『プレジデント』誌のフレクシキュリティ
『プレジデント』誌2010年1月18日号の「行き詰まる「雇用政策」打開のカギ フレキシキュリティ(flexicurity)」という記事ですが、
http://president.jp.reuters.com/article/2009/12/28/9AE051E8-F0FB-11DE-B663-80123F99CD51.php
>行き詰まる雇用政策の打開策として、フレキシキュリティが注目されている。これは柔軟な労働市場(flexibility)と高い失業保障(security)を両立させた政策のことで、デンマークやオランダではこれにより失業率の低下と経済成長を実現したとされる。
柔軟な労働市場とは、すなわち解雇しやすい労働市場である。
とくれば、「首切り自由でニホンは天国!」という誰かさん流のノーテンキな議論を未だにやっているのか、と思うかも知れませんが、そのあとはこう続きます。
>デンマークの転職率の高さの背景には、労使が参加し、莫大な手間と公費をかけた再就職支援政策が存在する。職業訓練プログラムは中央、業界、地域のいずれのレベルでも労使共同で効果的なものが開発され、企業は実習訓練の場を提供する。しかも職業訓練は失業中だけでなく在職中でも受講でき、受講中の賃金減額分は国と経営者団体が拠出する基金から給付されるのだ。
高い失業保障とともにこうした政策をとれば、「大きな福祉国家」化は避けられない。それにもかかわらずデンマークで効率的な国家運営がなされているのは「保育・介護など高度な社会サービスの発達で労働力率が高いうえ、公費による人的投資の額が大きく、生産性の向上と平等な機会の提供に成功している」(菅沼教授)からである。
このような背景を抜きにしてフレキシキュリティ政策を推し進めれば、単に失業者を増やす結果になりかねない。
まさに「職業訓練なんて要らない」「福祉は潰せ」「小さな国家バンザイ」で「首切り自由に」というたぐいの「このような背景を抜きにしてフレキシキュリティ政策を推し進め」ようというような単細胞的な低水準の議論が経済誌レベルでもまともに相手にされなくなりつつあるという意味では、いささか勇気づけられる記事の一例とはいえるかも知れません。
日本の世論が、こういう「大きな福祉国家」を受け入れるようにならない限り、フレクシキュリティはまだまだ遠い夢ということでしょうか。
(追記)
「ブログ・プチパラ」さんのエントリで、週刊ダイヤモンド最新号における八代尚宏先生と湯浅誠氏の談話が引用されていますが、
http://blog.goo.ne.jp/sinceke/e/ed61ea2fc120b7a066fb58a8b80d4bf5(年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅡ)
これを読めば、八代先生も湯浅氏も「ちゃんとわかっている」側にいるのであって、両者の対立点は現状認識というか、あるタイムスパンにおける現状の可変性に対する認識の違いにあることがわかります。
>八代尚宏氏
…派遣労働を禁止することには反対だ。
…規制によって、企業に正社員の雇用を強要できると考えるのはナンセンスである。かつて終身雇用や年功賃金などの日本的雇用慣行が醸成され、正社員雇用が一般的だったのは、雇用規制があったためではない。過去の高い経済成長期において、熟練労働者の希少性が高く、自社で囲い込む必要性があったからだ。
…より現実的で、意味のある政策は、派遣雇用の禁止ではなく、派遣条件や待遇を改善する派遣労働者保護の強化だ。二〇〇八年以降の派遣切りの問題は、契約期間中にもかかわらず、補償もなく切られたことにある。今後は、雇用保険の適用拡大と、派遣先が契約期間中に契約を解消することへの補償を義務付けるべきだ。
…欧州では、整理解雇の場合に金銭賠償が認められている。日本でも、正社員の解雇時の金銭賠償ルールを法律で定めれば、裁判に訴える資力のない中小企業の労働者には明らかに大きなメリットとなる。
湯浅誠氏
…派遣労働の規制に賛成だ。
…雇用の流動化ということについて、私は必ずしも反対ではない。しかし、実態として派遣切りがこれだけ社会問題化し、多くの貧困を生じさせ、それを解消する手立てもない以上、製造業派遣も禁止すべきとしてか言いようがない。
…派遣労働禁止を批判する論者の主張に、「製造業では派遣が禁止されても期間工や請負にシフトするだけ」というものがある。だが、期間工は有期契約ではあるものの直接雇用なので、労働者にとっては歓迎すべきシフトだ。
…セーフティネットが厚く、失業が怖くない社会であれば、雇用の流動化も派遣もいい。
こういう「ちゃんとわかっている」人同士の対比は、ものごとを深く考えるのに役立ちます。ところが、よくあるミスキャストは、「ちゃんとわかっている」人と「全然わかっていない」人とを、単に目先の対策論で一致しているとか対立しているとかいうような単細胞的な判断基準で対論させてしまうことです。
そういうことをすると、それは「ちゃんとわかっている」人と「全然わかっていない」人の対比にしかなりません。
湯浅誠氏とまともに対比させていいのは八代尚宏先生のような「ちゃんとわかっている人」なのです。
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