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2009年12月

2009年12月31日 (木)

人材立国をめざした成長戦略 by 生産性本部

日本生産性本部がさる12月28日付で、「人材立国をめざした成長戦略」という緊急提言を発表しています。内容は、昨日の政府の成長戦略と響き合うものになっています。

http://activity.jpc-net.jp/detail/lrw/activity000956/attached2.pdf

>わが国の今日の混迷は、国全体の進むべき道筋を失ったことにある。われわれが取り組むのは、単なる景気の「回復」にとどまらず、経済社会を「再生」させるという観点に立った思い切った政策への中長期の取り組みでなければならない。そのなかで重要なことは「再生」を担うべく人材立国を志向することである。

具体的には

>● 中期的な政策ビジョンの速やかな策定と実行
● 競争力ある人材の育成のために「教育」と「雇用」の政策融合
● 人材立国を進めるための「労使の対話」の促進

を提言しています。

ここでは本ブログの土俵である2番目と3番目の項目を見ておきます。

2.競争力ある人材の育成のために「教育」と「雇用」の政策融合を

わが国の人材投資にかかる公的予算は、主要先進国に比べ低い。人材立国を実現するためにいま必要なのは、わが国の国際競争力を高めるための人づくりである。教育予算の拡充を図るなど、グローバル化時代に対応した真の競争力を持った人材育成を国全体の課題として進める必要がある。しかし、現状をみると、学校教育は必ずしも経済社会の変化に対応しているとは言えず、産業界のニーズも十分に反映していない。また学校教育から産業社会への円滑な橋渡しがなされないことは、若者の就労問題を生んだ。このため、わが国の人づくりにあたっては、教育政策と雇用政策の結合が大きな鍵を握る。このとき、自らのキャリアは、ひとり一人の主体的な取り組みによって切り拓かれることを
個々人が自覚するとともに、産官学の連携により、そのための環境整備を進めることが必要である。

教育予算の拡充が必要なのはいうまでもありませんが、それが職業レリバンスのない儘で金を付けろというわけにはいきません。教育政策と雇用政策の結合が大事です。

● 国家的な人材育成の行動計画を作成するにあたっては、行政体制の検討も含め、学校教育と職業能力開発との融合を図ることが重要となる。この行動計画においては、成長戦略の反映のもとに、育成すべき人材像、目標とする人数、具体的な方法やスケジュールなどを示す必要がある。その際、欧州において始まっている職業資格をベースとした新しい労働市場の形成の動き3を参考とすべきである。

このへんが、田中萬年さんがいうeducationとは教育にあらずして能力開発なり、という議論とつながってきますし、昨日の政府の成長戦略に出てきた日本版NVQの思想的根拠ともなります。

ちなみにここの注3は:

3 EUにおいては、新しい労働市場の形成をめざし、次のような職業教育訓練を核とする政策な
どが進められている。
・継続的な適応能力・雇用可能性を保証する総合的な生涯学習(訓練)
・急速な職場環境変化に対処し失業期間を減らし新しい仕事への移行を円滑にする職業訓練
・欧州共通の資格制度の普及による横断的な職業教育訓練の展開 等

● 「教育」と「雇用」が結合するためには、小中学校の段階から学校における勤労観の育成や職業教育機能の強化を行う必要がある。あわせて学校だけでなく専門学校などをふくめた官民の職業訓練機関との一体化を図るべきである(「日本版コミュニティカレッジ」として整備)。その際、教育プログラムの開発・実施や指導者の育成は、産業労使・教育機関をはじめ幅広く地域関係者などの参加によって取り組むことが重要である。

職業教育は小学校中学校から。そして、職業能力開発という観点から訓練校、専門学校、大学も含めて再編整備が必要になるでしょう。

● 職業に関する教育訓練機会の地域間格差を解消しなければならない。そのことは、地方における活力を再生する道でもある。このため、誰もが生涯を通じて様々な教育を受けることができるよう、Eラーニングを活用した講座を全都道府県において整備することが求められる。

● グローバルな競争力のある人材の育成は急務である。そのため、諸外国との人材交流を促すとともに、海外における人材育成やグローバルな競争力のある人材の育成をすすめていくべきである。具体的には、プログラムや教育ツールの開発を進め、育成事業を積極的に実施する。そのために、「グローバル人材育成センター」(仮称)のもと、官民の協力により統一的な視点から、人材育成事業の実施体制を検討すべきである。

次の「労使対話」も喫緊の課題です。

3.人材立国を進めるための「労使の対話」の促進を

わが国が人材立国を推進するうえで、生産性運動3原則(雇用の安定、労使の協力・協議、成果の公正分配)を共通の基盤とする、労使の積極的な対話が重要である。今日の雇用情勢をふまえれば、雇用の安定は労使の最重要課題である。また、それにくわえて、少子高齢社会のもとで、ダイバーシティの視点にも立って、ワーク・ライフ・バランスの実現、非正社員の雇用問題、働く女性の活躍推進、高齢者雇用の一層の推進など、人材に関わる多くの諸課題について、労使が総合的に取り組むことを求める。そのためにも、労使関係の重要性を認識し、国・産業・企業・地域とあらゆるレベルにおいて、労使対話が進められることを期待する。

● 今次春闘においては、生産性運動3原則をふまえ、雇用の安定はもとより、賃金等の労働条件全般について、徹底した労使の議論を期待する。さらに、労使の交渉・協議の場を、賃金などの労働条件に限らず幅広く企業の経営労務や従業員の働き方を総点検する機会と位置づける必要がある。特に、新卒採用内定者が減少していることに鑑み、近年の経験に照らして将来への禍根を残すことのないよう、新卒一括採用の見直しなどにより採用機会の増大にむけた努力を求めたい。さらに、人材立国を志向するうえで、雇用機会を確保することが前提となることから、若年者・高年齢者の就労促進はもとより、
さらなる雇用情勢の悪化に備えた、ワークシェアリングの検討を労使に求める。

● ワーク・ライフ・バランス推進の数値目標(「仕事と生活の調和推進のための行動指針」(2007 年12 月)に示されている)の達成状況について、労使による活発な議論を求める。その際、労使は人材育成・能力開発の推進を共通目標と捉え、就業形態を問わずすべての従業員に対する教育訓練やキャリア形成支援の現状を点検すべきである。さらに、ダイバーシティの実現をめざし、諸外国に比べ取り組みが遅れている働く女性の育成・活用・登用の現状についても労使が点検を行い、その効果的な取り組みを進めるべきである。

● 働く者のメンタルヘルスが大きな問題となっている。この状況に歯止めをかけなければ、生産性の向上やワーク・ライフ・バランスの実現にとって、大きな障害となる。労使は、企業組織・職場の健康度を点検し、問題解決にむけた早急な取り組みを強化する必要がある。

● 人材立国の旗印のもとに、働き方や就業形態の違いを超え、あらゆる人材が、わが国の成長戦略に参加し、能力発揮できる条件整備が重要となる。そのために、労使による働き方の点検は、企業や企業グループ内における非正社員を含めたすべての働く者を対象としなければならない。さらに、正社員、非正社員の区分を超え、公正処遇や労使のコミュニケーションのあり方を含めた新しい人事管理の方向性についても、労使は議論すべきである。

まさに堂々たる正論です。

2009年12月30日 (水)

新成長戦略(基本方針)~輝きのある日本へ~

本日、「新成長戦略~輝きのある日本へ~」が臨時閣議で決定されました。

http://www.dpj.or.jp/news/files/1230sinseichousenryaku.pdf

・ 強みを活かす成長分野(環境・エネルギー、健康)、
・ フロンティアの開拓による成長分野(アジア、観光・地域活性化)、
・ 成長を支えるプラットフォーム(科学・技術、雇用・人材)

という6つの戦略分野のうち、

(6)雇用・人材戦略
~「出番」と「居場所」のある国・日本~

を見ていきます。

(雇用が内需拡大と成長力を支える)

内需を中心とする「需要創造型経済」は、雇用によって支えられる。国民は、安心して働き、能力を発揮する「雇用」の場が与えられることによって、所得を得て消費を拡大することが可能となる。雇用の確保なくして、冷え切った個人消費が拡大し、需要不足が解消することはあり得ない。

また、「雇用・人材戦略」は、少子高齢化という制約要因を跳ね返し、「成長力」を支える役割を果たす。少子高齢化による「労働力人口の減少」は、我が国の潜在的な成長エンジンの出力を弱めるおそれがある。そのため、出生率回復を目指す「少子化対策」の推進が不可欠であるが、それが労働力人口増加に結びつくまでには20 年以上かかる。したがって、今すぐ我が国が注力しなければならないのは、若者・女性・高齢者など潜在的な能力を有する人々の労働市場への参加を促進し、しかも社会全体で職業能力開発等の人材育成を行う「雇用・人材戦略」の推進である。

雇用がマクロ経済を支えるという当たり前の認識がようやく政府の戦略に明記されました。

(国民参加と「新しい公共」の支援)

国民すべてが意欲と能力に応じ労働市場やさまざまな社会活動に参加できる社会(「出番」と「居場所」)を実現し、成長力を高めていくことに基本を置く。

このため、国民各層の就業率向上のために政策を総動員し、労働力人口の減少を跳ね返す。すなわち、若者・女性・高齢者・障がい者の就業率向上のための政策目標を設定し、そのために、就労阻害要因となっている制度・慣行の是正、保育サービスなど就労環境の整備等に2年間で集中的に取り組む。

また、官だけでなく、市民、NPO、企業などが積極的に公共的な財・サービスの提供主体となり、教育や子育て、まちづくり、介護や福祉などの身近な分野で活躍できる「新しい公共」の実現に向けて、円卓会議を設けて、民間(市民、NPO、企業等)の声を聞きつつ、本格的に取り組む。

「出番」と「居場所」という言葉が的確です。仕事を通じた社会参加という哲学が明確に示されています。

(成長力を支える「トランポリン型社会」の構築)

北欧の「積極的労働市場政策」の視点を踏まえ、生活保障とともに、失業をリスクに終わらせることなく、新たな職業能力や技術を身につけるチャンスに変える社会を構築することが、成長力を支えることとなる。このため、「第二セーフティネット」の整備(求職者支援制度の創設等)や雇用保険制度の機能強化に取り組む。また、非正規労働者を含めた、社会全体に通ずる職業能力開発・評価制度を構築するため、現在の「ジョブ・カード制度」を「日本版NVQ(National Vocational Qualification)」へと発展させていく。

※NVQ は、英国で20 年以上前から導入されている国民共通の職業能力評価制度。訓練や仕事の実績を客観的に評価し、再就職やキャリアアップにつなげる役割を果たしている。

第一次職業訓練法で技能検定制度が導入されてから半世紀、その後スキルは企業内で身につけ、企業内で認定されるものという認識が一般化してからも長い時間が流れ、もはや誰もかつての理想を忘れた頃になって、ようやく日本版NVQが政府の戦略に打ち出されるに至りました。

(地域雇用創造と「ディーセント・ワーク」の実現)

国民の新たな参加と活躍が期待される雇用の場の確保のために、雇用の「量的拡大」を図る。このため、成長分野を中心に、地域に根ざした雇用創造を推進する。また、「新しい公共」の担い手育成の観点から、NPO や社会起業家など「社会的企業」が主導する「地域社会雇用創造」を推進する。

また、雇用の安定・質の向上と生活不安の払拭が、内需主導型経済成長の基盤であり、雇用の質の向上が、企業の競争力強化・成長へとつながり、その果実の適正な分配が国内消費の拡大、次の経済成長へとつながる。そこで、「ディーセント・ワーク(人間らしい働きがいのある仕事)」の実現に向けて、「同一価値労働同一賃金」に向けた均等・均衡待遇の推進、給付付き税額控除の検討、最低賃金の引上げ、ワーク・ライフ・バランスの実現(年次有給休暇の取得促進、労働時間短縮、育児休業等の取得促進)に取り組む

雇用の質が大事です。

これら4つの項目のすべてに、1990年代以来のEU雇用戦略やその影響を受けたOECD雇用戦略の知的影響が明確に見て取れます。

これこそが今日の先進社会の知識層(政策担当者や研究者)が共有している政策思想なのであって、これを成長戦略がないなどと小馬鹿にしてみせるのが自分の頭のよい証拠だと思いこんでいるような井の中の蛙は笑いものにされます。

攝津正さんの拙著書評

攝津正さんによる拙著『新しい労働社会』の書評が2件アップされました。

http://book.geocities.jp/tadashisettsusougou/roudousyakai1.html(攝津正による、濱口桂一郎『新しい労働社会──雇用システムの再構築へ』(岩波新書、2009年)の書評(2009年12月30日(水)))

>濱口桂一郎(ホームページブログ)を初めて知ったのは、友人である文芸批評家の倉数茂から教えられてのことだった。畏友倉数は慧眼であり、文学に限らずありとあらゆる事象について幅広く知り、僕を啓蒙してくれている。倉数が現在注目しているのが濱口だということで、濱口の新しい著作である『新しい労働社会』を手に取った。ただ、僕は非常に貧乏で本を買う金がないため、図書館で借りた。

 一気に読み通したが、その論旨の明快と透徹には驚かされた。労働問題に関する著作では出色のものだと感じた。著者自身が語るように(ii-iii)、本書は雇用システムを多様な観点から総体的に捉え、また常識を重んじた議論である。

・・・

>倉数茂はまさにこのような姿勢に共感して濱口を僕に紹介してくれたのだと思う。過度に保守的にならず、過度に急進的にならず、現実的で漸進的な改革の方向を示そうとしたというところが重要である。労働問題では、例えばベーシック・インカム論など、「過度に急進的」で「常識外れの議論」が横行している。それをもう一度、現場に、足元に引き戻すこと。本書の狙いはそれだと言える。

まさにわたくしの執筆の意図を見事に浮き彫りにしていただいている記述です。

http://book.geocities.jp/tadashisettsusougou/roudousyakai2.html(攝津正/処方箋は有効か?━━『新しい労働社会』書評その2(2009年12月30日(水)))

>濱口桂一郎は本書で、「現実的で漸進的な改革」を示そうとしている、と述べている。その試みは成功したのだろうか。

摂津さんはたいへん丁寧に、ご自分の労働生活と対比させつつ、序章、第1章と一つ一つ腑分けしながらわたくしの議論を批評していただいています。こういう書評をしていただけることは、わたくしにとってこの上ない喜びです。

このあとさらに第2章以下の議論に対する批評が続けられることになります。心からの期待感をもって摂津さんのさらなる書評を待ちたいと思います。

海老原嗣生『学歴の耐えられない軽さ』

11068 いろんな意味で面白い本です。

http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=11068

>「若者は昔から3年でやめていた」「成果主義で給料は変わっていない」――。マスコミや専門家たちが唱えてきた定説を?人事・雇用?のカリスマがデータをもとに一刀両断。厳しい雇用情勢の下、知っておきたい驚きの真実がわかる。

朝日新聞出版のHPには立ち読みできる部分もあって、

http://publications.asahi.com/ecs/tool/browse_image/?image=11068.jpg

冒頭の今時の若者の知識レベルの悲惨さを描いたところが読めますが、これは、受験科目を減らすことで偏差値を名目上つり上げてきた大学の戦略の帰結という話です。

その「第1章 学歴のインフレーション」の最後に「大学を補習の府に-再建のための秘策」という節があって、そこにこういうことが書かれています。本ブログで何回も取り上げてきた(文科系大学の)職業的レリバンスと大いに絡む話です。

>一方で、官僚たちはこうも語る。「大学と社会を近づけ、企業人となってから生かせるような学問を」と。

そう、それはその通り。もし、そういう学問を教えてくれる大学があったらなら、社会人になる予定の学生たちも、喜んで勉強するだろう。その証拠に、企業で即生かせる内容が主流の理系学生は、同じ大学生でも「ここまで勉強するか」というほど勉学にいそしんでいる。

>文系学卒者が就職した場合、その大半は営業か事務のどちらかに配属されることになる。

そこでは経済学も法理論もまるで不要。学者にならない人にとっては、人生に厚みを増す程度に学んでおけばよい。

では何を学ぶのか、ここで、社会人実務によりすぎると、専門学校との差がわからなくなる。あくまでも大学はアカデミックな存在でもなければいけない。

そのギリギリの線ですべてがかなうようなプログラムを作る。たとえば次のようなものだ

①社会人に必要な教科を各学部から拾い上げ、それを横断的に教える。

②キャリアや人生を分析して、それを網羅的ではなく、使用確率の多い順に教える。

③余裕時間を生み出し、実務がわかるよう、社会交流をさせる。

では具体的にどういう教科を教えるのかというと、

>①については、「地誌」「ビジネス英語」「簿記」「税務」「価格理論」「マーケティング」「労働法」「商法・会社法」「特許法」「給与・社会保険・年金計算」「組織心理」「経営ブンガク」「商業金融」などを集めるのだ。

こうしたことを学ぶための基礎力として、小学校社会・算数、中学英語の復習を、一般教養課程に盛り込む

こういう考えに対する反発への反論も用意されています。

>これに対しては、「学問の府である大学が、金儲けの片棒担ぎになってしまう」という批判が起こるだろう。

しかし、すでに今の大学生(特に文科系)は学問などほとんどしていないのが現実だ。大学での専攻について、就職活動の面接でまともに語れる学生などいない。それ故に、企業も面接でそんな質問をしなくなっているくらいだ。

こんなていたらくよりは、、簿記なり会計なり民法なり、といった「ビジネスよりの学問」でも真剣に学んだ方が学問の府として意義はある。

まあ、わざと挑発している嫌いもないわけではない文章ですが、本気で反論しようと思うと意外と手強いですよ。アカデミック派の方々には、是非挑発に応じていただきたいところです。

『プレジデント』誌のフレクシキュリティ

04dfbd1ed1 経済誌も少しずつ学習しているということでしょうか。

『プレジデント』誌2010年1月18日号の「行き詰まる「雇用政策」打開のカギ フレキシキュリティ(flexicurity)」という記事ですが、

http://president.jp.reuters.com/article/2009/12/28/9AE051E8-F0FB-11DE-B663-80123F99CD51.php

>行き詰まる雇用政策の打開策として、フレキシキュリティが注目されている。これは柔軟な労働市場(flexibility)と高い失業保障(security)を両立させた政策のことで、デンマークやオランダではこれにより失業率の低下と経済成長を実現したとされる。

