(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-fb7d.html)、ここでの経団連の「同一価値労働・同一賃金」の用法は法哲学の一般的定義とは異なる定義によっていますから、そういう意味では一般的定義としての「同一価値労働・同一賃金」を現実的には否定しているからです。その善し悪しは別問題で、とりあえず連合見解は事実の指摘としては正しいといえるでしょう。

うろ覚えなのでまったく自信はないのですが(誤りがあればご指摘ください)、「同一価値労働同一賃金」という語は、日本では連合などの労働サイドが、日本は職務給じゃないし職務分析も一般的じゃないから同一労働といっても難しいよな…といった文脈で、おそらく法哲学上の定義とは別に使い始めたように記憶しています。その後、賃金だけじゃないだろう、ということで「同一価値労働同一労働条件」と言っていた時期もあったように思います。これに対抗してかどうか、旧日経連などは「同一生産性同一賃金」という語を用いていたこともあったはずです。いずれをとっても、言わんとしていることはわからないではないけれど、でも突き詰めて考えようとすると意味不明だなあという印象は禁じ得ず、同一労働同一賃金というときには意味を慎重に考える必要があるように思います。

ここで論じようとしているのは同一価値労働同一賃金は本来どういうものであるかとか、どうあるべきかということではなく、一般的な用法とは異なる上記「同一価値労働同一賃金」の用法を使い出したのはどちらかという事実問題です。

労務屋さんによると、それは「連合などの労働サイド」であるということなのですが、そういう用例はいくらググっても出てこないのです。逆に、2002年にパート労働プロジェクトの冊子では、

https://www.jtuc-rengo.or.jp/shuppan/roudou/part_kintou.html(パートタイム労働の「均等待遇」に向けて)

>ペイ・エクイティ(同一価値労働同一賃金原則)の実践

というのも載っているので、「同一労働じゃなくても同一価値だから同一賃金にしろ」という意味でこの言葉を使っていたようです。

ただ、労務屋さん自身がかつて書かれた「用語集」にも、

http://www.roumuya.net/words/t/doitsu.html(同一労働同一賃金)

>こうした問題をふまえて、連合などは「同一価値労働同一賃金」を主張している。外形的に同じであっても価値が違うということはありうる、というわけである。

と書かれているので、「同一労働であっても同一価値じゃないから同一賃金じゃなくてもいい」というこの言葉の用法を使い出したのは連合側であるという認識はかなり以前からのものなのでしょう。

なお、「連合はそんなこと云ってるけど、実は・・・」という次元の話であれば、これはもう昔からの話ですが、それとこんがらかると話の筋がますますわけわかめ気味になります。

このあたりの一つの簡単な整理として、わたくしの「賃金制度と労働法政策」から、一節を引用しておきます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/chinginseido.html

>興味深いのは、最後のところで、連合の同一価値労働同一賃金原則の主張を批判しているところです。雇用形態が違えば価値も違うはずだ云々と反論をしているのですが、論理的整合性でいえば、定型的職務従事者に対する職務給については雇用形態にかかわらず同一労働同一賃金原則が適用されるのでなければおかしいはずです。連合が「均等処遇の実現と並んで、賃金カーブの維持を要求の柱に据えて」いること自体が「論外」という批判こそが論理的に正しいのであって、本来ならばむしろ同一労働同一賃金原則に基づいて賃金カーブを平べったくするのだと主張すべきところでしょう。まあ、世の中いろいろあってそうは言えないのでしょうが。

2010年1月30日 (土)

中窪裕也『アメリカ労働法[第2版]』

675f50d341f31120ef7fcb8d682cde60792 中窪裕也先生より、近著『アメリカ労働法[第2版]』をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.koubundou.co.jp/books/pages/30373.html

>アメリカでは解雇が自由というのは本当でしょうか? 団体交渉や差別禁止はどのようになっているのでしょうか? 「労使関係法」を中心としたシステムから「雇用差別禁止法」「雇用関係法」へと重心を移しているアメリカ労働法の全体像を明らかにした初めての概説書。待望の改訂です。
 初版以降、2000年代半ばまで、労働立法の進展がほとんど見られなかったアメリカですが、ここ数年は法改正や新法の制定が相次ぎ、連邦裁判所での判決も集積しています。それらの動きをフォローし、全体をアップデートにするとともに、ますますダイナミックに発展しているアメリカ労働法の姿を概説する、実務にも役立つ最新版。

この「アメリカでは解雇が自由とは本当か」というのは、オビにも大きく書かれています。

これに対する中窪先生の答えは、312ページの「解雇法理の現状」に書かれています。

>以上に見たような随意的雇用の原則に対する修正は、もちろん州によって、その進展の程度が異なる。いずれの法理についても積極的に採用している州がある一方で、どの例外法理も採用せず、ほとんど昔と異ならない形で解雇自由原則を固守している州もある。

>また、例外法理の中心をなすパブリック・ポリシー法理と契約法理は、ある意味では当然のこととも言える。かつての随意的雇用の原則があまりに硬直的だったのを、法体系の枠内における合理的な推定ルールという、本来あるべき姿に戻したという面が強い。誠実・公正義務によっても、わが国の解雇権濫用法理に比肩するほどの修正は行われておらず、基本ルールとしての解雇自由原則はなお健在である。それを否定して、一般的な正当事由の要求にまで踏み込んだのは、モンタナ州だけである。

>・・・1980年代には、例外法理の発展によって「例外が原則をのみ込むのではないか」と騒がれたが、現在では「例外は例外」という形に整序され、原則としての随意雇用原則が再確認されているような印象を受ける。

それにしても、アメリカ労働法の現実の姿からして、本書の半分強は集団的労使関係法制に、残りの半分強は差別禁止法制に当てられており、現在の日本の労働法学の圧倒的大部分を占める労働条件と雇用契約に関する記述は5分の1強に過ぎません。これはやはりアメリカの特殊性というべきでしょう。

詳細目次は次の通りです。

第1章 アメリカ労働法の歴史
   第1節 苦闘の時代(19世紀後半~1920年代)
    1 保護立法に対する障害
    2 労働組合と法
   第2節 労働法制の基盤の確立(1930年代~1940年代前半)
    1 ノリス・ラガーディア法
    2 ニューディール労働立法の形成
    3 労働組合運動の高揚
   第3節 現行の労働法体系の形成(1940年代後半~現在)
    1 労使関係法の展開
    2 雇用差別禁止法の発展
    3 個別的労働立法と雇用契約関係
    4 アメリカ労働法の視点

第2章 労使関係法
 ◆A 被用者の権利
   第1節 全国労働関係法(NLRA)の構造
    1 NLRAの基本構造
    2 不当労働行為手続
    3 NLRAの適用対象
   第2節 組織化活動の権利
    1 組織化活動の意義
    2 施設内活動の規制-被用者の場合
    3 施設内活動の規制-外部者の場合
    4 組織化活動と使用者の言動
   第3節 支配介入の禁止
    1 8条(a)(2)の趣旨
    2 使用者の任意承認と中立義務
    3 参加制度をめぐる問題
   第4節 差別的取扱い
    1 8条(a)(3)による差別の禁止
    2 差別意思の認定
    3 事業の廃止と8条(a)(3)
    4 差別に対する救済
   第5節 保護される団体行動
    1 団体行動権の保障
    2 団体行動の範囲
    3 保護の限界
   第6節 労働組合による権利侵害
    1 被用者の権利行使の妨害-8条(b)(1)(A)
    2 組合員たることを奨励する差別-8条(b)(2)
    3 ユニオン・ショップ協定
    4 「被用者」と「組合員」
 ◆B 団体交渉・労働協約・争議行為
   第7節 交渉代表の選出
    1 代表選挙の申請
    2 選挙と認証
    3 交渉単位
    4 団交命令による地位の確立
    5 使用者の変動
   第8節 団体交渉義務
    1 排他的代表権限と公正代表義務
    2 団体交渉義務の内容
    3 団体交渉事項
    4 協約成立後の団体交渉義務
   第9節 労働協約と仲裁
    1 協約違反訴訟と苦情・仲裁手続
    2 仲裁尊重の法理
    3 個人被用者の協約上の権利
    4 ノー・ストライキ条項
   第10節 ストライキとロックアウト
    1 争議行為の権利
    2 スト参加者の地位
    3 ロックアウト
    4 争議調整
   第11節 禁止・規制される圧力行動
    1 2次的圧力行為
    2 消費者へのアピール
    3 ホット・カーゴ条項、縄張り争い、フェザーベッディング
    4 組織化・承認要求ピケッティング
   第12節 連邦法による先占
    1 NLRAにおける先占法理
    2 タフト・ハートレー法301条による先占
    3 労使関係法の世界

第3章 雇用差別禁止法
   第1節 1964年公民権法第7編と差別的取扱いの法理
    1 第7編の差別禁止規定
    2 個別的な差別的取扱い
    3 系統的な差別的取扱い
    4 差別的取扱いに対する抗弁
    5 アファーマティブ・アクション
   第2節 差別的インパクトの法理
    1 差別的インパクト法理の形成
    2 Wards Cove 事件と1991年公民権法
    3 703条(h)による抗弁
    4 差別的インパクトの回避と差別的取扱い
   第3節 第7編における特別の差別類型
    1 妊娠差別
    2 セクシュアル・ハラスメント
    3 宗教差別
    4 出身国差別
    5 報復的差別
   第4節 第7編違反に対する救済
    1 EEOCへの申立
    2 EEOCの手続と訴訟
    3 救済の内容
   第5節 人種・性に関する特別の連邦法
    1 合衆国法典42編1981条
    2 同一賃金法(EPA)
   第6節 その他の差別禁止立法
    1 雇用における年齢差別禁止法(ADEA)
    2 障害を持つアメリカ人法(ADA)
    3 遺伝子情報差別禁止法(GINA)
    4 州法の規制

第4章 労働条件規制と雇用契約
   第1節 賃金・労働時間・休暇・付加給付
    1 公正労働基準法(FLSA)
    2 家族・医療休暇法(FMLA)
    3 州法による賃金・労働時間・休暇の規制
    4 付加給付と被用者退職所得保障法(ERISA)
   第2節 安全衛生と労災補償
    1 職業安全衛生法(OSHA)
    2 労災補償制度
   第3節 雇用契約の成立と終了
    1 雇用契約と法
    2 雇用契約の成立
    3 解雇自由原則と例外
    4 大量レイオフ、事業所閉鎖における予告
   第4節 雇用関係上の権利と紛争、契約終了後の問題
    1 雇用関係法のアプローチ
    2 訴訟に代わる紛争解決手続
    3 雇用契約終了後の問題

  参考文献
  事項索引(和文・欧文)
  判例索引

週休3日とか云う前にちゃんと休めるようにすることが大事

経済産業研究所(RIETI)のコラムで、岩本真行さんが「「週休3日制」導入による経済・社会変革を」と述べています。

http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0277.html

>週休2日制が導入されてから15年余りが経過した今、改めて週休日数の増加を検討すべき時期にきているのではないか。こうした問題意識に基づき、本稿では、経済および社会に変革をもたらすと考えられる「週休3日制」の導入について議論したい。

さて、いかがなものでしょうか。

現在「週休2日」だと云いながら、「依然、他の先進国と比べると我が国の年間労働時間は高水準にある」理由は何なのか、時間外休日労働を当然の義務と考える社会の中で、形ばかり休日を増やすことが本当に意味のあることなのか、そろそろ考え直す時期・・・・・・というより、とっくに考え直していなければならなかったはずではないか、と私は思います。

正直言うと、自分自身かつて労働行政で労働時間短縮の仕事に携わった経験からも、時間外休日労働を野放図にしたままの所定労働時間の短縮とか、取得する際の難しさをほったらかしにしたままでの年次有給休暇「付与」日数の引き上げだのといった形からはいる「時短」政策はいったい何だったのか、との思いはあるわけです。

週休3日制の現実的なフィージビリティは別として、仮にそれが法制上実現したとしても、本当に休まなければならない仕事に追われてる人々がそれで本当に休めることになるのか、そうでなければ、結局労働時間の二極化をますます増幅するだけに終わるかも知れません。

今だって、世間は「週休2日制」と云うけれど、労働基準法上は「週休1日制」だというけれど、休ませなければならない絶対休日というのは存在しないのです。協定結んで割増賃金さえ払えば、日本は「週休0日制」の国なんですね。

「経済・社会変革」とは内需拡大に尽きるわけでもありますまいし。

2010年1月29日 (金)

江口匡太『キャリア・リスクの経済学』

Image 拙著をJIL雑誌で書評していただいた江口匡太さんから、『キャリア・リスクの経済学』(生産性出版)をお送りいただきました。

>不確実性の高い時代、人事評価、昇進、技能形成、転職、雇用調整などキャリアにまつわるリスクは会社にも個人にも深まっている。本書は、人事管理の背後にあるリスクを、最先端の経済理論の知見を使って、制度と 実際に則して平易に解き明かしている。経済学から見ると、人事管理の常識も違って見えてくる。人事担当者はもとより、これから人事管理の理論を学ぼうとする人には最適の解説書であり、かつ、キャリア・リスクという時代の課題を先取りしたユニークな1冊である。

この「最先端の経済理論」とは、ゲーム理論の応用です。江口さんの「はじめに」の言葉を引用すると、

>従来の市場の理論である価格理論が市場システムの有効性を立証する理論的枠組みを提供したが、ゲーム理論はむしろ自由放任の限界を明確にした。その影響力は大きく、ミクロ経済学の教科書の半分以上はゲーム理論に関連する項目が占めるようになって20年になる。

そこで、本書は人事の経済理論を次の6項目について論じていきます。

はじめに キャリア・リスクの時代
第1章 人事評価をめぐるリスク
第2章 昇進をめぐるリスク
第3章 技能形成をめぐるリスク
第4章 採用と転職をめぐるリスク
第5章 情報伝達と権限をめぐるリスク
第6章 雇用調整をめぐるリスク
おわりに 人事管理制度の今後

生産性出版のHPから、江口さん自身のメッセージを引用しますと、

>キャリア形成に対して、確固としたイメージを持つことが難しくなって きています。会社にしがみつくのはリスクが大きいと言われる一方、今の ところで頑張っていかなければならないのも現実です。こうした現状にお いて、ビジネス・パーソンが理解すべき人事管理の考え方やキャリア形成 の注意点を、人事の経済学や労働経済学の観点から説明したのが本書です。  査定担当者が変わるとどの程度評価はぶれるのでしょうか? 係長から 課長へよりも、課長から部長へ昇進した方が大きく昇給しますが、なぜで しょうか? 正社員は保護されていると言われますが、どの程度本当なの でしょうか? こうした人事管理をめぐる問題を、人事評価、昇進、技能 形成、採用と転職、情報伝達、雇用調整の6項目に分けて経済学的な視点 で考えていきます。

どの章も興味深い話題で一般ですが、やはり第6章の解雇、雇用保障、有期雇用といったあたりは、労働法の観点からもたいへん興味深い論点がてんこ盛りです。

>解雇規制による雇用保障の功罪のうち罪を指摘する論点の一つは、労働者の働くインセンティブを削いでしまうというものだ。さぼっても解雇されないのであれば、手を抜くことになる。・・・

>一方、企業側のモラル・ハザードも存在する。一生懸命働いたのに、約束した報酬を払ってくれないのであれば、努力する気は失せる。・・・簡単に解雇されてしまうのであれば、その約束は履行されなくなる。

>また、時には従業員が経営陣に耳の痛い報告や提言をしなければならないこともあるだろうが、報告や提言を理由に簡単にクビになるのであれば、誰も何も言わなくなる。5-3で述べた発言のメカニズムが作用するためには、簡単に解雇されないという保障が必要となる。

>以上より、雇用保障は功罪両面ある。罪の方ばかり主張するのは一面的だ。実際に功罪のどちらが大きいかは意見の分かれるところかも知れない。解雇規制による雇用保障が強まるほど、労働者側のモラル・ハザードが深刻となり、反対に雇用の保障が弱まるほど、企業側のモラル・ハザードが深刻になる。

こういう文章を読むと、経済学ってなんて明晰でしかも現実感覚に富んだ素晴らしい学問なんだろうか、と思います。人にこういう思いを与える経済学者と、逆の感覚を与えるケーザイ学者の違いって、何なんでしょうか。

ここでは引用しませんが、第4章で直接労働者を雇用するかアウトソースするかの選択を契約の不完備性から説明した上で、労働法上の労働者性の議論がそれと深く関わっていることを説明するあたりもあざやかです。

(参考)

江口さんの拙著書評はここに貼り付けてあります。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/20091127095929298_0001.pdf

拙著への書評いくつか

最近の拙著『新しい労働社会』への書評からいくつか。

まず、労働問題実務紙の『労基旬報』1月15日号の無記名書評。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/20100127132401793.pdf

>立場的には反論してみたいのだが、妙に納得してしまっているもう一人の自分がそこにいるのも確か。

「ケイジスタ」さんのブログ。

http://www.kei-g-star.net/2010/01/book-review-260.html

>本書は新聞でもよく見聞する労働問題に対してシステマティックに分析を試みており、
労働という枠を超えて社会システムという大きなスケールで捉えた名著と言えるだろう。

なお、『新しい労働社会』に書評いただいた「ブログ・プチパラ」さんが、わざわざ分厚い『労働法政策』を図書館から借りだして、その感想をアップされています。

この本の書評がこういう形でいま書かれるというのは大変うれしいことです。

http://blog.goo.ne.jp/sinceke/e/f873037016226c348c499b0a2b0a362c(雇用保険のいろいろな仕組みは結構最近にできたみたい-濱口桂一郎『労働法政策』を読む①)

>岩波新書の『新しい労働社会』の「あとがき」で、「もっと詳しく知りたい方は、こちらをどうぞ」といって挙げられていた、濱口桂一郎氏の『労働法政策』(2004年)という本。

私は「どんなもんだろう」と思って図書館から借りて来て、頑張って読んでみた。
とりあえず、今のところ半分以上には目を通せた。

日本の労働法の歴史がその内容。
とにかく、すげーヴォリューム! ちっちゃい字がギッシリと詰まってて、なんと500ページ以上もある!

その「目方」を見て気持ちは臆したが、雇用関係、労働法周辺の用語にこの際、「いちど慣れてみよう」と思って、むりやり目を通すことにした。

http://blog.goo.ne.jp/sinceke/e/36527ad1e9ce686fdf91b74ed637a305(雇用保険と生活保護のあいだにポッカリ開いた大きな穴-濱口桂一郎『労働法政策』を読む②)

>労働法の歴史を描いた濱口桂一郎『労働法政策』(2004年)から、自分がいま興味を持てそうなところを、適当にピックアップしておく。

私が気になっているのは、たとえば「生活保護」と「雇用保険」のあいだにポッカリと開いた大きな穴、のことだ。
それと関係して、ハローワークと福祉事務所がもっとうまく連携できないかということ。

http://blog.goo.ne.jp/sinceke/e/c044694bfd6abaa608d06b21b181a86f(「社会政策学」vs「労働経済学」の対立はまだある?-濱口桂一郎『労働法政策』を読む③(終))

>労働問題や雇用問題を考えるとき、いろいろ読んでみると、切り口として「経済学」でスパッと断ち切るのか、あるいは「歴史」や「労働法」に即してネチネチとした「辛抱強い」分析を続けていくのか、論者によって大きく違うようだ。

派遣法改正案とILO条約

一昨日(1月27日)の日刊工業新聞に、派遣法改正案についてのわたくしのインタビュー記事が載っています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/nihonkougyou.html

記者の意図は、派遣法改正案がILO181号条約違反であるという規制緩和派の見解を確認したいということだったのですが、わたくしのコメントは「日本の改正法案を条約違反とする条文はなく」(規制強化反対の)議論の武器として「決め手にはならない」というものであります。

ただ、同条約が「派遣事業を認める代わりに労働者保護もきちんと講じるという新たな均衡点」に立つものであり、それが世界の潮流であることを強調しています。

2010年1月28日 (木)

OECD『日本の若者と雇用』ついに刊行!

