アソシエーションの再生
岩波書店から刊行され始めた『自由への問い』というシリーズの第1冊目の『社会統合』(齋藤純一編)は、いささか哲学的な議論が多くて、正直あまりのめり込めない感じではありますが、冒頭の齋藤純一さんと宮本太郎先生の対談がなかなか面白いです。
面白いと言っても、宮本先生の「アクティベーション」を齋藤さんは「プロモーション」と呼んでいるんだなあ、ということなんですが、
>社会的な協働の外側ではなく内側に自分の生があり、それに参画しているという自己了解が得られ、それが「誇り」や「自尊」の感情を可能にするのではないでしょうか。社会的な協働への参画を促し、出番を作り出していくような生活保障の制度がやはり必要だと思います。
という「プロモーション型の生活保障」というのは、わたくしが『日本の論点2010』で述べた「捨て扶持」型ベーシックインカム論とはまったく異なるものだと思います。
あと、宮本先生が後ろの方で、「アソシエーションの再生」という表現でこういうことを述べていたのが心に残りました。わたくしからするとこれは(使う人によっては自発的結社というインプリケーションが強すぎる)「アソシエーション」という言葉を使うより、「ステークホルダー民主主義」の理念を語ったものというべきではないのだろうか、とむしろ感じたところです。
>いま日本の政治全体の流れとして、医師会とか農協とか労組とかの中間団体は、これまで官僚制にぶら下がって生き延びてきた、民主主義にとってきわめて不純な要素として処理されがちです。民主主義にとって百害あって一利なしであり、そのしがらみから民主主義は自由にならなければいけない、と。こうしたあまりに単純な民主主義観のもと、不純な集団と結びついた官僚制を政治家が押さえ込むのだという図式で民主主義の成熟のものさしが見いだされている。これはいかがなものかと私は思う。具体的にいうと、その政治家たちはどこで民意を汲み上げるのかという議論が完全に抜け落ちているからです。
>つまり大きな「われわれ」は小さな「われわれ」の集まりなのであって、それは医師会も農業団体も労組も女性団体も、障害者の団体も外国人の団体もそうなんです。こうしたアソシエーションの束として、大きな「われわれ」性が実現するわけです。
これはたぶん、すごく大事なことを語っているように思います。ここで宮本先生が言う「あまりに単純な民主主義観」は、先週のエントリで本田先生の本を引いて
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e7c7.html(「無能さ」を基盤原理とする教育理念)
>「医者にならなくても医療問題を考えること、大工にならなくても建築問題を考えること、プロのサッカー選手にならなくてもサッカーについて考え批評すること、そして官僚にならなくても行政について考え批評すること」
>完全にあらゆることについて「無能」でありつつ政治的にのみ発言するような「市民」
>何の芸もないくせに偉そうに能書きだけ垂れるような類の人間
を至上と考えるような発想と、どこかでつながっているような気がします。その挙げ句が:
>をいをい、「労働者の立場を尊重する」ってのは、どこか遠くの「労働者」さんという人のことで、自分のことじゃなかったのかよ
ちなみに、このシリーズの第6巻『労働-働くことの自由と制度』では、わたくしが「正社員体制の制度論」という小論を書いております。来年には刊行される予定です。
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