柔軟な労働市場とは、すなわち解雇しやすい労働市場である

とくれば、「首切り自由でニホンは天国!」という誰かさん流のノーテンキな議論を未だにやっているのか、と思うかも知れませんが、そのあとはこう続きます。

>デンマークの転職率の高さの背景には、労使が参加し、莫大な手間と公費をかけた再就職支援政策が存在する。職業訓練プログラムは中央、業界、地域のいずれのレベルでも労使共同で効果的なものが開発され、企業は実習訓練の場を提供する。しかも職業訓練は失業中だけでなく在職中でも受講でき、受講中の賃金減額分は国と経営者団体が拠出する基金から給付されるのだ。

高い失業保障とともにこうした政策をとれば、「大きな福祉国家」化は避けられない。それにもかかわらずデンマークで効率的な国家運営がなされているのは「保育・介護など高度な社会サービスの発達で労働力率が高いうえ、公費による人的投資の額が大きく、生産性の向上と平等な機会の提供に成功している」(菅沼教授)からである。

このような背景を抜きにしてフレキシキュリティ政策を推し進めれば、単に失業者を増やす結果になりかねない。

まさに「職業訓練なんて要らない」「福祉は潰せ」「小さな国家バンザイ」で「首切り自由に」というたぐいの「このような背景を抜きにしてフレキシキュリティ政策を推し進め」ようというような単細胞的な低水準の議論が経済誌レベルでもまともに相手にされなくなりつつあるという意味では、いささか勇気づけられる記事の一例とはいえるかも知れません。

日本の世論が、こういう「大きな福祉国家」を受け入れるようにならない限り、フレクシキュリティはまだまだ遠い夢ということでしょうか。

(追記)

「ブログ・プチパラ」さんのエントリで、週刊ダイヤモンド最新号における八代尚宏先生と湯浅誠氏の談話が引用されていますが、

http://blog.goo.ne.jp/sinceke/e/ed61ea2fc120b7a066fb58a8b80d4bf5(年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅡ)

これを読めば、八代先生も湯浅氏も「ちゃんとわかっている」側にいるのであって、両者の対立点は現状認識というか、あるタイムスパンにおける現状の可変性に対する認識の違いにあることがわかります。

>八代尚宏氏

…派遣労働を禁止することには反対だ。
…規制によって、企業に正社員の雇用を強要できると考えるのはナンセンスである。かつて終身雇用や年功賃金などの日本的雇用慣行が醸成され、正社員雇用が一般的だったのは、雇用規制があったためではない。過去の高い経済成長期において、熟練労働者の希少性が高く、自社で囲い込む必要性があったからだ。
…より現実的で、意味のある政策は、派遣雇用の禁止ではなく、派遣条件や待遇を改善する派遣労働者保護の強化だ。二〇〇八年以降の派遣切りの問題は、契約期間中にもかかわらず、補償もなく切られたことにある。今後は、雇用保険の適用拡大と、派遣先が契約期間中に契約を解消することへの補償を義務付けるべきだ。
…欧州では、整理解雇の場合に金銭賠償が認められている。日本でも、正社員の解雇時の金銭賠償ルールを法律で定めれば、裁判に訴える資力のない中小企業の労働者には明らかに大きなメリットとなる。

湯浅誠氏

…派遣労働の規制に賛成だ。
…雇用の流動化ということについて、私は必ずしも反対ではない。しかし、実態として派遣切りがこれだけ社会問題化し、多くの貧困を生じさせ、それを解消する手立てもない以上、製造業派遣も禁止すべきとしてか言いようがない。
…派遣労働禁止を批判する論者の主張に、「製造業では派遣が禁止されても期間工や請負にシフトするだけ」というものがある。だが、期間工は有期契約ではあるものの直接雇用なので、労働者にとっては歓迎すべきシフトだ。
…セーフティネットが厚く、失業が怖くない社会であれば、雇用の流動化も派遣もいい

こういう「ちゃんとわかっている」人同士の対比は、ものごとを深く考えるのに役立ちます。ところが、よくあるミスキャストは、「ちゃんとわかっている」人と「全然わかっていない」人とを、単に目先の対策論で一致しているとか対立しているとかいうような単細胞的な判断基準で対論させてしまうことです。

そういうことをすると、それは「ちゃんとわかっている」人と「全然わかっていない」人の対比にしかなりません。

湯浅誠氏とまともに対比させていいのは八代尚宏先生のような「ちゃんとわかっている人」なのです。

2009年12月29日 (火)

職業能力評価制度

日経から、

http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20091229AT3S2802028122009.html(成長戦略、若者・女性など就労目標 職業能力に共通評価制)

>政府は28日、成長戦略策定会議(議長・鳩山由紀夫首相)が30日に決定する新たな経済成長戦略の概要を固めた。環境と健康分野で2020年までに400万人強の雇用創出を目指し、若者、女性、高齢者、障害者の就業率向上の政策目標を設定。制度・慣行の是正や保育サービスなど就労環境を2年間に集中整備する。円滑な再就職に向け、職歴や資格などを数値化する「職業能力評価制度」の20年までの導入も明記する。

 成長戦略の重点項目は環境、健康、アジア、観光・地域活性化、科学技術、雇用・人材の6分野。職業能力評価制度は職歴や職業訓練などを記した現在の「ジョブ・カード」を発展させた内容になる。アジア外交では、同年までにアジア太平洋地域に自由貿易圏(FTAAP)を構築する目標を掲げる。政府は近く、行程表(ロードマップ)の作成に入る方針だ。

若者、女性、高齢者、障害者に就業率目標、というのはまさにEU雇用戦略ですね。「労働中心の福祉社会」にふさわしい目標です。

問題は「職業能力評価制度」です。「ジョブカードを発展させた内容」というのですが、「職歴や資格などを数値化」というその数値化は具体的にどのようなものなのでしょうか。現時点では存在しないけれども、2020年までには具体化していこうということなのでしょうね。さあ、これから大変ですよ。

『電機連合NAVI』2009年11/12月号

電機連合より『電機連合NAVI』2009年11/12月号をお送りいただきました。

特集は「労働組合と組織強化」です。はじめに連合非正規労働センターの山根木さんと電機連合組織推進センターの荒井さんの総論的文章がありますが、読みでがあるのはやはり、最近組織化を実現したばかりのアルプス技研、MEMC、アウトソーシング3社の労働組合の委員長の報告です。

アルプス技研とアウトソーシングは常用型派遣の会社ですし、MEMCは外資系エレクトロニクス企業ということで、今日的課題への対応という意味でも興味深いものがあります。

組合のない企業に組合を作るということがどういうことか、なかなかよく示している文章がいっぱいあります。たとえば、アルプス技研労組の相原さん曰く:

>少し考えていただくとわかると思うが、同僚から「労働組合を作らないか」と声をかけられて、「いいよ。つきあうよ」と返事が出来るものは誰一人としていない。「今日はまず飲みに誘ってアイスブレイク出来ればいいか」、「今日核心に触れて大丈夫か、次回にしようか」「コイツは無かったことにしよう」「なかなかいい奴じゃないか」など産みの苦しみを味わいながらも、何とか全事業部から1名ずつ、私を含めて10名の発起人会を招集した。

>現代社会では、合理的であることが絶対の価値判断となりつつある。しかし、労働組合の世界においては、合理性も必要だが、それ以上に必要となるのは『想い』を堂々と語るリーダーの存在に他ならない。一般社員に対して労働組合の設立説明会を開催し50人を目の前に「労働組合を作っているのでどうぞ加入してください」と言っても誰一人として加入届を出してくれない。それどころか「余計なもの作りやがって」とか「メリットを説明しろ」「説明聞いてやるからこの時間分の賃金を補償しろ」「何が提供できるんだ」などの罵声を浴びることも珍しくない。

>・・・こんな場合は罵声のなかでじっと毅然とした態度で我慢し、2分程度言わせておくと急に静になる瞬間がくる。知らない人間に失礼をしている自分に気づく瞬間が同期する。その後、「みなさんがいろんなことを言いたい気持ちもわかります。網羅的な質問を受けても話が進みませんので、私から先に20分ほど説明させてください」と言い、1時間ほど経緯や法律的背景、大義をイッキに話をするのです。そして最後に自分の『想い』である「労働組合は絶対にあった方がいい。みなさんも私と同じように感じているはずです。どうか私にみなさんの力を貸してください」と熱く述べると、その後の質問は一件も出ない。

>説明会の場で『想い』を語る場面を一度見せると、同じように『想い』を語りたがる変な連鎖反応が起きることがある。

>潜在的にリーダー業務に就きたい者は多くいるのだが、評価者(会社)にその意思を見せるのはイヤシイと心得ている日本人は意外と多い。しかし、評価者ではない労働組合の執行補助要員(職場委員など)になると、水を得た魚のように自律的に動き始める。お金やメリットで集めた集団と比べて『想い』を共有した集団は、前傾姿勢で発展的思考を有した無敵の集団となる。

最後に相原さんが

>労働組合を作るという作業は、シーケンスのように条件を入力したら結果が出る作業ではない。

と述べているのは、実に心からの想いなのだろうと思います。

「自称ケインジアン」の書きたい放題 by 浅尾裕

JILPTのHPに、浅尾裕さんの上の標題のコラムが掲載されています。

http://www.jil.go.jp/column/bn/colum0138.htm

昨年、京都大学の間宮先生の訳になるケインズの「一般理論」が岩波文庫から出版されて、この「古典」へのアプローチが格段に容易になった。「日本語」になるまでに70年以上がかかったといってもよいであろう。

てことは、いままでの東洋経済新報社から出ていた分厚い翻訳書は「日本語」ではなかったということですね。

>私もかつて翻訳書を買ったものの、数ページ読んで自分の日本語能力のなさを恥じつつ、放り出したものである。それで一念発起して、大阪梅田の紀伊国屋で原書(普及版)を買って読んだ。裏表紙内にしたためた記録をみると、1972年(昭和47年)10月16日に購入したとある。大学1年の秋である。お陰で、原書で最初から最後まで読み通した数少ない文献の一つとなっている。

確かに、世の中には、日本語とは思えないような翻訳を読むより、原書を読んだ方が遥かによくわかるというたぐいの翻訳がありますね。正直いうと、経済学の原典については翻訳が悪いのか原著自体が難しいのかをきちんと識別できるだけの経済学リテラシーがわたしにあるとは言い難いので、ケインズのこの本がそれに当たるかどうかについては浅尾さんの判断をそのまま持ち出すしかないのですが、一般論的には良くある現象だと思います。

さて、これは前振り。

>あれ以来私は、「自称ケインジアン」となった。その「自称ケインジアン」として、あれこれ書きたい放題を書いてみたい。

ということで、以下が浅尾さんのエッセイ本論です。

>最近のはやり言葉でいえば、金融にも「よい金融」と「悪い金融」とがある。金融の社会的機能とは、どうなるかわからない「未来」に対するリスクを負担することである。リスクを負担して、産業活動に必要な資金を提供するところにある。しかるに、「金融資本主義」の金融は、リスクを負担せずに、リスクを避けることばかりに注力する「悪い金融」になってしまう。その最大のものが、私利追求の結果処理を国家に負わせることである。しかし、「金融」には「よい金融」として経済社会になくてはならない機能があるので、国家は引き受けざるをえない。「過去」は仕方がない。大切なのは、金融が「悪い金融」に陥らないようにするための将来に向けた適切な仕組みを作り上げることである。(以前に戻ることかも知れないが・・・。)

金融がリスクを負担しないと、そのリスクは廻りまわって働く人々の負担となってしまう。それでは資本主義経済はうまく機能しないのである

「リスクを避ける」「悪い金融」というのは、つまり財やサービスを生産している人々に不当にリスクをおっかぶせる金融ということなんでしょう。本来財やサービスを生産する人々のリスクを買い取ってくれるはずの金融が、逆に自分たちで生み出したリスクを実体経済の人々にツケ回しするのでは、確かに「悪い金融」としか言いようがないですね。

>よく「市場に聴け」といわれる。そこでの「市場」とは「証券市場」(=証券・貨幣市場)を指していることが多い。でも、市場には「財・サービス市場」もあれば「労働市場」もある。「自称ケインジアン」は、市場を少なくとも3つの異なる論理・機能をもった市場に分けて考える。それぞれ重要であるが、「財・サービス市場」が経済の基本であるとみる。聴くなら、「財・サービス市場」に聴くことが第一である。株価の時価総額=企業の価値などという発想は、「金融資本主義」の発想でしかない。ついでにいえば、「時価会計」とか「包括利益」といった発想も、「金融資本主義」の発想であると思われる。

これも、90年代以来の「市場に聞け」イデオロギーの本質をよく示しているように思われます。「株屋の市場主義」が市場経済を僭称してきたわけですね。

>ケインズは偉大であるが、1883年に生まれ1946年に逝去された一人の人間である。当時、失業保険すら不完全であるなど労働・雇用政策が本格的に整備されていない時代を生きた人である。したがって、失業に対処するための短期的対策としても、雇用需要そのものを創出すること以外に考えることはできなかったといえるのではないだろうか。

これはそうでしょうね。「ケインズが今生きていたらこう言うだろう」みたいな企画はあんまり生産的ではないと思います。

>なお、ケインズ政策といえば公共事業を指すと考えている向きもあるようであるが、それは一面的な理解であって、より長期の政策として「投資の社会化」という構想があったことなど、間宮先生訳の「一般理論」が広く読まれることを期待したい

正直いって、いまケインズを読んですぐ何かに使えるという当てもないので、これはやや中期的課題ということになりますが、そのうちまとまった時間ができたらやはり読んでみる必要があるのでしょうね。とりあえず、宿題ということにはしないでおきます。

2009年12月28日 (月)

日本は変更解約告知でいっぱい

マシナリさんが昨日の本ブログのエントリに応答していただいております。

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-366.html(渡る世間はブーメランばかり)

主テーマはもちろん「認識不全メカニズム」なんですが、実はそこでマシナリさんが書かれた一文が、わたくしの現在の研究テーマと響き合うものがありましたので、ちょっと話の筋がずれますが、コメントしておきたいと思います。

>「正社員はコストが高すぎるから、おまえは明日からパートで働いてもらう。いやなら辞めていいんだぞ*1

>*1 こういった「down or out」的な解雇については、日本でも変更解約告知を認めた判例が一部にあります(スカンジナビア航空事件等)が、労使交渉が形骸化している現状では、ドイツなどで変更解約告知とセットとなっている解雇の留保の実効性を確保することは難しいでしょうから、整理解雇事案として扱うしかないと思われます。

もちろん、「へんこうかいやくこくち」なんて言葉を知っているのは、労働法学に詳しいマニアックな人々だけでしょう。そして、労働法学に詳しい人々にとっては、この言葉はドイツの労働法理であって、日本では上記マシナリさんの文章のように、スカンジナビア航空事件で認められかけたけれども、その後は正面から認められていない現時点ではまだまだ観念的な言葉という風に感じられているのでしょう。

でも、それは日本の労働社会の現実の姿ではないのです。労働局の個別労働紛争あっせん事案の中には、当事者たちはそれを「へんこうかいやくこくち」なんて言葉では全然認識していないけれども、その構造はまさしく変更解約告知以外の何者でもないような事案が結構あるのです。

「転勤に応じないのであれば辞めてもらうしかない」とか「配置転換に従えないなら退職しかない」といった配転がらみの変更解約告知も、「賃金引き下げか解雇か」とか「最賃に引き下げる。応じなければ来なくても良い」といった賃金がらみの変更解約告知も、「請負への移行か辞めるか」とか「アルバイトになるか退職か」といった雇用上の地位がらみの変更解約告知も、そしてこれらすべてを兼ね備えた「転勤・減給・有期化に従えなければ退職」なんていう三種混合型変更解約告知なんてのもちゃんとあります。

日本には変更解約告知はいっぱいあるのです。ただ、当事者たち、変更解約告知をしている使用者自身も、変更解約告知を受けている労働者自身も、それがこむつかしい「へんこうかいやくこくち」なんていう言葉で表現されるものだと認識していないだけなんです。

執筆者一応hamachan本を読まれているなという印象

finalventさんの本日の日記では、今朝の朝日の社説

http://www.asahi.com/paper/editorial20091228.html#Edit1(派遣法改正―労働者保護への方向転換)

をネタにしておられますが、

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20091228/1261952022

その最後のところで、

>そうじて、なんとなくだが執筆者一応hamachan本を読まれているなという印象。

それはその通りだと思います。正確に言うと、拙著出版の前に、朝日の労働関係を中心とする記者の皆様に、おおむね拙著の内容を中心とするレクチャーをしたことがありますので、全面的に賛成するかどうかは別として、拙著の趣旨はだいたいご理解されているかと。

2009年12月27日 (日)

財・サービスは積み立てられない

黒川滋さんが今朝の番組について語るなかで、このように述べておられます。

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2009/12/1227-3648.html(金融資本の問題は錬金術ではなく他産業の利潤の搾取である)

>年金積立方式が成り立たないということが経済学者の中で常識になりつつあるが、私たち世代の中ではまだそういうことに期待する人が少なくない。
積立方式というのは年金の積立金運用益のために、金利、キャピタルゲインを追い続けなくてはならない経済になる。カリフォルニア州公務員年金組合がやったように、現役時代45年間の働き方が、株や借入金の利息や配当、キャピタルゲインに最大限配慮するような職場を作らなければ、老後25年もの生活費を出す基金は作れない。日々どんなに努力しても、金融資本に隷属する働き方を強制されることになる。奴隷労働が待っている経済体制である。世代間不公平が、年金だけの問題から、日々の労働の問題に展開されることになる。

この問題は、いまから10年前に、連合総研の研究会で正村公宏先生が、「積み立て方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない。ただそれを、貨幣という媒体によって正当化するのか、法律に基づく年金権という媒体で正当化するかの違いだ」(大意)といわれたことを思い出させます。

財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。そのときに、どういう立場でそれを要求するのか。積み立て方式とは、引退者が(死せる労働を債権として保有する)資本家としてそれを現役世代に要求するという仕組みであるわけです。

かつてカリフォルニア州職員だった引退者は自ら財やサービスを生産しない以上、その生活を維持するためには、現在の生産年齢人口が生み出した財・サービスを移転するしかないわけですが、それを彼らの代表が金融資本として行動するやり方でやることによって、現在の生産年齢人口に対して(その意に反して・・・かどうかは別として)搾取者として立ち現れざるを得ないということですね。

わたしはかつて、拙著『労働法政策』の序章のなかで、このあたりについて、次のように述べた見たことがあります。そろそろそういう反省がマスコミレベルでも出てきたということであれば結構なのですが。