Oecd 本ブログで再三にわたり予告してまいりました『日本の若者と雇用-OECD若年者雇用レビュー:日本』(明石書店)が刊行されました。

奧付によると1月30日初版第1刷発行とありますので、書店に並ぶのはもう少し後になるかも知れません。

一昨年末の2008年12月18日、原著が刊行されたその日に、わたくしは本ブログで本書の内容を紹介しておりました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-ce0b.html(日本は若者が安定した仕事につけるよう、もっとやれることがある)

>Japan could do more to help young people find stable jobs

>というわけで、まさに時宜を得たというか、時宜を得すぎているんじゃない、というぐらい絶好のタイミングで公表されておりますな。

その後、新進気鋭の研究者である中島ゆりさんの翻訳原稿を監訳するということになり、その作業がひととおり終わったところで、本ブログで宣伝させていただきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/oecd-1901.html(OECD『日本の若者と仕事』翻訳刊行のお知らせ)

>原著が公表された昨年12月にも「まさに時宜を得たというか、時宜を得すぎているんじゃない、というぐらい絶好のタイミングで公表されておりますな」と申し上げたんですが、政権が変わって、「コンクリートから人へ」とか言っているはずなのに、その「人」作りを叩きつぶそうという動きも蠢動している今日、再び「まさに時宜を得たというか、時宜を得すぎているんじゃない、というぐらい絶好のタイミングで」翻訳出版することになるというのも、何かの巡り合わせでありましょうか・・・。

ようやく書店に並ぶところまで漕ぎ着けて、感慨ひとしおであります。

若者の雇用問題に関心をお持ちの皆様方には、是非ともお買い求めいただき、今後の政策議論に資していただければと切望いたしております。

ご参考までに、巻末につけた「監訳者あとがき」を以下に再録しておきます。なお、その前に中島ゆりさんによる詳細な訳者解説が付いていますので、そちらは是非現物でお読みください。

>監訳者あとがき

 「若者と雇用」という問題設定は、今日の日本では労働社会政策においてもっとも切実で重要なものと感じられているが、過去にはそうではなかった。長らく日本の雇用政策の中心を占めていたのは中高年問題であり、若者問題ではなかった。それを象徴するのが労働行政における組織的な扱いである。厚生労働省職業安定局に若年者雇用対策室が組織的に設置されたのは2004年のことであり、それまでは若年者雇用対策係という一係の所管であった。その係は以前は学卒係と呼ばれ、かつては主に中学校、その後は主に高校の新卒予定者の就職を担当していた。つまり、日本の雇用政策において、若者はもっぱら日本的な「学校から仕事へ」の枠組みにおいてのみ捉えられていたのである。
 これは欧州諸国の状況とはまったく異なるものであった。1970年代半ばに等しく石油ショックを被った日本と欧州諸国であったが、労働市場で不利益を被った年齢層は対照的であった。日本では人件費の高い中高年の排出が進み、中高年失業者が大きな雇用問題となったのに対して、欧州諸国では技能の低い若者が就職できないという形で失業者として滞留したのである。このため、長らく欧州諸国で雇用対策と言えば主として若年者対策であり、中高年対策中心の日本とはなかなか噛み合わなかったのである。
 この原因は両者の雇用システムの違いにある。長期雇用慣行の中でスキルのない若者を採用して職場で教育訓練を行い、年功的処遇をしていく日本型雇用システムにおいては、若者にスキルがないことは採用の障害ではなく、年功的処遇がもたらす中高年の人件費の高さが問題であり、そこに問題が集中した。それに対して職務に見合った処遇が原則の欧州諸国では、中高年の人件費はそのスキルに見合っている限り問題ではなく、スキルのない若者が採用されないという形で矛盾が現れた。それゆえ、若者の雇用促進のために高年齢者の引退促進が政策として進められたのである。
 しかしながら1990年代後半以降、両者で問題状況が変化した。欧州諸国においても年金支給年齢の引き上げとの関係で高齢者の雇用促進が重要課題とされるようになる一方、日本でも「学校から仕事へ」の移行がうまくいかなくなるにつれてフリーターやニートという形で若者の雇用問題が政策課題として意識されるようになってきた。前者では社会保障制度との関係における矛盾が雇用政策の見直しを呼び起こしたのに対し、後者は職業的意義の乏しい教育システムとの補完関係の見直しを迫るものである。OECDの雇用戦略はこの新たな状況下で進められてきた。既に日本編と総合編が明石書店から邦訳されている「高齢化と雇用政策」の国別検討は前者の反映であり、ここに日本編の邦訳を送ろうとしている「若者と雇用」の国別検討は後者の反映である。

 本書の内容やその意義については訳者解説に意を尽くした記述があり、筆者が付け加えるべきことはほとんどない。ただ、近年若者の雇用問題をテーマとする書籍や論文は多く出されるようになってきたが、本書ほど包括的に教育制度や社会保障制度などあらゆる関連分野との関係を睨みながら書かれたものはなお数少ないし、とりわけ世界のさまざまな先進諸国との比較の視点が随所にちりばめられているという点で、ややもすると国際比較といいながら特定国との比較に偏りがちな日本の研究者の業績に比べても、読まれるべき価値は高いと思われる。
 また、訳者解説でも指摘されているように、とかくこれまで日本型雇用システムの中心であった高学歴男性に偏る傾向のある日本での議論に対し、低学歴層と女性・母親の問題をきちんと位置づけている本書の意義は大きいものがある。今後の日本における若者雇用問題の議論のスタンダードテキストとしてもっともふさわしいのではなかろうか。

 派遣村村長だった湯浅誠氏が内閣府参与として緊急雇用対策に取り組むなど、若者雇用問題が国政の最重要課題の一つとなった現代日本において、この問題に関心を持つ多くの人々が本書を手に取り、熟読し、今後のあるべき政策の方向を考えていくことが、一見遠回りに見えて実は問題解決への真の近道であると信ずる。

                                                                 濱口桂一郎

2010年1月27日 (水)

本日の朝日社説

本日の朝日新聞の社説が「春闘スタート―働く人すべてが当事者だ」と題して、とりわけ非正規問題について論じています。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit2

>労使とも重視すべきは、正社員だけの利害ではない。さまざまな形で働く人々の雇用を確保し、賃金や条件を守り、改善することだ。その意味で連合が今年、「すべての労働者の労働条件の改善に取り組む」という旗を掲げたことを高く評価したい。

 まずは傘下の労組が、同じ職場で働く仲間である非正規労働者たちの実態把握を急ぐという。

 非正規を含む労働者全体にいくらの賃金が払われているのか、労使ともほとんど把握していないといわれる。企業の非正規雇用の窓口はモノを買う購買部門などに分散し、派遣切りの温床にもなったとされる。こうした現状を改めることも、労使協議の主題のひとつにしなければならない。

 ところが、経営側の姿勢は全く物足りない。家計を支える非正規労働者の増加という社会情勢の変化に適合しなくなってきた従来型の雇用システムをどう変革すれば新たな労使協調と社会の安定につながるのか、という問題意識が薄いようだ。

 日本の雇用システムや賃金制度は、労使が現場で編み出した知恵が普及したという面が大きい。たとえ「痛み」を伴う改革でも、労使の一致した決断こそが突破口を作るはずだ。昨年、非正規の契約社員の正社員化に踏み切った広島電鉄でも、労使の一体感がバネになった。

と、ここまでの議論はできるのです。問題はその先です。

>賃金の格差是正は詰まるところ、「同じ労働には同じ賃金が払われる」という原則の導入によって果たされるべきだ。それを一挙に実現するのは難しいが、非正規の人たちを本気で仲間として処遇しようとするなら、手立てはあるはずだ

多くの論者の議論はこの直前でとどまっています。同一(価値)労働同一賃金を掲げて雇用システムや賃金制度の抜本改革を唱えるのと、それは極めて困難だからやっぱり均等待遇は難しいと立ち止まるのとは、実は同じことの表と裏に過ぎません。今現在の格差をどうするのかに応えないという点では同レベルです。

「手だてはあるはずだ」に応えようとする試みの一つが、わたくしが提示した期間比例原則であるわけですが、本日の朝日社説はその考え方に極めて接近してきているようです。

>当面は、企業内の最低賃金を引き上げたり、勤務実績をもとに正社員の賃金や処遇と釣り合わせたりする方法で格差是正を図ってはどうか。

空論ではないリアルな改革の道を探ろうとしているという意味で、朝日の労働記者たちのスタンスには好感が持てます。

2010年1月26日 (火)

生活保護3~5年で打ち切り検討 大阪市長、国に提案へ

この考え方は、実はすでに2006年に知事会と市長会が提案していた有期保護制度なんですね。改めて生活保護制度の抜本改正を提起したわけで、これは大いに議論する値打ちがあります。

http://www.asahi.com/politics/update/0125/OSK201001250152.html

>全国市町村最多の生活保護受給者がいる大阪市の平松邦夫市長は25日、「働ける人が大阪市で生活保護を受ける場合は市の仕事をやってもらう」などと述べ、働ける受給者に仕事を提供する一方、一定期間内に市の仕事も就職活動もしない場合は保護を打ち切る「有期保護」の導入を検討していることを報道陣に明らかにした。

 一定期間は3~5年程度を検討しているが、打ち切るには生活保護法の改正が必要なため、専門家と協議して年内に市案を国に提出する。自立を促すための有期保護制度は2006年、全国知事会と全国市長会が提案しているが、生活保護は「最後のセーフティーネット」だけに、今後論議を呼びそうだ。

2006年の提案については、『季刊労働法』に書いた「公的扶助とワークフェアの法政策」でかなり詳しく取り上げていますので、参考にしてください。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/fujoworkfare.html

>15 新たなセーフティネット検討会の提案
 
 その後、2006年1月、全国知事会と全国市長会は「新たなセーフティネット検討会」(座長:木村陽子)を設置し、同年10月に「新たなセーフティネットの提案-「保護する制度」から「再チャレンジする人に手をさしのべる制度」へ」と題する報告書をまとめました。これは、ワークフェア的観点を前面に出して生活保護制度を抜本的に再構築しようとするもので、法政策的にきわめて興味深いものです。以下、詳しく見ていきたいと思います。・・・

>(2) 稼働世代のための有期保護制度
 同報告書の中でもっとも注目を集めたのは、稼働世代については、制度適用の期間を最大限5年間に限定するという有期保護制度の提案でした。この5年間は分割して利用できます。その目的は、貧困から抜け出すために、働くことを基本にするプログラムを提供し、人々が職を得、経済的に自立して生活することを支援することにあります。本人が主として策定した自立計画に基づき、福祉事務所その他の機関が、育児・介護の家族的支援、基本的生活訓練、各種のセラピー、求職活動、職業経験活動、短期の教育訓練等を通じて、できるだけ早く福祉依存から抜け出し、就労できるようプログラムを管理します。被保護者は、有期保護期間中はこのプログラムに週一定時間参加しなければなりません。参加を免除されるのは乳児の親、重度障害者及びその親など稼働できない者に限られます。
 「貧困の罠」を避けるために、有期保護期間中は勤労控除額を割増するが、その分は寄託扱いし、自立した際に一括支給する(自立しなければ無効)等、いくつかの給付設計の工夫がこらされています。また、5年の給付期限がくれば原則保護を廃止するとしつつも、一定の条件を満たす者には適用するともしています。
 また、このプログラムは福祉事務所だけでは実施できず、特に労働部門との一体的な連携なくしては実施できないと指摘しています。

>(3) ボーダーライン層が生活保護へ移行することを防止する就労支援制度
 ボーダーライン層について、職業訓練等を有期保護適用者とともに利用することで就労支援するとしています。
 また、子育てや教育等、支出を増加させる特定の時期や目的に特化した給付を充実するとしています。例えば児童扶養手当を父子世帯にも平等に支給するとしています。

この後、経済財政諮問会議の労働市場改革専門調査会が第4次報告でほぼ同様の提言をします。それもリンク先に書いてあります。

その後、この問題は連合がいわゆる第2層のセーフティネットを提言し、それが一昨年末の緊急対策以来、貸付から臨時的な給付へ、そして恒久的な給付へという方向に展開してきたのですが、逆に肝心の生活保護の見直し自体はそのままにされてしまったともいえます。

来週初めに発売される『エコノミスト』誌2月8日号で、わたくしは「支えきれなくなった「家族」失業保険と生活保護の再構築が急務」という小論を書いておりますが、その終わり近くで、

>今後、具体的な制度設計の議論を進めるうえで念頭に置いておくべきことは、これはもともと生活保護制度の機能不全から生まれた議論であり、生活保護制度自体の改善と密接不可分であるという点である。・・・
 これらを総合的に捉えて制度設計をしていかなければ、パッチワーク的な制度を部分的に貼り合わせるだけにとどまってしまうだろう。

と語っております。雇用保険、第2のセーフティネット(訓練付き失業扶助)、生活保護は一連の制度としてワンパッケージで考えなければいけない時代なのです。

若年者の雇用安定に関する共同声明

本日、連合と日本経団連が標記共同声明を発表しました。

http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2010/006.html

大きく、企業の取り組み、労働組合の取り組み、政府に求める対応の3部構成になっています。

企業がやるのは:

>(1) 通年採用も含め、極力多くの新卒者の採用に努める

(2) 採用決定プロセスの透明性を高めつつ、人物本位の採用を徹底する

(3) 採用内定の取り消しは、客観的に合理的で社会通念上相当な理由が必要であることに留意し、回避のための取り組みを徹底する

(4) ジョブカード制度等への協力を図る

(5) 必要に応じて、公的職業訓練における技術者等の講師派遣に積極的に協力する

労働組合がやるのは:

>(1)産業別労使や個別労使において、新卒者の採用の拡大について真摯に協議を行う

(2)地域雇用戦略会議における政労使による就労支援ネットワークの構築に積極的に関与する

(3)学校教育において、働くことの意義を含めたキャリア教育(労働教育)や職場体験を促進する

(4)必要に応じて、公的職業訓練における技術者等の講師派遣に積極的に協力する

「キャリア教育」と書いて、あわてて括弧書きで「(労働教育)」と書いているところが、本田名著の影響がそこはかとなく感じられます。

政府に求めるのは:

>(1) 早期の景気回復と雇用創出に向けて、2010年度当初予算を早期に成立させ速やかに執行する

(2) 2009年度第2次補正予算により創設される重点分野雇用創造事業(介護、医療、農林、環境・エネルギー、観光など)における雇用機会の創出や人材育成を推進する

(3) 緊急人材育成支援事業における「未就職卒業者向け訓練コース」(訓練期間中の生活支援給付あり)の内容充実など、長期的な就職支援体制を整備する

(4) 2011年春卒業予定者を含め学校における個別相談体制を強化するため、高校、大学等での就職支援体制の充実を支援する

(5) 就職支援員やキャリア・コンサルタントのきめ細かな増員配置を支援する

(6) 雇用・能力開発機構が行う学卒者訓練(普通・専門・応用課程)のプログラムを充実させるとともに、定員枠の拡大や受講料の減免を行う

(7) 大学、短期大学、専修・専門学校などに入学する新規学卒者への入学金・学費の低利融資制度や奨学金制度を拡充する

(8) すべての学校教育段階において、働くことの意義を含めたキャリア教育を拡充する

なぜかこちらではキャリア教育とだけあって、「(労働教育)」が入っていませんが、まあそれはともかくとして、(6)として「雇用・能力開発機構が行う学卒者訓練のプログラム充実、定員枠の拡大、受講料の減免」がこれだけはっきりと入ったのは、職業訓練に対する理解の現れとして歓迎したいところです。

ちなみに、「大学、短期大学、専修・専門学校などに入学する新規学卒者への入学金・学費の低利融資制度や奨学金制度を拡充」というのは、行き先がないからしょうがなく避難先として再入学するという趣旨ではなく、その先就職する際に役立つような職業的にレリバントな学習をするためという趣旨でないと、国民経済的に意味がないと思います。

日本経団連の定義による「同一価値労働同一賃金」

さて、日本経団連の『経営労働政策委員会報告2010』ですが、66~67ページの「いわゆる『非正規労働者』の処遇改善への対応」という項目で、次のように述べています。

>むろん、企業としては、自社の従業員の処遇に関して、同一価値労働同一賃金の考え方に基づき、必要と判断される対応を図っていくことが求められる。

たぶん、労働法をちゃんと勉強してきた人であればあるほど、この文を読んで仰天するでしょう。だって、世界的にも日本の中でも、労働法の世界における同一価値労働同一賃金とは、同一労働同一賃金では及ばない異なる労働であっても同一価値であれば同一賃金にしろという、よりラディカルな議論だからです。例えば医師と看護師とか。ところが、日本経団連の用語法では、この言葉はそういう意味ではなさそうです。

>ここで、同一価値労働同一賃金の考え方とは、将来的な人材活用の要素も考慮して、企業に同一の付加価値をもたらすことが期待できる労働(中長期的に判断されるもの)であれば、同じ処遇とするというものである。

これは、通常の用語法における同一価値労働同一賃金とは逆に、同一労働であっても(中長期的に)同一価値じゃないから同一賃金にする必要がない、というロジックです。これはこれで、一つの完結したロジックなのですが、それは日本型システムにおける職能資格制における賃金決定原理の一つの軸であって、それを既に世界的に意味の確定している「同一価値労働同一賃金」という言葉であえて表現する意味がどこにあるのか、いささかよくわからないところがあります。

ちょっとググってみても、日本経団連以外にこの言葉をこういう意味で使っている用例はなさそうです。

結局言いたいことは、

>他方、同一労働同一賃金を求める声があるが、見かけ上、同一の労働に従事していれば同一の処遇を受けるとの考え方には問題がある。外見上同じように見える職務内容であっても、人によって熟練度や責任、見込まれる役割などは異なる。それらを無視して同じ時間働けば同じ処遇とすることは、かえって公正さを欠く。

ここは、判った上であえてややプロパガンダ的もの言いをしているのだと思いますが、「同一労働」とは別に外見だけで判断するものではなくて、熟練度や責任、役割も含めたものであることはいうまでもありません。

何が問題なのかと言えば、まさに「将来的な人材活用の要素」、つまり、現時点では外見だけじゃなく熟練度や責任、役割で見てもあんまり差はないけれど、正社員はこれからじっくり育てて高い責任や役割を負ってもらうつもりであるのに対して、非正規労働者はそういうつもりはなくて今現在の仕事をやってもらえばいいという点にあるわけです。

これを、「同一価値労働同一賃金」という言葉で呼ぶのはいかにもミスリーディングに思われます。正確に言えば「同一中長期的人材活用見込み同一賃金」とでも呼ぶべきものでしょう。

そうすると、正社員と非正規労働者は中長期的人材活用見込みが本質的に異なるのだから、そもそも同一賃金を論じ得ないという結論になるのは当然であるわけです。

どの考え方が正しいか間違っているかという議論はここではしませんが、少なくとも議論が混乱するような概念定義をわざわざ持ち込むのはあまり生産的とは思えません。もっと、わかりやすく、何が問題の焦点であるのかを明確にするような言葉遣いをする方がいいと思います。

(ちなみに、私は、日本には同一価値労働同一賃金どころか同一労働同一賃金もいきなり持ち込むことは不可能だと思っていますので、それとはとりあえず別の切り口から均等・均衡問題にアプローチするしかないと思っていますが)

JIL雑誌の岩田克彦論文について

昨日紹介したJIL雑誌の岩田論文ですが、メインはEUとEU諸国の政策の紹介ですが、最後のところで「日本への政策的インプリケーション」が書かれているので、そこのところを一瞥しておきます。

はじめに「日本的フレクシキュリティ・モデル」が困難になってきたという記述があり、デンマーク等を参考にして「新たな日本的フレクシキュリティ・モデル」の構築を急ぐ必要があると述べています。その柱は、①企業内訓練と密接な連携をとりながら弾力的で充実した企業外での人材育成システム、②企業レベルでのきめ細かな労使対話を維持しながらの、国、地域レベルでの労使ないし広範なソーシャルパートナーが参画する政策運営、③非正規労働者等が社会から排除されない安心感のあり、かつ効率的なセーフティネットの構築、です。

日本の職業訓練関係予算は国際的に見てかなり少なく、学校教育に占める職業教育のウェイトも非常に低い」という状況に対しては、EUが「職業教育訓練を経済発展計画(ビジョン)の主要な柱に据え、学校教育の中での一般教育ルートと職業教育ルートの相違縮小、職業教育と職業訓練の連携・統合」を進めているのに見習って、「職業教育・訓練分野全体の総合的強化が必要」と説きます。

具体的には、「文部科学・厚生労働両行政の縦割りを打破し、①文部科学省関係の専門高校、短大、大学等と厚生労働省管轄の職業能力開発大学校、都道府県高等技術専門高等との間で相互進学・編入を可能にする・・・」といったことを提起しています。このへんは、職業能力開発総合大学校におられる立場からの実感かもしれません。

そしてEUのEQF(欧州共通資格枠組み)にならって、「様々の国内資格を、学習で達成したレベルに対する一連の評価基準で分類し、統合するための仕組みである「各資格の資格レベルを参照する日本版国家枠組み(JQF)」の早期策定です。「社会で共有される資格制度が定着している欧米社会に比べ「企業別職能資格」の影響が強い日本ではあるが、職業生涯を通じて職業能力開発意欲を高め、低生産部門から高生産部門への労働移動を円滑化するため、策定に向け多くの困難を乗り越える必要がある」と述べています。

「おわりに」の次の文章は、岩田さんの思いがこもっています。

>「民間にできるものは民間で」「地方でできるものは地方で」とのいささか単純すぎる政策理念の下、近年職業教育訓練に対する国の役割は軽視され続けた。その結果、わが国の職業教育訓練の現状は、欧州諸国に後れをとっている分野が多いように思えてならない。行政の信頼回復を図りつつ、EU並びに欧州諸国の戦略的取り組みを積極的に学び、国、地方、民間の総力を結集することにより、職業教育訓練全体の底上げを図る体制整備を急ぐ必要がある。

2010年1月25日 (月)

『日本労働研究雑誌』特別号

『日本労働研究雑誌』2010年特別号は、「地域雇用政策のパラダイム転換」がメイン特集で、その後に自由論題がいくつも載っています。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/new/

わたしの関心事項に引きつけていくつか紹介しますと、まず、

改革が進む欧州各国の職業教育訓練と日本―日本においても職業教育訓練の総合的強化が急務 岩田克彦(職業能力開発総合大学校教授)

>欧州諸国は、職業教育訓練を大変重視している。現在の経済不況への対応としては、公的補助を活用した雇用維持と職業訓練との組合せや職場ベースでの訓練が重視され、経済回復後に備えた中長期的対策としては、技術革新と変化を推進し将来の職業ニーズに対応するスキル戦略の重要性が強調されている。こうした中、2000年に始まった「欧州の成長と雇用のためのリスボン戦略」は本年が最終目標年であり、職業教育訓練の分野でも総括的な分析文書が昨年来多数公表されつつある。

本稿では、EU及び欧州主要国の職業教育訓練への取組み状況を、(1)戦略的取組み、(2)労働市場とのリンクの強化、(3)訓練機会の拡大、(4)訓練成果のEU全域での共有化、(5)訓練内容の質の向上、(6)生涯学習(訓練)の推進、(7)職業教育訓練の教員・指導員の養成及びレベルアップ、に分けて整理した。具体的事例として、デンマークのフレクシキュリティ政策(労働市場の柔軟性と雇用保障の両立)を支えている職業教育訓練の取組みを紹介し、最後に、こうしたEU諸国の取組みを参考に、日本において職業教育訓練(VET)の総合的強化をいかに図るべきか、を論じた。

わが国においても、EU並びに欧州諸国の取組みを積極的に学びつつ、国、地方、民間の総力を結集して、職業教育訓練全体の底上げを急ぐ必要がある。

EUの教育訓練政策について大変手際よくまとめられ、参考になります。また、デンマークのフレクシキュリティを支える教育訓練システムが紹介されているのは、今日的に意義深いと思われます。

フランスにおける派遣社員に対する職業能力開発支援―その運用上の実態と課題~聞き取り調査結果より 中道 麻子(早稲田大学商学学術院総合研究所助手)

これは要旨で、ネット上にも載っていませんが、派遣労働者の能力開発という今日的課題からしてとても重要だと思います。

公契約の現状と課題、解決策について 森原 琴恵(連合政治センター国会対策局次長)

これも今日的に興味深いテーマです。

大野正和さんの慧眼

昨日コメントいただいた大野正和さんは、現在『先見労務管理』という雑誌で、「非正規な怒り-職務主義と攻撃性」という大変意欲的な論文を連載しておられます。

まだまだ連載は続くようですし、しかも、

http://www.geocities.jp/japankaroshi/hiseikiikari.htm

第1回 2009.9/25 「職務給制度」の同一性原則に抗う心理
第2回 2009.10/10 職務主義と「自己責任」論との奇妙な呼応
第3回 2009.10/25 「非正規な怒り」は自分自身を攻め立てる
第4回 2009.11/10 日本的経営の曖昧な職務構造
第5回 2009.11/25 「不機嫌な職場」での「メランコ仕事」と「ナルシス仕事」
第6回 2009.12/10 「仕事基準」という「切断の思想」は定着するか
第7回 2009.12/25 同一価値労働同一賃金論と「近代の超克」
第8回 2010.1/10 「近代主義」としての職務給制度は二度死ぬか?

