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« メンバーシップ契約はネットワーク時代に適合的? | トップページ | 松下プラズマディスプレイ事件最高裁判決 »

2009年12月19日 (土)

働くことは大事である。だからこそ働くことを報酬にしてはならない

>人間はどうして労働するのか

http://blog.tatsuru.com/2009/12/16_1005.php

>、「働く」というのは、本質的には「贈与する」ということであり、それは人間の人間性をかたちづくっている原基的ないとなみである。

これはミクロの人間学としては正しい。少なくとも正しい面がある。

そして、マクロ社会的な原理としても、たとえば「捨て扶持」論的なベーシックインカム論に対して、人間にとって働くことの意義を説くという場面においてはきわめて重要だ。

私自身、『日本の論点2010』における「ベーシックインカムの落とし穴」のなかで、

>・・・なるほど、BIとは働いてもお荷物になるような生産性の低い人間に対する「捨て扶持」である。人を使う立場からは一定の合理性があるように見えるかも知れないが、ここに欠けているのは、働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりであり、認知であり、生活の基礎であるという認識であろう。この考え方からすれば、就労能力の劣る障害者の雇用など愚劣の極みということになるに違いない。

と述べた。

しかし、だからこそそれを労働を与えるものと受け取るものの関係に無媒介的に持ち出してはならない。

労使関係という社会的なルールの原理としては、あえてミクロ人間学的には問題をはらんでいても、

>「働くことは自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観

になにがしか立脚しておかなければならない。

そうしなければどういうことになるか。

仕事をやらせてもらえること自体がありがたい報酬なんだから、その上何をふてぶてしくも要求するのか、というロジックに巻き込まれてしまう。自分自身が自発的に権利を返上してしまうボランタリーな「やりがいの搾取」の世界。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_e58b.html(対談ナマ録)

>ところが、そこがだんだんひろがっていって、例えば、転じて、高齢者を介護をするとか、お世話するとかいう話になってくると、それを自己実現とか──そういう面があるのは確かなんですが──実はそれが自己実現であることが労働者としては、極めて、ディーセントでない働き方の状態を、人に対してだけでなく自分自身に対してもジャスティファイしてしまうようなメカニズムが働いてしまうのではないかと思うんです

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-d8ca.html(ボランティアといえば労働じゃなくなる?)

>もちろん、ボランティア活動はたいへん崇高なものではありますが、とはいえ親分が「おめえらはボランテアなんだぞ、わかってんだろうな」とじろりと一睨みして、子分がすくみ上がって「も、もちろんあっしは労働者なんぞじゃありやせん」と言えば、最低賃金も何も適用がなくなるという法制度はいかがなものか、と

そして、ブラック企業のメカニズムというのも、実はかなりこれに近いのではなかろうか。

働くことはそれ自体意味がある。だからこそ、働くこと自体を報酬にしてしまってはならない。

それは労働を与えるものと労働を受け取るものの関係で社会の仕組みを構成しているわれわれにとっては、譲ってはならない一線なのだと思う。

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コメント

http://www.dan21.com/

特集:生存の条件
内、
萱野稔人氏の部分
「労働と賃金に分離」の前で資本主義は沈黙するか。
についてのコメント
ベーシック・インカムのジレンマ
を連想致しました。

「今回のインタビューで、とくにお聞きしたかったのは賃金と労働との関係ですが、その関係を切断したのが金融資本主義であり、まさにそれと同じ形でベーシック・インカムも、カネ(賃金)と労働、カネと生産を切り離すというのです。
 ベーシック・インカムの基本である「無条件給付」は、カネと労働の分離を促すものです。(略)この仕組みは、なんのことはないネオリベラリズムが志向するカネと労働の分離を、より徹底化させるものであり、カネと生産を断ち切ってしまった金融資本主義とも相通じるものがあるというわけです。」
「ネオリベラリズムは、働くという、言い換えれば生存の条件を経済的合理性へと還元しようとします。ベーシック・インカムもまた同様に、生存の条件を市場原理に還元化する傾向をもっているというのです。繰り返すまでもなく、ベーシック・インカムの最大の特徴である「無条件給付」がカネと労働、カネと生産の分離を促すのですから、(略)」

文章内のその他部分の国家と市場の関係とか暴力のこととかはよくわかりませんが。

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あと論点2010の医療コーナー慈恵医科大学の大木隆生医師(外科学教授)の最後のほうの一文も思い起こされます。

引用されている「人間はどうして労働するのか」の中での「贈与」の位置づけは、あまり「やりがい搾取」につながるもののようには読めませんでした。

というのも、あの文章の最後の方で「『適切なしかたで贈与が行える人間になること』である。」と書かれているので、「やりがい搾取」と呼ぶべき状態(最終的に本人にプラスにならなかった場合)である場合には、それは適切ではない贈与だったという事になると思うからです。

ただし、適切だったかどうかを本当に判定出来るのは十分時間が経過した後であり、それを働いている当時に確信するのは非常に困難である上、他者の労働行為を「適切でない贈与」に貶めることが実際にはあまりにも容易だということは間違いないところなので、あくまで理念上の話だと限定するべきだとは思います。

・・・書いていて思ったのですが、上記は「労働には本質的に投機的な部分がある」と言い換えることができるように思えます。
ただ、やはりその投機的部分においては対価の設定が非常に難しいということなのでしょう。

「やりがい搾取」と呼ばれる状況についても、この投機的部分の成果を雇用者が享受しながら対価を支払わないことに問題があると言えるのだと思います。逆に、雇用者以外が成果を享受している場合には労使間以外に問題があると言うことかも知れません(福祉業界の方面では常にこちらになるのではないでしょうか)。


ところで、この文章の主張の中で私が一番興味を持ったのは、ウェイターを例に出して、投機的部分の発生の可否が労働の仕事の内容に依るのではなく、労働者の感性に依ることを主張している部分です(両者の組み合わせに依る相性はあると思います)。

これは「やりがいのある仕事をしたい」という希望がお門違いである可能性を示唆するものであり、また、こういう希望がしめすところの「やりがい」というのが主にカタルシスを指すのではないかという仮説を私に思いつかせてくれました。

カタルシスを仕事に求めることが良いことなのかどうかについては、私はまだ結論を出せてはいませんが・・・。

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