>(3) コーポレートガバナンス

 1990年代の特に後半に入って、世界的ににわかにコーポレートガバナンスの議論が盛んになった。その出発点は、資本と経営の分離が進んだアメリカなどのアングロ・サクソン諸国で、経営者が本来資本家の代理人(エージェンシー)として資本家の利益を最大にするように行動すべきであるにもかかわらず、自らの利益を図って資本家の利益を害しているという問題意識である。
 資本と経営の分離とは、すでに述べたように産業資本の自己資本の側面と自己労働の側面が分離するということであった。そして、経営者支配とは、自己資本という擬制のもと実質的には利子獲得にしか関心のない他人資本である株主に対し、自己労働たる経営者が企業の支配権を握るということであった。商法の上では、株主が資本家であり、経営(を委託されている)者は株主の利益のために奉仕する存在であっても、それは建前であって現実の姿ではなかった。
 それが20世紀末になって再び株主主権などということが言われるようになったことの背景には、退職者年金基金などの巨大な資金を有する機関投資家が株式市場に出現し、これがその収益を最大化するよう経営者に圧力をかける力を持ち始めたことがある。退職年金基金が巨大な資金を有するようになったのは、20世紀システムの中で社会保障制度が発達し、豊かになった労働者たちの強制貯蓄が膨大な規模に膨れ上がったからである。ドラッカーが「忍び寄る社会主義」と呼んだこの退職年金基金が、経営者に対して資本の論理を突きつける存在として株式市場に登場したということほど、皮肉なことはないであろう。
 この新たな「資本家」は、しかしながらかつての企業主たる巨大株主とは異なり、実質的には外部の債権者と同様の他人資本にすぎないので、中長期的な事業運営などによりも、短期的なリターンの最大化に関心がある。かくして、経営者は「株主価値創造革命」なる名のもと、生産活動などよりも財務成績に狂奔する仕儀となる。
 金融市場のグローバル化の中で、このコーポレートガバナンスの議論がヨーロッパ諸国や日本にも押し寄せてきた。そして、自分たちにとってもっと投資しがいのある企業になるようにと圧力をかけてきている。20世紀末にいたって、利子生み資本の論理が世界を席巻するかの勢いである。

他人の職業や待遇について「経営者目線」で批判することは回り回って労働者であるご自身に跳ね返ってくるというカラクリ

「machineryの日々」さんのブログで、「経営者天国」というエントリが書かれていて、大変興味深い記述がありました。そこで引用されているyellowbellさんの文章も併せて引用します。

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-365.html

>>「育休取るって、お前の仕事は誰がやるんだよー」なんて上長もよく見かけますが、そのために管理職の権限を持っているのです。上司には早いとこ休暇中の業務体制を示してもらって、休みまでに誠実に引き継ぎができるようにしなくてはいけません。もし「休んでいいけど、お前の代わりは自分で見つけて引き継ぎしとけよ。俺は知らんぞ」という上司がいるなら、その上司が部下への指揮命令を怠ったことになり、自分の義務を果たしていないことになります。その場合は、ちゃんとそれを指摘して、それでもわからない場合はさらにその上長に相談をすべきです。「そんなことできっこないよー」という職場で、なおかつ組合がないようなら、それは慢性的に権利侵害が放置されている、いわゆるブラックな企業です。労働基準局あるいは労働基準監督署は、いかめしい名前と違って高圧的な空気もなくとても優しいですから、上司だけでなく企業そのものに取りつくシマがなければぜひ相談にいってください。案外おどろくほど、そういう会社の問題は把握されてたりしますから。

>・・・・・・つまり、yellowbellさんがご指摘されるブラック企業の要件である「「そんなことできっこないよー」という職場」については、国の役所も地方の役所も余裕でクリアしているわけです。さらにいえば、ご承知のとおりコームインは団結権、交渉権、争議権の労働三権をフルには認められていませんので、もう一つの要件である「組合がない」も、民間企業を基準として考えればクリアしてますね。

以上から、コームインが働く役所は「ブラック企業」であるという結論が導かれました。うすうす感じてはおりましたが、こうはっきり認識してしまうとモチベーションが上がりませんなあ・・・というか、私が「
経営者目線のカイカク」を執拗に批判する理由もここにあるわけでして、他人の職業や待遇について「経営者目線」で批判することは回り回って労働者であるご自身に跳ね返ってくるというカラクリについて、冒頭で引用したyellowbellさんのエントリでご確認いただければと思います。

ここでマシナリさんがさりげなく言われた「他人の職業や待遇について「経営者目線」で批判することは回り回って労働者であるご自身に跳ね返ってくるというカラクリ」が、公共部門だけでなく、あらゆるところで効き続けてきたのが、ここ20年の流れだったのではないかと思われます。

働いているときは召使いでも、お客さまである限りは神様扱いされるという至福の境地をひたすら追い求め続けると、それだけいっそう自分が召使いに戻ったときの扱われ方がひどくなる一方なのですが、それをその場で何とか改善しようとするのではなく、召使いモードからお客様は神様モードにスイッチした瞬間の至福をより一層増幅する方向にばかり働いていったのでしょう。

ちょっと反省すればそれが自分をますます奴隷化する負のスパイラルであることはわかりそうなものですが、そうならせないための認識不全メカニズムとして活用されたのが、身分的な転換可能性がない(と感じられる)公共部門だったのでしょうね。コームインを叩いている限りは、自分が叩かれる側になったら・・・という反省が生ずる可能性はないので、安心して叩ける。しかし、社会システム全体としては、その「叩き」は公的サービスだけではなく、民間サービスすべてに及ぶわけですが。

(追記)

「認識不全メカニズム」について若干の追加的説明を。

有名な阿久根市長の最近の発言ですが、「市長」を「社長」に変えるだけでこうなるのですが、

http://www.asahi.com/politics/update/1225/SEB200912250003.html

>竹原社長はこの日までに、元係長について「『職員は社長の命令に服従すべきだ』とする意識がほとんど見られない」「『すきあらば竹原社長の転覆を謀ろう』と企図している」とする準備書面を提出。「人事は経営をつかさどる社長の専権事項。裁判所は社長と対等の立場からその適否を論じる資格を持たない。円滑な経営に必要として行われた以上、適法である」と主張した。

>この訴訟では、「判決確定まで解雇処分の効力を停止する」とする鹿児島地裁の決定が今月確定したが、竹原社長は今のところ元係長を復職させておらず、地裁の決定を無視した形となっている

>竹原社長は職場復帰だけでなく、給料やボーナスの支払いも拒否しており、元係長は社を相手取って未払い賃金の支払いを求める訴訟も同地裁に起こしている

民間企業に勤務する阿久根市民の多くが、自分の勤務先の社長がこのような発言をした場合に、全く同じように熱狂的に支持するということは考えにくいのですが、そういうことは全然念頭に置くことなく、対象がコームインなので「自分がその立場だったら・・・」という反省が生ずることがなくなるという現象を「認識不全メカニズム」と呼んだわけです。

ただ、認識は不全であっても、このような言動が正義であるという社会意識は客観的には民間企業の労働者諸氏にも十分に反映されますので、たとえば阿久根市に所在する民間企業の社長さんが、

>コームインですらああなんだから、ましていわんやお前ら民間労働者は・・・

という風に行動することになり、その帰結が阿久根市の民間労働者のみなさんに影響することになったとしても、それはいうまでもなく阿久根市民のみなさんの民主主義のたまものであるわけです。

2009年12月26日 (土)

ネット上の拙著書評いくつか

この間、ネット上の拙著『新しい労働社会』の書評もいくつかありました。

まず12月24日には、「Minority思考」さんのブログで

http://noigiar.net/blog/2009/12/000525.html

>本書を購入したきっかけは、webのハイパーリンクの恩恵だと思う。
とあるブログから更に違うブログへ訪問し、著者のブログを知り、読んでみたいと思った。何がきっかけになるか分からない。でも、自分自身が労働問題に能動的に関心を持たなければ、知り得ることもなかった。最近読んだ「
原因と結果の法則」のような出来事。

実は本書は読み進めるのが難しかった。
全体的に物凄く濃い内容で良書なのに、そこが残念だったのが惜しい。

そこで、図解していただいています。

>こういうときこそ「図で考えるとすべてまとまる」ということで、自分なりに図解、簡略して理解を試みた

リンク先にその図解があります。是非ご覧下さい。

本日は、「本の森の入口で」ブログさんで

http://ameblo.jp/halfcat/entry-10419784946.html(これからの共通認識に!『新しい労働社会』)

>この本は新聞で本田由紀氏(社会教育学者)が、これから社会にでる若者に勧めていた一冊。高校3年生に読めるなら、私にも理解できるだろうと、軽い気持ちで手にとって、大ヒットでした。内容なだけに、すらすら読めるわけではありませんが、大丈夫。大人の方が、身につまされて、読み通せます。是非多くの若者、だけでなくあらゆる立場の人に手にしてもらいたいと思います。

本田先生、ありがとうございます。こうして、読者を着実に増やしていただいています。

『経営法曹』で拙著書評

経営法曹会議より『経営法曹』162号をお送りいただきました。ありがとうございます。

今号では、会員弁護士の向井蘭さんによるわたくしの『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』の書評が載っております。

>著者は、「はじめに」で労働問題についての議論は「型にはまった労働規制緩和論と労働規制強化論の対立図式になりがちで、問題の本質にまで立ち入った議論は乏しいように思われます」と述べている。確かに最近のいわゆる派遣切り報道、派遣村、ワーキングプア報道については、一部のマスコミがあまりにも感情的に煽るような報道をするばかりで、冷静に今後どのように日本の雇用を考えるのか、問題提起がなされていないように思われる。

著者は本書において「過度に保守的にならず、過度に急進的にならず、現実的で漸進的な改革の方向を示そうと」しており、かつその提言は具体的かつ現実的であり、実務に携わる経営法曹会員の諸先生方にも参考になると思われ紹介させていただくこととした。

という趣旨で、以下、拙著のさまざまな論点を紹介していただいております。

経営法曹の方々から、わたくしの提言を「具体的かつ現実的」と評していただくのは、大変うれしいことです。ありがとうございます。

2009年12月25日 (金)

労使関係の再構築-集団性を基軸に考える

201001 前に本ブログで宣伝しておいた『ビジネス・レーバー・トレンド』2010年1月号が本日刊行されました。

http://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2010/01.htm

>座談会「今後の労使関係のあり方、方向性を考える」
<出席者>
荻野勝彦・トヨタ自動車人事部担当部長
神津里季生・基幹労連事務局長
濱口桂一郎・JILPT 統括研究員
<司会>
荻野登・JILPT 調査・解析部次長(本誌編集長)

経営側から「労務屋」さんこと荻野勝彦さん、労働側から神津里季生さん、それにわたくしというなかなか興味深い(?)顔ぶれによる座談会です。14ページにわたって、見出しを引用すると、

1 労使関係個別化の現状と課題

格差拡大の背景に労使関係の有無が

経営側は労使関係の仕組みを重視

2 非正規雇用に対する企業内労使のアプローチのあり方

「労労対立」の固定化は避けるべき

「企業を超える」は処方箋が違う

職場感覚で納得する議論が必要

重要なのはキャリア形成

やりがい、納得感を取り込む

当事者が意思決定に関与できる回路を

初期は正規のカーブに合わせる

3 従業員代表制立法化の是非

任意の労使委員会で

必要な認知と組織内の理解

排除されている層の意見反映メカニズムを

聞く耳を持たない経営者への対応を

労使双方にメリットのある仕組みに

管理職・高齢者も射程に

4 集団的労使関係の再構築について

財務優位が労使関係を変えたのか

重要な組合運動の可視化

5 政策決定過程における労使の役割

労働政策の三者構成は堅持を

発行から1ヶ月間はJILPTのHPにPDFがアップされないので、中身を今すぐ読みたい方は図書館等でご覧いただければと思います。

座談会の冒頭のところでわたしが問題意識を総論的に述べたところを、参考までにいかに掲げておきます。

>【濱口】今、わたしはJILPTで個別労使紛争の実態を研究しています。現在、集団的労使関係についての政策は存在しない状態なので、政策研究機関としては個別労使紛争をテーマにしているということです。ただ、個別紛争の事例を見ると、大変おもしろいファクトファインディングがたくさんありまして、これは、別の機会にお話ししたいと思います。ただその中で、本来集団的労使関係の枠組みの中で解決していくべき問題までが、個別労使紛争として現れてきているのではないかという印象も持っています。いわば、これまで明示的には存在しなかった集団的労使関係政策が、そろそろ求められる時期になりつつあるのではないかという問題意識があります。
 こうしたなか、連合が一〇月に決めた向う二年間の運動方針の中で、集団的労使関係の再構築という言葉が入っていました。これは、大変、意義深いことだと思っています。今日の主要テーマは、集団的な労使関係をいかに再構築していくのかになると思いますが、その前段階として、なぜ今に至るまで、個別化、個別化といわれてきたのかを振り返っておきたいと思います。
 一つは、非正規化が進んできたことです。日本の労働組合の現状からすると、非正規はほとんど組織化されていない。そうすると、どうしても個別化する。一方、正規の中にも人事処遇制度として、成果主義が入り、処遇が個別化していき、集団的な枠組みで解決しきれないことがでてきた。そういう問題をどう解決するかという観点からも、論点が個別化に向かってきたと思うんですね。ただ、やや行き過ぎたのではないかという感覚を持っています。これは後で突っ込んだ議論になると思うのですが、二〇〇六年から〇七年の労働契約法の議論のときに、本来はもう少し集団的な枠組みで議論しようと思えばできる、あるいはすべきだったものが、あまりにも個別的な観点のみで議論され過ぎたのではないか。実態として個別化の方向に行っているのは確かですが、もう少し集団的な枠組みを考えなければならなかった。そこが今、見直しの方向に向かいつつある。全体としてはそんな問題意識を持っております。

『生活経済政策』1月号の座談会

Img_month 『生活経済政策』の2010年1月号が送られてきました。特集は「社会保障制度の再建」です。

明日への視角

  • ケインズ革命を超えて—社会的・連帯経済体制の構築/粕谷信次

特集 社会保障制度の再建

  • 座談会 社会保障制度の再建
    —民主党の社会保障政策をどう評価するか/駒村康平、大沢真理、宮本太郎、小塩隆士
  • 「子ども手当」は社会手当か、公的扶助か/阿部彩
  • 政権交代と幼保問題の行方/吉田正幸
  • 総合医制度の定着に向けて/一圓光彌

連載 人間性の回復[10]

  • 有効に機能する財政を/神野直彦

連載 ピノッキオの眼[10]

  • チャタレー夫人の恋人/村上信一郎

新刊案内

  • 『鳩山政権への提言』/生活経済政策研究所編

このうちやはり興味深いのは駒村、大沢、宮本、小塩の4先生による座談会でしょう。

このなかのたとえばベーシック・インカムについてのやりとりも極めて本質を突いています。たとえば、

>宮本 気になるのは、今のベーシック・インカムの議論の潮流です。原理的には大沢先生が言うとおりなのですが、新自由主義者の側からベーシック・インカムが主張され始め、ホリエモンまでベーシック・インカムと言っている状況があります。心配なのはベーシック・インカムの水準はいつでも引き下げられるという点なんです。民主党の内部にはいろんな潮流があって、ベーシック・インカムが社民派と新自由主義的潮流とのある種の”手打ち”として突出していった場合、大丈夫かなと思うところがあります。

 ユニバーサルといった場合でも、北欧を見ていると、ユニバーサル給付の基本は所得比例なんです。就労との連携をつけた上で行う。児童手当は所得との連携はなく、どちらかというと補完的なポジションになるわけです。ですから、所得との連携を欠いたユニバーサル給付が突出するのは心配な面もあります。

>駒村 子ども手当については、今のベーシック・インカム議論の危うさも含めて考えないといけないということですね。

>大沢 私は勤労層、労働年齢人口についてはベーシック・インカムは反対です。子ども、障害者、高齢者限定です。

>駒村 勤労層についてはベーシック・インカムは避けた方がいいということですね。

>小塩 新自由主義者と社会民主主義者との”手打ち”、落としどころという意味はあるかも知れませんが、そこには貧困から抜け出すインセンティブがない。「とにかく最低限のことを国が保障します。あとは皆さんでどうぞ」という風に突き放してしまって、貧困層が就労インセンティブを持って入ってこられるのか、排除されないで普通の勤労生活を送れるのか、なかなかそうはならないと思うんです。

このアクティベーションの「魂」が抜けているという問題は、年金の議論についても同様です。宮本先生の言葉から。

>宮本 ・・・問題は、年金だけスウェーデン型を持ってきても成り立つわけがないということです。スウェーデンモデルでは、生活保障のシステム全体がアクティベーション型になっている中に、社会契約としての年金が埋め込まれているのです。ですから、社会全体の成長を一つの関数として、概念上の拠出建て立てがきちっと就労に見合った見返りとなって提供される明確なルールがある。それに対して、自公案はスウェーデンモデルから拠出建てを引っ張ってきたものの、結局、給付水準が従前所得に対して50%を切るか切らないかということばかりが問題になる。それはスウェーデンモデルにおける年金制度の魂ではないわけです。民主党案も、結果的に、税による最低保障年金だけをクローズアップしてしまっている。

先ほど小塩先生が言われたこととも重なりますが、現状として年金の保険料を払えない人がこれだけいるという事実があるわけです。これを税制に変えたって何も変わらないわけですよね。そこがあいまいにされたまま、マジックのように、税財源に転換すれば年金がよみがえるかのような議論になっていて、ここもアクティベーションの魂が入っていない。

まさしく、今日の雇用・社会保障の議論の混迷の根本は、この「アクティベーションの魂」が欠如したまま、小手先の議論ばかりがはびこることにあるのでしょう。

そのほかにも、ステークホルダー民主主義(という言葉は宮本先生は使いませんが)の観点から、(先日紹介したのと同様)こういう発言をしていますが、

>宮本 ・・・ただ、先ほどの民主党の民意集約の回路と関わっていえば、医師会であれ労働組合であれ、中間団体は全部バイアスがかかっているからと切り捨ててしまっていいのだろうか。デモクラシーの基本はアソシエーションです。根本に私的利害があるとしても、人々が自分たちの利益を反省し、公的に主張できる形に練り上げる場があることで、デモクラシーがそれなりの公共空間になっていく。そこを全部排除してしまって、巨大なマスが右に左に動くというデモクラシーにしてしまうのはいかがなものかという気がしています

この座談会で興味深いのは、雇用戦略会議がその担い手になりうるのではないかという希望をちらりと示している点です。

>宮本 ・・・また、雇用戦略会議が、産業全体が競争力を維持しつつ雇用を安定させていく労使協調体制の場として機能していくならば、ばらばらになっている様々な政策ツールがアクティベーションをベースにうまくつながっていくことも可能になるかも知れません。この雇用政策の展開を基盤に、労働と社会保障と税がベストミックスし、そこにアクティベーション型の年金政策がつながっていく形が切り開かれていけば、参加型社会のビジョンとして輪郭が明確になっていくと思います。