第7回目になると、「近代の超克としての主体的無の立場」とか、京都学派哲学まで出てきて、個人的には大変惹かれるんですがまあちょっと・・・という感じで、私ならそれをもう一度客観化してマクロ的な歴史叙述に落とし込むだろうな、と思いつつ、次号以下を楽しみに待っているところです。

さて、その第4回で拙著を取り上げていただいているのですが、

>最近のベストセラーである濱口桂一郎の『新しい労働社会』(岩波新書、2009年)では、日本の雇用のあり方を「メンバーシップ」と特徴づけて、ずばり本質をとらえている。ただ私見では、そのあり方は伝統的な日本的経営の特質であり、近年は少し様子が違ってきていると考える。・・・・

この議論がもともと誰の唱えていたものであるかを、きちんと指摘しておられます。

>濱口の考察の背景にあるのは、(旧)労働省に長く勤務した田中博秀の見解である。

どなたがここを指摘するかな、と期待しておりましたが(実は、直接関係ない150頁にちらりと田中博秀氏の名前を出しておいたのは、そのヒントのつもりもあったのですが)、大野さんに指摘していただいてとても嬉しいです。

しかし、大野さんが言いたいのは、むしろその先の人間学的議論です。

>このような人間論から、田中=濱口は、労働官僚らしい政策や制度論議に入っていくのだろうが、それでは救えない仕事や職場の「深み」を探求したいのだ

2010年1月24日 (日)

労組法上の労働者性について 戦前編

最近、労組法上の労働者性の問題が話題ですが、戦前期に帝国議会に提案された労働組合法案について、帝国議会でその対象となる労働者とはなんぞやということが質疑されていたんですね。

帝国議会衆議院本会議大正十五年二月十八日(木曜日)における原惣兵衛君の質問:

>此労働立法ニ於テ労働者ガ如何ナルモノデアルト云フ定義ガ、少クトモ消極的ニデモ御提議ガアルベキ筈デアルガ、労働者ト云フモノハ何ニモ書イテナイ、唯々「労働組合ハ」ト云フノデアリマスカラ、吾々ハ甚ダ労働者ノ意義ニ迷フ者デアリマス、即チ筋肉労働者以外ノ日傭人「アンゲステルト」ト言ヒマスカ、銀行員デアルトカ、事務員デアルトカ、新聞記者ト云フヤウナ精神労働ト共ニ雇ハレル人、是ハ果シテ労働者デアルヤ否ヤ、ソレカラ鉄道従業員逓信ノ従業員、陸海軍ノ職工、ソレ等ハ官吏ト労働者ノ区別ハ何所ニ在ルノデアルカ、ソレカラ学校ノ教師「オーケストラ」ノ「メンバー」俳優道具方果シテ是等ハドノ程度デ労働者ノ意義ニ嵌マルノデアルカ、俳優トカ舞台方ハ一体ドウシテ労働組合ニナレルカ、ナレヌカト云フ重大ナ事ガアリマスカラ聴キタイノデアリマス、下女、下男、玄関番、ソレカラ執事、三太夫、果シテ是ガ労働者デアルヤ否ヤ、ソレカラ番頭、手代殊ニ見習小僧ハ労働者デアルヤ否ヤ、・・・

若槻首相の答弁:

>労働者ノ意義ニ付テ御尋デアリマシタ、此組合法ニ依テ労働者ト称シマスノハ、雇傭契約ノ下ニ在ル筋肉労働者ト云フコトデアルノデアリマス

これだけでは納得できなかった原議員、委員会審議でもこの問題を追及します。

大正十五年三月一日(月曜日)

>サウ致シマスト、請負契約ノヤウナ場合若クハ自由労働者ト云フヤウナ場合ハ、雇傭契約ト殆ド同等若クハ其範囲ガ広イモノデ、私ガ本会議ニ於テ御尋シタ三太夫トカ、道具方トカ、車夫、殊ニ車夫ナドハ殆ド請負契約デアル、是ハ雇傭契約ノ問題デハナイ、サウスルト多少例外ガアリセウガ、大体ニ於テト云フ原則ガ破壊セラレルコトニナリマスガ、若モサウ云フ車夫ノ組合等ノ-私ガ本会議デ御尋致シタ如キモノガ組合ニ這入ルコトニナレバ、三十三条ノ規定ニ依ル軍人軍属以外ニ是等ノ者ガ労働者ノ中ニ這入テ来マシタナラバ、ドチラガ例外デ、ドチラガ原則デアルカ分ラナクナリマス、詰リ労働者ノ雇傭契約ニ於ケルト云フ意義ガ根本カラ破壊セラレル、労働組合ノ意義ハ、益不明確ニナルノデアラウト思フカラ、雇傭契約ト云フ御言葉ハ御取消ニナリマスカドウデアリマスカ

ところが、内務省の長岡社会局長官は、明確な答弁をしません。原議員は、

>此問題ハ私ハ執拗ク御尋スルヤウデアリマスガ、労働組合ニ加入出来ルヤ否ヤト云フ重大ナ関係ヲ持テ居ルノデアリマス、雇傭関係ダケト云フ意味合デ言ッタナラバ、私ガ前ニ述ベマシタ車夫ノ組合ト云フヤウニ、雇傭関係以外ノ筋肉労働者トカ、其他自由労働者トカ土木建築ノ下請負ノ如キ者ハ、決シテ雇傭関係ニ於テ働テイナイノデアリマス、要スルニ私ノ執拗ク御尋スル点ハ、雇傭関係ト云フ意味ヲ取消サシムルト云フヨリモ、社会ノ通念ニ依テ、労働者ノ定義ヲ御定ニナルト云フ御趣旨ノ下ニ、今長岡サンノ仰セラレルヤウニ意義ナラバ、全ク其意義ヲ成サナイモノデアルト思フカラ、之ヲ御取消ニナッテ、広ク労働組合ヲ御認ニナルト云フ御意思デアルカ、ドウシテモ雇傭関係ト云フ観念ダケデハ進メナイト思フ、・・・

と繰り返し追求するのですが、長岡長官は将来的には精神労働者も含まれるだろうというような答弁で、雇傭契約でない請負契約の車夫組合を認めるかという問いには答えていないままです。

労働強度の問題

日経BizPlus連載の丸尾拓養さんの「法的視点から考える人事の現場の問題点」の最新記事が、「業務スピードのアップと労働時間のリスク」を取り上げています。

http://bizplus.nikkei.co.jp/genre/jinji/rensai/maruo2.cfm

>990年ころからのパソコンや携帯電話などの普及により、ホワイトカラーの業務遂行のあり方が大きく変革しました。特に電子メールやインターネットの導入により、業務のスピードが急激に上がるとともに、情報を上手に処理できる人に仕事が集まるようになりました。これらの変化とほぼ同時期に精神疾患や過労死の増加が社会問題化しましたが、長時間労働という側面からだけで対処することで足りるのでしょうか。

>現実に事件となるのは、「仕事が速い人」に仕事が集まりすぎて逃げ出せなくなっていたり、そうでない人が不相当な量の仕事を抱え込んでいるようなケースです。これが一時的ではなく恒常的になっているときに、大きな問題としてあらわれます。

 そもそも今回の労働基準法改正の目的は、管理職年代の仕事のあり方を見直すということにあったようにも思われます。しかし、結論としては、割増賃金が支払われる若年層に対する部分での改正となりました。真のリスクには手が付けられていません。

 法改正の内容が現実に合っていないために、必要とされる最低限の手続きをとるだけという対処方法もあり得ます。しかし、それでは現場の諸問題を放置することになりかねません。正社員の働き方を整備することこそが、企業組織の競争力を高めるといえるでしょう。法を遵守するにとどまることなく、進取的な対応の検討が求められます。

この指摘はまさに正鵠を得ていると思います。わたしは、残業代しか目に入らないような低レベルの議論に対してそうじゃないだろ、と説明するためには、物理的労働時間こそが重要であるとあえてやや単純化した議論を展開してきていますが(これが政策的意図による戦略的言説という奴)、それだけで問題が解決するわけではなく、ここで指摘されている仕事の密度というか労働強度の問題もとても重要だと考えています。

EUでは、まだ具体的な政策の形にはなっていませんが、外郭団体の欧州生活労働条件改善財団(日本のJILPTに相当)ではこの問題に関する研究報告をいくつか出しています。

http://www.eurofound.europa.eu/pubdocs/2009/27/en/1/EF0927EN.pdf(Working conditions in the European Union: Working time and work intensity)

http://www.eurofound.europa.eu/pubdocs/2002/48/en/1/ef0248en.pdf(Time and work: work intensity)

そろそろこういう問題意識をもって取り組む必要がありそうです。

2010年1月23日 (土)

日本経団連『経労委報告2010』その1 三者構成原則の堅持

毎年春闘に向けて恒例の日本経団連の『経営労働政策委員会報告』が出ております。以前はHPに概要が載っていたのですが、最近は目次しか載らなくなってしまい、連合の批判だけが全文で読めるという皮肉な状態です。

いや、たった600円なんだから横着せずにちゃんと買って読んでくれということですね。

さて、今年の経労委報告で、私が一番注目したいのは「労働政策の決定プロセス」という項目です。

>労働政策は、企業経営に多大な影響を及ぼすほか、労働者の生活と密接に関わってくることから、その決定に、職場実態を熟知している労使が関与することは、現場での大きな混乱を減らし、法令遵守の徹底を図りやすくするという利点が認められる。

そのため、公労使三者構成で構成される審議会の結論を最大限尊重していく従来の決定プロセスを今後とも堅持することが重要である。

今の時点で日本経団連が三者構成原則を強調するのは、もちろん連合が支持し、日本経団連は支持してこなかった民主党政権になってしまい、政治主導でやられると、自分たちに不利な政策が、自分たちが関与することが出来ないままで実行されてしまうかも知れないという危機感によるものであることは明らかですが、この問題をそういう表層的な政局レベルでだけ捉えるべきではないということは、本ブログや累次の論文などで述べてきたところです。

ある意味では、90年代末以来、規制改革会議が主導する形で労働政策の枠組みが決定され、三者構成審議会はそれを実行するだけという事態も部分的に出現したわけですが、そういうあり方はよろしくないものであるということを、日本経団連としてきちんと確認したという意味で、なかなか意義深い文章であると思います。

実際、政権交代で何でもかんでも政治主導で進めるという雰囲気が強まるなかで、連合が政労会見の場で、明確に三者構成原則の堅持を求めたことは、下手をすれば政策決定過程から疎外されかねない状態にあった経営側にとって、実にフェアな態度であったと評価すべきでしょう。

いろいろ議論はあるものの、派遣法改正の審議がすでにマニフェストで大枠が決められている中で、常用型の製造業派遣は禁止しないという若干の修正が可能であったのは、これが三者構成であったことが大きいと思われます。

ちなみに、参考までに、かつて内閣府の規制改革会議の労働タスクフォースが三者構成原則を徹底的に批判したときに、わたくしが本ブログで述べたことをリンクしておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_a044.html(三者構成原則について)

>意見書の記述のうち、「労働政策の立案について」のところは政策の中味ではなく、政策決定過程のあり方に関わる問題なので、エントリーを別に起こして論じておきたいと思います。

また、この問題に関わるわたくしの論文や鼎談をリンクしておきます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/jilzoukan.html(『日本労働研究雑誌』2008年特別号「労働立法プロセスと三者構成原則」 )

http://homepage3.nifty.com/hamachan/teidan.html(『季刊労働法』座談会「労働政策決定過程の変容と労働法の未来」)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/juristtripartism.html(ジュリスト立法学特集号原稿 「労働立法と三者構成原則」)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/minshu.htm(『現代の理論』21号「労働政策:民主党政権の課題」)(最後の一節)

(追記というか言い訳)

労務屋さんから早速痛烈な皮肉が・・・

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20100125三者構成の堅持

>はあそうですか、「自分たちに不利な政策が、自分たちが関与することが出来ないままで実行されてしまうかも知れないという危機感によるものであることは明らか」で、「表層的な政局レベルでだけ捉え」たものなんですかそうですか。でも、経団連は昨年の「2009年版経営労働政策委員会報告」でもすでに三者構成の重要性に言及しているんですが何か。

すみません、日本経団連全体というか主流派(旧日経連じゃない方)のセンスを皮肉ったつもりではあったんですが。その方々にとっては、政権交代で「自分たちに不利な政策が、自分たちが関与することが出来ないままで実行されてしまうかも知れないという危機感」は初めて味わうものだったのではないかと思います。

それに対して、旧日経連の方々(まさに日本の「労務屋」さんたち)が三者構成原則の重要性を説き続けてきたことは重々承知の上です。ただ、それこそミクロレベルでの労務部門の地盤沈下と相伴って、マクロレベルでも労働行政や旧日経連の影響力が落ちてきたことが、全体的な政治状況の中で三者構成原則の地位を低めてきたことは確かだと思います。お互いあんまり愉快な歴史認識ではないですけど。

2010年1月22日 (金)

大内ゼミ学生たちの職業教育論

大内伸哉先生の「アモーレ」で、昨日のゼミの様子が描かれています。

http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-9121.html(本日の労働法ゼミ)

テーマはキャリア権だったそうですが、

>学生のキャリア権に対する評価は,いささか辛いものでした。法学部の学生にとって,キャリア権の権利としての意味が曖昧にみえるからだと思います。ただ,多くの学生は,この概念への理解が不十分であるように思えました。壮大なキャリア権構想を評価するには,労働法上のさまざまな議論を十分に理解していることが不可欠であり,学部生には厳しいかもしれません。

まあ、それは学生さんたちが、地道な法解釈学中心のまっとうな法学部教育を真面目に勉強してきたことの成果と言うべきでしょう。それで学生さんたちを責めてはいけません。ただ、社会システムを動かす道具としての法律への関わり方がそれだけでいいのかというのは、大人の側で考えるべき問題としてありましょう。

それはそれとして、大変興味深かったのはそれに続く記述です。

>今日の議論の中で多くの学生が指摘していたのは,自分たちのことを振り返ると,学校での職業教育が不十分であるということでした。職業観を十分に形成しないままにシューカツに突入することになっているということへの不満をもらしていました。ゼミ生は,4年生の多くはシューカツを終え,また3年生の多くは,LS進学を考えている者以外は,シューカツを始めており,何らかの形で職業問題についての意識を高めています。彼ら,彼女らの意見として,高校生くらいまでの間に(遅くても大学2年生までの間に),適切な職業教育があればよかったというものがあるということは,私たちは深刻に考える必要があるのかもしれません。

「大学と職業との接続」を検討する上で、この学生さんたちの感想はとても重要なポイントだと思います。「その仕事がどのようなものかのイメージがわかない」まま、シューカツに放り込まれていくというところにこそ、シューカツ問題の問題である所以があるわけです。

休日は週1日という「正解」の社会的意味

月曜のエントリでとりあげた大学入試センター試験の公民(政治経済)の問題ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-943e.html(日本の労働法制の秘部に触れるセンター試験問題)

間違いはどれか?

①労働者は失業した場合、一定の要件の下で保険給付として金銭を受けることができる。

②労働者は、選挙権などの公民権を行使する場合、それに必要な時間を使用者に申し出て、仕事から離れることができる。

③労働者の1日の労働時間の上限を8時間と定める規定が存在する。

④労働者の1週間当たりの最低の休日数を2日と定める規定が存在する。

上のエントリでは③が正しいってほんとに言えるの?という点を取り上げましたが、実はもっと深刻なのはこれが正解、つまり間違いの④なんですね。確かに間違いなんですが、どういう風に間違いなのか。

いやもちろん、労働基準法には法定休日は週1日と書いてあります。でも、これも③と同じで、これは何が何でも休ませなければいけない最低の休日数はゼロなんですね。1週間7日働かせても全然OK。適当に36協定書いて休日手当さえ払えば。

そういう意味では、1日8時間1週40時間というそこから残業時間が発生する区切りから計算して、1週間の6日目から残業代が発生するという意味で言えば、割増手当の発生する日という意味での「休日」は週2日あるといってもあながち間違いではないかも知れない。

いやそれは、法律的には、6日目は法定休日ではなくて法定外休日に過ぎないので、法定休日割増の対象にはならないけれども、法定時間外労働にはなるので法定時間外割増の対象になるのであり、7日目は法定休日なので法定休日割増の対象になる、ということになるわけですけど、それって何?と、まあ普通の人は思うでしょう。

どっちも物理的に働かせてはいけないという意味での「休日」ではなく、休日出勤しろと言われたらしないわけにはいかない日であり、そういわれて出勤したら、法律上の名目はともかく、割増賃金が払われるはずの日ではあるわけで。

休日は週1日という「正解」って、社会的にどういう意味があるのだろうか、という疑問も湧いてこないわけではありません(念のため、所定労働時間が1日8時間を前提にしなければ異なる議論になります)。

(労働法に詳しいヒトは、それって割増率が違うんですケドとか突っ込みが入ると思いますが、そういうクロート筋の話ぢゃなくって)

2010年1月21日 (木)

中田喜文・電機総研編『高付加価値エンジニアが育つ』

05196 電機連合の総合研究企画室のことを「電機総研」と呼びますが、その電機総研が中田喜文先生を主査に行った共同研究の成果が、標記出版物として発行されました。早速お送りいただきまして、ありがとうございます。

http://www.jeiu.or.jp/book/

>日本人の生活の在り様とこの国の豊かさが、技術者が携わる研究開発活動の成果である「イノベーション」にますます大きく依存していく一方で、技術者の研究開発を取り巻く活動環境、労働環境は近年劣化していると言われています。
本書は、その原因と影響を解き明かし、何をなすべきか・誰がなすべきか・どのようになすべきか、についての提言をとりまとめたものです。

内容は:

第1章
日本の技術者
第2章
ヒアリングから浮かびあがる技術者のキャリア
第3章
技術者のワーク・モチベーション
第4章
技術者のキャリア形成
第5章
技術者の能力開発と高業績
第6章
「高業績」技術者を育む経営
第7章
日本の技術力を支える技術者の未来

となっています。

全体に通底するのは日本の技術者の将来に対する危機意識です。「あわりに」に沿って簡単に述べると、

これまで、自信を持てる技術の早期獲得、技術、能力を生かせる仕事との出会い、そして良好な人間関係と自由闊達な職場文化によって、国際的にも極めて高い生産性を達成してきた日本企業の人事制度ですが、現在大きな課題に直面しています。

まず技術者の長時間労働の慢性化とさらなる長時間化。今までの技術者の長時間労働は高い仕事モラルと共存するボランタリズムに基づく長時間労働でしたが、今は「仕事に追われて納得できる仕事ができない」という状態になっています。さらに、長時間労働は技術者から学びの時間を奪い、日本の強みであった自信の持てる技術の早期獲得の条件を崩し、高い創造力を持つ次世代技術者の供給を減少させつつあるのです。

個人の仕事における余裕の喪失は職場内の人間関係を変質させ、成果主義人事制度が自由闊達な議論や新たな試みを評価する考え方を失わせます。

これが技術者の仕事と組織に対するモチベーションを引き下げていきます。

これが若者にも影響を与え始めています。技術者を希望する若者の急激な減少がそれです。いわゆる若者の理工離れには初頭・中等教育レベルの理数科嫌いと職業選択における技術職種の回避があり、もっぱら前者が論じられますが、理工系学部から理工系職種への就職者の減少も深刻です。こうして、日本の技術者供給はますます減少する一方です。

では、日本の技術者に未来はあるのか?今なすべきことはなにか?

