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« 他人の職業や待遇について「経営者目線」で批判することは回り回って労働者であるご自身に跳ね返ってくるというカラクリ | トップページ | 執筆者一応hamachan本を読まれているなという印象 »

2009年12月27日 (日)

財・サービスは積み立てられない

黒川滋さんが今朝の番組について語るなかで、このように述べておられます。

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2009/12/1227-3648.html(金融資本の問題は錬金術ではなく他産業の利潤の搾取である)

>年金積立方式が成り立たないということが経済学者の中で常識になりつつあるが、私たち世代の中ではまだそういうことに期待する人が少なくない。
積立方式というのは年金の積立金運用益のために、金利、キャピタルゲインを追い続けなくてはならない経済になる。カリフォルニア州公務員年金組合がやったように、現役時代45年間の働き方が、株や借入金の利息や配当、キャピタルゲインに最大限配慮するような職場を作らなければ、老後25年もの生活費を出す基金は作れない。日々どんなに努力しても、金融資本に隷属する働き方を強制されることになる。奴隷労働が待っている経済体制である。世代間不公平が、年金だけの問題から、日々の労働の問題に展開されることになる。

この問題は、いまから10年前に、連合総研の研究会で正村公宏先生が、「積み立て方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない。ただそれを、貨幣という媒体によって正当化するのか、法律に基づく年金権という媒体で正当化するかの違いだ」(大意)といわれたことを思い出させます。

財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。そのときに、どういう立場でそれを要求するのか。積み立て方式とは、引退者が(死せる労働を債権として保有する)資本家としてそれを現役世代に要求するという仕組みであるわけです。

かつてカリフォルニア州職員だった引退者は自ら財やサービスを生産しない以上、その生活を維持するためには、現在の生産年齢人口が生み出した財・サービスを移転するしかないわけですが、それを彼らの代表が金融資本として行動するやり方でやることによって、現在の生産年齢人口に対して(その意に反して・・・かどうかは別として)搾取者として立ち現れざるを得ないということですね。

わたしはかつて、拙著『労働法政策』の序章のなかで、このあたりについて、次のように述べた見たことがあります。そろそろそういう反省がマスコミレベルでも出てきたということであれば結構なのですが。

>(3) コーポレートガバナンス

 1990年代の特に後半に入って、世界的ににわかにコーポレートガバナンスの議論が盛んになった。その出発点は、資本と経営の分離が進んだアメリカなどのアングロ・サクソン諸国で、経営者が本来資本家の代理人(エージェンシー)として資本家の利益を最大にするように行動すべきであるにもかかわらず、自らの利益を図って資本家の利益を害しているという問題意識である。
 資本と経営の分離とは、すでに述べたように産業資本の自己資本の側面と自己労働の側面が分離するということであった。そして、経営者支配とは、自己資本という擬制のもと実質的には利子獲得にしか関心のない他人資本である株主に対し、自己労働たる経営者が企業の支配権を握るということであった。商法の上では、株主が資本家であり、経営(を委託されている)者は株主の利益のために奉仕する存在であっても、それは建前であって現実の姿ではなかった。
 それが20世紀末になって再び株主主権などということが言われるようになったことの背景には、退職者年金基金などの巨大な資金を有する機関投資家が株式市場に出現し、これがその収益を最大化するよう経営者に圧力をかける力を持ち始めたことがある。退職年金基金が巨大な資金を有するようになったのは、20世紀システムの中で社会保障制度が発達し、豊かになった労働者たちの強制貯蓄が膨大な規模に膨れ上がったからである。ドラッカーが「忍び寄る社会主義」と呼んだこの退職年金基金が、経営者に対して資本の論理を突きつける存在として株式市場に登場したということほど、皮肉なことはないであろう。
 この新たな「資本家」は、しかしながらかつての企業主たる巨大株主とは異なり、実質的には外部の債権者と同様の他人資本にすぎないので、中長期的な事業運営などによりも、短期的なリターンの最大化に関心がある。かくして、経営者は「株主価値創造革命」なる名のもと、生産活動などよりも財務成績に狂奔する仕儀となる。
 金融市場のグローバル化の中で、このコーポレートガバナンスの議論がヨーロッパ諸国や日本にも押し寄せてきた。そして、自分たちにとってもっと投資しがいのある企業になるようにと圧力をかけてきている。20世紀末にいたって、利子生み資本の論理が世界を席巻するかの勢いである。

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