さて、どうでしょうか。

2009年12月23日 (水)

毎日新聞「論壇:この1年」で拙著が取り上げられました

毎日新聞12月21日夕刊に載った「論壇:この1年 「論壇をよむ」執筆者の4人語る」は、飯尾潤、中西寛、北田暁大、林香里の4人による今年の論壇の総括。

http://mainichi.jp/enta/art/news/20091221dde018040015000c.html

このうち、林香里さんによる「今年注目の3点」に拙著が選ばれました。

>◇注目浴びた雇用・貧困と人権問題 雑誌に続き新聞も危機の時代に

>雇用・貧困、人権を考える課題が多かった一方、活字メディアは低迷しつつある。

 雇用・貧困問題では、濱口桂一郎の『新しい労働社会』(岩波新書)と竹信三恵子の『ルポ雇用劣化不況』(同)が、新しい視点を提供した。前者は、欧州の政策を参照しつつ、日本の雇用政策の方向性を冷徹に分析した。後者は、専門職という終身雇用からはじかれた人の雇用劣化状況を指摘したのが興味深かった。

「日本の雇用政策の方向性を冷徹に分析」という評語はわたくしにとって会心のお言葉です。ありがとうございます。

2009年12月21日 (月)

元木健・田中萬年『非「教育」の論理』

Hikyouiku 日本学術会議の大学と職業の接続検討分科会でご一緒させていただいている田中萬年先生より、近編著『非「教育」の論理-「働くための学習」の課題』(明石書店)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.geocities.jp/t11943nen/tyosyo.htm

>本書は私の"Education"は「教育」ではなく「能力の開発」である、という論を発展させた「教育」を廃止する論理と、改革の展望としての新たな「働くための学習」を目指すべき、という考え方を各界の専門家にご批判とご提言を頂いた、「教育」のパラダイム転換を意図した論文集です。

「パラダイム転換」とは何か?元木さんの「序」から引用しますと、

>田中氏は、自身の実践の場であり、かつ研究対象である職業訓練が、我が国に置いて行政上は教育領域に位置づけられていないのみか、そもそも教育の為政者たちがその範疇にあるものと認識しておらず、さらには教育学者たちの多くが職業訓練や企業内教育を「教育」の概念から排除しているという事実について、常に疑問を呈していた。しかし、田中氏はそれにとどまらず、わが国の「教育」という概念そのものに疑問を有するようになったのである。

目次は次の通りです。

序   本書の意味するもの 元木健(大阪大学名誉教授)
第1章 非教育の論理-「教育」の誕生・利用と国民の誤解- 田中萬年
第2章 非教育の可能性-教育を脱構築する- 里見 実(國學院大学名誉教授)
第3章 マンパワー政策と非教育 木下 順(國學院大学教授)
第4章 「平和的福祉国家」と人間開発-教育の限界性の検討- 金子 勝(立正大学教授)
第5章 戦争と平和をめぐる教育と非教育の弁証法 山田正行(大阪教育大学教授)
第6章 教育概念と教育改革-労働と学習の結合の問題- 宮坂広作(東京大学名誉教授)
第7章 ドイツ教育学における一般陶冶と職業陶冶の関係-新人文主義教育を中心に- 佐々木英一(追手門大学教授)
第8章 職人の能力形成論-その予備的考察- 渡邊顕治(民主教育研究所事務局長)
第9章 管理された労働-企業内における技能形成のための教育訓練- 山崎昌甫(静岡大学・職業訓練大学校元教授)
対談  人間形成の根底と職業人育成のあり方とは 元木健・田中萬年

田中先生は、ご自身定時制高校卒業後当時の中央職業訓練所(後の職業訓練大学校)に進み、訓練指導員として職業訓練を考え続けたまさに「現場の知性」です。

教育学者というある意味で一番現場感覚のない人々の議論に感じ続けた違和感がこの本の第1章ににじみ出ています。

本ブログで取り上げた本田由紀先生の「職業的レリバンス」とも通じるものがありますが、たとえば、

>わが国の教育権論は職業能力を習得する権利について極めて軽視している。この理由の第一は、生存権を保障することは労働権であるという当然な論理の理解が弱いからである。労働権の主張が弱ければ、自立のための職業の習得を政府が保障すべきという要望が生まれるはずがない。「学校から社会への移行」というスローガン自体が学校のなんたるかを忘れていたことを示している。学校での学習期間は当然社会に出る準備期間である。教養だけで社会に出ても生きられないことを関係者も受講者も肝に銘ずべきである。・・・

まあ、ところが教育学の世界というのは教養だけで社会に出て生きられるようにすべきだと考える人々がうようよしているようなんですね。もし教養だけで社会に出て生きられたとすればそれはひとえに企業内教育訓練が面倒見てくれたおかげなんですが、そういうことは見えないのでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e7c7.html(「無能さ」を基盤原理とする教育理念)

ちなみに、日本学術会議の大学と職業の接続検討分科会の議論もそろそろ大詰めを迎えつつあります。

(追記)

黒川滋さんが本エントリにコメントされました。

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2009/12/1221-da5e.html(多くの人には「本当の学び」より人権を蹂躙されない教育が大事)

その中で、黒川さんの高校時代が明かされています。

>濱口桂一郎さんのブログを読んでいると、私が20年以上前に高校で主張したことがだんだん実になってきていることが見えてきて、世の中前には進んでいるんだと感じた。

私の入った高校は、当時大流行した管理教育に対するアンチテーゼが売りだったが、管理教育に対置するものが戦後の「民間教育運動」の流れの末にある、左翼版の教養主義に他ならなかった。

教育者と学校を信じている生徒は「本当の学び」をしていると信じ、ちょっとでも学校に背を向けている人には困った人だという扱い方をした。よくも「本当の学び」などと断定できるなぁ、と冷ややかに見ていたときに、私が仲間とやろうとしたことが、労働法の学習会だった。あと当時脚光を浴びたフランス社会党の自主管理とか。
結局、この高校を信じても信じなくても、運良く大学に進学できても、多くの同級生はやがて一度は社会で働くことになるから、「本当の学び」なんかより役に立つことを勉強できそうだ、と思ったからだ。
いくら太平洋戦争の本質を勉強したって、歌や踊りで民衆を感じ取ったって、その後社会に出て職場で人権を蹂躙されてしまったら、「世の中きれいごと言ってられないんだよ」って、現実主義に日和見するしかないってものでしょう(大学院進学と豊かなフリーターとゲージュツ家があまりにも多いのが出身校の特徴です)。

黒川さんの発想の根っこがわかる感じがします。

EU指令に見る男女均等の展開

日本ILO協会から刊行されている『世界の労働』11月号が「ジェンダー平等の国際的歩み-「国連:女性差別撤廃条約」採択30年-」という特集を組んでいて、その中にわたくしもEUの動きについて一篇寄せています。

わたくしのも含めて目次は次の通りです。

ジェンダー平等の歴史的展開     堀口悦子

日本の労働・社会保障分野の現状と課題  神尾真知子

日本の国連女性差別撤廃条約の現状と課題  山下泰子

EU指令に見る男女均等の展開    濱口桂一郎

「同一価値労働・同一報酬」原則の変遷と到達点  居城舜子

個人的に興味を惹かれたのは、居城さんの論文で、ヴェルサイユ条約やILO100号条約の成立プロセスを追いかけていて、法政策分析として興味深いものです。

なお、わたくしの論文は淡々と政策の流れを記述したものです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/eugender.html

2009年12月19日 (土)

松下プラズマディスプレイ事件最高裁判決

昨日出された松下PDP事件の最高裁判決が、早速アップされています。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20091218155652.pdf

新聞でも報道されているところですが、原審(大阪高裁)の判断を破棄しております。その理由は次の通りです。

>(1) 請負契約においては,請負人は注文者に対して仕事完成義務を負うが,請負人に雇用されている労働者に対する具体的な作業の指揮命令は専ら請負人にゆだねられている。よって,請負人による労働者に対する指揮命令がなく,注文者がその場屋内において労働者に直接具体的な指揮命令をして作業を行わせているような場合には,たとい請負人と注文者との間において請負契約という法形式が採られていたとしても,これを請負契約と評価することはできない。そして,上記の場合において,注文者と労働者との間に雇用契約が締結されていないのであれば,上記3者間の関係は,労働者派遣法2条1号にいう労働者派遣に該当すると解すべきである。そして,このような労働者派遣も,それが労働者派遣である以上は,職業安定法4条6項にいう労働者供給に該当する余地はないものというべきである。

しかるところ,前記事実関係等によれば,被上告人は,平成16年1月20日から同17年7月20日までの間,Cと雇用契約を締結し,これを前提としてCから本件工場に派遣され,上告人の従業員から具体的な指揮命令を受けて封着工程における作業に従事していたというのであるから,Cによって上告人に派遣されていた派遣労働者の地位にあったということができる。そして,上告人は,上記派遣が労働者派遣として適法であることを何ら具体的に主張立証しないというのであるから,これは労働者派遣法の規定に違反していたといわざるを得ない。しかしながら,労働者派遣法の趣旨及びその取締法規としての性質,さらには派遣労働者を保護する必要性等にかんがみれば,仮に労働者派遣法に違反する労働者派遣が行われた場合においても,特段の事情のない限り,そのことだけによっては派遣労働者と派遣元との間の雇用契約が無効になることはないと解すべきである。そして,被上告人とCとの間の雇用契約を無効と解すべき特段の事情はうかがわれないから,上記の間,両者間の雇用契約は有効に存在していたものと解すべきである。

この点が、実は原審の論理のもっとも脆いところであることはわたくしの判例評釈やそれを引いた中山慈夫さんの論文でも指摘されていたところです。

わたくしの原審評釈では、この点をさらに詳しく

http://homepage3.nifty.com/hamachan/nblhyoushaku.html

>職業安定法における「労働者供給」の定義と、労働者派遣法における「労働者派遣」の定義は、判旨1(1)の冒頭部分にあるとおりであるが、この定義をもって直ちにそれに続く議論を展開することは実はできない。なぜならば、職業安定法が原則禁止しているのは「労働者供給」という行為ではなく「労働者供給事業」という事業形態であり、労働者派遣法が規制をしているのは「労働者派遣」という行為ではなく「労働者派遣事業」という事業形態だからである。職業安定法上「労働者供給事業」の定義規定はないが、労働者派遣法上は「労働者派遣」の定義規定とは別に「労働者派遣事業」の定義規定がある。「労働者派遣事業」とは「労働者派遣を業として行うこと」をいう(2条3号)のであるから、業として行うのではない労働者派遣は労働者派遣法上原則として規制されていないことになる。
 もっとも、さらに厳密にいうと、労働者派遣法上「派遣元事業主」や「派遣先」を対象とする規定は労働者派遣事業のみに関わるものであるが、「労働者派遣をする事業主」や「労働者派遣の役務の提供を受ける者」を対象とする規定は業として行うのではない労働者派遣にも適用される。労働者派遣法上、この二つの概念は明確に区別されており、混同することは許されない。
 職業安定法上、「労働者供給事業」ではない「労働者供給」を明示的に対象とした規定は存在しないが、44条で原則として禁止され、45条で労働組合のみに認められているのは「労働者供給事業」であって「労働者供給」ではない。これを前提として、出向は「労働者供給」に該当するが「労働者供給事業」には該当しないので規制の対象とはならないという行政解釈がされており、一般に受け入れられている。
 以上を前提とすると、職業安定法4条6号と労働者派遣法2条1号の規定によって相互補完的に定義されているのは「労働者供給」と「労働者派遣」であって、「労働者供給事業」と「労働者派遣事業」ではない。経緯的には従来の「労働者供給」概念の中から「労働者派遣」概念を取り出し、それ以外の部分を改めて「労働者供給」と定義したという形なので、その限りでは「労働者派遣」でなければ「労働者供給」に当たるといえるが、ここでいう「労働者派遣」「労働者供給」はあくまでも価値中立的な行為概念であり、それ自体に合法違法を論ずる余地はない。「違法な労働者派遣」という概念はあり得ない。あり得るのは「違法な労働者派遣事業」だけである。そして、「労働者派遣事業」は「労働者派遣」の部分集合であるから、「違法な労働者派遣事業」も「労働者派遣」であることに変わりはない。
 本判決は、「労働者派遣法に適合する労働者派遣であることを何ら具体的に主張立証するものでない」ゆえに「労働者供給契約というべき」と論じているが、ここには概念の混乱がある。労働者派遣法による労働者派遣事業の規制に適合しない労働者派遣事業であっても、それが「労働者派遣」の上述の2条1号の定義に該当すれば当然「労働者派遣」なのであり、したがって両概念の補完性からして「労働者供給」ではあり得ない。「労働者供給事業」は「労働者供給」の部分集合であるから、「違法な労働者派遣事業」が「労働者供給事業」になることはあり得ない

と述べておりました。

次ぎに、偽装請負会社と労働者との関係はそれとして、派遣先の松下PDPと労働者の関係ですが、

>(2) 次に,上告人と被上告人との法律関係についてみると,前記事実関係等によれば,上告人はCによる被上告人の採用に関与していたとは認められないというのであり,被上告人がCから支給を受けていた給与等の額を上告人が事実上決定していたといえるような事情もうかがわれず,かえって,Cは,被上告人に本件工場のデバイス部門から他の部門に移るよう打診するなど,配置を含む被上告人の具体的な就業態様を一定の限度で決定し得る地位にあったものと認められるのであって,前記事実関係等に現れたその他の事情を総合しても,平成17年7月20日までの間に上告人と被上告人との間において雇用契約関係が黙示的に成立していたものと評価することはできない。
したがって,上告人と被上告人との間の雇用契約は,本件契約書が取り交わされた同年8月19日以降に成立したものと認めるほかはない。

ここでいう「前記事実関係」とは、具体的には

>なお,上告人とCとの間に資本関係や人的関係があるとか,Cの取引先が上告人に限られているとか,Cによる被上告人の採用面接に上告人の従業員が立ち会ったなどの事情は認められない

というものです。

この点も、わたくしの評釈において、

>そこで、本件において仮に就労開始前にXがYの事前面接を受け、YがXの「利用」を決定していたというような事実関係があれば、二重雇用契約が成立したと判断される可能性が高くなると考えられる。しかしながら、本判決においてはそのような事実は認定されておらず、二重雇用契約の成立を認めるのは困難と思われる。

と述べていたところです。ここは事実認定の問題なのですが、ひっくり返すような事実がでてこなかったということでしょう。ただ、これは本件ではそうであったということであって、現実に事前面接が広く一般的に行われていることを考えれば、派遣先との黙示の雇用関係が成立する事例は結構たくさんありそうです。

次は、反復更新法理による救済は出来ないという話。ここも、原審のロジックはきわめてアクロバティックなものでしたから、はじめから1回きりで切るつもりで実際にも1回きりで切った本件に反復更新法理を適用するのは無理筋というのは素直なところです。

>(3) 前記事実関係等によれば,上記雇用契約の契約期間は原則として平成18年1月31日をもって満了するとの合意が成立していたものと認められる。しかるところ,期間の定めのある雇用契約があたかも期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態で存在している場合,又は,労働者においてその期間満了後も雇用関係が継続されるものと期待することに合理性が認められる場合には,当該雇用契約の雇止めは,客観的に合理的な理由を欠き社会通念上相当であると認められないときには許されない(最高裁昭和45年(オ)第1175号同49年7月22日第一小法廷判決・民集28巻5号927頁,最高裁昭和56年(オ)第225号同61年12月4日第一小法廷判決・裁判集民事149号209頁参照)。
しかしながら,前記事実関係等によれば,上告人と被上告人との間の雇用契約は一度も更新されていない上,上記契約の更新を拒絶する旨の上告人の意図はその締結前から被上告人及び本件組合に対しても客観的に明らかにされていたということができる。そうすると,上記契約はあたかも期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態で存在していたとはいえないことはもとより,被上告人においてその期間満了後も雇用関係が継続されるものと期待することに合理性が認められる場合にも当たらないものというべきである。
したがって,上告人による雇止めが許されないと解することはできず,上告人と被上告人との間の雇用契約は,平成18年1月31日をもって終了したものといわざるを得ない。

なお、原審を評釈したわたくしにとって、一見地味ですが大変興味深いのは、原審の判断を維持した部分の論理構成です。

第一審以来認めているリペア作業の不法行為性はそのまま維持されていますが、それに加えて、

>これに加えて,前記事実関係等に照らすと,被上告人の雇止めに至る上告人の行為も,上記申告以降の事態の推移を全体としてみれば上記申告に起因する不利益な取扱いと評価せざるを得ないから,上記行為が被上告人に対する不法行為に当たるとした原審の判断も,結論において是認することができる。

と述べています。この点に関して、今井功裁判官の補足意見では、次のように論じています。

>本件契約書による上告人と被上告人との間の雇用契約は,白紙の状態で締結されたものではなく,上記のような事実関係の中で締結されたことを考慮すべきである。そうすると,この雇用契約は,大阪労働局の上記の是正指導を実現するための措置として行われたものと解するのが相当である。そして,原審の認定するところによれば,リペア作業は,平成14年3月以降は行われていなかった作業であり,ほとんど必要のない作業であるということができるのであって,被上告人が退職した後は,事実上は行われていない作業であった上,被上告人は,他の従業員から隔離された状態でリペア作業に従事させられていたというのである。被上告人が上告人に直接雇用の要求をし,また,大阪労働局に偽装請負であるとの申告をしてから,本件契約書を作成するに至る事実関係からすると,上告人は,被上告人が,大阪労働局に偽装請負であるとの申告をしたことに対する報復として,被上告人を直接雇用することを認める代わりに,業務上必要のないリペア作業を他の従業員とは隔離した状態で行わせる旨の雇用契約を締結したと見るのが相当である。このことは,労働者派遣法49条の3の趣旨に反する不利益取扱いであるといわざるを得ない。被上告人は,本件組合や弁護士と相談の上,その自由意思に基づき本件契約書に署名したとはいうものの,Cとの契約を解消して収入のない状態であり,上告人においても被上告人が収入がなく困窮していた事実を知っていたと認められるのであり,これらの事情を総合すると,上告人が被上告人をリペア作業に従事させたことは,大阪労働局への申告に対する不利益取扱いとして,不法行為を構成するということができる。平成18年1月31日の雇止めについても,これに至る事実関係を全体として見れば,やはり上記申告に対する不利益取扱いといわざるを得ない。

この部分は、わたくしの評釈の最後のところで、

>原審は素直にそれを認めた上で、リペア作業を命じた点についてのみ不法行為の成立を認めた。しかしながら、これは本件の全体構造からするといかにも局部的な問題に過ぎず、隔靴掻痒の感を与えるであろう。
 一つの解決の方向として、Xが労働者派遣法違反を訴えたことを実質的な理由として最終的に雇止めに至る雇用関係上の行為をとったことを全体として不法行為ととらえ、損害賠償を認める可能性があるのではないか。

と述べたことに対して適確に応答していただいたようにも感じられます。

働くことは大事である。だからこそ働くことを報酬にしてはならない

>人間はどうして労働するのか

http://blog.tatsuru.com/2009/12/16_1005.php

>、「働く」というのは、本質的には「贈与する」ということであり、それは人間の人間性をかたちづくっている原基的ないとなみである。

これはミクロの人間学としては正しい。少なくとも正しい面がある。

そして、マクロ社会的な原理としても、たとえば「捨て扶持」論的なベーシックインカム論に対して、人間にとって働くことの意義を説くという場面においてはきわめて重要だ。

私自身、『日本の論点2010』における「ベーシックインカムの落とし穴」のなかで、

>・・・なるほど、BIとは働いてもお荷物になるような生産性の低い人間に対する「捨て扶持」である。人を使う立場からは一定の合理性があるように見えるかも知れないが、ここに欠けているのは、働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりであり、認知であり、生活の基礎であるという認識であろう。この考え方からすれば、就労能力の劣る障害者の雇用など愚劣の極みということになるに違いない。

と述べた。

しかし、だからこそそれを労働を与えるものと受け取るものの関係に無媒介的に持ち出してはならない。

労使関係という社会的なルールの原理としては、あえてミクロ人間学的には問題をはらんでいても、

>「働くことは自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観

になにがしか立脚しておかなければならない。

そうしなければどういうことになるか。

仕事をやらせてもらえること自体がありがたい報酬なんだから、その上何をふてぶてしくも要求するのか、というロジックに巻き込まれてしまう。自分自身が自発的に権利を返上してしまうボランタリーな「やりがいの搾取」の世界。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_e58b.html(対談ナマ録)

>ところが、そこがだんだんひろがっていって、例えば、転じて、高齢者を介護をするとか、お世話するとかいう話になってくると、それを自己実現とか──そういう面があるのは確かなんですが──実はそれが自己実現であることが労働者としては、極めて、ディーセントでない働き方の状態を、人に対してだけでなく自分自身に対してもジャスティファイしてしまうようなメカニズムが働いてしまうのではないかと思うんです

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-d8ca.html(ボランティアといえば労働じゃなくなる?)