そのこたえは、是非本書を手にとってお読みください。

2010年1月20日 (水)

『現代の理論』010新春号から

『現代の理論』010新春号をお送りいただきました。特集は「民主政権問われる推進力」です。

仙谷大臣、神野直彦先生、連合の古賀会長へのインタビューを始め、いろいろな記事が目白押しですが、労働関係では、小林良暢さんがこの古賀会長インタビューのインタビュワをつとめる一方で。みずからも「緊急雇用対策への政策提言」を書かれています。古賀会長も小林さんも電機連合出身ですので、和やかな雰囲気の対談ですね。

実は、昨日夕方も都内某所新御茶ノ水方面で、たっぷりと「良暢節」を聞かされて、何人もで口角泡を飛ばしたり(笑)したこともあり、もういやというくらいわかっておりますが、「派遣法改正は先送りに」という項目の次に、「公的職業訓練に労使協調」という項目があり、これは引用する値打ちがあると思うので、以下に引きます。

>政府は、公的訓練の実施について、「專門学校などに委託し」と書いている。このあたりは、民主党が雇用に弱い点を露呈したと言える。政府が「緊急人材育成支援事業」を雇川政策のメインに据えている考え方は、きわめて正しい。しかし、雇用能力開発機構の廃止や職業訓練大学校の見直しなど、職業訓練の事業分野が停止・削減などの対象にされたのは、逆コースである。
 確かに、公的職業訓練施設の数は少なく、大半は民間の教育訓練企業に委託されて運営されており、その内容が訓練を受けたいとする失業者のニーズとの問に不適合が起こっている。民問の教育ビジネスは、専門・専修学校や企業教育ビジネスなどの事務系分野が多く、製造業・非正規・男性の雇用保険給付中の公的訓練でも、パソコンスクールでエクセルを習っており、製造系のスキルアップの訓練施設は少ないという、はなはだしいミスマッチになっている。
 それには、政府がお金を出し、企業が現場や訓練施設に訓練生を受け入れ、その仲立ちを労働組合が行うような、政労使の協力連携した公的職業訓練の新しいフレームをつくる必要がある。

実は、まったく同じ部分を、田中萬年さんがご自分のHPの「職業訓練雑感」で引用され、

http://www.geocities.jp/t11943nen/

>人材の育成は元来、近代国家にとっての重要な施策である。学校教育も確かに人材育成である。では、何故に職業訓練は人材育成として見られないのだろうか。大学卒業者が職業訓練を受けていることをどのように考えるのだろうか。

>わが国でもようやく職業訓練を重視する提言が出て来た。昨年末に日本生産性本部が発表した「人材立国をめざした成長戦略」である。筆者が述べてきたイギリス的省庁再編も視野に入れた提言になっており、学校教育の改革と併せ、職業訓練との有機的関連のある人材育成策として検討すべき戦略である。

と述べておられます。

(追記)

「政策研究フォーラム」から出ている『改革者』という雑誌の1月号にも、小林良暢さんが「問題は長期失業者・再就職困難者-緊急雇用対策の効き目はあるか」というのを書いてらっしゃいますね。

この雑誌、旧名は『民主社会主義研究』であったことからもわかるように民社党系の「民主社会主義」であります。上の『現代の理論』は社会党右派系の「社会民主主義」であります。この二つがどう違うかというのは、戦後革新勢力内部においては、カレーライスとライスカレーがどう違うかというのに匹敵するくらい深刻かつ影響の大きい大問題であったらしいのですが、小林さんの書いてることは、両誌ほとんどまったく同じですね。

岩出誠『実務労働法講義 第3版』(上)(下)

89628586 経営法曹として高名な岩出誠先生より、浩瀚な実務体系書として知られる『実務労働法講義』の第3版(上)(下)(民事法研究会)をお送りいただきました。ありがとうございます。

労働法の実務講義というと、大内伸哉先生の『労働法実務講義』も有名ですが、両方使ってみると、やはり大内先生は学者だな、岩出先生は弁護士だな、という匂いがただよってくるんですね。

初版が出版された2004年はわたくしは東大の客員教授に出ておりまして、毎週労働判例研究会に出席していましたが、その際参考として関係箇所を読む度に、実務感覚溢れる本書には共感するところがけっこうありました。89628587

この本も、改訂の度にどんどん分厚くなる本の典型ですが、上下併せて1600頁を超えるというのは、そろそろ限界に達しつつあるような気がします。この先どうなるんでしょうか。

【上巻】
第1編 労働法総論
 第1章 労働法とは何か
 第2章 労働法の法源・類型
 第3章 労働法上の基礎概念
第2編 企業内での労使紛争類型とその処理に関する諸問題
 第1章 労働契約法による法規整―目的・基本原則・適用範囲を中心として
 第2章 労働基準法上の基本原則と就業規則等をめぐる諸問題
 第3章 採用・就職(労働関係の成立)に関する問題
 第4章 非典型雇用に関する問題
 第5章 労働時間に関する問題
 第6章 賃金・退職金に関する問題
 第7章 人事異動―配転・出向等
 第8章 その他の労働契約履行に関する問題
 第9章 企業の知的財産権と労働者の権利の調整

【下巻】
 第10章 育児・介護休業に関する問題―少子高齢社会への対応
 第11章 雇用における男女平等―労働基準法上の女性保護規定および雇用機会均等法の概要
 第12章 労働安全衛生と労働災害の補償・労災民事賠償(労災民訴)
 第13章 企業の秩序維持と懲戒をめぐる諸問題
 第14章 退職・解雇等の雇用関係終了に関する問題
 第15章 リストラに関する問題
 第16章 労働組合に関する問題
 第17章 企業再編をめぐる諸問題
 第18章 国際化と雇用問題
第3編 労働関係紛争の解決システム
 第1章 個別労働関係紛争の裁判外の紛争調整機関等
 第2章 労災保険給付をめぐる紛争調整手続
 第3章 集団的労働事件の紛争調整・不当労働行為審査手続等
 第4章 一般的な労働民事訴訟手続

第2回雇用政策研究会

きたる平成22年1月27日(水)10:00~12:00、第2回雇用政策研究会が開催されるようであります。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2010/01/s0127-3.html

議題は、

>目指すべき雇用システムとセーフティネット(論点提示)

だそうであります。

有識者からのヒアリングが行われるやに聞いておりますが、大変たのしみであります。

「哲学の人」と「政策の人」

稲葉振一郎先生が、

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20100119/p4(「メモ」「人間力」「職業能力」「学校教育」)

>hamachan先生や金子良事氏や労務屋さんがあれこれ言っているのを脇に見ながら。

といいつつ、

> 本田由紀は公教育の政治的側面、人格陶冶の機能を強調するある種の主流派左翼教育学を批判し、公教育における職業教育の復権を高唱するが、・・・

と、職業レリバンス論に対する側面的批判をされています。

何と申しましょうか、稲葉先生はやはり本質的に「哲学の人」であるのだな、と感じました。これはいかなる意味でもペジョラティブなインプリケーションはありません。時々ここで漏らしているように、私も本音では哲学って好きなんですよ。ただ、それはプラーベートスフィアでのことであって、世の中に対して労働問題の専門家としてものをいうときは、徹頭徹尾、「政策の人」として語るように自らを律しておりますので、本田先生の議論の中には、

>、「ハイパー・メリトクラシー」という権力に対して、「職業能力中心の公教育の再建」を明確に対抗権力として――ありもしない「権力からの自由」を求めることをやめて――構想する

という契機があるのかもしれませんが、それはとりあえずカッコの中に入れて論じております。そもそも、

職業と教育をめぐる政策論において、「ハイパーメリトクラシー」論は必要条件ではありません。少なくとも、私は前提にしていません。

(追記)

稲葉先生より、

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-463a.html

>すいませんご趣旨がよーわかりません。責めてるわけじゃないですが。

と御下問がありました。

いや、簡単な話で、少なくとも学術会議の大学と職業の接続検討会では、フーコーが滑ったとかアガンベンが転んだとかいう哲学な話は誰もまったくしていないし、たぶん本田先生も含めて、そういう方面の話をしているつもりのある人はいないでしょう(たぶん何の話か分かる人もあまりいないでしょう)、というだけのことなんですが。

もちろん、

>hamachan先生や金子良事氏や労務屋さんがあれこれ言っているのを脇に見ながら。

というのは、あくまで「脇に見ながら」であって、それに「即して」ではないので、それをネタに稲葉先生自身の関心事項についていろいろと語られるのは何の問題もないのですが、形の上では私が持ち出した話題について稲葉先生が何か難しい議論を提起されているような形になり、知らんぷりするのも変なものなので、何かコメントしようとすると、ああいう斜め後ろから口笛吹いているような変なものになってしまったということであります。

余計なコメントなんかせえへん方が良かった、ということでありましょう。

2010年1月19日 (火)

福田耕治編著『EU・欧州統合研究』成文堂

32624 引馬知子さんから標記書物をお送りいただきました。引馬さんは「第12章 EU社会政策の多次元的展開と均等待遇保障-人々の多様性を尊重し活かす社会の創造に向けて」という論文を執筆されています。

その他の各章は:

第1部 EU/欧州統合研究の基礎(ヨーロッパとは何か―欧州統合の理念と歴史;EU・欧州統合過程と欧州統合理論;EU経済通貨統合と世界金融・経済危機)
第2部 EU機構と政策過程(EU/EC法秩序とリスボン条約;EU・欧州ガバナンスと政策過程の民主化―リスボン条約による機構改革;欧州議会の機能と構造―立法・選挙・政党)
第3部 EUの持続可能なガバナンスとリスク管理(EU高齢者政策とリスク管理―貧困・社会的排除とCSRによるリスク制御;EU対テロ規制と法政策;EU不正防止政策と欧州不正防止局;EUタバコ規制政策と健康リスク管理)
第4部 EUの域内政策の展開と課題(EU共通農業政策と東方拡大;EU社会政策の多次元的展開と均等待遇保証―人々の多様性を尊重し活かす社会の創造に向けて;EU科学技術政策センターとジェンダー 先端生命医科学研究政策を事例として)
第5部 EUの対外政策と課題(EU共通通商政策とWTO;EUとアフリカ;EUの対世バルカン政策)

というもので、政治学や国際関係論としてのEU研究の一環です。労働関係の方は、普通こういうところまでは手を伸ばさないと思いますので、紹介する値打ちはあると思います。

引馬さんの論文の目次は:

第12章 EU社会政策の多次元的展開と均等待遇保障―人々の多様性を尊重し活かす社会の創造に向けて―…引馬知子…226
はじめに…226
第1節 EU社会政策と均等待遇保障…227
第2節 EU均等法…230
第3節 雇用均等枠組指令とEU全加盟国での置換…232
第4節 加盟国間の履行上の相違と収斂…234
第5節 EUによる均等施策・行動計画…243
第6節 EU均等法施策における「福祉アプローチ」と「市民権アプローチ」の共存…244
おわりに…245

で、とりわけ「障害」に基づく差別の問題を軸に、「福祉アプローチ」と「市民権アプローチ」の共存というEU均等法政策の思想を示しています。

障害者差別禁止法制に関心のある皆さんは、是非この論文だけでも読まれるといいと思います。

『労働者派遣法改正問題に対する提言』

O0339048010376949471 NPO法人人材派遣・請負会社サポートセンターから発行されたパンフレット『労働者派遣法改正問題に対する提言』の中で、「雇用・労働政策のあり方への提言-労働者派遣法改正論議で今検討すべき事」を書いています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/supportcenter.html

このパンフには、佐藤博樹先生の挨拶のあと、わたくし、八代尚宏先生、小嶌典明先生、連合副事務局長の逢見直人さんの4人の「提言」が載り、データを挟んで、後半の講演集には、島田陽一先生、鶴光太郎さん、佐藤博樹先生、玄田有史先生、齋藤博先生、そしてアデコCEOのマーク・デュレイ氏が登場しています。小冊子ですが、ためになる一冊だとお思います

2010年1月18日 (月)

「労務屋」は「ジョブ」か?

連合の機関誌『連合』の1月号に、連合総研前副所長(現同志社大学教授)の鈴木不二一さんが、「気になる言葉「○○屋」-企業を超えた職業的連帯の可能性」というエッセイを書いています。

>日本人は職業意識が弱く、職業生活に入るのは「就職」ではなく「就社」だとよくいわれる。けれども、、「そもそも日本人は・・・」という訳知り顔の言い方は、だいたい眉唾で聞いておいた方がいい。この場合も然り。確かに、我々の職業生活が企業の軛にきつく縛られていることは否定できない。とはいえ、企業社会とは次元を異にする職業意識が全然ないかといえば、そんなことはないのだ。

>かくいう筆者も、かつては労働組合の世界の中の、いわゆる「賃金屋」をなりわいとしていた。「労働組合の書記です」というよりは、何となくこの言い方の方が気に入っていて、対外的にはもっぱら「賃金屋」で通していた。自立した職業人としてのプロ意識と、その背後にある同業の仲間との連帯感が感じられたからだ。当然ながら、所属組織よりは、「賃金屋」の仲間への帰属意識の方がはるかに強かった。

>・・・だから、「○○屋」という表現には、ある世界を共有し合う仲間同士の連帯感が言外に込められているともいいうるのである。また、その道のプロにしか見えない世界を共有しているという感情は、職業的誇りにも通じていく。

>つまり、これは職業的アイデンティティの自己表明にほかならないともいえる。われわれの職業意識は、必ずしも企業社会に埋没しきっているばかりではないのだ。この「○○屋」という職種・職能のくくり方は、企業を超えた連帯の新しい形につながるのかもしれない。ともあれ、洋行帰りのお説教にではなく、足もとの職業生活の日常の中にこそ変革の芽を探るべきだ。

日本の労働社会にも、メンバーシップばかりじゃなくジョブ型の確固たる意識基盤があるのだ、という主張です。

その当否はとりあえずおいといて、ここまで「○○屋」の職業意識といわれると、当然思い出されるブログがありますね。実は、このエッセイの真ん中の図は、「ネットの中に棲む「○○屋」さんたち」と題して、いくつかのHPやブログの表紙が重ねてありまして、その中にひときわ大きな字で「労務屋」の文字が・・・。

鈴木さん曰く、

>企業内の職能を「労務屋」、「人事屋」とくくることもある。こうしてくくられたときに、それらは企業内の部署を指すのではなく、企業を超えた職能集団の呼称となる。

http://www.roumuya.net/

そう、そこには、

http://www.roumuya.net/introduction.html

>世間向けには労働ロビイストといううさんくさい言い方をしていますが、自分自身としては「労務屋」という呼び名の方にはるかにアイデンティティを感じます。必ずしもいいニュアンスの言葉ではありませんが、それを仕事にして生活している人、という感じが好きです。

と書かれています。なんとジョブ意識に満ち溢れた言葉。そうだったのか!「企業を超えた職業的連帯の可能性」は、企業の人事労務管理の現場にこそあったのですね。

『生産性新聞』新春アンケートへの回答

毎年恒例の『生産性新聞』の新春アンケート、労使トップ及び学識者が回答していますが今年も私の回答をアップしておきます。

1.景気見通し:現状のまま

2.日本の課題:働くことが得になる社会の形成

3.春闘の重要課題:非正規雇用の均等・均衡問題に対して、労使が現実的な構想を提起し、合意につなげていく必要がある。

4.日本企業の重要課題:社内コミュニケーションの活性化

5.グローバル人材の育成:(1)日本の仕組み・やり方を客観的に見られるようにすること、(2)(やや迂遠だが)外国語教育をそれぞれに専門分野に即応させ、各分野における日本と外国の違いを意識させる。

6.不易流行 これからの日本を見据えた上で、①日本人が変わらなければいけない部分②変えてはいけない部分は何か?→①仲間意識【理由】狭い仲間に閉じこもり、他者を排除する傾向は変えるべき②仲間意識【理由】広く仲間と連帯して、共同して物事に取り組む傾向は維持すべき

その他の有識者の回答は『生産性新聞』をご覧ください。

日本の労働法制の秘部に触れるセンター試験問題

既に大内伸哉先生もブログで取り上げておられますが、

http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-ae12.html(いろいろ)

大学入試センター試験の公民(政治経済)の問題に、労働法制を問う問題が出ました。

http://sokuhou.toshin.com/q/s-keizai.pdf(20頁)

間違いはどれか?という問題で、

①労働者は失業した場合、一定の要件の下で保険給付として金銭を受けることができる。

②労働者は、選挙権などの公民権を行使する場合、それに必要な時間を使用者に申し出て、仕事から離れることができる。

③労働者の1日の労働時間の上限を8時間と定める規定が存在する。

④労働者の1週間当たりの最低の休日数を2日と定める規定が存在する。

いや、もちろん、模範解答は④ですよ。でもね。大内先生もいうように、

>自分の親が,たとえば1日9時間働いているというのが法律違反とは思っていない受験生は,これを誤りの内容の選択肢と判断する可能性もありますが,それを受験生の法的知識不足とするのは少し気の毒な気もします。

「上限」という言葉を、本当に日本の労働社会における法規範では1日の労働時間はそれ以上に伸ばしてはいけないという意味の物理的労働時間の上限が8時間となっているという風に考えれば、そんな「上限」はないですからね。むしろ、正社員には残業する義務がある。拒否したら解雇すらあり得る。じゃあ、1日8時間って何?と聞かれれば、そこから残業割増がつくはずの時間としかいいようがない。

ある意味で、日本の労働法制の秘部に、それと気づかず触れてしまっている問題というべきでしょうか。

まさか、受験生が拙著『新しい労働社会』を読んでいるとも思えませんが。

「Random-Access Memory(ver.2.0)」さんの書評

Tsuboshさんの「Random-Access Memory(ver.2.0)」というブログで、拙著を書評いただいています。本ブログも愛読していただいているとのことです。

http://d.hatena.ne.jp/tsubosh/20100117/1263718341

>この『新しい労働社会』に書かれている話は、突飛な話ではないかと思います。普段、ニュースで耳にする労働問題が、筋道だてて整理されていき、今の日本のあり方とは少し違うあり方が見えてくる本となっているかと思います。

このあと、シングルマザーの問題と職業レリバンスの問題を取り上げておられます。

2010年1月17日 (日)

山下昇・龔敏編著『変容する中国の労働法』

9784798500065thumb150xauto848 九州大学出版会から刊行された山下昇・龔敏編著『変容する中国の労働法』をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://kup.or.jp/booklist/ss/area/1006.html

本書は、編者お二人に加えて、鄒庭雲さん、野田進先生のあわせて4人の共著です。野田先生は皆様ご存じのとおりですが、山下さんは中国労働法を専門とする日本の研究者、龔さんと鄒さんは中国人の労働法研究者です。

http://kup.or.jp/booklist/ss/area/1006.html#tab3(著者紹介)

内容は、

>多数の低賃金労働者を武器に「世界の工場」と呼ばれるようになった中国。2007年6月以降「労働契約法」等の新しい労働立法が相次ぎ,有期契約の更新・解雇・労働者派遣等の規制,労働契約違反責任の明確化など,労働者の権益保護が強化された。新立法は,「世界の工場」をどう変えようとしているのか。日系企業はどう対応すればいいのか。本書は,最新の実態・判例などを踏まえて,中国労働法をわかりやすく解説した入門書である。

ということですが、コンパクトな中に、大変わかりやすく記述されていて、現在の中国労働法の姿がよく分かります。

目次は、

序言
 プロローグ  変わる中国の労働法制  
 
第一章 労働者の国の雇用・失業
  1 社会主義中国の社会・労働のシステム
  2 経済発展の裏で増加する失業者
  3 中国の労働市場と雇用格差
第二章 労働契約の締結とそのルール
  1 なぜいま「労働契約法」が必要だったのか
  2 労働契約の期間
  3 労働契約は必ず書面で
  4 労働契約の内容
  5 契約違反の代償  違約金は相当重い  
第三章 変わりつつある中国の人事制度
  1 賃金はどうやって決めるのか
  2 中国の人は転勤しない?
  3 昇進の仕組み
  4 会社のルール  就業規則の決め方  
  5 ルール違反者に懲戒処分を
第四章 中国の労働基準はどうなっているか?
  1 賃金に対する法規制
  2 労働時間・休日・休暇に対する法規制
  3 労働者の安全衛生は守られているか?
  4 労働条件の改善  低付加価値生産モデルからの脱皮をめざして  
第五章 中国における労働者派遣とその法規制
  1 中国においても労働者派遣が登場
  2 中国における労働者派遣の発展
  3 中国の労働者派遣の現状とその特徴
  4 中国の労働者派遣の法規制
第六章 市場経済化の宿命  リストラ  
  1 経済政策の転換と雇用システム
  2 解雇をしないリストラ
  3 解雇の法規制
  4 有期契約に対する制限
  5 解雇紛争解決の実態
第七章 労働組合は労働者の代表か
  1 労働者の国の労働組合
  2 労働組合は自立を望んでいるのか
  3 労働者の代表か企業の協力者か
  4 労働組合の実力  争議権はあるのか?  
第八章 労働紛争解決の中国的スタイル
  1 労働紛争解決システムの概観
  2 労働調停の制度と実情
  3 労働仲裁の制度と実情
  4 まとめ  中国における労働紛争仲裁制度の理解  
第九章 中国社会におけるセーフティネット
  1 転換期における中国社会とセーフティネット
  2 都市労働者のためのセーフティネット
  3 「出稼ぎ労働者」のためのセーフティネット
  4 農村住民のためのセーフティネット
  5 新しい発展方向が明確にされた
  6 今後の発展に期して
第一〇章 日系企業から見た中国労働法
  1 日系企業の調査
  2 募集・採用
  3 労働契約の期間と雇用
  4 賃金・処遇の諸制度
  5 人事異動
  6 労働組合
  7 労働法制への注文
  8 まとめ  日本の雇用社会の近未来への実験  
 
 エピローグ  中国労働法の過去・現在・未来  
 主な参考文献

冒頭の「序言」は、中国人民大学労働人事学院副教授の澎光華さんが書かれていますが、現在の中国の労働状況を大変冷静に書かれていて、ちょっと長いですが、引用します。

>市民社会の権利意識と法律群の形成が法治の前提であるというならば、中国では、市民社会の形成にはほど遠く、労働者集団の権利意識が全体的に希薄であり、裁判官・弁護士・研究者が一体となって法治社会を推し進める集団となっているわけではない。財産と教養が市民法の基礎であるというならば、中国では、資源分配の不均衡により、労働関係の一方である労働者には十分な財産が与えられておらず、これに対して、十分な財産を集約してきた他方の当事者である企業の多くには、十分な教養がない。労働法にはその独立した理論体系が欠かせないというならば、中国の政策制定および労働法学の世界では、労働関係、労働報酬や労働時間といった基本的な概念の中身も明らかにされていない。裁判例の積み重ねで形成された判例法理および社会通念が労働法理論を有効に補充し、かつ労働関係のマネジメントの際に参考となる「相場」を示すというならば、中国では、裁判例の法的効力が承認されておらず、労働関係の各関係者らがともに認める共通の価値観も形成されていない。労働立法、法律解釈、監督・執行、制裁・救済が一つの完結したプロセスであるというならば、中国では、このプロセスは断裂しており、そしてこのプロセスの進行に携わる人材のストックもかなり不足している

市民社会が形成されないまま社会主義となって建前上「労働者の国」であったはずが、改革・開放で急激に資本主義化したため、労働法のインフラ整備が追いついていっていなかったという状態でしょうか。社会主義のはずの中国の労働実態が先進国のネオリベ派の理論的根拠となるという皮肉な状況でしょうか。たしかに、上の描写は、ネオリベ派にとっては愚劣な労働法規制によって拘束されない資本主義のパラダイスということもできるかも知れません。

