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« 恐らく今後労働政策談義でこの濱口本を踏まえないブログ労働政策論は無視しても良いだろう | トップページ | 日本経団連タイムスにまた出ました »

2009年11月 6日 (金)

能開大が「ムダ」であるという思考形式の立脚点

「事業仕分けチーム」が、他のいかなる「ムダ」よりも真っ先に取り上げたのが、職業能力開発大学校であるという点に、この「行政刷新」なる思考形式のおそらくは無意識的なバイアスが濃厚に示されています。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091105-OYT1T01075.htm(「事業仕分けチーム」視察開始、能開大など2か所)

>政府の行政刷新会議は5日、2010年度予算の概算要求から無駄な事業を洗い出す「事業仕分けチーム」のメンバーが対象事業候補の現場視察を始めた。

 尾立源幸参院議員と菊田真紀子衆院議員は、独立行政法人「雇用・能力開発機構」(本部・横浜市)と同機構が運営する「職業能力開発総合大学校」(神奈川県相模原市)の2か所を視察した。同大学校では、職業訓練指導員を育成する目的で設立されたのに、卒業生のうち指導員として就職できるのは全体の4割未満にとどまっていることなどの説明を受けた。

 仕分けチームは6日以降も国際協力機構(JICA)本部などを視察する。

 同会議は5日、11日からの仕分け作業で取り上げる事業候補を約3000事業から約240事業に絞り込んだ。仙谷行政刷新相らは関係閣僚と協議したうえで、9日に開かれる同会議の会合で対象事業を正式決定したい考えだ。

絞り込んだトップバッターが能開大だというのですから、この人たちの目には、公的職業訓練というのは、ムダ中のムダだと映っているのであろうことは想像に難くありません。

実は、それは、1970年代半ば以降の、わたくしのいう「企業主義の時代」にもっとも適合的な思考形式であったのです。

1960年代の高度成長期には「職種と職業能力に基づく流動的労働市場」を目指していた日本の労働政策が、石油ショックを契機として企業における教育訓練と雇用保障を中核とする政策に大きく転換したということは、わたくしが繰り返し述べてきたことですが、政策の中心が企業内教育訓練に集中すればするほど、公的職業訓練などというものは残余的、周辺的な地位に追いやられていくのは当然でした。

「企業主義の時代」に「ムダ」の代表に見えるようになっていった公的職業訓練ですが、1990年代半ば以降「市場主義の時代」になっても、あまり復権しませんでした。この時は例の竹中平蔵氏がフリードマンを持ち出して「教育バウチャー」とか騒いだので、「教育訓練給付」という名のNOVA補助金が保険料から大量に支出されるというのが中心であったのです。もっとも、1998年に封切られた山田洋次監督の『学校Ⅲ』は、リストラにあった中高年たちが必死に職業訓練に励む姿を描き、公的職業訓練の意義を世に訴えました。

ようやく市場主義の時代が過ぎ去ろうとし、とはいえ企業主義の時代に戻るのでもなく、労働者が職種と職業能力に基づいて流動的にしかも安定的に労働市場をわたっていけるような社会を作ろうという機運が出てきた、この期に及んで、公的職業訓練を「ムダ」の一丁目一番地と見なすような発想が、民主党政権の中枢に巣食っているというのは、なかなかシュールな事態ではないかと思われます。

この「ムダ」切りの人々は、どのような労働市場の姿を思い描いているのでしょうか。

教育訓練はみんな企業が正社員にしっかりやってくれるから、公的職業訓練なんか余計だよ、という社会なのか、

教育訓練は、NOVAみたいな民間の学校がやってくれるから、そこにお金をじゃぶじゃぶ流せばいいよ、という社会なのか、

「ムダ」といえば脳みそが思考停止というのではなく、労働市場のあり方論を少しは頭の片隅に置いた上で、考えていただきたいと思います。

(参考)雇用政策思想の転換の経緯については:

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hitotokokudo.html(雇用政策の転換)

(念のため)

これは、雇用・能力開発機構という組織自体をどうするかという問題とはとりあえず独立の問題です。

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コメント

失礼致します。津田正顕【號称塾】と申します。

公的職業訓練という制度自体がムダとは思いませんが、現実問題として、民間の訓練所や一般企業でも程度の低い指導をしており、公的な訓練所でも同様です。

有益な情報すら溢れる現状においては、教育・訓練の効率化、効果向上に対して、抜本的な手を打つ必要があると考えます。そのために、訓練所という条件が限定された場所で生徒と指導員がともに取り組むべき内容や方法は何かについて再考すべきです。

はじめまして。企業内労組の役員経験&企業法務屋として10年選手というキャリアから、貴サイトに興味を持ち続けている者です。話題の岩波新書のご高書も購入、現在拝読中です。
JILPTの藤本研究員とは大学時代に同級生でして、何となくhamachan先生にも親近感を感じています。

> もっとも、1998年に封切られた山田洋次監督の『学校Ⅲ』は、
> リストラにあった中高年たちが必死に職業訓練に励む姿を描き、
> 公的職業訓練の意義を世に訴えました。

そういう内容の映画だったのですか!! 中島みゆきさんのファンでもあるので、楽曲「瞬きもせず」から『学校Ⅲ』の名前は存じ上げていたのですが、これは是非拝見しようと思います。

ちなみに、EU&映画つながりで噺、ケン・ローチ監督の諸作品も大好きです。一番好きなのは『大地と自由』ですが、BR分割民営化時の喜悲劇(悲喜劇ではないですよね)を描いた『ナビゲーター ある鉄道員の物語』や、失業保険の給付を受け(その受給の条件として?)公共奉仕活動を行う中年男性が主人公の『マイ・ネーム・イズ・ジョー 』ももちろん好きです。