>もちろん、ボランティア活動はたいへん崇高なものではありますが、とはいえ親分が「おめえらはボランテアなんだぞ、わかってんだろうな」とじろりと一睨みして、子分がすくみ上がって「も、もちろんあっしは労働者なんぞじゃありやせん」と言えば、最低賃金も何も適用がなくなるという法制度はいかがなものか、と

そして、ブラック企業のメカニズムというのも、実はかなりこれに近いのではなかろうか。

働くことはそれ自体意味がある。だからこそ、働くこと自体を報酬にしてしまってはならない。

それは労働を与えるものと労働を受け取るものの関係で社会の仕組みを構成しているわれわれにとっては、譲ってはならない一線なのだと思う。

2009年12月18日 (金)

メンバーシップ契約はネットワーク時代に適合的?

「教授さん」の「週一タイムズ ジャズと読書の日記、小説、MBA経営学(経営戦略と組織論)」というブログで、拙著へのコメントがありました。

http://profshuichi.blog.so-net.ne.jp/2009-12-09-1(The Poll Winners [ジャズ日記])

このエントリは、別に拙著の書評ではなく、「The Poll Winners/ Barney Kessel, Shelly Manne and Ray Brown」というジャズの名盤について書かれたものなのですが、その中で話の流れで拙著で述べたメンバーシップ契約が出てきています。

>組織論の話とトリオの話をつなげると、名手といわれるトリオには、一人ひとりのプレーヤーが角が立っていてしかも全体として調和が取れている。良い組織もまったく同じ構造をしていると言われる。組織の中に個人が埋もれてしまうのではなく、かといって個人が組織の調和を乱すのでもない。

囲い込み型とか、内部労働市場とか、組織志向型と呼ばれる日本の組織は、これまで「個」をむりやりに「組織」にはめ込んできた。まさに出る杭は打たれた。日本型の官僚制企業が産業化してこのかた1世紀もの長い間、世の中を支配してきたのだ。

官僚制の時代が終わりつつある今、良い組織はどのような形態に変わるのだろうか。ひとつのもっとも確率が高い答が「ネットワーク組織」への変化だ。官僚制からネットワークへ、構造が変わるにつれて個人のキャリアパスも変わっていく。

案外日本はネットワーク組織の時代に適合できるのではないか、と僕は楽観視している。もともと日本企業は、欧米企業と異なり、「職務」jobシステムで構築されていない。職務を単位に採用や雇用の管理を行ってこなかった。労働に関する契約なのに、どんな仕事をするかを決めないのだ。単に所属だけを決めて採用する。だから法律家によれば、日本の雇用契約は法律的には世界的に見ると実に特殊なもので、地位設定契約ないしメンバーシップ契約だという説がある(濱口桂一郎『新しい労働社会』岩波書店、2009年)。

その柔軟さがネットワーク組織にはうまくはまるかもしれない。

メンバーシップ契約論をこういうふうにネットワーク組織に適合的という観点から受け止めていただいた書評は、いままでのところ見かけていないのでその意味では新鮮です。

ただ、実は日本型組織原則が非官僚制的で融通無碍であるという指摘は、日本的経営論で繰り返しされてきたことでもあります。その「フレクシビリティ」の光と影が労働問題の観点からは論点になるわけですが。

2009年12月17日 (木)

アソシエーションの再生

0283510 岩波書店から刊行され始めた『自由への問い』というシリーズの第1冊目の『社会統合』(齋藤純一編)は、いささか哲学的な議論が多くて、正直あまりのめり込めない感じではありますが、冒頭の齋藤純一さんと宮本太郎先生の対談がなかなか面白いです。

面白いと言っても、宮本先生の「アクティベーション」を齋藤さんは「プロモーション」と呼んでいるんだなあ、ということなんですが、

>社会的な協働の外側ではなく内側に自分の生があり、それに参画しているという自己了解が得られ、それが「誇り」や「自尊」の感情を可能にするのではないでしょうか。社会的な協働への参画を促し、出番を作り出していくような生活保障の制度がやはり必要だと思います。

という「プロモーション型の生活保障」というのは、わたくしが『日本の論点2010』で述べた「捨て扶持」型ベーシックインカム論とはまったく異なるものだと思います。

あと、宮本先生が後ろの方で、「アソシエーションの再生」という表現でこういうことを述べていたのが心に残りました。わたくしからするとこれは(使う人によっては自発的結社というインプリケーションが強すぎる)「アソシエーション」という言葉を使うより、「ステークホルダー民主主義」の理念を語ったものというべきではないのだろうか、とむしろ感じたところです。

>いま日本の政治全体の流れとして、医師会とか農協とか労組とかの中間団体は、これまで官僚制にぶら下がって生き延びてきた、民主主義にとってきわめて不純な要素として処理されがちです。民主主義にとって百害あって一利なしであり、そのしがらみから民主主義は自由にならなければいけない、と。こうしたあまりに単純な民主主義観のもと、不純な集団と結びついた官僚制を政治家が押さえ込むのだという図式で民主主義の成熟のものさしが見いだされている。これはいかがなものかと私は思う。具体的にいうと、その政治家たちはどこで民意を汲み上げるのかという議論が完全に抜け落ちているからです。

>つまり大きな「われわれ」は小さな「われわれ」の集まりなのであって、それは医師会も農業団体も労組も女性団体も、障害者の団体も外国人の団体もそうなんです。こうしたアソシエーションの束として、大きな「われわれ」性が実現するわけです。

これはたぶん、すごく大事なことを語っているように思います。ここで宮本先生が言う「あまりに単純な民主主義観」は、先週のエントリで本田先生の本を引いて

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e7c7.html(「無能さ」を基盤原理とする教育理念)

>「医者にならなくても医療問題を考えること、大工にならなくても建築問題を考えること、プロのサッカー選手にならなくてもサッカーについて考え批評すること、そして官僚にならなくても行政について考え批評すること」

>完全にあらゆることについて「無能」でありつつ政治的にのみ発言するような「市民」

>何の芸もないくせに偉そうに能書きだけ垂れるような類の人間

を至上と考えるような発想と、どこかでつながっているような気がします。その挙げ句が:

>をいをい、「労働者の立場を尊重する」ってのは、どこか遠くの「労働者」さんという人のことで、自分のことじゃなかったのかよ

ちなみに、このシリーズの第6巻『労働-働くことの自由と制度』では、わたくしが「正社員体制の制度論」という小論を書いております。来年には刊行される予定です。

日本経団連と連合が三者構成原則の堅持を確認

02 『日本経団連タイムズ』12月15日号に、「日本経団連が連合と懇談会-労働政策決定プロセス、三者構成の堅持を確認」という記事が載っています。

http://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/times/2009/1215/02.html

>また、雇用問題に関連して、労働政策の決定プロセスや労使の果たす役割の重要性についての言及が双方からあった。日本経団連からは、労働政策は企業経営や労働者の生活に密接に関わり、多大な影響を及ぼすことから、企業の実態を把握している労使が議論して合意した内容をベースとすることが重要であり、公労使の三者で構成される労働政策審議会の結論が最大限尊重されるべきとの見解を表明。さらに、過去の経験や教訓を踏まえた労使共同の取り組みが社会の安定をもたらすとして、互いの主張や考え方を理解しながら社会の安定に向けて労使が共同歩調を取っていくことの重要性を強調した。

連合からも、「政策立案システムがどのようになろうとも、労働政策の立案に関しては、公労使三者構成の枠組みを維持すべき」「民主主義国家における政策決定は、最も重要な利害関係者である労使の代表に、政府が加わった三者協議で、一方の利害に偏することがない結果を導くのが常道である」など、同様の意見が相次いだ。

>閉会あいさつで古賀会長は、「雇用問題に対する処方箋は一つではなく、重層的な対応が必要」との認識を示すとともに、互いに力を合わせて何ができるのかを事務局レベルで検討したい旨を発言。さらに、労働政策決定プロセスについて、「(公労使)三者構成を堅持することの重要性を認識し合えたことは大変意義のあること」と評価した。

これを受けて御手洗会長は、両団体事務局レベルによる共同取り組みの検討開始や、労働政策決定プロセスの堅持について賛意を示したうえで、「協力できるものは協力し、この危機的状況から脱出して持続的な経済成長につなげることがすべての問題を解決するという強い共通認識を持って政府にも働きかけ、適切な政策を求めていきたい」と締めくくった。

労使双方が三者構成原則の堅持を確認し合ったことは大変重要な意義があります。

2009年12月16日 (水)

拙著短評

「読書日記」さんが拙著『新しい労働社会』について短評をされていました。

http://dokusyomemo.seesaa.net/article/134255292.html

>☆8つ 著者くらいの人物にならないと見えない部分が書いてあるのは貴重。しかし、読者層を考慮してもっと平易な書き方をしてほしかった。難解なカタカナ語、固定的な労働組合のあり方等 共感できない点もあった。

著者としては、(普通の研究者の書くものに比べれば)思いっきり平易に書いた上に、岩波書店の方のご指導でさらに平易にしたつもりなのですが、それでもなお難解なのですね。

「難解なカタカナ語」というのも、無理に日本語に直そうとするとなおさら難解になってしまう面があるのでなかなかむずかしいところなのです。

最後の「固定的な労働組合のあり方」というのは、まさに第4章の考え方自体に対するご異論であって、それはそのようにお感じになるのはなんら不思議ではありません。あえて違和感を引き出すように書いた面もあります。むしろ、そこのところから議論を始めてほしいとおもっているのです。

2009年12月15日 (火)

『季刊労働法』2009年冬号(227号)

Tm_i0eysjiyn42g 『季刊労働法』の最新号が刊行されました。

http://www.roudou-kk.co.jp/quarterly/archives/004343.html

>特集では、近時改正法令のポイントと課題を点検します。改正労働基準法は長時間労働を解消するのか、改正育児介護休業法は男性の育児休業取得をどこまで推し進められるのかなどといった焦点について検討します。
その他、改正雇用保険法、「職場における心理的負荷評価表」の改正についても言及します。

ということですが、内容はそれぞれに興味深いものですが、特集としてはいささか散漫な感じがします。もう少し焦点を絞るというやり方はなかったのかな?という印象です。

特集
近時改正法令の意義と課題

労基法改正と企業実務への影響
 専修大学教授 廣石忠司

育児・介護休業法改正の意義と立法的課題
 ―2009年法改正が残したもの―
 日本大学教授 神尾真知子

2009年雇用保険法改正によるセーフティネットの再構築
 佐賀大学准教授 丸谷浩介

職場における心理的負荷評価表の改正とその影響
 大阪大学准教授 水島郁子

企業年金連合会「DCあり方検討会」の最終報告書(ハンドブック)と実務的ポイント
 企業型確定拠出年金の今後のあり方に関する検討会 上田憲一郎

廣石さんの最後の言葉はなかなか辛辣です。

>以上のように考察すると、今回の法改正は極端に言えば企業実務にとって(労組・労働者にとっても)面倒なことばかりで、労働者の時間外労働の削減、年休消化率の促進には必ずしもつながらないように思われる。

>・・・使い勝手の悪い制度は結局使われないで終わってしまう。本稿で述べた私見が杞憂に終われば幸いである。

この「杞憂」が全面的に展開されているのが、今号のおそらく最大の目玉商品であろうと思われる豪華座談会です。

■座談会■
労働時間規制の現状と課題
 早稲田大学教授 島田陽一
 名古屋大学教授 和田 肇
 労働政策研究・研修機構主任研究員 小倉一哉
 経済産業研究所上席研究員 鶴 光太郎
 連合・参与(前総合労働局長) 長谷川裕子
 トヨタ自動車人事担当部長 荻野勝彦

>今回の改正労基法では、長時間労働対策として、割増率の引き上げ等が盛り込まれましたが、これでは不十分という声もあります。
今回の労基法改正は「法と実態が乖離する」裁量労働制、管理監督者に触れていませんし、ホワイトカラーにおける労働時間制度の未来像に関する議論は小康状態にあります。「長時間労働対策」と「法と実態の乖離」については、近い将来、なんらかの立法的解決が望ましいのではないでしょうか。
この2つの問題点を中心に、労働時間規制の今後の在り方を討論します

これはもう、読んでください、ですね。労働時間問題について、徹底して本当に議論すべきことを議論しています。

ちなみに、労務屋さんこと荻野さんが、最後の一言で「ヒラの人たち」が真面目に働く社会のあり方を擁護しつつ、

>確かに長時間労働は問題だと思います。弊害もあります。でも、あまり働くな、働くな、働かないことがいいことだというようなことになるのはまた怖いなと思います。そこのところがともするとないがしろになっていると思いますので、改めて申し上げたかったということです。

と述べておられるのは、最近「吐息の日々」で宮本・勝間対談に対して漏らされた「階級社会にしたいの?」という皮肉混じりの「吐息」とも通じるものがあり、突っ込むといろいろと議論のネタが出てきそうです。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20091211宮本・勝間対談

>いや失礼かつ下品なあてこすりでさすがの私もかなり気がさすのではありますが、しかしこのエースストライカー・ディフェンダー論というのは、一歩間違うとこういう階級社会になってしまいかねませんよというのは真剣に心配したほうがいいと思うのですが。宮本先生はもちろんそんなことはないと思うのですが、勝間さんは案外階級社会でいいじゃないのと思っておられるかもしれませんが…そんなことはありませんかね。

さて、それ以外の論文は次の通りですが、

■集中連載■比較法研究・中小企業に対する労働法規制の適用除外
中小企業に対する労働法規制の適用除外に関する共同比較法研究
 ―連載を終えるにあたって―
 神戸大学大学院法学研究科教授 大内伸哉

■労使が読み解く労働判例■
松下プラズマディスプレイ(パスコ)事件
 (大阪高判平成20・4・25労判960号5頁)
 成蹊大学准教授 原 昌登

■研究論文■
団結権侵害を理由とする損害賠償法理(2)
 北海道大学教授 道幸哲也

雇用改革の失敗と労働法(1)
 ―さらなる立法を考える
 青山学院大学教授 手塚和彰

フランスにおけるテレワーク
 ─全国職際協約による法的枠組みの考察を中心に
 中京大学准教授 柴田洋二郎

■書評論文■
日本の労使関係の法化をめぐる理論動向
 ─2008年8月?2009年7月の著書から
 琉球大学教授 矢野昌浩

■神戸労働法研究会■
子会社解散・解雇と親会社の法的責任
 第一交通産業ほか(佐野第一交通)事件を素材として
 三重短期大学准教授 山川和義

■北海道大学労働判例研究会■
津守自動車教習所ほか事件
 大阪地判平成20.11.26労判981?107
 弁護士 開本英幸

■筑波大学労働判例研究会■
労働保険料認定決定処分が取り消された事例
 東京労働局長ほか事件 東京地判平成20年2月15日判タ1277?60
 社会保険労務士 北岡大介
 

■連載■
個別労働関係紛争「あっせんファイル」(連載第9回)
台湾における労使紛争解決制度と民間委託あっせん
 九州大学教授 野田 進

労働法の立法学(連載第21回)――在宅労働の法政策
 労働政策研究・研修機構統括研究員 濱口桂一郎
 

アジアの労働法と労働問題?
シンガポールにおける単純外国人労働力受け入れ法制の紹介
 青山学院大学教授 藤川久昭

わたくしの連載は今回は「在宅労働」です。「家内労働」と「在宅ワーク」という非雇用型ホームワークに関する法政策の歴史をたどっています。

そして、あんまり目立たないかも知れませんが、大変興味深い論点を扱っているのが北岡大介さんの判例評釈です。この判決、実はかつて本ブログで取り上げたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-e822.html(建売住宅の労働保険料は誰が払うべきか?)