それが、2008年の労働契約法をはじめとする労働3法施行を期に、労働法律体系が形成され、

>勤勉で責任感のある労働行政側をはじめとする政策集団は、労働法を解釈し、使用者を監督して労働者を救済しようとしている。

>市場経済の進行過程において次第に分断されてきた労資双方は、他方のニーズを確認しつつ、コミュニケーションを通じて共通した価値観、並びに労働関係のルールの形成を試みている。

まあ、どこまで労働実態が変わってきたのかという話は、労働法の動きとはまた別に論ずべきことかも知れませんが、少なくともようやく中国が本格的な「労働法の時代」に足を踏み入れつつあることは確かなようです。

アジア労働法の研究もいよいよ本格的な開花の時代ですね。韓国労働法はいまやいくつかの分野によっては日本労働法の先を行きつつありますが、中国労働法もやがてそういう観点からの研究も出てくるかも知れません。

若い研究者の関心の対象としても、今後重要な分野になってくると思います。

どうしようもない歯がゆさ

「本職編集部員 写真では食べていません」というtomokeiさんの「山村」というブログで、拙著へのコメント。

http://sharobenn.blogspot.com/2010/01/blog-post_1231.html

>一生読みたい本だ。
なぜなら、わかりたいことを指摘し、なおわからないからだ。
たぶん、人には疑問に思っていけないことがある。
疑問に思ったら、いまの世の中で説明できないことがある。
この本は、それを敢えて指摘しながら、その答えを出さないことに、著者の踏みとどまりがあるのかもしれない。そこに、どうしようもない歯がゆさを感じる。

「どうしようもない歯がゆさ」ですか。

答えを出していないわけではないと思うのです。いや、今までの本と違い、あえて現実的具体的な答えを出そうとした本だと、わたしは思っています。

ただ、その答えが「あえて指摘」のラディカルさに比べて、あまりにもリアリスト的に過ぎると感じられるのはよく分かります。

>メンバーシップとはそもそも良いのか、悪いのかも解かれない。この辺が欲求不満になることで、採用が違うからといって、大卒だから、主婦パートだからといって、賃金が違うことのからくりまで論じてほしいのである。

「そもそも良いのか、悪いのか」という問題の建て方をした瞬間に、その答えは現実性を喪失してしまうと、わたしは思います。わたしは、そういう問題の建て方をしたくないのです。いかなる状況下において、いかなるメリットがあり、いかなる弊害が生ずるのか。わたしが、あくまでも「政策論」の世界にとどまろうとする以上、そういう問題構図でものを考え続けたいのです。

ネオリベ派規制緩和による成長戦略

「某米系投資銀行勤務」という藤沢数希氏が、そのブログ「金融日記」で、「需要サイドの成長戦略とは?」と題するエントリを書かれています。ネオリベ派の思考形式をきわめて典型的に示す文章だと思いますので、引用します。読者の中に、読まれて気分を悪くされる方がいるかも知れませんが、お許し下さい。

http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51642847.html

>こういった状況を改善して、日本のGDPを成長させ、税収を増やし、きたるべき少子高齢化社会にそなえるにはどうすればいいでしょうか?
非常に簡単です。
売春を合法化すればいいのです。
今の人材派遣会社みたいに、株式会社で売春婦派遣会社を運営してもいいでしょう。
中には上場する会社も現れるかもしれません。
こういった売春会社はお互いにサービスを競い合い、価格競争をするので、それを利用する需要サイドは大いに恩恵を受けるでしょう。
また、合法化することによって、ブラックマーケットの経済活動がすべて表に出てくるので、GDP統計にも反映されますし、もちろん国家の税収にもなります。
さらに、就職氷河期で就職先がなくなってしまった女子の有望な雇用先にもなるので、若年層失業率の大幅な改善も期待できるでしょう。
日本の売春業は、一部の既得権益層を守るために、潜在的な需要が抑えつけられ、国民全体の利益が損なわれているいい例ですね

このあと、アダルトビデオ産業の規制緩和を論じていますが、論旨はほとんど同じなので省略します。

わたしは、こういう議論の仕方に、ネオリベ派の思考形式がよく現れているのだろうと思います。これは売春にせよ、麻薬にせよ、結果的に売春者や麻薬吸引者が被害を被る危険性の高い行為に対するアプローチとして人に売春させたり麻薬を飲ませたりして金を稼ぐ産業という観点からもっぱらものごとを論じるというスタンスです。

社会哲学でこの手の問題を議論するときは、通常、自分自身を害する危険性があることでも自らの責任であえて行う自由というような問題設定をします。そして、人間の本質的自由をあくまでも尊重すべきだという立場に立つのが言葉の正確な意味におけるリバタリアンなのだろうと思います。

わたしは、人間はそんなに立派じゃないし、世の中はそんなに甘くないと思ってますので、リバタリアン的思考には反対ですが、しかしながら、そういう思考形式自体は尊重されるべきだと思っています。リバタリアンはあくまでも、売春者の売春する自由、麻薬吸引者の吸引する自由を主張するのであって、そういう議論はきちんとなされるべきだろうということです。

ここに、わたしの思うところでは、リバタリアン的思考と、ネオリベ的思考との違いがあるように思います。藤沢氏にとっては、売春の規制緩和は「日本のGDPを成長させ、税収を増やし、きたるべき少子高齢化社会にそなえる」ための産業振興政策にすぎないのです。売春者の売春する自由が問題なのではなく、売春産業が大いに稼ぐ機会が奪われていることが問題なのです。

(追記)

本エントリに対して、「skullsberry」という方が、「hamachan氏の藤沢氏に対する言いがかりについて」という藤沢氏のをさらにもう一段御下劣にしたようなエントリで批判しておられるようです。

http://d.hatena.ne.jp/skullsberry/20100121/1264044381(売春の自由化についての自由主義的見解と新自由主義的見解)

まあ、何をどのように感じるかは人それぞれですので、本ブログの読者のみなさんがそれぞれに感じればいいのですが、次のような記述は、まあよく言うね、とわたくしは感じるたぐいのものではありますがね。

>ここでハタと気がつきました。「なんだ、日本には最高の成長産業があるじゃないか」と。そう、性風俗です。日本の性風俗産業はイノベーションの宝庫です。ファッションヘルスやソープランドの行き届いたきめの細かいサービスは世界に類のないものでしょう(←って、知ってるのかお前?)。“ものづくり”もダメ、内需もダメ、ヒューマンキャピタルは劣化する一方の日本で、唯一成長力を秘めているのが風俗産業です。・・・

こういうことを言っておいて、

>こうした戯れ言がお気に召さない方がいる

と煙に巻けばいいのですから、気楽なものではあります。つまり、この手の人々が言うことどもは、売春の自由化も金融の自由化も労働の自由化も全部戯れ言のようですな。

2010年1月16日 (土)

金子良事さんの若干の誤解

金子良事さんが引き続き日本学術会議の大学と職業との接続検討分科会をテーマにエントリを書いておられます。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-96.html(大学と職業との接続検討分科会 その2)

>議事録がまだ第二回までしか公開されていないので、細かいことは分からないのですが、大体、今のところ、大きな見取り図というか、そういうものは私の中では大枠は分かりました。もちろん、資料を読んでいないので、当ってるかどうか分かりませんし、普通はこんなことやらないのですが、とりあえず、メモなのでご寛容ください。

濱口先生が前に書いてくださった論点は「人間力VS職業的レリバンス」という枠組みで、予告によるとこれが第4回で矢野先生との間に激論(?)を呼ぶそうです。

すみません、わたしの言い方がよくなかったためだと思うのですが、大きな見取り図はそうなんですが、矢野先生とわたしの「激論」(?)はそれがテーマではなくて、就活が論点です。

矢野先生が、「就活が大学教育を妨害しているのがけしからん、断固規制せよ!」と主唱し、わたくしが「そんなこと言ったって、システムを所与の前提に、みんな合理的に行動しているだけなんだから、けしからんでは解決しないでしょ」と反論しているというのが「激論」(?)の中身です。しょぼい話で申し訳ありません。

残念ながらまだ議事録がアップされていないので、具体的に引用するわけにはいかないのですが、そこから話は、大学生は大人扱いすべきなのかそれとも子ども扱いすべきなのかという話に移っていきます。

詳しくは、議事録がアップされた段階で。

マスコミへの掲載

労働政策研究・研修機構(JILPT)のHPに、「マスコミへの掲載」というコーナーがありまして、JILPTの研究員・調査員による新聞への掲載と雑誌への掲載が一覧表になっています。

特に新聞などは見逃すとなかなか見つけにくいので、これで探していただくと役に立つかも知れません。

http://www.jil.go.jp/article/index.htm(平成21年度・新聞)

http://www.jil.go.jp/article/index2.htm(平成21年度・雑誌)

今野浩一郎・佐藤博樹『人事管理入門(第2版)』

133793 昨年末に出版された『人事管理入門(第2版)』を、著者の今野浩一郎先生、佐藤博樹先生よりお送りいただきました。いつもお心に留めていただき、ありがとうございます。

本書は2002年の初版のときから人事労務管理の決定版テキストとして名高い名著ですが、今回全面的に改訂されています。

まえがき

第1章 人事管理のとらえ方
第2章 戦略・組織と人事管理
第3章 社員区分制度と社員格付け制度
第4章 採用管理
第5章 配置と異動の管理
第6章 教育訓練
第7章 人事評価
第8章 昇進管理
第9章 報酬管理
第10章 福利厚生と退職給付
第11章 労働時間と勤務場所
第12章 企業人材活用とワーク・ライフ・バランス支援
第13章 雇用調整と退職の管理
第14章 パート社員や外部人材の活用
第15章 労働組合と労使関係

文献リスト
索引

コラム

拙著『新しい労働社会』の序章でごく簡単にまとめた日本の雇用システムの具体的な諸相を、現実の様々なケースに根ざして、かつ経営学的・社会学的なパースペクティブを持ちながら、的確に把握する上で、一番有益なテキストだと思います。多くの人がその評価に同意するでしょう。

特にこの本を読むことが有益な人々は、私は労働法の研究者や実務者だと思います。この本の対象領域は、労働法の対象領域とほとんど一致しています。それらについて、規範的にではなく、事実認識とそれがなぜそのようになっているかのメカニズムの認識をきちんとしておくことは、規範論を地に足のついたものにする上で、きわめて重要なポイントですから。

全編にわたって重要なのですが、特にこの一章といえば、第3章の「社員区分制度と社員格付け制度」が今日的に重要だと思います。

2010年1月15日 (金)

八代尚宏氏に対する冷静な評価

拙著への書評をしていただいたこともあるシンスケさんのブログ・プチパラで、八代尚宏氏の『雇用改革の時代』についての論評が書かれています。

http://blog.goo.ne.jp/sinceke/e/65f49316a036ce0c81ff581cf6cca889(八代尚宏氏の『雇用改革の時代』を読むーホントに、雇用問題って難しいなあ…)

>岩波新書の濱口桂一郎氏の『新しい労働社会』は、どちらかというと「労働法」の用語を使って雇用問題が語られていたが、八代尚宏氏の『雇用改革の時代』は、主に「経済学」の用語を使っているので、文章の「歯切れ」がよい。

>…このように私は八代氏の本を読んで感銘を受けたのだが、いまブログ検索で八代尚宏氏の名前をちょっと調べてみると、この人は「労働ビッグバン」を推進しようとした新自由主義者の「悪の権化」みたいな存在として、いろいろな人に罵倒されてきたようだ。

「えー、なんでー?」と私は思う。

労働問題に限らないのですが、議論の評価は中身自体よりも政治的「文脈」で決定される面があります。

同じブログ・プチパラの

http://blog.goo.ne.jp/sinceke/e/68dc8cd14f0f48152833690da8f2e61a(八代尚宏氏と湯浅誠氏- 『EU労働法政策雑記帳』より)

で、わたくしを引用して述べられているように、「ちゃんとわかっている」か「全然わかっていない」かという中身の軸と、政治的対立軸でどっち側にいるかという表層的な軸のどっちを重要と考えるかという問題でもあります。

その意味では、

>自民党・小泉路線を批判するような「左」っぽい人の中でも、私が読んだ中では、たとえば「市役所の職員で、組合の委員長」をやっているという方が、3年ほど前に書かれていた『公務員のためいき』 2007年2月12日 八代尚宏教授の発言 Part2という文章などは「穏当」だと感じられた。

この記事には八代氏の著作に対して次のようなコメントがある。すごく「まとも」だと感じられる。

>>・・・賛否が分かれる八代教授の主張に対し、「非正規」労働者の待遇改善に向けた思いは共通する課題だと言い切れます。(以上、『公務員のためいき』より)

…どうしてこういう冷静な議論がネット上には少ないのか。

と引用されている「公務員のためいき」さんの論評も、表層的な政治的対立軸でものごとを丸め込んでしまわない健全な思考力をよく示していると思います。

2010年1月14日 (木)

本田一成『主婦パート 最大の非正規雇用』

08720528 本田一成先生より、新著『主婦パート 最大の非正規雇用』(集英社新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。本田先生は現在國學院大学教授ですが、かつてJILの研究員をされていた方です。

この本のメッセージは題名その通りです。最近、非正規労働問題というと派遣労働者が中心で、フリーターなど若者問題ばかりが取り上げられますが、主婦パートという最大勢力を忘れるなよ、そこに最大の問題点が潜んでいるんだよ、というメッセージでしょう。「はじめに」に曰く、

>主婦パートは、家庭では、親子関係と夫婦関係の結節点にいるキーパーソンである。そして、自ら働く傍ら、ほとんどの家事を引き受け、夫や子どもを有為な人材として社会に送り出していくという「良妻賢母」であった。また、企業にとっては、文句も言わず、決して手抜きをしない生真面目で丁寧な仕事ぶりを見せる貴重な労働者であった。主婦パートという存在を介して、日本の家庭も企業も社会も実にうまく回っていたのだ。つまり、、我慢強く日本社会を支えてきた存在といってよい。

>しかし、主婦パートの献身的ながんばりもそろそろ限界を迎えつつあり、社会を支えてきた主婦パートという在り方がほころび始めている。主婦パートは日本全域に散在する大規模な集団だから、このほころびの影響はとても大きい。

>職場と家庭の双方から限度を超える圧迫を受けることで、主婦パートが家庭と企業という二つの領域のキーパーソンとしての役割を放棄してしまったり、病んでしまったらどうなるか。低い待遇で正社員並みの働きを求めるパートの「基幹化」が、最後の引き金を引いてしまうかも知れない。

本文の最後のところでは、とりわけ労働組合に対して強い期待を示しています。

>主婦パートは日本の家庭と企業の双方を下支えしてきた。だからこそ、主婦パートを見捨てないことが、家庭と雇用の現場の歪みを修正し、この閉塞した社会を打破するきっかけになるはずだ。

>政労使が真剣に取り組むことを期待する。

吉岡吉典『ILOの創設と日本の労働行政』

L31047 昨年末(12月5日)に大月書店から刊行された吉岡吉典『ILOの創設と日本の労働行政』は、約100年前の外交文書を駆使して日本の労働法政策誕生当時の政策過程を描き出した歴史研究として大変興味深い作品です。

著者の吉岡氏は日本共産党の国会議員だった方ですが、そういう立場からの歪みは(まったくないわけではないですが)あまり感じられません。真摯な歴史研究書として、読まれる値打ちのある本だと思います。

なぜ日本の労働行政は世界水準から立ち遅れているのか?―ILO創設当時の外交文書を駆使して、その原点を探る。

序章 ILOの到達点と日本の現状
第1章 資本主義初期の労働者階級の状態
第2章 闘争でかちとった諸権利
第3章 労働保護法制の発展
第4章 パリ講和会議の労働問題審議と日本
第5章 国際基準の例外化に全力をあげた日本代表
第6章 労働代表委員選出をめぐって
第7章 労働運動の高揚とILO総会
第8章 第1回国際労働総会と八時間労働制
第9章 日本適用除外をめぐる論議
第10章 ILO条約批准にみる日本政府の立場

実を言いますと、このILO創設当時の日本政府(特に農商務省)の対応が内務省社会局という労働行政機関の創設の原動力になっていくということもあり、下記拙著『労働法政策』でもかなり詳しく説明しておりますし、第1回ILO総会に日本の労働者代表として出席した桝本卯平氏が、わたくしの知人の縁者であったりしたりして、個人的にも関心の高い分野ではあります。

>(1) 内務省社会局の成立*2

 1922年11月、従来各省に分属していた労働行政事務は内務省に外局として新設された社会局に統合された。この原因は国際労働問題が与えた衝撃に対して農商務省が適応できなかったことにある。一つはILO総会が採択した条約案に対して、農商務省が全然これを国内法に取り入れないという方針をとったことであり、もう一つはILO総会に派遣する労働者代表問題であった。
 これは条約上代表的な労働組合と協議の上選出することになっていたが、農商務省は労働組合など悪党か謀反人くらいに考え、こんな者を送るのはもってのほかとして、第1回総会には工場、鉱山の代表者と協議して労働者代表(桝本卯平*3)を選定した。これは総会の資格審査で手ひどい非難を受けた。第2回総会は海員に関するものであったため逓信省に一任し、逓信省は海員団体と協議して代表を選出したが、第3回総会では日本の労働者代表(松本圭一)が総会で自らの資格の否認を求めるという事態になった。第4回総会では農商務省はこの問題を外務省に押しつけるに至り、国際労働問題の主管官庁がないということを暴露した。河合栄治郎はこの問題をめぐって上層部と対立し、1919年「官を辞するに当たって」を朝日新聞に発表して農商務省を辞職した。わずか3年の官僚生活である。
 結局農商務省は国際労働問題を嫌ってこの問題をほっぽり出したと解釈され、農商務省は労働問題に熱意がないという印象を与えた。当時の水野内相は、労働問題のような大きな問題の所管が各省に分かれ、権限を奪い合ったり押しつけ合ったりしているのは遺憾なりとして、内務省に労働問題を統一的に管轄する社会局を新設するという案を提出し、農商務省も労働問題を忌避した実績から反論できず、容易に閣議決定に至ったという

一点だけ、当時の歴史叙述とは関係のない点ですが、労働委員会の委員に連合だけが選ばれ全労連が選ばれないのは「戦前の官選思想の名残り」だと述べている点(208ページ以下)はちょっと筋が違うような。民間部門の労働組合のどれが代表的かという問題であって、その点に組合間に意見の相違があるのは当然ですが、100年前の「官選」になぞらえる話ではないでしょう。現に、国立病院が独立行政法人化され、人事院勧告の対象から中労委裁定の対象になるとともに、全労連に属する全医労の代表が中労委の委員になっています。吉岡氏が本書の原稿を書かれたのは2001年までということなので、その後加筆されなかったのだろうと思いますが。

102033 ちなみに、最近中公新書から『河合栄治郎』の伝記が出ています。ILO問題をめぐって、農商務省に入ったばかりの若手官僚だった河合栄治郎が辞表を叩き付けるあたりも描かれております。

2010年1月12日 (火)

地方分権という「正義」が湯浅誠氏を悩ませる

毎日新聞の「ガバナンス・国を動かす:第1部・政と官」という連載記事ですが、

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100109ddm001010098000c.html

内閣府参与になった湯浅誠氏が取り組んだハローワークのワンストップサービスを妨害したのは何だったのか。マスコミの「正義」からすると、何はともあれ全部「官僚たちの妨害」という図式になるわけですが、実は・・・。

>派遣村の経験から湯浅氏がこだわったのは、ハローワークと自治体、社会福祉協議会に分かれた就労支援や生活保護の申請窓口を一本化する「ワンストップ・サービス」の提供だ。これを年末年始に「全国の大都市圏、政令市、中核市で行う」と記した。厚生労働省の山井(やまのい)和則政務官も了承し、政治主導で支援策が実現すると考えていた。

 ところが、10月20日に見せられた緊急雇用対策の原案に驚かされる。全国展開するはずのワンストップ・サービスが「東京、大阪、愛知で試行する」と3都府県限定に変わっていたからだ。湯浅氏は慌てて地名の後に「等」を付け加えて3日後の発表にこぎつけた。

 支援の規模をしぼろうとする動きの背景には何があったのか

さあ、何だったのでしょうか。

>当初は官僚による抵抗と考えていた。しかし、やがて根深い問題に気付かされる。それは、不況下で増加する一方の生活保護費をめぐる、国と地方のいびつな駆け引きだった。

 生活保護費は国が4分の3、自治体が4分の1を負担する。小泉政権の「三位一体改革」で国は2分の1への引き下げを図ったが、地方の猛反発で見送った。それでも、昨年10月の生活保護受給世帯は過去最多の128万世帯(前年比14万増)に達し、地方財政を圧迫し続けている。

 湯浅構想に、多くの自治体が尻込みした。困窮者が集まる場所で、生活保護の申請まで受け付けたら負担がさらに増えてしまう。負担を抑えるには、窓口を設けなければいいという逆立ちした論理だった。「どうしてもやるなら協力できない」と突き上げられた厚労省も「国が自治体に命令できる時代ではない」と積極的に動こうとはしなかった。

 ワンストップ・サービスは昨年12月、全国204カ所で実施された。ただ、生活保護申請を含む窓口一本化は実現しなかった。「政治主導」のスローガンだけでは打ち砕けない厚い壁を思い知った。

「厚い壁」は、地方分権というマスコミが大好きな「正義」そのものであったわけです。

大変皮肉なのは「突き上げられた厚労省も「国が自治体に命令できる時代ではない」と積極的に動こうとはしなかった」という表現です。ここには、湯浅誠氏のいらだちとそれに同感する記者のいらだちがよく現れています。

しかしながら、もし湯浅誠氏やこの記者の気持ちに従って、厚生労働省官僚が「うるさい、地方自治体の分際で政府の方針にごたごた言うな。さっさと言われたとおりやれ」と「命令」したら、この記事の載った毎日新聞を含むマスコミは、「よくぞ言った。その通りだ」と賞賛するでしょうか。それとも「地方分権の大義を踏みにじる許し難い奴だ」と総叩きにかかるでしょうか。

現在の社会状況下においては、自治事務ではなく法定受託事務であるはずの生活保護業務についても、「「国が自治体に命令できる時代ではない」と積極的に動こうとはしな」いことには合理的な理由があります。地方自治体にゆだねるということはそういうことなのです。

それにしても全国のハローワークが湯浅誠氏の意図に従って行動し、窓口一本化はできなくてもワンストップサービスができたのは、何よりもハローワークが国の直轄機関であったからでしょう。もし、地方分権派の方々の言うとおりに、ハローワークを地方自治体にゆだねていたとしたら、そもそもハローワークで何かすること自体からして、「「国が自治体に命令できる時代ではない」と積極的に動こうとはしな」かった可能性が高いのです。地方分権というのはそういうことなのです。

『社会保障と経済2 財政と所得保障』(東大出版会)

9784130541329 東大出版会から刊行されている『社会保障と経済』というシリーズの第2巻『財政と生活保障』が送られてきました。

http://www.utp.or.jp/bd/4-13-054132-9.html

このシリーズの第1巻にわたくしが「雇用戦略」という論文を寄せていることは、前に本ブログでご紹介したとおりです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-39de.html(『社会保障と経済1 企業と労働』(東大出版会))

この第2巻はわたしは執筆していませんが、下記の通り、錚々たる面々による論文が並んでおります。東大出版会から言われたわけではありませんが、是非お買い求めいただきますようお願い申し上げます。第2巻の編者は宮島洋先生です。

内容紹介

少子高齢化の急速な進展により医療や年金制度への不安がひろがり,また景気変動や雇用環境の変化により人びとの生活のセーフティネットもおびやかされている.給付・負担のバランスを保ちながら社会保障を維持していくためには何が必要なのか.経済・財政の視点から社会保障の現在とこれからを分析する.

