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2009年12月21日 (月)

元木健・田中萬年『非「教育」の論理』

Hikyouiku 日本学術会議の大学と職業の接続検討分科会でご一緒させていただいている田中萬年先生より、近編著『非「教育」の論理-「働くための学習」の課題』(明石書店)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.geocities.jp/t11943nen/tyosyo.htm

>本書は私の"Education"は「教育」ではなく「能力の開発」である、という論を発展させた「教育」を廃止する論理と、改革の展望としての新たな「働くための学習」を目指すべき、という考え方を各界の専門家にご批判とご提言を頂いた、「教育」のパラダイム転換を意図した論文集です。

「パラダイム転換」とは何か?元木さんの「序」から引用しますと、

>田中氏は、自身の実践の場であり、かつ研究対象である職業訓練が、我が国に置いて行政上は教育領域に位置づけられていないのみか、そもそも教育の為政者たちがその範疇にあるものと認識しておらず、さらには教育学者たちの多くが職業訓練や企業内教育を「教育」の概念から排除しているという事実について、常に疑問を呈していた。しかし、田中氏はそれにとどまらず、わが国の「教育」という概念そのものに疑問を有するようになったのである。

目次は次の通りです。

序   本書の意味するもの 元木健(大阪大学名誉教授)
第1章 非教育の論理-「教育」の誕生・利用と国民の誤解- 田中萬年
第2章 非教育の可能性-教育を脱構築する- 里見 実(國學院大学名誉教授)
第3章 マンパワー政策と非教育 木下 順(國學院大学教授)
第4章 「平和的福祉国家」と人間開発-教育の限界性の検討- 金子 勝(立正大学教授)
第5章 戦争と平和をめぐる教育と非教育の弁証法 山田正行(大阪教育大学教授)
第6章 教育概念と教育改革-労働と学習の結合の問題- 宮坂広作(東京大学名誉教授)
第7章 ドイツ教育学における一般陶冶と職業陶冶の関係-新人文主義教育を中心に- 佐々木英一(追手門大学教授)
第8章 職人の能力形成論-その予備的考察- 渡邊顕治(民主教育研究所事務局長)
第9章 管理された労働-企業内における技能形成のための教育訓練- 山崎昌甫(静岡大学・職業訓練大学校元教授)
対談  人間形成の根底と職業人育成のあり方とは 元木健・田中萬年

田中先生は、ご自身定時制高校卒業後当時の中央職業訓練所(後の職業訓練大学校)に進み、訓練指導員として職業訓練を考え続けたまさに「現場の知性」です。

教育学者というある意味で一番現場感覚のない人々の議論に感じ続けた違和感がこの本の第1章ににじみ出ています。

本ブログで取り上げた本田由紀先生の「職業的レリバンス」とも通じるものがありますが、たとえば、

>わが国の教育権論は職業能力を習得する権利について極めて軽視している。この理由の第一は、生存権を保障することは労働権であるという当然な論理の理解が弱いからである。労働権の主張が弱ければ、自立のための職業の習得を政府が保障すべきという要望が生まれるはずがない。「学校から社会への移行」というスローガン自体が学校のなんたるかを忘れていたことを示している。学校での学習期間は当然社会に出る準備期間である。教養だけで社会に出ても生きられないことを関係者も受講者も肝に銘ずべきである。・・・

まあ、ところが教育学の世界というのは教養だけで社会に出て生きられるようにすべきだと考える人々がうようよしているようなんですね。もし教養だけで社会に出て生きられたとすればそれはひとえに企業内教育訓練が面倒見てくれたおかげなんですが、そういうことは見えないのでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e7c7.html(「無能さ」を基盤原理とする教育理念)

ちなみに、日本学術会議の大学と職業の接続検討分科会の議論もそろそろ大詰めを迎えつつあります。

(追記)

黒川滋さんが本エントリにコメントされました。

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2009/12/1221-da5e.html(多くの人には「本当の学び」より人権を蹂躙されない教育が大事)

その中で、黒川さんの高校時代が明かされています。

>濱口桂一郎さんのブログを読んでいると、私が20年以上前に高校で主張したことがだんだん実になってきていることが見えてきて、世の中前には進んでいるんだと感じた。

私の入った高校は、当時大流行した管理教育に対するアンチテーゼが売りだったが、管理教育に対置するものが戦後の「民間教育運動」の流れの末にある、左翼版の教養主義に他ならなかった。

教育者と学校を信じている生徒は「本当の学び」をしていると信じ、ちょっとでも学校に背を向けている人には困った人だという扱い方をした。よくも「本当の学び」などと断定できるなぁ、と冷ややかに見ていたときに、私が仲間とやろうとしたことが、労働法の学習会だった。あと当時脚光を浴びたフランス社会党の自主管理とか。
結局、この高校を信じても信じなくても、運良く大学に進学できても、多くの同級生はやがて一度は社会で働くことになるから、「本当の学び」なんかより役に立つことを勉強できそうだ、と思ったからだ。
いくら太平洋戦争の本質を勉強したって、歌や踊りで民衆を感じ取ったって、その後社会に出て職場で人権を蹂躙されてしまったら、「世の中きれいごと言ってられないんだよ」って、現実主義に日和見するしかないってものでしょう(大学院進学と豊かなフリーターとゲージュツ家があまりにも多いのが出身校の特徴です)。

黒川さんの発想の根っこがわかる感じがします。

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