そこでも「さて、いささかマニアックな労働法の話です」といったくらい、ある意味でマニアックな話ですが、労働行政からするとなかなか深刻な問題でもあるんですね。

2009年12月14日 (月)

『プラクティス労働法』(信山社)

41hqjn2bn64l 山川隆一編『プラクティス労働法』(信山社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.shinzansha.co.jp/091111practice-roudhou.html

リンク先にあるように、山川隆一先生を除けばいずれも若手労働法研究者と若手弁護士によるテキストです。皆川宏之、櫻庭涼子、桑村裕美子、原昌登、中益陽子、渡邊絹子、竹内(奥野)寿といった研究者の方々は、いずれもわたくしが東大に客員教授として派遣され、毎週労働判例研究会に顔を出していた頃の大学院生や助手でおなじみの皆さんばかりです。弁護士の野口彩子、石井悦子のお二人は山川先生のロースクールでのお弟子さんですね。

「労働法の基礎をきちんと身につける」というコンセプトの教科書です。前書きに曰く

>雇用・労働の世界においては、日々新しい問題が生じ、対応が求められている。そして、個々の紛争の解決には、それぞれの内容や背景に応じて、「事件の裏を読み」、「落としどころ」を探るなど、いわば玄人的・応用的な対応が求められることがある。しかし、初学者が、法的三段論法や要件・効果といった法的考え方の作法、あるいは労働法の基礎がきちんと身についていないままでそうして応用的な対応に走ることは、かえって有害だと思われる。マーク・トウェインの「歳をとってからルールを破る力を持つために、若いときにはルールに従っておいた方がよい」というアドバイスは、法的な考え方のルール(作法)にも当てはまるであろう。

これはいろいろな意見があるところかも知れません。

『季刊福祉労働』125号

Isbn9784768423257 現代書館から発行されている”障害者・保育・教育の総合誌”『季刊福祉労働』の125号が「ソーシャルインクルージョンに向けて 新政権への提言」という特集を組んでおりまして、

http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-2325-7.htm

>「官僚政治から国民の生活第一の政治に」を謳って政権交代を実現した民主党のマニュフェストを中心に、あるべき社会像を問い、そのために何が必要なのか、負担をどうするのか、排除と競争社会から共生社会へ転換するための政策を提言する。

[著者紹介・編集担当者より]
障害者、高齢者、難病の人、ワーキングプア、失業者、子育て世代、母子家庭、在日外国人等、社会的に排除されやすい立場の当事者、現場の従事者、研究者から共生社会に向けて政策をチェックする。(猫)

その中に、わたくしも「新しい賃金と社会保障のベストミックスを」という文章を寄稿しております。

大きな書店や図書館であれば置いてあるのではないかと思います。

本田由紀『教育の職業的意義』謹呈御礼

9784480065230 本ブログで既に2度にわたって紹介しましたが、本田由紀先生より近著『教育の職業的意義』(ちくま新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-4576.html(本田由紀『教育の職業的意義』(ちくま新書))

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e7c7.html(「無能さ」を基盤原理とする教育理念)

あらためて、本田先生の一番いいたかった(と思われる)ことを、第5章末尾の文章を引いてここに写しておきます。

>現在の日本社会では、教育を受けるには個人や家庭が多大な費用を負担しなければならず、かつ受けた教育がその後の生活のたつきを築く上でいかなる意味があるのか不明である場合が多く、それにもかかわらず教育が欠如していることは様々な不利を個人にもたらす。しかも、教育から外の社会や労働市場に出れば、ある程度安定した収入や働き方をどうすれば獲得できるかの方途も不明であり、一度不安定なルートに踏み込めば、その後の挽回の機会は著しく制約される。度を超して過重な仕事、あまりに賃金の低い仕事にはまりこむ危険の高さは、まるでおびただしく地雷の埋まった野原を素足で歩いていかなければならない状態と似ている。

>今の日本社会が若者に用意しているのはこのような現実だ。それを作ってきたのも、それに手を拱いているのも、多くは若者より上の世代の人間たちである。このままでは、教育も仕事も、若者たちにとっては壮大な詐欺でしかない。私はこのような状態を放置している恥に耐えられない。

>「教育の職業的意義」を高めるという私の主張は、自分よりも後から世の中に歩み入ってくる若者たちに対して、彼らが自らの生の展望を抱きうるような社会を残しておきたいという思いから立ち上がってきたものである。すでに述べたように、それは社会というパズル全体の中であくまで一つの、しかし欠くことのできない重要なピースである。本書で述べてきた筆者の認識や提案を世に問うことで、閉塞した現状が少しでも動き出してくれればと願う。

本書全体からそういう思いが立ち上ってくるような本です。

2009年12月12日 (土)

『労使コミュニケーション』(ミネルヴァ書房)

51603 今月発行予定の本を紹介しておきます。ミネルヴァ書房から刊行されている『働くということ』というシリーズの第5巻の『労使コミュニケーション』です。この巻の編者は久本憲夫先生。

http://www.minervashobo.co.jp/book/b51603.html

>働くことをめぐるルールは、現在どのようになっているのか。派遣法など法律の改正ばかりが注目されているが、実際により重要なのは、自生的につくられてきた労使関係ルールとその近年における変化である。本書では、日常的な労使関係、あるいは労使コミュニケーションを鳥瞰したうえで、働くことに関係する主要なアクターたちの全体像を描く。

目次は次の通りですが、

序 章 労使関係の現在

 第Ⅰ部 課題解決に向けて
第1章 「働くルール」としての労使協議
    --成果主義化と企業組織再編を事例として
第2章 個別労使紛争と紛争処理システム
    --労使紛争解決の過去・現在・未来
第3章 長時間労働について
    --日本人の働きすぎを考える
第4章 雇用調整・解雇の変化と労働法
    --外部労働市場の考慮と非典型雇用問題への対応
第5章 女性と労働組合
    --「男性稼ぎ主モデル」の視角から
第6章 公務労使関係の変化
    --庁内労使関係を中心に

 第Ⅱ部 労使関係のアクターたち
第7章 日本の経営者と取締役改革
    --執行役員制度導入の決定要因と効果
第8章 使用者団体の活動
    --構成員の共通目的と活動の変遷
第9章 企業別組合
    --労使協議制の現状と労組への期待
第10章 産業別組織とナショナル・センター
    --連帯と協同
第11章 労働行政
    --その推移と三者構成原則


あとがき
事項索引

わたくしは第11章の「労働行政」を担当しています。労働行政の推移に加えて、三者構成原則の歴史についても触れております。

51572 ついでに、同じシリーズの第1巻「働くことの意味」についても紹介しておきましょう。

http://www.minervashobo.co.jp/book/b51572.html

>労働の意味、仕事意欲、職業倫理、そして余暇……「働くということ」をめぐる多彩な視点からの提言。

人はなぜ働くのか、どのように働けばいいのか。ますます多様化する人間と労働の関係について、古今東西の哲人や偉人の思想を踏まえたうえで、哲学、倫理学、経済学、経営学、心理学、社会学など様々な観点から再評価する。

はしがき
 第Ⅰ部 人にとって「働く」とはどういうことか
第1章 働くということ
    --偉人はどう考えたか
第2章 人間にとって労働とは
    --「働くことは生きること」
第3章 人間にとって余暇とは
    --「余暇の大切さと日本人の思い」
第4章 仕事意欲
    --やる気を自己調整する
 第Ⅱ部 働く人を取り巻く諸問題
第5章 職業の倫理
    --専門職倫理に関する基礎的考察
第6章 21世紀における「よい仕事」とは何か
    --企業倫理学からの応答
第7章 ベーシック・インカム
    --働くということが当たり前ではない時代の生活保障
第8章 ソーシャルファイナンスに見る、これからの「働き方」
    --育てつつ事業を行う可能性
第9章 経済と倫理
    --公正でより善い社会のために
人名・事項索引

2009年12月11日 (金)

『社会保障と経済1 企業と労働』(東大出版会)

9784130541312 以前本ブログで刊行を予告しておりました『社会保障と経済』全3巻の第1巻『企業と労働』が、東大出版会から刊行され、わたくしの手元に届きました。

http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-054131-2.html

全3巻の編者は、宮島 洋, 西村 周三, 京極 髙宣の3人ですが、第1巻の編集はこのうち京極先生と同じ社人研の勝又幸子さんです。目次は次の通りで、わたくしは第5章の「雇用戦略」を執筆しております。

>内容紹介

社会保障は単なる法律・制度・行政・サービスであるだけでなく,人びとの就労や企業活動と密接に関係し,また経済成長とも深く関わり合っている.「企業と労働」という視角から,経済と社会保障を結びつける新たな理論と政策課題を明らかにする.

>I 理論と政策
1章 社会保障経済の一般的関係(京極髙宣)
2章 福祉レジーム変容の比較と日本の軌跡(新川敏光)
3章 生活保障としての働き方と技能形成の変化(西村幸満)
4章 社会保障の機能強化と労働組合の役割(小島 茂/麻生裕子)

5章 雇用戦略(濱口桂一郎)
II 社会保障と雇用、ワーク・ライフ・バランス
6章 企業内福利厚生と社会保障(西久保浩二)
7章 女性のライフサイクルからみた労働と社会保障のあり方(川口 章)
8章 女性の就労支援と児童福祉(野口晴子)
9章 高年齢者雇用の進展と社会の発展(高木朋代)
III 社会保障と産業
10章 保育サービス準市場の現実的な制度設計(鈴木 亘)
11章 社会的企業における障害者雇用戦略(勝又幸子/赤星慶一郎)
12章 企業の社会的責任と社会保障(鈴木不二一)

わたくしのはEUの雇用戦略の紹介がメインで、日本の今後の在り方についてのコメントを付け加えたものですが、本巻で一読の価値があるのは第4章の労働組合の社会保障政策について論じたところです。連合の小島さんと連合総研の麻生さんが戦後の流れを解説していて、なかなか興味深いです。

「無能さ」を基盤原理とする教育理念

昨日のエントリでご紹介した本田由紀先生の新著ですが、大部分は既にお聴きしたり読んだりしたことですが、中にいくつか初めて伺う興味深い話が載っています。

その一つが「職業的意義のある教育は危険だ」という「ラディカルな左翼」系の議論の一つで、とりわけ教育学の中で近年強調されている「シティズンシップ教育」の中で、教育の職業的意義を退けるような議論がされていると指摘されています。

ここは大変面白いのでやや長く引用しますが、

>たとえば「シティズンシップ教育」の代表的な提唱者の一人である小玉重夫は、著書の中で、「政治的な自立の課題と職業的な自立の課題を、関連し合いながらも相対的には別個の性格を持つものとしていったんは分節化して捉えた上で、公教育の教師の仕事を、主として政治的な自立の課題に焦点化することを考えるべき時が来たように思われる」と述べている。また小玉は、別の論考では、「「無能な者たちの共同体」としての政治と強く結びついた教育というものを考えることができないだろうか」とも問いかけている。すなわち、何かに習熟すること、できるようになることを目指す教育は、「有能な者たち」のための教育であるのに対して、小玉は、「医者にならなくても医療問題を考えること、大工にならなくても建築問題を考えること、プロのサッカー選手にならなくてもサッカーについて考え批評すること、そして官僚にならなくても行政について考え批評すること」といった例を挙げ、そうした誰にでも開かれた「無能な者たち」のための教育が重要であると論じている。

思わずいろいろコメントしたくなる一節ですが、ここは黙って本田先生のコメントを聞きましょう。

>「教育の政治的意義」と「教育の職業的意義」の、いずれがより重要であり優先されるべきかといった議論が、一般社会から見れば馬鹿馬鹿しいことはいうまでもない。にもかかわらず、ここで「シティズンシップ教育」論にこだわるのは、それを掲げる教育学において、暗黙裏に「政治的意義」の方に価値がおかれ、「職業的意義」を全否定はしないながらも低く見、議論の埒外に置く傾向が看取されるからである。・・・

>しかし、完全にあらゆることについて「無能」でありつつ政治的にのみ発言するような「市民」は想定しがたい。シャンタル・ムフが述べているように、「政治的なもの」が個々の人の立場性やその敵対性を不可欠の基盤とするのであれば、そうした立場性を欠いた一般的な「政治性」を、まだ社会に出る前の子どもや若者に埋め込もうとする企図は、挫折を余儀なくされるはずである。

>また、人々の「無能さ」を基盤原理とするような教育理念は、教育に対する社会の人々からの期待や要求とも乖離していると考えられる。・・・

正直言って、何の芸もないくせに偉そうに能書きだけ垂れるような類の人間を大量生産することが教育のもっとも崇高な目的であるといった議論が堂々と展開されていることに、いささかの驚きを禁じ得ません。

こういうことをいうとすぐに「従順さを調教」とかなんとかという議論が出てくるので、本田先生は繰り返し、教育の職業的意義における「適応」と「抵抗」の両面の契機を強調されるわけですが、なかなか通じないんでしょうね。

個々の人の立場性に立脚した「政治性」とは、たとえば労働者であれば労働者としての権利をきちんと主張していけるようにすることであって、自分と直接関係のないことに能書きを垂れることではないはずです。本田先生は手回しよく、200ページ以下で労働者の権利教育に触れ、その重要性を強調しています。

このあたり、かつて赤木智弘氏の議論に触れて述べたことを想起させます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

>>男性と女性が平等になり、海外での活動を自己責任と揶揄されることもなくなり、世界も平和で、戦争の心配が全くなくなる。

>で、その時に、自分はどうなるのか?

>これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか?

をいをい、「労働者の立場を尊重する」ってのは、どこか遠くの「労働者」さんという人のことで、自分のことじゃなかったのかよ、低賃金で過酷な労働条件の中で不安定な雇傭を強いられている自分のことじゃなかったのかよ、とんでもないリベサヨの坊ちゃんだね、と、ゴリゴリ左翼の人は言うでしょう。

2009年12月10日 (木)

本田由紀『教育の職業的意義』(ちくま新書)

9784480065230 職業レリバンス派の女王(?)本田由紀先生が、そのものを標題にした新書を出されました。

現在、日本学術会議の「大学と職業との接続検討分科会」でご一緒させていただいているわたしには、毎回お聴きして耳になじんでいるお話しですし、もちろんそれ以前から本田先生があちこちで力説してこられたことの総まとめですので、全体に特に新しい議論を展開されているわけではありませんが、一般向けの新書で「レリバンス」(という言葉はほとんど出てこず、もっぱら「意義」とされていますが)論を普及させる上では意義深いと思います。

特に、普通は最後に来るようなレリバンス論への否定的な意見に対する反論を序章で一気にぶつけているのは、読者へのショック療法という意味ではなかなか興味深いやり方です。具体的には、

①「教育に職業的意義は不必要だ」

②「職業的意義のある教育は不可能だ」

③「職業的意義のある教育は不自然だ」

④「職業的意義のある教育は危険だ」

⑤「職業的意義のある教育は無効だ」

という5つの否定的反応を提示して、次々にそれらに対する反論を極めて端的に繰り出していきます。書店で立ち読みする読者はまずここを読んで、プロであれコンであれ、その先の議論に興味をそそられることでしょう。なかなか戦略的に作られています。

上記学術会議の分科会での議論からいうと、とりわけ大学教育の職業的レリバンスについては、総論はよくわかった、問題は各論だという感じがしています。本書で本田先生は職業観中心の「キャリア教育」や汎用的なジェネリックスキルに対して極めて批判的なスタンスを示しているわけですが、現実のとりわけ社会科学系に顕著なレリバンスに乏しい大学教育の内容をどうしていくのか、というより具体的次元の回答をそろそろ用意しなければならないのではないかということですね。

意外に思われるかも知れませんが、そういう議論をたとえば法学部教育や経済学部教育という内在的な立場からまともに議論したものはほとんど見当たりませんし、文学部において職業的レリバンスとは何か?といった問いに真剣に答えようとしたものも記憶にありません。この各論の欠落は今後議論を深めていく上で結構深刻な問題ではないかと思っています。

本気で突き詰めていくと、今のような卒業してからの仕事とほとんど無差別な法学部や経済学部などといったファカルティを今のような膨大な規模で維持する社会的意味はあるのか?という問題に突き当たるはずなのですが、そこを維持することを所与の前提に議論をしていくと、結局職業レリバンスという名の汎用的ジェネリックスキルになってしまうのではないか、というのが、わたしの最大の疑問点です。

ちなみについでに宣伝ですが、本の中で引用されているOECDの「Jobs for Youth」日本編の翻訳がいよいよ大詰めで、来年の早いうちに明石書店から出版される予定です。

山口一男『ワークライフバランス』

4532133785 山口一男さんの『ワークライフバランス-実証と政策提言』(日本経済新聞出版社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

本書は、

>少子化問題はお金だけで解決しない!働き過ぎ、男女不平等、少子化…日本で依然際立つワークライフアンバランスの真因を最新の手法で鮮やかに分析、実効性のある改革案を提言する。

ということで、次のような内容からなっています。

第1章 本書の目的とその社会的背景
第2章 少子化の決定要因と対策について―夫の役割、職場の役割、政府の役割、社会の役割
第3章 女性の労働力参加率と出生率の真の関係について―OECD諸国の分析
第4章 夫婦関係満足度とワークライフバランス
第5章 男女の賃金格差解消への道筋―実証的根拠と理論的根拠
第6章 過剰就業(オーバー・エンプロイメント)―非自発的な働きすぎの構造、要因と対策
第7章 政策提言―日本再生への理念と道筋

このうち、第6章の「過剰就業」という論文については、経済産業研究所のHPに載ったときに、本ブログで取り上げたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-5d65.html(過剰就業(オーバー・エンプロイメント)―非自発的な働きすぎ)

日本の雇用システムの在り方に対する認識はかなりの程度わたくしと共通するものがありますし、そこを強調してもよいのですが、ここでは最後の政策提言のところを取り上げておきましょう。おおむね賛成なのですが、なかにはいささか疑問のあるところもあります。