主要目次

はじめに
I 社会保障の経済分析
1章 マクロ経済学から見た社会保障(小西秀樹)
2章 社会保障のミクロ経済学(駒村康平)
3章 地域経済と社会保障(山重慎二)
4章 公的年金・企業年金と年金資金運用(米澤康博)
II 社会保障と財政・税制
5章 社会保障と財政・税制(宮島 洋)
6章 社会保障の役割と国民負担率(田中 滋)
7章 社会保障と地方財政(林 宜嗣)
8章 OECD諸国の社会保障政策と社会支出(金子能宏)
III 所得保障と国民生活
9章 公的扶助と最低生活保障(阿部 彩)
10章 少子高齢社会の公的年金(小塩隆士)
11章 高齢期の世帯変動と経済格差(白波瀬佐和子)
12章 雇用保険制度改革(樋口美雄)

第1章の小西秀樹さんの「マクロ経済学から見た社会保障」の冒頭と末尾の言葉がなかなか皮肉が効いていますので、そこだけ引用しておきます。

>・・・このような心配にマクロ経済学はどう答えているだろうか。名だたる内外のマクロ経済学の教科書をひもといてみよう。社会保障について割かれたページが、あったとしてもホンのわずかであることに気づくだろう。これは決してマクロ経済学者が社会保障に関心がないからではない。教科書に書けるほどの通説、定説が社会保障に関するマクロ経済分析にはほとんどないのである。通説や定説の不在は、思い込み、誤謬、俗説がまかり通りやすいということでもあろう。

>社会保障のマクロ経済効果については定説と呼べるものがない代わりに、理論的な根拠が薄弱で、思い込みに近いような議論がまかり通っており、社会保障のメリットについて十分に認識することなく公的な負担の軽減ばかりに議論が集中する傾向がある。制度の詳細に注意を払った分析が不可欠であることを改めて強調して本章を締めくくりたい。

わたくし個人としては、やはり阿部彩さんの「公的扶助と最低生活保障」の章が興味深いものでした。とても共感するところ、ちょっと違うかな、というところなど、突っ込むと面白いと思います。

クルーグマンの「ヨーロッパに学ぶ」

ヨーロッパの穏健な試みをちょっと口にしただけで、「おぞましき社会主義だ!」と断罪する異端審問官が徘徊する日本のブロゴスフィアですが、アメリカの知的雰囲気も似たようなものらしく、例外的にまっとうな経済学者クルーグマン氏が、ニューヨークタイムズのコラムで、そういう奇形的な連中をからかっています。

http://www.nytimes.com/2010/01/11/opinion/11krugman.html(Learning From Europe )

幸い、さっそくoptical_frogさんが「left over junk」というブログで翻訳を掲載されているので、そちらからいくつか引用させていただきます。

http://d.hatena.ne.jp/optical_frog/20100112/p1(クルーグマン「ヨーロッパに学ぶ」)

>医療保険改革が終着に近づいてきて,保守派のあいだで嘆きといらだちの声がずいぶんあがってる.ぼくが言ってるのは過激な「ティーパーティー」連中のことだけじゃない.もっと穏当な保守派でも,オバマ医療保険でアメリカがヨーロッパ流社会民主主義になっちゃうぞと恐ろしげに警告を発してる.で,ヨーロッパが経済の活発さをなくしちゃってるのはみんなが知ってることだ.

こう言うとヘンだけど,どっこい,みんなが知ってることは正しくないんだ.ヨーロッパには経済の問題がある.ない国なんてあるかね? でも,いつもいつもみんなが聞かされてるおはなし――高税率と太っ腹な社会保障でインセンティブがおかしくなり経済成長とイノベーションが失速してる停滞した経済のおはなし――とはまるで似つかず,実際の事実は意外にも前向きだ.ヨーロッパからえられる本当の教訓は,保守派が言ってることの正反対なんだ:ヨーロッパは経済的に成功してるし,その成功から社会民主主義は機能するってことがわかる.

>じゃあ,どうして大勢の評論家連中はそれとちがう見取り図をぼくらに見せてるんだろう? なぜなら,この国にはびこってる経済のドグマによれば――ぼくが言ってる連中には実質的にすべての共和党員と並んで多くの民主党員のことも含まれるんだけど――ヨーロッパ流の社会民主主義は完全な大失敗になるはずだからだ.で,人間てのは見たいものを見てしまいがちなものだ

そうですね。人間てのは見たいものを見てしまいがちで、見たくないものはいくら目の前に示されても見えないということは、本ブログで「この国にはびこってる経済のドグマ」にこちこちにとらわれている人々を何回批判しても、そういう人々にはまったく通じないということから明らかでしょう。まさに、「People tend to see what they want to see.」

>ヨーロッパは訓話に出されることが多い.経済を甘くして不運にしてうまくいってない人たちにやさしくしようとしたら,結局は経済の進歩をダメにしちゃうんだぞって引き合いによく出される.でも,ヨーロッパの経験が実際に示してるのは,その真逆だ:社会的公正と進歩は手に手を取って進むことができるんだよ

この最後の台詞があまりにも嬉しくって、それでこのエントリをたてました。

>But what European experience actually demonstrates is the opposite: social justice and progress can go hand in hand.

この言葉の爪の垢を煎じて飲ませたいような連中に限って、全然ことばが通じないんですけどね。

母乳育児と仕事の両立

JILPTの内藤忍さんが、標題のコラムを書かれています。

http://www.jil.go.jp/column/bn/colum0139.htm

>母乳育児をしたいという女性が増えているという。厚生労働省の平成17年度乳幼児栄養調査によれば、妊娠中の96.0%の女性が母乳で子どもを育てたいと答えている。しかし、彼女たちの出産後の実態は違う。同調査によれば、母乳を多少なりとも与えられている生後5カ月児は64.4%にすぎない。

理由は様々あるだろう。しかし、原因の一つに、仕事との両立の問題があるのではないだろうか。そう考えたのは、筆者自らの産後期に、母乳育児と仕事の両立に悩む多くの産後労働者に接したからであった。・・・

実は、JILPTのコラムで母乳育児が取り上げられるのは、2度目です。1度目が2008年7月の小野晶子さんの

http://www.jil.go.jp/column/bn/colum0104.htm(母乳育児と女性労働)

>昨年4月に子供が生まれた。一年間、育児休業を取得し、仕事から離れて子育てに没頭した。刻々と変わる我が子の表情、仕草を近くで見守る濃密な時間。自分の生き方についても、改めて考える機会となった。

職場に復帰したのは今年4月。今も母乳での育児を続けている。日々、あふれる幸せをかみしめているが、仕事と育児の両立は想像していた以上に大変だ。

子供ができて、迷うことなく母乳育児を選んだ。母乳だけだと他の人に預けることが出来ないと考え、一度、粉ミルクとの混合に挑戦してみたこともあったが、哺乳瓶を受け付けてくれなかった。結局、1年3ヶ月に至る現在まで母乳で育てている。

内藤さんの方は、

>搾乳する時間と場所が職場では重要だ。このニーズを理解し支援している職場がどこかにないだろうか。そう思っていたら、早稲田大学が教職員や学生のための搾乳室を設置したという。話を聞きに行った。

と、早稲田大学の搾乳室の紹介がされています。

http://www.waseda.jp/sankaku/event/pdf/room.pdf

最後は、労働法研究者らしく、こう締めくくられています。

>母乳育児は、妊娠・出産にかかわる事項である。つまり、母乳育児を行う・行わない、どれくらいの期間行うといったことは、「性・生殖に関する自己決定権」(リプロダクティブ・ライツ)に含まれる。これは国際的に認められた女性の人権なのだ。この観点から、仕事との両立にあたっては、すべての女性に職場復帰後の母乳育児の権利が付与されること、それから、職場もしくは職場に近い衛生的な場所で搾乳(授乳)できる設備が必要である。これらはILOの母性保護条約(第183号)と同勧告(第191号)でも求められている。

しかし、この視点が日本において意識されることは、悲しいことにとても少ない。もちろんILO条約も批准できていない。母乳育児を支える労働環境が改善されることがないまま、今も多くの女性労働者が不衛生なトイレで搾乳したり、職場復帰にあたって母乳育児を断念したりしている。国、自治体、企業、労使団体は、産後労働者の悩みに気付いていないのだろうか。彼女らの母乳育児に関する自己決定を阻害するものを取り除けるよう真剣に取り組んでもらいたいと思う。そして、産後労働者に知ってもらいたい。職場復帰しても母乳育児は続けられる。出産した先輩・同僚に両立のやりくりを聞いてみよう。なかなか言いにくいかもしれないが、自らの要望を会社や組合に伝えてみよう

2010年1月11日 (月)

「ある部分は」入試の点数

金子良事さんが、私も参加している学術会議の大学と職業との接続検討分科会の議事録にコメントされています。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-95.html(大学と職業との接続検討分科会 その1)

まだ「その1」ですし、全体的な論点については金子さんの議論の全貌を踏まえてするべきだと思いますので、ここでは若干誤解かな?という小論点についてのみ。

わたくしの発言の

>大学で何を勉強したか、ということよりも、何を言われてもそれをやりぬくだけの素材であることが必要である。それは何で分かるかというと、広い意味で人間力、地頭の良さというのは、ある部分は大学で4 年生の時に何を勉強したかではなくて、4 年前に入試でどれだけ点を取ったか、ということである

という部分に対して、

>とあり、こういう側面があることは否定すべくもないが、同じ大学の中でもいくつも内定をとる者とまったく決まらない者の差がなんであるか、ということを説明できないのではないだろうか。

実は、そもそも人間力が受験で決まるという発想がいかにも東大的に私には感じられる。

と反応されています。これは私の発言が(会議最初の「一言ずつどうぞ」のものだったこともあり)やや舌足らずであったためかと思われます。

わたくしの言いたいことは、「大学でこれこれの勉強をしました」よりも、「人間力、地頭の良さ」が評価されるということであり、それは「ある部分は」4年前の入試の点数で測られますが、いうまでもなく多くの部分はまさに採用担当者と当該学生との(「官能的」な)コミュニケーションにより測られるわけであって、だからこそ「採用活動」「就職活動」がこれだけの資源とエネルギーを投入するものになるわけでしょう。

もし、4年前の入試の点数だけで「人間力、地頭の良さ」が測定可能なのであれば、そもそも就活問題なんて起きないでしょう。もちろん、それは無関係ではないし、少なくとも足きりには使えると採用担当者は思っているから一定の意味があるわけでしょうが、その先はもちろんその人間の現時点での「人間力、地頭の良さ」が採用担当者とのコミュニケーションによって測られるのである以上、それが「同じ大学の中でもいくつも内定をとる者とまったく決まらない者の差」であることはいうまでもありません。

そして、この分科会でもっぱら議論の対象となっているのは、まさにこの点、すなわち「大学で勉強してきたこと」対「就活で測定される人間力」の問題なのであって、昔から教育業界で繰り返し論じられてきた「大学で勉強してきたこと」対「4年前の入試の点数」という問題ではないのです。

このことは、今後公開されていくであろうこの後の議事録を順次見ていっていただければ理解いただけることと思いますが、とりあえず第1回の議事録に基づく金子さんのコメントについて、最小限の誤解を解いておきたく、コメントさせていただきました。

2010年1月10日 (日)

社会学的な視点も多分に含まれていて面白い

ネット上の拙著書評。年を越えても連日のように書評をいただき続けられるのはうれしい限りです。ブログですべてを紹介しておりませんが、HPの拙著書評コーナーに目に付いたものは一つ残らずリンクしておりますので、過去のものも含め、ご覧いただければ幸いです。

さて、最新の書評は教育社会学専攻の大学院生state0610さんの「おいしい批評生活」です。

http://d.hatena.ne.jp/state0610/20100110/p2

>著者の専門は労働法でありながら、社会学的な視点も多分に含まれていて面白い。最近、岩波新書もだいぶ軟らかい本を出すようになってきているけれど、本書は学術的な批判にも十分耐えうるほど水準が高く、こういう新書がもっとたくさん出ればよいなと思う。

ありがとうございます。

>著者の考えには基本的に賛同できるのだが、全体的なことで2点ほど。

と、2点疑義を呈しておられます。

>一つは、序章で日本的雇用の本質は、雇用契約が職務(ジョブ)を単位として締結されているのではなく、職務が特定されていないメンバーシップ契約にあるという点について。このジョブ/メンバーシップという区分が本章では明示されない。分析枠組みとして、個別のテーマを語る上でもその都度参照される方が分かりやすかったと思う。

これは、前にも書いたかと思うのですが、実はこの本ははじめの草稿では第1章から第4章までだったのです。岩波書店の編集部の方の慫慂で、もともとGRIPSで外国人留学生向けに日本の雇用システムを説明するのに作った講義メモをくっつけることになったという経緯があります。考え方としては首尾一貫していると思うのですが、ジョブ/メンバーシップというダイコトミーは序章でしか述べられていないというのはそういう経緯によるものです。

>またもう一つ、第4章のテーマである「産業民主主義の再構築」について。企業別組合を正社員限定のものではなく、非正規労働者を含めた職場の代表組織として再構築してゆくことが提唱されているのだが、なぜ産業民主主義、あるいは集団的合意形成でなければならないのかが、論理的に十分説明されていない。むしろ政治がトップダウンで、非正規労働者も包摂する組織を定めてしまう方が早いのではないか、という思いを拭えなかった。

これは大きな問題です。実は、私の提案は、非正規を含めた集団的労使関係システムを、純粋に自発的な結社としてではなく、しかし完全にトップダウンの公的機関としてでもなく、いわばある意味で強制的に包括的な組合を作らせようというような発想になっています。そのため、そこにはさまざまな問題が生じることも承知しています。本ブログでも紹介しているように、多くの人々から問題点を指摘されています。

ここは、いろいろな問題が絡み合う難しい領域なのですが、そこまでして「なぜ産業民主主義、あるいは集団的合意形成でなければならないのか」といえば、その枠組み自体はある程度強制があったとしても、中身をどうするかは最大限当事者が決めるという民主主義の原理を出来る限り広く適用すべきだと考えるからでしょう。

今年は「国際若者年」

たぶん、多くの方が知らなかったと思いますが、今年は「国際若者年」だったんですね。

http://unic.or.jp/unic/press_release/1424/

>国連は12月18日、2010年を新たに「International Year of Youth(国際ユース年)」に制定しました。

>国際ユース年(International Year of Youth)
世代間の対話と相互理解を目指すと同時に、平和から経済開発の推進に至るまで、人類の直面する課題を克服する上で、世界のユース(青少年)の持つエネルギーと創造性、自発性を生かすよう呼びかける。

一月足らず前に駆け込みで設定したばかりで、新聞にも出ていた記憶はありませんが、まあしかし国連がそう決めたんですから、「国際生物多様性年」、「文化の和解のための国際年」と併せて、それぞれの関係者はちゃんと認識しておく必要があるのでしょう。

Youth ということで(何が?)、国際若者年の先頭を切って(ほんまかいな)、本ブログでも何回か予告してきましたが、今月中にも、OECDの『日本の若者と雇用』の翻訳が明石書店より出版される予定です。

中島ゆりさんの翻訳で、わたくしが監訳ということになっております。

目次だけちらりとお見せすると、次の通りです。

要約と主な提言

1章 これからの課題

1.人口動態と労働市場の成果

2.学校から職業への移行

3.要点

2章 教育と訓練

1.教育制度の全般的な成果

2.後期中等教育と労働市場

3.高等教育と労働市場

4.学校と職業の間

5.訓練

6.要点

3章 若年雇用への需要側の障壁への取り組み

1.雇用慣行

2.年功賃金制度

3.雇用保護規制と若者労働市場

4.要点

4章 積極的労働市場政策と給付

1.若者労働市場の成果を改善するための近年の対策

2.公共及び民間の職業安定機関

3.失業給付

4.要点

参考文献

Box一覧

Box 1.1. NEETと日本語の「ニート」

Box 1.2. 日本の労働力調査における非正規労働者カテゴリー

資本主義を進化させよう by デビッド・ジェームズ・ブルナー 

東大の政策ビジョン研究センターのHPに、ハーバードBSのデビッド・ジェームズ・ブルナーさんの標題のようなコラムが載っています。一知半解おじさんたちの戯言を聞き飽きた方に一読をお薦めします。

http://pari.u-tokyo.ac.jp/column/column20.html(資本主義を進化させよう) 

ブルナーさんの立場は明確で、

>マイケル・ムーアに言わせると資本主義自体が悪いのだが、私はまだ資本主義の可能性を感じている。

>進化の方向性は明確だ。まず、企業と社会の長期的な発展を妨害する短期志向の投機家の力を抑えなければ新しい産業が育たない。次に、よりバランスの取れている企業の評価基準を導入しなければならない。

まずは、「投機家を企業の経営に介入させない」という点から、

>競馬場に投機家がいても問題はないが、投機家が企業の経営に介入すると経済の発展が止まる。事業を発展させていくためには、5年、10年かけて有能な従業員を育て、取引先との信頼関係を築き、顧客を喜ばせ、知を蓄積しなければならない。設備投資もしなければならない。短期志向の投機家はこのような地味な仕事には関心がなく、ただ単に手っ取り早く儲かりたいだけだ。投機家が企業の主要株主になると、企業の資金を自社株買いや特別配当で吸い取る。企業に借金をさせ、そして借り入れた資金をそのまま特別配当で吸い取る場合さえある。アメリカの長寿企業のシモンズ・ベディングは株主に資金を吸い取られ過ぎた末に今年破産したのだ。企業にとって株主は大切な存在ではあるが、短期志向の株主と長期志向の株主で区別する必要がある。短期志向の株主は企業の発展に貢献をしない。むしろ一種の寄生虫だ

投機家が企業の経営を狂わせないように、配当権と発言権を株式の保有期間につなげればよい。株式を3年間持っていないと配当がもらえない。5年間持っていないと株主総会で投票できない。こうした制度を作れば、短期志向の投機家は自ら株式市場から去って行くだろう。規制を導入した直後には株価が下がるかも知れない。でも長期的に考えると、投機家のいない株式市場が健全だ。企業の経営者は日々の株式市場の値動きに左右されず、将来の成長の基盤を作るための地味な仕事に集中できる。そして投機家がいなくなる結果、株式市場の動きが鎮める。また、こうした規制ができたら、海外の企業も日本で上場して資金調達をするようになるだろう。日本は、ロンドンとニューヨークのように投機資金の都ではなく、長期投資資金の大国になればよいのではなかろうか。

もう一つは人間ドックになぞらえた「企業ドック」という発想、

>人間ドックのときに、「あなたの給料はいくらですか」と聞かれただけで診断が終わったら驚くだろう。当然ながら、個人の健康は給料だけでは測れない。マンションの面積でも当然測れない。個人の健康を評価するためには複数の指標を見て、バランスが取れているかどうか見極めなければならない。企業も同じだ。利益が出ていれば出ているほど健全だとは限らない。シモンズ・ベッディングが破産するまで、投資ファンドは約7.5億ドルの利益を得た。2009年に従業員の4人に1人が首になった。

企業ドックはどう実施すればよいのだろうか。財務諸表以外の指標が必要だ。公益資本主義の研究では、持続可能性・公平性・改良改善性という3つの軸を提案した。高い利益を出しても、持続しない企業は社会の発展に貢献しない。また、企業は全ての関係者のために新しい価値を創出するために存在するから、シモンズ・ベッディングの株主のように一部の関係者だけが全ての価値を吸い取ることが健全ではない。企業が公平性を欠けていると信頼関係が崩壊し、関係者の熱心な協力が得られなくなり、発展が止まる。21世紀の優良企業は利益だけでなく、持続可能性・公平性・改良改善性を実現しなければならない。

こういう発想がまっとうだと考えるか、投機家資本主義が正しいと考えるかは、究極的には価値観の問題ですから、歴史的に検証することは出来ても、理論的に証明することは出来ない性格のものなのでしょう。

ただ、投機家資本主義だけが絶対正義と喚いて、それに従わない者を火あぶりの刑に処したがる連中の声ばかりが声高に響き渡るというのが不健全であることだけは間違いないと思います。

戦後日本における労働者参加論の系譜

労働者参加というと「社会主義!」などと脊髄反射する低知能がはびこる今日この頃ですが、実定会社法に労働者参加が明記されているヨーロッパ諸国だけでなく、戦後日本でも会社における労働者参加に関する議論は脈々となされてきました。とりわけ、経営側では経済同友会、労働側では同盟がその主唱者的位置を占めています。