7.3.1教育政策

7.3.1.1政府の財政支援

>政府の教育に対する財政支援では、高等教育(大学および大学院)に関して授業料負担軽減を充実させるべき

賛成なのですが、拙著でも述べたように、政府が財政負担をしてまで援助すべき高等教育は消費財ではなく社会的投資でなければならないでしょう。

7.3.1.2「育児と社会」教育

>高等学校教育を通じて「社会のなかにおける育児」という観点からの基礎知識を与える

これはユニークな提言です。

7.3.2少子化対策政策

7.3.2.1未婚者の結婚機会の増大を目的とする政策

>雇用制度改革政策と、ソーシャライゼーションの過程における時間の質が重要

7.3.2.2両立支援策あるいは結婚や出産・育児の機会費用を減じる政策

>育児休業期間を、現在の有給の育児休業期間だけではなく、無給で期間延長できる形を、フランスやスペインのように最大3年などと定める

これはいろいろと意見のあるところでしょう。

7.3.2.3出産・育児の「家計予算制約」を緩和する政策

>子ども関係の費用にのみ用いることのできるバウチャーの政府発行が考えられる

子ども手当は子ども以外の目的に使われる恐れがあるので、バウチャーにすべきだということですね。まあ、確かに親も信用しかねるところはありますから。

7.3.2.4出産・育児について個人が持つ社会的障害を取り除く政策

>不妊症治療費についての政府援助

7.3.2.5出産・育児の心理的負担を緩和し、育児の喜びを促進する政策

>北欧型のプレイセンターの公的サポート

7.3.2.6「少子税」の導入批判

7.3.2.7婚外出産支援批判

>この論は出生率さえ上がればよいという無原則な論

うーーん、まあここは哲学思想の問題でしょうねえ・・・。

7.3.3雇用制度改革政策・時間政策

本ブログ的には中心的なところ。

7.3.3.1最大就業時間規制

>EUのように残業時間を含む最大就業時間を48時間とするなど

>過剰就業を緩和し、人々のタイムプア状況を変えるという目的

>わが国でこれ以上過労死者を出さず、「健康で豊かな生活のための時間が確保できる社会」の達成の一手段

拙著でも強調したところです。当面はとりあえず休息時間規制なりとも。

7.3.3.2就業時間選択

>短時間勤務選択の権利

>同時にこうして同一事業主へのパートタイム就業を選択したものがフルタイム就業に戻れる権利

オランダモデルですね。

7.3.3.3柔軟な就業

7.3.3.4超過勤務手当・年給

>過剰就業を緩和するには、時間外勤務の要求が企業にとってアメリカ並みにコスト高になるよう法改正の必要

私は、労働時間の話を残業代の話にするのは賛成ではないのですが(マスコミをはじめとしてゼニカネ論ばかりになってしまう)・・・。

>未使用の有給休暇は、企業は1年に1度給与に代替して支払う義務

いやだから、時間をゼニカネに変えてしまうのを奨励するのはいかがなものかと・・・。

有給の問題については、かつて本ブログで取り上げたように、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_3ccd.html(年次有給休暇の法構造)

まず使用者が労働者に年休取得時期を聞かなければならないという労基法制定当時の在り方に戻すことが大事だと思いますよ。

7.3.3.5ホワイトカラーエグゼンプション

>企業は雇用者の就業時間を最適に選択できるので、その最適値が変わらない以上、ホワイトカラーエグゼンプションは就業時間を変えず、ただ超過勤務手当が支払われなくなるだけ

>自らがペナルティを受けずに就業時間を選択する権利を同時に法制化する必要がある。

それは「自由で自律的な働き方」という空虚な宣伝文句に引きずられている感が・・・。

むしろ、ホワエグはゼニカネ話と割り切って、どれくらい高給なら残業代ゼロでもいいのかという正直ベースの議論にした方が生産的だと私は思います。

7.3.3.6ワークシェアリング

7.3.3.7女性の間接差別の法的禁止とポジティブアクション

>・・・拘束の緩和(たとえば残業を強要しない、海外・地方への赴任をさせない)など時間当たりの生産性とは無関係の条件に対し、低い年功賃金プレミアムや昇進機会の剥奪を制度化している・・・このような制度を女性への間接差別として法的に禁止する

まさにそうなんですが、そういう時間無制限、場所無制限の働き方をしないことへの差別的取り扱いを女性への間接差別という形でいうのか。

7.3.3.8正規雇用と非正規雇用の待遇格差の縮小

>契約更新がデフォルトである有期雇用者は職務や労働の質が同等なら・・・賃金と福利厚生の待遇を公平にすることを企業の義務とし

モノサシ論の難しさを別にすれば、ここでの問題は、そもそも雇い止めがデフォルトの有期契約と契約更新がデフォルトの有期契約をどうやって区別するのか?という問題でしょう。そんなの、期間が過ぎてみないと確認できるはずがないので、事前に区別できるとは思えないし、それにさらなる難問は、事前に更新がデフォルトと明確にいえるのなら、なんでその先に就労が予定されるのにその前の段階で期間満了としなければならないのかという説明がつかなくなること。

このあたりは、実は現行法制度も事前の問題と事後の問題がごっちゃになって混乱を極めているところなんですがね。

7.3.3.9フルタイム・パートタイムの均等待遇

7.3.3.10身体障害者雇用の質の向上

7.3.4市民社会推進政策

このあたりはちょっと考えてみます。

2009年12月 9日 (水)

雇用政策研究会に宮本太郎先生らが参加!

厚生労働省HPに、12月16日に第1回雇用政策研究会が開催されるというお知らせが載っています。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/12/s1216-4.html

開催要領によると、

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/12/s1216-4a.html

>様々な経済構造の変化等の下で生じている雇用問題に関して、効果的な雇用政策の実施に資するよう、学識経験者を参集し、現状の分析を行うとともに、雇用システムと対策についての考え方を整理する。

と、大変すばらしい目標を掲げています。

どういう方々が審議に参加されるのかを見てみましょう。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/12/s1216-4b.html

座長の樋口美雄先生を初め、労働問題の専門の学者たちがずらりと並んでいますが、その中でひときわ目を惹くのは、北大の宮本太郎先生が新たに入っておられることです。おそらく、政治学者が雇用政策研究会に参加されたことは今までないのではないかと思いますが、先生の近著『生活保障』を読まれた方は誰しも、今後の雇用政策のあり方を検討する上で宮本先生の参加は適任だと思われることでしょう。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-4601.html(全政治家必読!宮本太郎『生活保障』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-cf6c.html(宮本太郎先生の時論2点)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-eb4b.html(『文藝春秋』渡辺恒雄 ・宮本太郎対談)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-b4f5.html(引き下げデモクラシー)

もう一人新たに入られた方に慶応の駒村康平先生がおられます。駒村先生はいうまでもなく社会保障の専門家ですが、アクティベーション的発想で雇用政策についても語っておられます。本ブログでも、次のエントリの下の方で、駒村先生の書かれた一節を引用しております。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-93bb.html(希望の社会保障改革)

>本提言のような雇用の保障・再分配によってではなく、広く全ての市民に基礎的所得保障を行うベーシック・インカムを導入することによって、人は自由に労働市場に参入・退出できるようになるという見方もある。・・・むしろベーシック・インカム導入により、あらゆる労働保護規制を撤廃でき、労働市場を完全競争市場にできるという見方もあり、我々は、実質的に低いベーシック・インカムで労働保護規制撤廃につながることを恐れている。

>しかし、ベーシック・インカムに対するもっとも強い違和感は、ベーシック・インカムにより、人々は「真に自由」になり、「やりたい仕事」をするようになるという理想的な労働観、すなわち、自分自身の適性や「やりたい仕事」を人々ははじめから知っているという前提である。しかし、逆にベーシック・インカムにより、人は、さまざまな職業を経験する機会がなくなるのではないか。さまざまな職業との出会いと挫折、技能の蓄積・修練に伴うさまざまな試練の意義について、ベーシック・インカムを支持する論者は、楽観的な労働者像をもっているのではないか。むしろ我々は、ディーセントな労働の保障により、人々が社会と関わり、さまざまな経験をすることにより、社会連帯が強くなると考えている

なお、お二人も含めた委員全員のお名前は以下の通りです。

阿部 正浩(あべ   まさひろ ) 獨協大学経済学部 教授

加藤 久和( かとう  ひさかず )  明治大学政治経済学部 教授

黒澤 昌子( くろさわ まさこ ) 政策研究大学院大学 教授

玄田 有史( げんだ ゆうじ ) 東京大学社会科学研究所 教授

小杉 礼子( こすぎ れいこ )  (独)労働政策研究・研修機構 統括研究員

駒村 康平( こまむら こうへい ) 慶應義塾大学経済学部 教授

佐藤 博樹( さとう  ひろき ) 東京大学社会科学研究所 教授

白木 三秀( しらき  みつひで ) 早稲田大学政治経済学術院 教授

諏訪 康雄( すわ  やすお ) 法政大学大学院政策創造研究科 教授

清家 篤( せいけ  あつし ) 慶應義塾長

鶴 光太郎( つる こうたろう ) (独)経済産業研究所 上席研究員

橋本 陽子( はしもと ようこ ) 学習院大学法学部 教授

◎ 樋口 美雄( ひぐち  よしお) 慶應義塾大学商学部 教授

宮本 太郎( みやもと たろう ) 北海道大学大学院法学研究科 教授

森永 卓郎( もりなが たくろう ) 獨協大学経済学部 教授

山川 隆一( やまかわ りゅういち ) 慶應義塾大学法科大学院 教授

東京新聞12月7日「記者の目」に出ています

12月7日(月)の東京新聞の6面「記者の目」という欄に、服部利崇記者が「派遣法改正論議大詰め」という解説記事を書かれています。

その中に、わたくしのコメントが2回ほど出てきています。

一つ目は、登録型派遣の禁止の関係で、

>一方で「常用雇用を偽装する業者も多く、常用を義務化しても意味がない」という意見も。偽装の手口は有期契約の反復更新を『常用派遣』と称し簡単に契約解除するといったものだ。しかし労働政策研究・研修機構の浜口桂一郎統括研究員は「偽装があるから”常用”はダメというのはおかしい。偽装排除に力を注ぎ、本当の常用雇用を基本にする議論を」と求めている。

二つ目は最後のパラグラフで、

>だが、労働者の問題は「派遣」だけではない。浜口研究員は「雇用が不安定、低賃金で労働条件が劣悪、といった派遣と同じ問題を抱える有期労働者も多い。今後テーマに取り上げるべきだ」と要望している。

ちょっと話が混線したようで、ご承知のように既に有期労働契約については厚生労働省の研究会で検討が始まっています。そちらで今後均衡処遇や雇い止めに対する措置について方向性を出していくことが望ましいと述べたつもりでありました。

就職できないのでやむなく進学

日経の記事から、

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20091209AT1G0802408122009.html

>高校7割で「就職断念」 教職員組合調査、内定率6割切る

>日本高等学校教職員組合などが調査した全国の高校の7割以上で、求人の少なさなどから来年3月卒業予定の生徒が就職を断念していることが8日、分かった。同組合が調べた10月時点の就職内定率も59.6%と前年同期比15ポイント減り、1993年の調査開始以来最大の下げ幅。同組合は「新たな就職氷河期だ」と危機感を募らせている。

 同組合と全国私立学校教職員組合連合が28都道府県の403校を対象に10月末時点の就職実績を調査した。来年3月の卒業予定者は計6万5482人で、うち就職希望者は2万1532人だった。

 進路変更に関する質問で回答があった296校のうち、就職から進学に変えた生徒がいたのは73.9%に当たる219校で計843人。同組合の佐古田博副委員長は「求人がなく、やむを得ず職業訓練校などに進むケースが目立つ」と話す。

本当は就職したいのに、求人がないのでやむなく進学する・・・というのは、一見皮肉な話のように見えますが、無業者に社会が与える冷たい視線を考えると、「学生」「生徒」という社会的身分を与えることの重要性は大きなものがあります。

これは実は新卒者だけの問題ではなく、労働市場のすべてについていえることでしょう。

2009年12月 8日 (火)

特定社労士しのづかさんの拙著書評に至るまで

福岡で特定社会保険労務士をされている「しのづか」さんこと篠塚祐二さんが、ようやく拙著をゲットされ、お読みいただけたようです。

http://sr-partners.net/archives/51430249.html(普通解雇の厳格化で、従業員の意見を反映)

>濱口桂一郎氏の岩波新書「新しい労働社会--雇用システムの再構築へ」を、ついにゲットしました。近くの本屋さんではなく結局amazonで注文したところ二日で到着しました。
ネットの本屋さんは手間がかからないのでいいのだけれど近くの本屋さんで一度手にとって見て、納得して購入したかったというのがホンネです。

しのづかさん、近くの本屋ではなかなか手に入らなかったようなのです。

最初に読もうとされたのは先月25日頃だったそうです。

http://sr-partners.net/archives/51425115.html私にとって労働問題は理論よりも、実務だ

>労働問題のブログで有名な学者である濱口桂一郎氏が、岩波新書から700円位で新書版の著作を出したと聞き、その「日本の労働社会-」を早く入手して読みたいと思っています。明日は博多駅前の大きな書店の前を通るので是非入手したいと思います。

ところが、そう簡単にはいかなかったようなのです。11月28日には、

http://sr-partners.net/archives/51426525.html問題解決労働法シリーズのうちの1巻を購入

>ついでに濱口桂一郎氏の著作を購入するために同じビルの、結構大きな書店に行きました。「わが国の労働社会-」が岩波新書のコーナーに見あたらないので店員に尋ねたところ残念ながら、売り切れでした。

そんなに売れ行き好調なのか、と感心しつつ、諦めきれずに「濱口先生の著作を、店内に在庫があるかどうか全部調べてもらえませんか」と、氏の著作を調べてもらいました。「EU労働法」(5000円)が一番手頃かな、と思って在庫を聞いたら「すみません。当店にはありません」とのこと。

一覧にあった他の著作は1万円を超えるものばかり。たとえこの本屋さんに在庫があったとしても購入するには数日の検討を要します(苦笑)。

私はとうとう濱口氏の著作を諦めて、労働法のコーナーで何か代わりの買い物を物色しました。すると、旬報社から創業60周年企画ということで労働法シリーズが刊行されていて、「退職・解雇」の巻が目にとまり、購入してきました。2100円なり。

あらら、売り切れでしたか。実は、11月25日に第二刷が発行されているのですが、まだ書店まで及んでいなかったようです。

いずれにしても、ようやくゲットしていただいた拙著について、しのづかさんの論評は次の通りです。

>それはそうと、濱口先生の著作ですが昨日3時間でほぼ8割を読んでしまいました。さすが労働問題研究の第一人者だと思いました。ほとんどの章の内容が、私の頭に抵抗なく入っていきました。常に労働分野の諸問題に直面している者にとって、道しるべを指し示してもらったような気がします。

中でも気に入った事柄をひとつご紹介しておきます。
企業において個々の従業員が、経営側からの解雇や退職勧奨を恐れて正当な権利の主張さえできない状況というのは、わが国の判例法理が整理解雇に厳しい要件を課して壁を高くしているのに比べ、ちょっとした非違行為(たとえば残業拒否)について解雇をたやすく認めているからである、と分析しておられる点です。

無理で道理のない事業主からの要求を平然と拒否しても、懲戒解雇はおろか普通解雇もできないようにすることは、さらに立証責任を事業主に課すことで可能となろう。その効果として、風通しの良い働きやすい職場が実現することでしょう。


非正規労働者がこれほど増加するなど様変わりした日本の労働社会で、3,40年前に確立した判例法理がそのまま現代に通用するはずがありません。転居を伴う配転命令の合理性などは、社会情勢に合わせて判断が変わって当然だと思います。

濱口先生や大久保氏など、私より若い労働問題の研究者や実務家たちによる、広い視野と新しい視点に基づく考察にこれからも期待したい。

ありがとうございます。

「私より若い」といっても4歳違うだけですが、気持ちは若くやっていきたいと思います。

2009年12月 7日 (月)

セクハラ事件と会社法350条

最近の裁判例ですが、

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20091029104253.pdf(大阪地方裁判所 平成21年10月16日(平成20(ワ)5038))

>1 ビル管理会社に勤務する知的障害者に対するセクシュアル・ハラスメントについて,これを行った上司の不法行為責任及び同社の使用者責任が認められた事例

2 ビル管理会社の代表取締役が,上司からセクシュアル・ハラスメントの被害を受けた従業員から苦情を受けたにもかかわらず,必要な措置を講じなかったことについて,同社に会社法350条の責任が認められた事例

セクハラの中身はリンク先をどうぞ。

セクハラの苦情を受けた代表取締役が必要な措置を講じなかったことについて、会社法350条によって会社の責任と認めたというのは、民法715条ではいけないからなので、別に不思議ではないのですが、労働法の裁判例のなかに会社法の規定が出てくると新鮮な感じがします。

会社に雇用される労働者は、日本国の法体系においてはいうまでもなく会社にとって「第三者」であることに何の疑いもないんですが、労働者を企業のメンバーと見なす「メンバーシップ思考」になれた我々にとっては、ちょっと意外な感じを与えるというのが面白いところです。

ちなみに、その規定は:

会社法
(平成十七年七月二十六日法律第八十六号)

第三百五十条  株式会社は、代表取締役その他の代表者がその職務を行うについて第三者に加えた損害を賠償する責任を負う

2009年12月 6日 (日)

最低賃金引上げは最大の成長戦略@富士通総研

富士通総研の根津利三郎氏が、標題のようなコラムを書いています。その趣旨は、かつてドーア先生が主張されたこととよく似ています。

http://jp.fujitsu.com/group/fri/column/opinion/200912/2009-12-1.html

その論理は、既によく論じられてきたような

>おりしも日本経済をデフレが襲っている。・・・・・・・賃金の長期的下落は需要の減少を通じてデフレを引き起こすことになった。したがって、このデフレ克服を新政権の経済政策の中心課題とするならば、賃金を傾向的に引き上げていくことを考えなくてはならない。・・・・・・・筆者は民主党がマニフェストに掲げた最低賃金の引き上げが1つの答えになると考えている。・・・・・・低所得者の限界消費性向は高いという経済学の常識が当てはまるとすれば、これは相当の需要拡大につながる。

ということに尽きるのですが、このコラムの興味深いところは、最低賃金を引き上げたりしたら雇用が失われるとか、いうたぐいのよくある批判に対するなかなか説得力ある反論をきちんと提示しているところです。

>当然反対論は強い。労働も1つの財だから、価格〔すなわち賃金〕が上がれば、それに対する需要すなわち雇用機会は失われる、と常識的には考えられる。だが、労働に対する需要は派生需要だ。国民の購買力が高まれば財・サービスに対する需要が増え、その結果、雇用も拡大するという効果が期待できる。一時的には雇用が減ってもすぐに元に戻るはずだ。 最低賃金引き上げの議論をすると、経営サイドからは「日本は中国などアジアの低賃金国と競争をしているから欧米諸国と比較されても困る」という反論が返ってくる。だが、米国も欧州諸国もわが国同様に中国との競争にさらされている。中国からの輸入額をGDPと比較すると、概ね2%程度でわが国と大きな差はない。それでも各国とも工夫しながら、高い賃金で雇用を維持している。勿論、彼らのほうが失業率も高いし、問題なしとしないが、日本だけが中国やアジアの企業と競争していると考えるのは誤りだ。

あるいは、よくある企業がアジアに逃げ出すぞという脅し文句に対しては、

>賃金を強制的に上げれば近隣のアジア諸国に工場ごと脱出してしまい、雇用は失われるという主張もある。このような議論が当てはまるのは、日本の雇用の2割を占める製造業の一部だけであろう。8割を占める第三次産業の場合、サービスや流通業など消費者に直結する産業が大半だから、海外への移転ということはあり得ない。低賃金が存在するのは飲食店や流通業など比較的単純労働のサービス業ではないか。ところで、わが国製造業は本当に中国と低賃金で勝負しているのだろうか。そのような製造業はとっくに海外に移転してしまったのではないか。スキルも経験もなく単に低賃金だけに頼って競争しているような企業が日本にそれほど多くあるとは考えられないし、そのような企業をいつまでも日本に留めるために低賃金を維持するというのは疑問視せざるを得ない。もし大企業が下請け企業に低賃金を押し付けているというのであれば、そのこと自体が問題ではないか。

そして、

>低賃金で働く労働者のうち、実は平均所得以上の家庭の主婦や学生が半分も含まれている、という最近の研究結果がある。そうかもしれない。だが、筆者はもともと貧困対策のために最低賃金引き上げを主張しているのではない。デフレスパイラルを断ち切ることが目的であるから、このような生活に困っていない人たちの賃金が多少上がったからといって何も悪いことはない。彼らは多くの場合、扶養家族の所得控除の上限である103万円までしか働かないから、彼らの時給が上がればその分労働時間は短くなり、収入自体は変わらないであろう。むしろ仕事を探している他の人にとっては雇用機会が増えることになるのではないか。

とりわけ、興味深かったのは、賃上げコストを積極的に商品価格に転嫁することによって、デフレから脱却するという戦略を明確に示している点です。

>コストアップになった分は製品やサービスの価格に転嫁すべきことは言うまでもない。その結果、物価が上昇し、デフレが収まることが何よりも必要なのだ。個別企業の視点からすれば、「この厳しい経営環境のときにさらに賃金を上げたら、とってもやっていけない」という議論になる。しかし、インフレになることにより実質賃金はそれほど上がらないし、最低賃金の引き上げを全国一律に実施すればお互い競争条件は変わらないから、一部の事業者が不利になることはないし、値上げもやりやすくなるであろう。それを契機にもう少し賃金の高い労働者の賃金も上がるのであれば、なお結構なことだ。10年も続いた傾向を断ち切るのであれば、それなりの大胆な政策が要る。最低賃金の引き上げは一考に価すると考えている。

(参考)

http://select.nytimes.com/2006/07/14/opinion/14krugman.html?_r=1

>Can anything be done to spread the benefits of a growing economy more widely? Of course. A good start would be to increase the minimum wage, which in real terms is at its lowest level in half a century.

By PAUL KRUGMAN

2009年12月 5日 (土)

『日本の論点2010』予告

9784165030904 来週月曜日(12月7日)発売予定の『日本の論点2010』(文藝春秋)に、わたくしの小論が載っております。

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784165030904

リンク先の「立ち読みできます」に目次が載っていますので、どんな人がどんなテーマで書いているかが判ります。

わたくしが書いているのは、「11 雇用と労働」の「論点36 ベーシック・インカムの意味は」というところで、田村哲樹さんが「ベーシック・インカムは流動化社会で生きていくための足場となる」を、わたくしが「失業者と非労働者を区別しないベーシック・インカム論の落とし穴」をそれぞれ書いておりまして、どっちが説得力があるか皆様の判断を仰ぐ形になっております。

これは、まさに現在の社会政策の根本問題に関わる論点ですので、是非書店で一瞥なりともしていただけれと存じます。他の記事も面白そうだと思えば、是非お買い求め下さい。

ちなみに、私は対立図式をワークフェア対BI論という風に書いていますが、宮本太郎先生であればアクティベーション対BI論という言葉を使うところでしょうね。

2009年12月 4日 (金)

開発主義型雇用政策の終焉?

『日本経団連タイムズ』12月3日号に、阿部正浩先生の講演概要が載っています。

http://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/times/2009/1203/03.html(開発主義型雇用政策の終焉)

>日本経団連の経済政策委員会企画部会(村岡富美雄部会長)は11月12日、東京・大手町の経団連会館で会合を開催し、獨協大学経済学部の阿部正浩教授から、「開発主義型雇用政策の終焉」をテーマに説明を聞いた。概要は次のとおり。

■ これまでの雇用政策の特徴~開発主義型雇用政策

わが国の雇用政策は、労働者個人を支援するのではなく、企業の雇用調整に対する支援や企業内部の能力開発の充実など、企業の人事管理を通して完全雇用を達成するという思想で展開されてきた。そして、雇用政策の内容は、バブル崩壊後において、わが国の経済成長が一段と低下するなかにあっても変化することはなかった。その結果、不況期における企業内部での雇用保蔵が拡大し、現在では600万人程度にまで達しているとの試算もある。

かつてのように経済が高い成長を見込める場合には、本来外部市場に出るべき人材を社内に保蔵しておくことも効率的であった。しかしながら、経済成長率が低下しているほか、高齢化社会の一段の進行やグローバル化に伴う国際分業構造の複雑化、技術革新の進展などによって環境が大きく変化している現在は、従来型の雇用政策が企業の非効率な部分をかえって温存することにつながっている。

■ 開発主義型雇用政策からの脱却

わが国経済は、総人口が減少し、国内マーケットが縮小する一方、65歳以上の老年人口のウエートが急激に高まりつつある。こうしたなか、人口一人当たりのGDPを維持しようとすれば、15歳から64歳の生産年齢人口の一人当たり生産性を高めなければならない。

そのためには、従来の雇用政策から脱却し、外部労働市場における再配置機能や能力開発機能を強化することを通じて、次の成長部門へ労働再配置を進めるなど、生産性向上に向けて産業や職業の構造を転換させなければならない。

その際には、国際競争の激化や分業の高度化、短期間就業希望者などを背景に増加した、いわゆる非正規雇用問題に対して、適切な対応も欠かすことはできない。具体的には、正社員の保護を緩和し、非正社員の保護を強化するといった均衡待遇や、雇用保険に限らず、社会保障の拡充も含めたセーフティーネットの強化などが考えられる。

私も、「企業主義の時代」の雇用政策という説明をしているし、内部労働市場指向型対外部労働市場指向型という対比をよく使うので、おおむねその通りという面もあるのですが、ものごとのもう一面も強調しておいた方がいいのではないか、と思うので、一言。

それは、最近はやりの「フレクシキュリティ」とも絡むのですが、ヨーロッパでフレクシキュリティが唱道される際に、よく言われるのは「ジョブのセキュリティからエンプロイメントのセキュリティへ」というフレーズなんですね。

ヨーロッパの文脈では、「ジョブ」というのは個々の雇用契約ごとに定まっていますから、ジョブのセキュリティというのは、今いるこの職場で働き続けることを意味します。それに対して、「いや変化の激しいこの時代、一つのジョブにいつまでも固定し続けることなんてできないんだから、ジョブは安定してなくても、別のジョブに移るまでちゃんと生活が保障されて、職業訓練が受けられて、安心して異動できれば、その方がいいではないか、それこそがエンプロイメントのセキュリティである」というのが、フレクシキュリティのロジックであるわけです。そういうアクティベーション付きの保障を国のレベルでやろうとするわけですね。

ところが、日本では個々の雇用契約ではジョブが定まっていませんから、それとまったく同じことが大企業の内部労働市場でやれてきたわけです。企業の内部労働市場の中で、ジョブは不安定だけれども、給料はもらって研修を受けて別のジョブに移ることができるというエンプロイメントのセキュリティであったわけで、それを単純に「雇用保蔵」とのみ言うことはできないわけで、むしろある意味では「部労働市場における再配置機能や能力開発機能を強化することを通じて、次の成長部門へ労働再配置を進めるなど、生産性向上に向けて産業や職業の構造を転換させ」てきたという言い方もできます。

ただ、それは大企業の正社員のみに可能な方策であって、中小零細企業や非正規労働者にとってはあまり縁のない話であったし、大企業分野でもそういう内部労働市場型の転換の余地がかつてに比べると少なくなってきたと言う面はあるのでしょう。ですから、雇用政策の方向を転換すべきであるという議論自体には別に反対ではなく、方向性としては阿部先生の言われることに同感するところが大きいのですが、基本的な認識論のレベルで、あまり自体を単純化するような議論にしない方がいいのではないか、と思うのです。

これは、別の言い方をすると、フレクシキュリティというのは、外部労働市場にものごとを丸投げして「市場に任せた。後はわしゃ知らん」然としているような誰かさんみたいな発想とは対極にあるものであって、むしろいままで大企業の内部労働市場でやってきたような手厚い生活保障と職業転換訓練を、国家レベルの外部労働市場で大々的にやっていくということなのだということをきちんと認識してもらわなければ困るということでもあります。

その意味で、ここで標題になっている「開発主義型雇用政策の終焉」というのは、あまりにもミスリーディングな表現ではないかと思います。

確かに政治学などではこの言葉を「企業を通じて」の政策をあらわす意味で使うことが多いので、その意味では間違いではないのですが、雇用政策の目的が労働者の能力「開発」とそれを通じた労働力の再配置であるということ自体には何の変化もなく、むしろ強調されなければならないにもかかわらず、素人が「開発主義型雇用政策の終焉」なんていう台詞を見たら、もう能力「開発」なんかしなくてもいいと誤解する可能性もあります。フレクシキュリティとは、まさに人間「開発」主義そのものなのですから。言葉の問題と言われればそれまでですが、私としては大変気になるところです。

2009年12月 3日 (木)

経済学部の職業的レリバンス

たまたま、今から11年前の平成10年4月に当時の経済企画庁経済研究所が出した『教育経済研究会報告書』というのを見つけました。本体自体もなかなか面白い報告書なんですが、興味を惹かれたのが、40ページから42ページにかけて掲載されている「経済学部のあり方」というコラムです。筆者は小椋正立さん。本ブログでも以前何回か議論したことのある経済学部の職業的レリバンスの問題が、正面から取り上げられているのです。エコノミストの本丸中の本丸である経企庁経済研がどういうことを言っていたか、大変興味深いですので、引用しましょう。

>勉強をしないわが国の文科系学生の中でも、特にその傾向が強いと言われるグループの一つが経済学部の学生である。学生側の「言い分」として経済学部に特徴的なものとしては、「経済学は役に立たない(から勉強しても意味がない)」、「数学を駆使するので、文科系の学生には難しすぎる」などがある。・・・

>経済学の有用性については、確かに、エコノミストではなく営業、財務、労務などの諸分野で働くビジネスマンを目指す多くの学生にとって、企業に入社して直接役立つことは少ないと言えよう。しかし、ビジネスマンとしてそれぞれの職務を遂行していく上での基礎学力としては有用であると考えられる。実際、現代社会の特徴として、経済分野の専門用語が日常的に用いられるが、これは経済学を学んだ者の活躍があればこそ可能となっている。・・・

>・・・ところが、経済学の有用性への疑問や数学使用に伴う問題は、以上のような関係者の努力だけでは解決しない可能性がある。根本的には、経済学部の望ましい規模(全学生数に占める経済学部生の比率)についての検討を避けて通るわけにはいかない。

>経済学が基礎学力として有用であるとしても、実社会に出て直接役に立つ分野を含め、他の専攻分野もそれぞれの意味で有用である。その中で経済学が現在のようなシェアを正当化できるほど有用なのであろうか。基礎学力という意味では数学や物理学もそうであるが、これらの学科の規模は極めて小さい。・・・

>大学入学後に専攻を決めるのが一般的なアメリカでは、経済学の授業をいくつかとる学生は多いが専攻にする学生は少ない。もちろん、「望ましい規模」は各国の市場が決めるべきである。歴史的に決まってきた現在の規模が、市場の洗礼を受けたときにどう判断されるのか。そのときに備えて、関係者が経済学部を魅力ある存在にしていくことが期待される。

ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います。

ちなみに、最後の一文はエコノミストとしての情がにじみ出ていますが、本当に経済学部が市場の洗礼を受けたときに、経済学部を魅力ある存在にしうる分野は、エコノミスト養成用の経済学ではないように思われます。

(参考)

経済学の職業的レリバンスについては:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

その前のエントリが:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

その後のエントリが:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

ステイクホルダーの所在,あるいは「構造改革イデオロギーの文明化作用」の問題

教育社会学の森直人さんが書かれている「もどきの部屋 education, sociology, history」というブログに、最近の事業仕分けをめぐるいきさつを題材に、「利害関係者」(ステークホルダー)について考察をされています。

http://d.hatena.ne.jp/morinaoto/20091129/p1

>誰もがすべての問題に通暁することなどできない「高度に複雑化した」「不透明な社会」にあっては,事業仕分け人が当該問題についてはズブの素人,っていう状況が標準なわけで,その事業仕分け人からの「攻撃」を主としたきわめて短時間での「議論」でものが決まっていくというのは,素人目にみても危なっかしいことこの上ないよな,って思ってしまうのは否定できず.

「利害関係者」っていうのは「自分に都合のよいように国民の税金からくすねて私腹を肥やす奴ら」っていう以前に,当該問題に日常的にかかわらざるを得ないが故に個別事情にもっとも通じており,それゆえに,一応それなりに(あるいは誰にも「もっともだ」と共感できるような)切実な要望をもって存在しているはずなので(それなりの,あるいは,もっともな「事情」というのはある),専門的見地からの評価と第三者的立場の(しかし支払っている税金を「使われる」立場の)目から見た評価に付されたその「要望」が,それぞれの利害得失の大小/強弱とその根拠の妥当性に応じて全体的に調整,最適化されていく,っていうプロセスが(まあ机上の空論としては)あるべき.というか,ないとめっちゃ危険.

>で,社会学っぽい話題に無理やり転換しようとすると,ここに現れているのは「利害関係者」はいかなる理由があろうとも「議論に関与すべきではない」っていう前提が支配している状況.それは必ず自分の「既得権益」を守るために(いや実際には「既得」なんかじゃないケースだって多いんだけど←注1参照)議論を歪める存在である,っていう前提.

したがって,その領域にぜんぜん利害をもたない人間(≒その領域のことをぜんぜん知らない人間)による裁定にもとづいて重要な制度設計の方向性を“選択”していこうという現状.

で、ここにわたくしの三者構成原則に関する文章が引用されまして、

>現代の日本にみられる「利害関係者」「既得権益」という言葉の磁力.

あるいは,3月に開かれた比較教育社会史研究会での小沢弘明(千葉大学)さんのご報告「新自由主義の世界史と高等教育改革」での言葉でいえば(高等教育改革に限定したご報告だったけど),「新自由主義イデオロギーの文明化作用」の問題*2.ま,いまの話題の場合,「構造改革」イデオロギーの「文明化作用」といったほうがいいか.

もちろん,ここでの「文明化作用」という語には両義的な意味合いが込められている.だからこそ,一方でそれは現在のわれわれを捉えて離さない.しかし他方で,現代日本ではこの「文明化作用」(がもたらす両義性の一面)の磁力は,他国に比しても格段に強いのではないかという印象.

あるいは高原基彰さん『現代日本の転機』(NHK出版)の言葉でいえば「蔓延する被害者意識」の問題か.

このあたり,現代日本社会論のテーマの一つが存在していることは確か

わたくしが「ステークホルダー民主主義」と称しているのはせいぜい労働問題に限られた政労使三者構成原則に毛が生えた程度の構想でしかありませんが(そのことはkihamuさんが的確に指摘されているとおりですが)、こういうさまざまな領域におけるステークホルダーがステークホルダーであるがゆえに意思決定に関わるべきというイデオロギーとステークホルダーがステークホルダーであるがゆえに意思決定に関わるべきではないというイデオロギーのせめぎ合いという観点からのマクロ社会学的な分析は大変興味深く、さらなる議論の展開を期待したいところです。

2009年12月 2日 (水)

河合塾「非常勤講師も労働者です」

去る日曜日のエントリで取り上げた産経の記事ですが、河合塾さんはあっさり非常勤講師も労働者だと認めたようです。

http://news.nifty.com/cs/economy/economyalldetail/kyodo-2009120201000361/1.htm(河合塾、非常勤講師にも失業保険)

>大手予備校の河合塾(名古屋市)は来年4月から、請負や業務委託だった非常勤講師と雇用契約を結び、組合との団体交渉にも応じる。非常勤講師らが加入する首都圏大学非常勤講師組合が2日、発表した。失業保険や私学共済に入れるようになるという。河合塾の非常勤講師は約千人。同組合は「大手予備校が直接雇用契約を結ぶのは初めて。不安定な非常勤講師の雇用が改善される一歩だ」と歓迎している。

いまのところ、首都圏大学非常勤講師組合のサイトには情報がありませんが、そのうちアップされると思います。

http://f47.aaa.livedoor.jp/~hijokin/

もっとも、産経の記事の事案については、「同僚との交際を巡るトラブルから昨年5月に出勤停止処分を受け、翌6月に契約解除を通告された」といういきさつらしいので、雇い止めがどう判断されるかは判りませんが。

ブラック上司の職場DVがヤバすぎる@『SPA!』

091208hbthumb144x1923459 をいをい、朝っぱらから『SPA!』かよ、と顔をしかめないでください。

確かにこの雑誌、目線の下劣さは立派な三流週刊誌ですが、こと労働問題を取り上げる視角は、なかなか鋭いものがあります。隠れた労働専門誌と評する人も、ここに約1名いたりします。

少なくとも、あるべき労働社会の理念もないまま、ただひたすらに労働組合の悪口雑言を並べ立てればいいと心得ているらしい某経済誌よりは、よっぽど労働問題を考える上で役に立つ・・・てのは褒めすぎですかね。

本日発売の12月8日号の特集が、「告発!ブラック上司の職場DVがヤバすぎる」。表紙に曰く「かつての校内暴力も真っ青な異常事態がオフィスを侵し始めた」。

最近労働問題としても重要なテーマになってきた職場のいじめ、嫌がらせ、暴力といったテーマを、例によっていろんな証言で再現しています。37ページの跳び蹴り社長などはこれは完全に刑事犯罪人ではないかと思いますが、そこまでいかない言葉の暴力の数々もなかなか香ばしいのがいっぱいです。36ページから。

>無能な社員なんて足手まといなだけなんだよ!さっさと空気読んでハローワークでも行けやカス!

>お前ほどの人間のクズは見たことない。死んでこい。会社辞めろ。もし赤の他人だったら包丁で刺してる。

>お前は会社にとって害を与えるだけの害人だ。全員に土下座して謝って辞めろ。

実は、現在研究中の個別労働紛争事案の中にもこの手のパワハラ事案というのは山のように出てきます。

今日の職場の風景の一断面と言えましょうか。

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