この関係について、拙著『労働法政策』の中で、簡単な歴史的記述をしていますので、以下にその部分を引用しておきます。

第Ⅴ部 労使関係法政策

第20章 労使協議制と労働者参加

第3節 労働者参加

2 労働者の経営参加

(1) 戦後の経営参加構想

 日本における経営参加構想として特筆すべきは、1947年9月に経済同友会企業民主化研究会*14が発表した「企業民主化試案-修正資本主義の構想-」*15であろう。
 これはまず企業を株主の所有とする考え方を改め、企業を以て経営、資本、労働の3者によって構成される協同体とする建前をとる。その配分帰属については、企業財産の増殖分は適当な割合で3分し、経・労・資3者それぞれの集団に帰属させる。従って企業が解散する場合、企業財産は3者間に分配される。企業利潤は3者平等の原則に基づき、3者間に公平に分配するが、企業債務も終局において経・労・資3者の共同負担とし、経営者及び労働者の責任は上記帰属分を上限とする。
 経営と資本の関係については、経営者の資本家に対する受託関係を解除し、資本に対しては監査権を認め、企業の最高意思決定機関たる企業総会に代表者を送ることを認める。この企業総会は当時盛んであった経営協議会を経・労・資3者構成の機関とし、株主総会に代わる企業の最高意思決定機関とするというもので、会社の構造を根本から転換しようとするものである。企業総会の議長は経営代表たる首席取締役である。こうなると株主総会は株主が企業総会への代表及び監査役を選出する機関に過ぎなくなり、同レベルに労働者総会及び経営者総会が新設される。
 これはある意味では労働者の経営参加を極限まで追求した構想と言えるが、他面から見れば資本家に対する経営者の独立性を強く打ち出したいわば経営者革命宣言的な面もある。経・労が協力して資本の権限を抑制するというニュアンスも感じられる。そして、その後の経過は、株主に対する経営者の権力が著しく強化されていき、このような労働者参加論は影を潜めてしまった。
 その後1950年代に入り、西ドイツにおける鉱山鉄鋼共同決定法や事業所組織法の制定の影響で全労会議や三井鉱山労連など労働側に再び経営参加の議論が起こったが、やがて尻すぼみになった。

(2) 1970年代の経営参加構想*16

 日本では1970年代半ばに、西ドイツにおける共同決定法制定やEC会社法案が紹介され、労働者の経営参加に対する関心が一時的に盛り上がったが、その後急速に冷め、現在ではほとんど動きがない状況である。
 社会経済国民会議は1975年2月、「労働組合もしくは労働者代表による経営参加について」と題する経営参加問題特別委員会の中間報告を発表した。ここでは労使協議制による経営参加について、現状では労使の協約による自主的参加制の上に産業別、企業別の協議制を積み上げることが実情に即した方式だとし、その上で将来展望としては労働組合の推薦による監査役への労働者代表の参加も一方向としている。なお、翌1976年5月の報告書は「政策参加に関する提言」であって、経営参加には言及していない。
 これより先1974年12月、労働側から同盟が「参加経済体制の実現のために」と題する経営参加対策委員会中間報告を発表している。これが経営参加論議の出発点となった。ここでは監査役会へ労働者代表を参加させることを現実性のある参加の道であるとしつつ、問題点として商法で監査役が当該会社の取締役又は支配人その他の使用人を兼ねることを禁止していること、労働組合法で労組役員が会社の役員を兼ねることができないことを挙げ、当面はその制約下で労働側選出の監査役を監査役会へ参加させるほかないが、近い将来に商法を改正して、取締役会と監査役会への労働代表参加の障壁をなくすことが必要としている。
 経営者側からは、1976年4月、経済同友会の新自由主義推進委員会経営参加小委員会が報告書を発表し、日本では労働者重役制は法的制度としては存在していないが、西欧諸国と比較して社会階層間の流動性が高く、また実質的に従業員の代表が時を経て経営陣に加わっている場合もあり、従業員の意向が経営に反映されやすくなっていること、稟議制により従業員や中間管理職も実質的に経営意思決定過程に参加しうる機会があることなどを挙げ、経営参加はかなりの普及を見ているとして、現時点でこの制度を早急に導入する必然性は見出しにくいとしている。ただ、中長期的には、労働組合の代表を、その責任・忠実義務を明確にするなどの一定の条件を付し、法的な整備を慎重に行った上で、役員に参加させることも検討する必要があろうとしている。

*14委員長:大塚万丈。
*15経済同友会企業民主化研究会編『企業民主化試案』同友社(1947年)。
*16日本労働協会編『経営参加の論理と展望』日本労働協会(1976年)。

これを政治史的に言えば、経営側では労使対決的な日経連ではなくて労使協調的な経済同友会が、労働側では同じく労使対決的な総評ではなくて労使協調的な同盟が、それぞれ労働者参加の主唱者であったということになります。

また、思想史的に言えば、市場原理主義ではなくて修正資本主義が、マルクス・レーニン主義ではなくて社会民主主義が、労働者参加に同調的であったということもできます。

同じヨーロッパでも、労使協調的な北欧諸国においては取締役会への労働者参加が実現し、労使対決的な南欧では労働者参加があまり実現せず、その間の国々では中くらいの監督役会への参加になっているのも、興味深いところです。

2010年1月 9日 (土)

大卒者の専門学校入りが急増 就活で就職浪人より「新卒が有利」で

なんだか、「大学と職業との接続を検討」するためにしつらえたような記事。産経から。

http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100109/biz1001090019001-n1.htm

>不況で雇用情勢が悪化する中、就職が決まらない大学や短大の卒業生が専門学校に入学するケースが増えている。大手の中には、そのような入学者が3年前の1・5倍に増えた専門学校も出てきた。卒業後、自力で就職活動を続けたり、「就職浪人」で大学に残るより、専門学校できめ細やかな指導を受け、就職に直結させようという人が多いためとみられる。

>文科省は「大学生の就職状況が厳しい中、職業能力を身につけるために専門学校に入学しようという学生が増えているのではないか」と説明する。

>日本では新卒でなければ正社員になることは難しいとされる。前岡部長は「大学を卒業して『既卒』となるより、専門学校から『新卒』として就活する学生が増えても不思議はない」と話している。

職業レリバンスの欠如した大学教育と、新規学卒一括採用システムの問題点をひとまとめに示してくれる好事例というべきでしょうか。

(追記)

やや皮肉な言い方をすれば、典型的には「アカデミック」な「大学」で「教養としての経済学」を勉強して(あるいは多くの場合勉強しないで単位を取って)「無能な者たちの共同体」に入ってしまった人々が、「人間力」で会社に入る一回きりの機会を逸してしまったために、今度は「職業的」な「専門学校」で「仕事に役立つビジネス」を(今度は本気で)勉強し直して「無能な者たちの共同体」から脱出しようともがいている、という図式でしょうか。

新自由主義者の行動パターンは共産主義者そっくり

本日(といっても1月8日はすでに昨日ですが)の名言。

本ブログでもおなじみの黒川滋さん。

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2010/01/18-bb89.html

>●「三原則氏」が菅直人を社会主義者と断定。イデオロギーや希望的観測のために、レッテル貼りや事実を見ないなどの悪癖そのもの。こう見たいという願望があると、それに向けて事実を仕立て上げていく新自由主義者の行動パターンは共産主義者そっくり。原理原則に徹底しないことが、社会の発展を阻害していると考え、一切の原理原則に沿わない都合のわるい事実は、ありとあらゆるレッテルを貼ったり、陰謀をでっち上げたり、偏向者扱いをしていく。

まったくそう思います。

初等教科書の公式に合わない社会の端々の様々なディテールのひだの一つ一つにこそ、大事に大事に扱わなければならない人間の真実が潜んでいるという感覚が欠落した人々の群れ・・・。

(追記)

それにしても、

http://twitter.com/ikedanob/status/7480817272

>「私は株主至上主義だ」とか「私は市場原理主義だ」と自称する人はいないので、そういうレッテル貼りで議論するのは非生産的。(6:50 AM Jan 7th

と言った舌の根も乾かぬうちに、

http://twitter.com/ikedanob/status/7505496005

>史上初めて、社会主義者が財務相になったことの異常さに気づいたほうがいい(8:01 PM Jan 7th

と、正真正銘のレッテル張りする素晴らしき論理的整合性!

これは何番目の法則でしょうか?

2010年1月 8日 (金)

ホリエモン氏のコメント

ご本人のコメント

http://twitter.com/takapon_jp/status/7501328812

>どうやったら、「労働基準法守るなんて馬鹿馬鹿しい」って読めるんだろうね?今の労働基準法が馬鹿馬鹿しいんであって法令順守は当たり前。でも改正の必要ありといってるんだよ」

だそうな。

なるほど、何の憂いもなく、俺が雇った奴である限りいくらでも夜遅くまで働かせられるようにしろというわけだ。

実に皮肉なことに、今の労働基準法は事実上そうなっている。36協定結んで残業代さえ払えばね。

そういう労働基準法を、物理的労働時間そのものをまっとうに規制する力あるものにしなければいけないというのが、拙著『新しい労働社会』で力説したことであるわけだが、もちろん、このホリエモン氏に、そういうまっとうな労働法感覚を要求するのは無理だろうし、言っても無駄だろうと思ったから「特にコメントはしません」ということ。

そしたら見事に、労働時間感覚の欠如したコメントがかえってきた。

物理的労働時間を規制する力のきわめて乏しい今の労働基準法ですら、「ベンチャー企業の従業員の多くは好きで夜遅くまで働いている」のが「できなくなる」から「馬鹿馬鹿しい」というのだ。

今の労働基準法の問題点は全く逆であって、物理的労働時間の規制力は弱いくせに、残業代規制だけは不均衡に厳しいという点にあるわけで、その点の適切な理解が出来ないから、ホワイトカラーエグゼンプションも馬鹿馬鹿しい失敗劇に終わったわけだが、しかし、経営側の心ある人々が「いや、ホワエグは際限なく働かせる過労死促進法なんかじゃなくて、労働時間と賃金のリンクを外そうというだけなんです」といくらまっとうなことを語ったとしても、ホリエモンみたいな人がこういうことを口走っている限り、「ホワエグは悪辣な経営者の過労死促進法だ」という本当は的はずれだったはずの批判が、意外や意外、やっぱり経営者の本音は労働者を何の制限もなく夜遅くまで働かせ続けることだった、という真実を言い当てていたことになってしまうわけ。

わたしが『新しい労働社会』で、あれだけ一生懸命、経営側のホワエグ論の本当の意図を説明してあげたことが、こういう愚かなベンチャー経営者の一言で、がらがらと崩れていくわけ。

本ブログをいつもお読みのみなさんは、こういう感覚の人々が私たちを取り巻いているということをよく念頭に置いておく必要がありますよ。

(追記)

考えてみると、こういうキャラって、あの奥谷禮子氏もそうでしたね。

経営側が、「いや、われわれはそんなこと考えていませんよ」「それはあなた方の邪推ですよ」と一生懸命言ってるまさにそのものずばりを何のてらいもなく平然と口走って、しかもそれが労使関係においてどういう意味合いを持つかが全然理解できないタイプの人。

日本経団連や経営法曹会議の皆様、ホリエモン氏がこういう発言をおおっぴらにしている限り、ホワイトカラーエグゼンプションの議論を改めてまっとうな形で再開することは絶望的でしょう。悲しいけれど、これが日本の現実です。

ヨーロッパでは会社法に労働者参加規定があるのがデフォルト

公開会社法案の記事をきっかけに、ブロゴスフィアのあちこちでいろんな議論がわき起こっているようですが、驚くべき事は、そのほとんどが「ヨーロッパでは会社法に労働者参加規定があるのがデフォルト」という基礎知識の欠落しているということです。

これは、もちろん初等経済学の知識を振り回して鬼面人を驚かして嬉しがる迂闊な徒輩が法律に無知であるという事実の反映である面もあるのですが、それだけではなく、戦後日本において商法学と労働法学が断絶していったことをも反映している気がします。

戦後初期には、けっこう会社機構における労働者参加というテーマも取り上げられていたようなのですが、その後はほとんど没交渉だったのではないでしょうか。

本当は、こういう議論がわき起こったときに、すかさず「ヨーロッパでは会社法に労働者参加規定があるのがデフォルト」という指摘があちこちから出てこないといけないんですけどね。

ブログ・プチパラさんの拙著書評など

昨年末のエントリで引用させていただいたシンスケさんの「ブログ・プチパラ 未来のゴースト達のために」というブログで、わたくしについてなかなか興味深い評がされていました。

http://blog.goo.ne.jp/sinceke/e/68dc8cd14f0f48152833690da8f2e61a(八代尚宏氏と湯浅誠氏- 『EU労働法政策雑記帳』より)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-d0a6.html(『プレジデント』誌のフレクシキュリティ)

>こういう「ちゃんとわかっている」人同士の対比は、ものごとを深く考えるのに役立ちます。ところが、よくあるミスキャストは、「ちゃんとわかっている」人と「全然わかっていない」人とを、単に目先の対策論で一致しているとか対立しているとかいうような単細胞的な判断基準で対論させてしまうことです。

というわたくしの評語を受けて、シンスケさんはこのように述べられます。

>hamachan 先生のブログの文章は、「知らない人」へ向けられる「親切さ」と、「知ったかぶり」へと向けられる「意地悪さ」の絶妙な同居があり、こういうところにスパイスが効いてきます。

いやあ、別に「知ったかぶり」に意地悪しているつもりはなくて、いささか皮肉めかしつつ親切にご教示申し上げているつもりなんですが、なかなかそう素直に受け取っていただけないのが悩みの種なんです。

このシンスケさん、続いて拙著『新しい労働社会』におけるホワイトカラーエグゼンプションの議論について、ご自分なりに整理されておられます。

http://blog.goo.ne.jp/sinceke/e/e543b32d052ad087672464783d8d885f(ホワイトカラーエグゼンプションの議論について自分なりに整理)

>労働時間規制、残業代規制についての話ですが、まず自分にわかりやすいように、一応の目安として、夕方6時、夜8時、夜10時という三つのラインを引いてみました。ここで数字を振るのは、とにかく三つのラインを示したいから。8時がたとえば7時になっても別に構いません。

んで、とりあえず、夕方6時のラインを「これを超えたら残業代が発生するライン」とします。これが第一のラインです。
第二のラインである夜8時を、「ワーク・ライフ・バランス」達成のためのラインとします。
第三のラインである夜10時を、これを超えたら死んでしまう「過労死」ラインとします。

具体的な時刻設定についてはいろいろと議論のあるところでしょうが、この3つのラインを区別して議論しようよ、というところはまさにその通りです。

2010年1月 7日 (木)

労働基準法守るなんて馬鹿馬鹿しい by ホリエモン

まあ、前からそういう思想の持ち主だとは分かっていましたが、ホリエモン氏の役に立つところは、それを妙にめかし込んだ表現でごまかさずに、底抜けに本音剥き出しで喋ってくれることでしょう。

http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10428558374.html(公開会社法なる法律を作ろうとしている奴がいるらしいが)

>最近は新規上場する会社の元従業員とかがチクって労働基準法違反が見つかり上場審査で×を貰うことも多いらしい。ベンチャー企業の従業員の多くは好きで夜遅くまで働いている奴も多いのに、それができなくなる。なんて馬鹿馬鹿しい。きっと労働生産性が低く働きづらくなってやめた社員の僻みだったりするんだろうが。

特にコメントはしません。この発言にコメントする必要はないでしょう。

ただ、なんにせよ、こういう人が国会議員にならなくてよかったね、ということだけは心からそう思います。

働くことが得になる社会へ

JP労組(日本郵政グループ労組)の研究機関であるJP総研の機関誌『JP総研リサーチ』に、「働くことが得になる社会へ」という文章を寄稿しました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/jpsouken08.html

>最近、ようやく日本でも働くことが得になるようにすること(メイク・ワーク・ペイ)が労働社会政策の中心概念として取り上げられるようになってきた。宮本太郎北海道大学教授の近著『生活保障』(岩波新書)は、過去10年以上にわたる西欧諸国の政策経験を踏まえ、受け身のベーシックインカム型になりつつある生活保障政策を、能動的なアクティベーション型に転換するべきだと主張している。
 先進国共通のシンクタンクであるOECDは昨年からアクティベーションに関する各国レビューを開始しており、今年初めには筆者もインタビューを受けた。以下は、そのときにOECD調査団に対して述べたことの概要である。冒頭で述べているように、この問題を考える上で日本と欧米における文脈の違いを的確に認識することが最も重要であると思われる。

ということで、何かのご参考になれば幸いです。

労働者参加は社会主義か?

3法則でその名も高い池田信夫氏が、例によって民主党が提出を予定している公開会社法案にケチをつけています。

http://agora-web.jp/archives/868044.html

>民主党の方針は反企業・親労組という点で一貫している。その結果出てくる政策が矛盾しているのは、この方針がナンセンスだからである。企業の投資を阻害して、労働者を豊かにすることはできない。

その典型が、民主党政権が来年の国会に出そうとしている公開会社法である。これは連合が求めている「労働者参加」を法的に義務づけ、日本を資本主義から社会主義に変える法案だ。このような時代錯誤の法案が21世紀になって出てくるのは、日本が社民党政権で痛い目にあった経験がないからだろう。

ふうん、つまりアメリカだけが資本主義で、欧州会社法によって労働者参加を義務づけているEUは社会主義である、と。もちろん、ハイエクやフリードマンはじめ、そういう用語法を使う人々は結構いるので、そのこと自体は許容範囲ではあります。

ただ、それならそれで一貫してもらわなければなりません。

とりわけ、ドイツのように監督役会に労働者代表なんていう軟弱な法律ではなく、重役会に労働者代表を2~3名義務づけているのが、池田氏が某桜ちゃんねるで褒め称えていたスウェーデンであり、半世紀以上にわたって政権を支配してきた社会民主党なのですが、それが「社民党政権で痛い目」ってことなんでしょうかね。

念のためいうと、「フレクシキュリティ」のデンマークも監督役会の3分の1は労働者代表です。

今後、池田氏はフレクシキュリティに言及するときは、「社会主義」だの「社民党政権で痛い目」だのと言うのでしょうね。まさか褒め称えたりしないでしょうね。

大学と職業との接続検討分科会報告書骨子案

昨日初期の議事要旨を紹介した日本学術会議の大学と職業との接続検討分科会ですが、会議の配付資料は一番最近のものまで全部公開されていますので、ちょっと紹介しておきます。

http://www.scj.go.jp/ja/info/iinkai/daigaku/d-shidai13.html(大学と職業との接続検討分科会(第13回)議事次第)

これは昨年末12月22日のものです。

報告書骨子案はこれです。

http://www.scj.go.jp/ja/info/iinkai/daigaku/pdf/d-13-5.pdf

見出しを並べますと、

Ⅰ 現状と課題

1.日本社会の変容

2.日本的雇用システムの変容

3.若年層(大学生)をめぐる状況

4.これまでの政策や民間企業等の対応

5.日本の教育システムの問題

6.大学教育の現状

7.課題

Ⅱ 展望

1.現下の日本社会が抱える閉塞状況を打開するために

2.今後目指すべき産業社会の構想

3.今後目指すべき教育システムの構想

4.新しい大学教育の姿

5.政府(中央および地方)の役割

Ⅲ 提言

1.基本姿勢

2.企業の雇用システム・労働市場に対して

3.大学に対して

4.就活問題への対応

5.政府(中央および地方)に対して

興味を持たれたら、是非リンク先を読んでみてください。

2010年1月 6日 (水)

鶴光太郎氏の労働・雇用政策論

経済産業研究所のHPに同研究所の鶴光太郎さんの「新政権下における労働・雇用政策をどう考えるか 派遣労働者への対応を中心に」というコラムが載っています。

http://www.rieti.go.jp/jp/columns/s06_0003.html

次に引用する記述などを読むと、拙著『新しい労働社会』をしっかりと踏まえていただいているように窺われ、大変心強い思いが致します。

>今回の登録型派遣、製造業派遣の原則禁止はそもそも「派遣切り」などの雇用の不安定とその副次的悪影響(技能伝承の難しさ)が背景となっている。それならば、派遣という「雇用関係の軸」ではなく、そもそも有期雇用、つまり、「契約期間の軸」の問題として捉えるべきだったはずだ。非正規労働が主婦のパートや学生のアルバイトが中心であった時代に比べ、世帯の主たる働き手において有期雇用が増加している現状では雇用不安定の問題は格段に大きくなっている。・・・

>したがって、有期雇用を問題視するならば、派遣だけでなく有期雇用全体に対してヨーロッパ型の入り口規制を強めるか、または、その弊害が大きいと考えるならば、有期雇用の締結は自由に認めるとしても、雇用期間中の待遇や雇い止めの際の対応について労働者側の納得感が得られるような措置をいかに体系的に構築するかが必要となる。たとえば、有期雇用労働者に対してもスキルアップに向けたインセンティブが高まるような雇用期間中の年功的な待遇(期間比例の原則適用)、雇い止めの際における広い意味での金銭解決の活用、職探しの支援など、検討すべきテーマは多岐にわたる。

今年は有期労働研究会が何らかの方向性を打ち出してくることになると思われます。また、法制面だけでなく、非正規労働者への期間比例原則など労使が自主的にやれることはいろいろあるように思います。

日本学術会議大学と職業の接続検討分科会議事要旨その1

わたくしが昨年の6月から日本学術会議大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会大学と職業との接続検討分科会に参加させていただいていることは、本ブログでも何回かお話しして参りましたが、その議事要旨がそろそろ公開され始めました。今のところ、第1回と第2回のものだけですが、もうすぐ第3回と第4回の議事要旨も公開される予定です。

わたくしは第2回は欠席したので、今回は第1回の議事要旨にだけ出ています。この議事要旨は、委員長を除き個々の委員の名前は「○」と匿名になっていますが、中身を見れば、誰が喋ったことか大体判るようになっています(笑)。

http://www.scj.go.jp/ja/info/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi01.pdf

第1回目は委員から一言ずつということで、わたくしは、

>○ 正直気が重い感じがしている。というのは、教育問題は世間で議論される時にはある種きれいごととして、教育問題は教育問題だけで完結しているように議論がされてしまっている。それはそれで大変美しいが、教育の枠を一歩出ると何も相手にされないという傾向が強いのではないか。一般的な考え方をすると、社会システムは相互依存的、相互補完的な関係にある。教育は今の日本の雇用システムを前提として、それに合うように3世代にわたって構築されてきている。逆に言うと、そのように教育システムが構築されてきたことによって、企業の方もそれに合うように雇用システムを作り上げてきた。お互いに依存し合っているので、ある部分だけを取り出して、「この部分はけしからん、だからこの部分だけこのように変えよう」といっても、それで物事が動くはずがない。日本の雇用システムは基本的にjob ではなくて、会社の一員になるということである。会社の一員というのは、会社がこれをやれと言ったことを必死の努力をしてやる、ということが最大の課題である。大学で何を勉強したか、ということよりも、何を言われてもそれをやりぬくだけの素材であることが必要である。それは何で分かるかというと、広い意味で人間力、地頭の良さというのは、ある部分は大学で4 年生の時に何を勉強したかではなくて、4 年前に入試でどれだけ点を取ったか、ということである。しかし個々のことだけ取り出していいとか悪いとか言っても意味がない。逆に言うとこれは連立方程式を解くようなもので、同時に解が出ない。しかし、複数の式を同時に解こうということはある意味革命を起こすようなもので、戦後の激動期でもなければそんなにすぐにできるはずがない。
同じような話は福祉システムと雇用システムにも起こっている。雇用システムが中高年まで生活を保証するという仕組みがあったために、社会保障の方は年金を一生懸命にやっていればよく、現役世代をあまり相手にしなくてよかった。これが今問題になっている。これも一気に解決するのはできない。
できるのはパッチワーク的に問題の起こっているところに膏薬を張るような方法で、それを少しずつ広げていくしかない。場合によっては最終的に望ましい姿に向かうのとは違うベクトルのことをやらなければならないこともたくさん出てくると思う。それで最初に申し上げた気が重い話ということになる。どちらかというとここにいる研究者の方は学生を育てる立場の人が多いので、そう簡単に何かを言えないのだろうと思うが、就活のシステムを問題にした時に、就活のところだけが問題だからといって、それをけしからんと言って何か解決するだろうか。自分が企業の人事採用者になった時にそのことで対応できるのか。これから40 年間自分の企業のために頑張ってくれる人を何で評価するのか、といった時に、4 年生で先生のゼミに全部出た人間ということだけをもって社会に出てやっていけるのかといったら、それはできるはずがない。その中で一つでも二つでもできることがあるとすれば、それは教育システムそのものの中に何か、ある種の職業に向けた指向性を注入していくことでしかないのではないか。私は基本的には学者ではなく、労働省の役人をやってきた。欧米では教育という言葉と訓練という言葉はほとんど同じ意味を持つ。日本では異なり、教育というのはアカデミックですばらしいこと、訓練というのはあまりレベルの高くない、低いところでやっている、という社会的な意味がある。実はそのところの議論までやらなければ、就活のところだけ議論していても意味がないのではないか。

この最後のところについては、4回目の時に矢野先生との間で激論(?)になっています。乞うご期待。

それはさておき、発言者名は匿名になっているのに、私の発言のあとに

>私は社会保障・社会政策を専門にしている。大きなイメージとして、濱口さんにイメージをほとんど話していただいたが、私もほぼ同じ気持ちで、あまり明るい気持ちで参加しているわけではない。・・・

などという発言がそのまま残っていると、匿名にした意味がないような気がしないでもありません。もちろん、わたしは匿名にされる必要もないのですが。

第2回目は私は欠席しましたが、前半は児美川先生のお話と質疑応答が、後半は久本先生のお話と質疑応答が載っていまして、大変参考になります。是非ご一読を。

http://www.scj.go.jp/ja/info/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi02.pdf

2010年1月 5日 (火)

公開会社法、監査役に従業員代表を義務づけ

とりあえず日経の記事をリンクしておきます。

http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100105AT3S0400L04012010.html

>千葉景子法相は4日、上場企業を主な対象に情報開示や会計監査の強化などを促す「公開会社法」(仮称)について、2月にも法制審議会(法相の諮問機関)に諮問する方針を固めた。監査役に従業員の代表を選ぶよう義務づけることや、社外取締役を親会社や借入先から選べないようにすることなどが論点となる見通し。投資家などには企業の経営や財務の透明性が改善するとの期待がある半面、「法の中身が経済界にとって見えにくい」(日本経団連幹部)と反発する声もある。

 政府による法制化に向けた具体的な動きとなる。法制審は諮問を受けて、作業部会を設置。有識者や市場関係者、金融庁、経済産業省などがメンバーとして参加する見通しだ。1年程度かけて議論した後、政府は早ければ2011年の通常国会に法案を提出する方針。06年の会社法施行後初めての、本格的な上場会社法制の整備となる。(10:06)

これまでアメリカ型を志向してきた日本の会社法も、いよいよ欧州型に向かうということでしょうか。

法務関係の動向はよくわからないのですが、これが従業員代表制の大きな柱ともなることを考えれば、「有識者や市場関係者、金融庁、経済産業省など」の「など」の中には、当然はいるべき人がいますよね。

(参考)

欧州会社法についてはこの10年あまりいろいろと書いてきました。若干古いのもありますが、何かの参考になれば。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/kaishahou1.html(欧州会社法案とヨーロッパのコーポレートガバナンス)(『世界の労働』1999年10月号)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/kaishahou2.html(欧州会社法の誕生-労働者関与指令を中心に-)(『世界の労働』2002年1月号)

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no160/kikou.htm(EU労働者参加の潮流と日本への課題)(『DIO』160号)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sankachap6.html(EU加盟諸国の労働者参加の制度及び実態)(連合総研「日本における労働者参加の現状と展望に関する研究委員会」最終報告書 第2部第5章)

最後の論文には、EU各国の会社法における労働者参加の状況が一覧表になっていますので、便利かと思います。

それは非金銭的な互酬の論理

金子良事さんとのやりとりの続きです。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-92.html(「やりがい搾取」の構造は互酬の否定である報酬拒否から生まれる)

実は、ここで金子さんが言わんとしている趣旨というか、社会的にいかにあるべきかという点については、私との間にほとんど差はありません。ある種のボランティアの人々の心性こそが諸悪の根源なんだぜ、という気分は、本ブログでも繰り返し書いてきたところです。

問題は、金子さんがボランティア精神を「互酬の否定である報酬拒否」と認識しておられるところです。

それは違うでしょう。

むしろ、ボランティアの人々は、狭っ苦しい金銭に縛られたがちがちの交換の論理を否定して、伸びやかで自由で形式にとらわれずいつでもどこでも誰とでもできる「互酬」の論理の実践としてボランティアを捉えているのではないでしょうか。互酬はあくまでも贈与の繰り返しであって、それ自体として報酬請求権を含意していません。むしろミクロには報酬請求権なき贈与の繰り返しがマクロ的によりよいサービスの均霑をもたらすという一種の予定調和論が背後にあるように感じられます。

そして、ミクロには報酬請求権を有さない(つまり「交換」の契機を持たない)ということが、前のエントリで述べたブラック企業を生み出す元になるということからすると、金子さんのテーゼは正しくは、

>「やりがい搾取」の構造は「交換」の否定である報酬拒否から生まれる

と表現すべきであるように思われます。

(参考)

本ブログで、この「「やりがい搾取」の構造は「交換」の否定である報酬拒否から生まれる」というテーゼに関係するエントリは以下の通りです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/ui_on_4917.html(UIゼンセン on コムスン)(コメント欄)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_e58b.html(対談ナマ録)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_c79d.html(労働者協同組合について)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-d8ca.html(ボランティアといえば労働じゃなくなる?)

2010年1月 4日 (月)

攝津正さんの拙著に触発された感想

http://book.geocities.jp/tadashisettsusougou/roudousyakai4.html

攝津正さんによる拙著『新しい労働社会』書評シリーズの第4回ですが、今回は

>テキストに即して議論するのは大事だが、ちょっとしんどいところもある。それで今回は、自分自身の現状と照らし合わせるかたちで考えてみたい。

と、書評というよりも拙著に触発されて湧出してきた攝津さんの感想を随想風に綴ったものになっています。

>僕は物流倉庫で働くパートタイマーである。時給は1000円に届かない。月収は15万円に届かない。そういう立場からすると、正社員と非正規労働者の均衡待遇というのを、是非求めていきたい。前回も書いたが、コミュニティユニオンの要求は時給1000円以上、フルタイムで働いて月20万円以上を最低賃金とする、ということで、僕もそうなればいいなとは思うが、僕が働いている会社も中小企業であり、体力的に厳しいというのは十二分に分かっている。だから、住宅費や扶養家族の生活費などを公的に負担する社会保障の仕組みがあれば、どんなにいいだろうと思う。
 パート労働者として自社の正社員らを見ていると、かなり大変そうである。過重な責任、労働。長時間労働。自分にはできない、と思う。だから、虫のいい話かもしれないが、非正規でも生活できる賃金をして欲しい。賃金と社会保障を足した額で、自分と家族が安心して暮らせる額に達して欲しい。これは切実な要求である。全ての非正規労働者を正社員に、というのは無理で必ずしも望ましくない要求である。正社員的働き方が余りにきつ過ぎるし、新規学卒者一括採用から外れてしまった高年齢フリーターには余りに狭き門である。僕は前の会社から転職する時に、多くの企業で面接を受けたが皆落とされた。資格もなければ経験もない僕自身の駄目さ加減からかもしれないが、友人知人でもどうしても正社員になれないという人は多いので、これは普遍的な社会的問題なのではないかと思う。

わたしはここに示されている攝津さんのような人々の声をきちんと法政策に受け止めていく回路が必要なのだと思います。

>既成の正規雇用の労働者の労組(企業別組合)に非正規労働者を入れるようにしてそこを窓口に、という提言については、労組がある企業についてはいいかもしれないが、そもそも労組などない企業(僕が働く企業もそうだ)には当て嵌まらないと思う。僕はフリーター全般労働組合に加入しているが、それは解雇などがあった場合の保険という意味合いがある。争議が実質上「個別交渉」とならざるを得ないとしても、自分の権利を守るためにコミュニティユニオンは意味があると考えている。フリーター労組の事務所に置いてあった『新しい労働社会』には「コミュニティユニオンについての考え方が不安」と書き込みがされてあったが、著者は自発的結社でなく、自動的に誰もが入るような組織を労働者の代表として念頭に置いているようである。

この「不安」感はよく理解できます。労働問題に詳しい人ほど、第4章の議論には疑問を呈されます。せっかく非正規労働者がささやかな権利を主張する回路ができたというのに、それを潰そうというのか?お前は大資本経営者の手先か?というわけでしょう。

わたくしも拙著の188ページから190ページのコラムで、

>この形式的には集団的ですが実質的には個別的な「団体交渉」は、個別紛争を解決する上でかなり有効に機能してきました。近年の研究では、団体交渉を申し入れた事件の約8割が自主解決により終結しています。その意味で、コミュニティユニオンが社会的に存在意義の大きい団体であることは間違いありません。

と述べています。その意義を認めることに何らやぶさかではありません。しかしながら、

>しかしながら、制度の本来の趣旨とあまりにもかけ離れてしまった実態をそのままにしていいのかという問題はあります。これは、やり方によってはせっかく確立してきた純粋民間ベースの個別紛争処理システムに致命的な打撃を与えかねないだけに、慎重な対応が求められるところですが、やはり個別は個別、集団は集団という整理を付けていく必要があるのではないでしょうか。少なくとも、現行集団的労使関係法制が主として個別紛争解決のために使われているという現状は、本来の集団的労使関係法制の再構築を妨げている面があるように思われます。

事態がもうどうしようもないぐらいひどい状況に陥ってから個別に解決する仕組みだけが回ってしまうということは、それをそうなる前に職場の集団的な枠組みで解決する仕組みを作らなくてもいいということになってしまいかねません。

ここは大変入り組んだ領域であるとともに、政治的にもセンシティブな分野です。しかし、だからといって今のままにしておいていいとも思えないのです。

最後に、やや次元の異なる視点からの批評として、

>最後に。根本的で最終的な疑問だが、働くことはそんなに必要なのだろうか。怠惰はそんなにいけないことなのだろうか。夢追い型フリーターはそんなに非難・蔑視されるべきものなのだろうか。僕は(他人が考えたものとはいえ)惰民党なるものの名誉総裁に担ぎ出され、夢を追っている者である。そして、そういう自分で悪いとは思わない。

いや、わたしも別に「怠惰がいけない」などとは全然思っていないのです。ただ、怠惰であることの物質的報酬を社会一般に要求する根拠はないのではないかと思っているだけです。

そして、『日本の論点2010』に書いたように、怠惰の報酬を社会一般に要求するならば、それは直ちに怠惰ではなくても無能であるがゆえに社会から排除されることの報酬に転化してしまうと思っています。そしてわたしが「いけないこと」と考えるのはそういう社会的排除の正当化です。

2010年1月 3日 (日)

攝津正さんの書評その3:よくわからない点

攝津正さんの拙著『新しい労働社会』の書評の「その3」がアップされました。

http://book.geocities.jp/tadashisettsusougou/roudousyakai3.html

攝津さんは

http://d.hatena.ne.jp/femmelets/20100103#1262493182

>ちと苦労して書いたが内容はつまらない。念のために言うと、著者の議論がつまらないという意味ではなく、僕の批評が面白くないという意味である。

と謙遜されていますが、いや何を仰いますか、たいへん興味深い突っ込みになっています。

攝津さんは冒頭、

>僕によくわからない点があることを明記しておきたい。それはホワイトカラーエグゼンプションの問題と日雇い派遣の問題である。労働運動の論理、その常識からいえば、ホワイトカラーエグゼンプションには無条件で反対、日雇い派遣原則禁止ということだと思うのだが、著者は若干異なった見解を抱いているように思える。その真意を読み解きたい。

と言われ、具体的に次のように疑問を呈されます。

まずホワイトカラーエグゼンプションについてですが、

>お金の問題でなく時間の問題だというなら、在社時間・拘束時間を管理し、他方時間外手当は適用除外にする、という議論が経営側の立論としてあり得、それに対する労働側の反論は困難という理解でいいのだろうか?
 濱口は一貫して、残業代ゼロ法案というフレームアップを疑義に付しており、真に重要なのはいのちを守る時間の問題、時間の規制なのだという考え方を示している(ように僕には読める)。だとすれば、一定程度高給の人の時間外手当は適用除外という議論もあり得るのではないだろうか。この辺りが、よく分からない。

実は、ここは攝津さんの疑問の趣旨がよく理解できませんでした。

わたしはまさに、物理的な労働時間の規制がきちんとされるならば「一定程度高給の人の時間外手当は適用除外という議論もあり得る」と論じてきているので、「この辺りが、よく分からない」というのがよく分からないというところです。

ただ、おそらくこうなのではないか、というところを腑分けしてみると、「濱口は一貫して、残業代ゼロ法案というフレームアップを疑義に付しており」というところにボタンの掛け違いがあったのかも知れません。

ここはたいへんねじれているのですが、もともと残業代規制しかないアメリカ由来のホワイトカラーエグゼンプションとは残業代ゼロ法案であり、それは(労使合意がある限り)別に命と健康の問題ではない以上、「無条件で反対」すべきものではないというのが出発点です。

ところが、規制改革会議などがこれを正直に残業代ゼロ法案だと言わずに仕事と生活の両立だの自由な働き方だのとお為ごかしをいって、物理的労働時間自体の適用除外という命と健康の問題として論ずべきものにしてしまい、それで通そうとした挙げ句に、残業代こそが問題だと思いこんでいマスコミから残業代ゼロ法案だからけしからんというまことにひっくり返った批判を受けて沈没してしまったわけで、拙著のこの部分は、そういうさまざまな関係者のねじけた議論の有り様を批判するものになっているため、いかにも分かりにくいものになってしまったということなのではないかと思われます。

もう一つの派遣関係は、多くの方々から批判をいただいた点です。

>僕は著者の意見は合理的だと思う。ただ、運動の論理は一致団結のために時に単純化を必要とするから、著者の論理と違うからといって直ちに間違いとは言えないとは思うのだが。例えば、朝日新聞の偽装請負告発キャンペーンやホワイトカラーエグゼンプション反対運動の論理に幾らかの無理があったとしても、それは運動としては言わねばならぬ言葉であり、いわば必要悪であったと思う。

攝津さんはよく分かっておられると思います。わたしも、その文脈では同じように言います。実際、先日本ブログでも引用した湯浅誠氏の議論はまさにそういう趣旨のものであり、わたくしはそういうものとして評価しています。薄っぺらな派遣規制反対論では、派遣労働をまっとうなものにしていくだけの効果は期待できません。

しかし、拙著が読まれてほしい人々は、そういう運動論的な単純化による必要悪が分かった上で、その必要悪によって脳天気な無規制労働市場賛美論を押さえ込んだ上で、本当に重要なことは何であるのかをきちんと考えてほしい人々でもあるのです。

運動論的な単純化であると分かった人が分かった上で言っていることであっても、その単純化した部分だけが世の中に広がってしまうと、やはりその先に進める上でまずい面があります。

このあたりはどこまでを戦略論と考え、どこまでを戦術論と考えるかという問題ですね。

(追記)

まあ、しかし考えてみると、世の中にはびこる派遣禁止反対論のレベルがあまりにも低すぎるので、今はまだまだ「必要悪」が「悪」以前に「必要」な時期なのかも知れません。

前にも書いた気がしますが、わたしがあれだけきちんと制度の源流にさかのぼってさまざまな問題を腑分けして単純な派遣事業禁止論には問題があり、派遣労働者のための適切な労働条件規制が必要であると論じてみても、マスコミの人々すらそんなことにはほとんど無関心で、わたしが派遣禁止論に反対であるという事だけを理由に、どこぞの低能学者よろしく「低賃金劣悪な労働条件の派遣を禁止したら製造業は外国に逃げるぞオ」論を書いてくれとか依頼してくるくらいですから、現在の日本に必要なのはまずは「必要悪」の方なのだろうなあ、といささかの諦念とともに嘆息を漏らすしかないのかも知れませんね。

2010年1月 2日 (土)

働くことそのものを報酬にしてはならない論の政策論的文脈

新年早々に、金子良事さんに拙ブログのエントリについてコメントいただきました。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-90.html(働くことそのものを報酬にしてはならない論)

わたくしの趣旨について適切に理解いただいているところと、若干意見が違うのかなというところがありますので、あまりくどくならないように簡潔に説明しておきたいと思います。

金子さんが(おそらく)適切に理解されていると思われるのは、わたくしは別にアカデミズムのなかでアカデミックな人々向けにアカデミックな理論を展開することが主目的なのではなく、まさに「なんらかの政策目的がある」という点です。わたくしは長く政策担当者として職業生活を送ってきましたし、現在も政策研究者という立場であって、「何らかの政策目的」なしに純粋にアカデミックな理論構築をすることを目指しているわけではありません。

そして、そういう立場からすれば、内田樹さんの議論それ自体というのは、そもそもわたくしがどうこう言うべき議論というわけではありません。というか、もとのわたくしのエントリを読まれればお判りになるように、わたくしは内田樹さんの議論の本来の射程であるミクロの人間学としての意味においては彼の議論に完全に賛成しています。もっとも、ここはわたくしの土俵ではありません。

>これはミクロの人間学としては正しい。少なくとも正しい面がある。

しかしそれだけではなく、内田氏の議論を超えての政策論的インプリケーションとしても、マクロ社会な原理として内田氏の議論に同意しています。ここはわたくしの土俵のうちの一つです。

>そして、マクロ社会的な原理としても、たとえば「捨て扶持」論的なベーシックインカム論に対して、人間にとって働くことの意義を説くという場面においてはきわめて重要だ。

わたくしが内田氏の議論に文句を付けている(ように見える)のは、内田氏がそもそも全く想定していない市場における交換と組織における権力関係によって特徴づけられる労使関係という枠組みにもってきた場合の問題なので、そもそも「これに対して内田さんがいっている世界は全然違う」というのは当たり前なのです。わたくしが議論しようとしているのは、内田氏の議論の文脈ではない世界なのですから、「これを互酬という。ここが濱口さんの議論で触れられていない点であり、実は核心部分なのである」というのはまさにその通りであって、その通り以上でも以下でもないわけです。

あえていうならば、ここで批判の対象になっている者があるとするならば、それは内田氏が全然想定していなかった世界に内田氏の議論をそのまま持ち込んで「お前は楽しくて働いてるんだから、賃金安くていいよな」という人間なのであって、内田氏自身ではありません。そのあたり、自分ではきちんと区分けした書いたつもりなのですが、やはり書き方がおぼつかなかったのでしょう。

ただ、あえて金子さんの議論に一点苦情を申し述べるならば、

>話を濱口さんの議論、あるいは政策という視点に戻してみよう。平たく言ったら、うまくいっているところは口出しする必要はない。強いて言えば、うまくいっていないところのためにこうやったらいいですね、と紹介するくらいであろう。だから、ターゲットはあくまで「お前が好きで働いてるんだから、賃金は安くていいよな」と考える人なのである。そして、そのことが分かれば、普通の人は「働くことは大事である。だからこそ働くことを報酬にしてはならない」という考え方に付き合う必要はないのである。

というところでしょうか。いや、構図自体はこの通りです。うまくいっているところに口出しする必要はない。問題は、「普通の人」という言い方であたかも社会の圧倒的大多数が「互酬」の麗しき世界で労働を行っているのであり、そうでない者などほとんどネグリジブルなごく少数派に過ぎないかのような印象を与えるところではないかと思います。

始めに述べたようにわたくしの関心は政策的なものです。

>仕事をやらせてもらえること自体がありがたい報酬なんだから、その上何をふてぶてしくも要求するのか、というロジックに巻き込まれてしまう。自分自身が自発的に権利を返上してしまうボランタリーな「やりがいの搾取」の世界

をどうするかというところから出発します。そういうのは「普通」じゃないから「つきあう必要はない」という発想とは、おそらく認識論的にはかなり共通するところを持ちつつも、実践論的にかなり離れていくことになるのだろうと思います。繰り返しますが、それはどちらが正しいとか間違っているという話ではないのです。

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