ケン・ローチ監督に世界文化賞、みゆきさんに紫綬褒章と、日本の公的部門在籍文化関係者の皆さんも、懐が深いなあと感心しました。

種々の政治的経緯から今では一部上場企業となった勤務先も、出発は小さな鉱山会社で、今でも鉱業法が主たる適用業法の一であり、また鉱山を複数操業しています。鉱山保安法と労働安全衛生法との適用関係がややこしくて法務屋としては泣けてきますが、労組役員としては面白かったです。
鉱山会社である以上、山という現場があって、そこでは日常的に生死に関わる問題が発生しています。そういう企業では、企業内労組の存在感が今でもかなりしっかりしているように思います。
「組合活動の原点は現場にあり」というフレーズの意味するところを、いずれ非組となる学卒事務屋でも分かっている奴は分かっているんですね。現場は何も山ばかりではないのだ、山がなければ飯が喰えない以上、山で働くということを視野外に置いては何も語れないのだけれども、東京のオフィスで働いていてもそこはそこでまぎれもなく現場であって、その1点において山で働く者とオフィスで働く者とは話し合うことができるし、また話し合わなければならないのだということを、分かっている。下手をすると非組になってから、労組活動に関心を抱いてきたりする者すらいるという(笑)。「組合の今の関心事は何なの?」というように。もちろんフリーライダーもいるので、一概には言えないのですが。
この点、大学同窓の他企業(特に金融系)への就職者と、労組に対する温度差が非常に大きいことに驚きます。


貴サイトにはあまり似つかわしくないコメントだったかもしれません。しかも散漫で申し訳ありません。お気に召さなければ公開いただかなくて全く構いませんので。『学校Ⅲ』の内容をご教示いただき、ありがとうございました。

今後とも益々のご健筆を祈念しております。

 ご指摘のように公共職業訓練の社会的な意義と、能開大の現状とは分けて考える必要があります。

 私が見直し検討会の委員を引き受けたとき、能開大の学生募集パンフは、大手民間企業へ就職できることを大学の売りにしていました。定員割れを避け、学生を確保するためで、大学校の設立趣旨と異なるにも係わらず、こうした記述を教員がおかしいとは考えていませんでした。

最近のデータは知りませんが、留学生を除いた訓練指導員への就職率はH18年で1割です。詳しくは下記をご覧ください。
http://www.ehdo.go.jp/gyomu/pdf/chouki_honbun.pdf

佐藤先生ご指摘の問題について、長らく能開大で教えてこられた田中萬年さんが、ご自分のHPで次のように語っておられます。

能開大側からの言い分として、世間に伝えられる必要があろうと思います。

http://www.geocities.jp/t11943nen/VTzakkan.html">http://www.geocities.jp/t11943nen/VTzakkan.html

>1.「指導員には同校卒業生の3~4割程度しか就かず、半数以上が民間企業や進学を選んでいる」という発言は、これまでの永年の自民党政権が、働く人たちのための職業訓練を軽視してきた結果であることを正しく理解していない、といえることである。
 実際、職業訓練指導員への希望者は少なくないが、やむなく民間企業に就職しているのが実情である。職業訓練施設は雇用・能力開発機構だけでなく、都道府県が運営しているが、いずれの施設も「受益者負担」や”民活化”の名目の下に、経費を継続的に削減してきたため、職業訓練指導員の補充が困難になっている結果である。
 このことは、職業訓練が誰のためにあるのか、という根本問題を再確認しなければならないことを意味している。職業訓練は働く国民の職業能力の保障のために運営されてきたのである。このことを忘れた議論は本質を見ない議論となる。・・・・・・

根本的な議論が必要な点は、否定しません。

ただ、データを見ると指導員の求人数に対して学生の応募数が下回る年が多く、また応募しても採用されない(あるいは他を選択する)実態(採用数が応募数を下回る)があります。(報告書にデータがあります)

学生を募集する段階で民間企業への就職を宣伝していてはこうなると思います。また高校卒業段階で将来、指導員となるキャリアを選択することが可能なのかもあわせて検討が必要でしょう。

民間企業など実務経験を積んだ人材を指導員として育成する方針に転換した方が良さそうですが。

博樹先生のご指導により20年度卒業生については68名が指導員になっています。
それでも3ー4割しか指導員になっていないというのですが、
職業大に入りさえすれば全員指導員になれると考えるほうがおかしいのではないでしょうか?
能力、適性のある者だけがなるべきです。
特に「指導」する仕事というのは適性の問題が非常に大きいと思います。
3ー4割しかならないと言うのは、言い換えれば、3分の1に絞られて指導員になっていると言えるのではないでしょうか?

 私は指導などしていませんが。

 最近のデータを知りませんでしたが、指導員として就職する学生が増えたことは喜ばしいことです。

 ただ、民間企業が採用数を絞り、その結果、指導員への応募が増えたのかなど、変化の要因分析が必要です。

 また、就職先として工業高校なども開拓すべきです。教師の資格を取得できるようにしないとだめですが。

 私は職業大の卒業生ですが、適正がないと思い指導員にはなりませんでした。私は貧乏百姓の息子で大学にいける経済状況はなかったのですが、安い寮と授業料のお陰で大学教育を受けることができ、今でも感謝しております。学友は私以上に困窮していた学生が大半でした。カリキュラムは、夏休みも短く4年で東工大の2倍近くこなしました。
 私に限りませんが、恩恵を受けた以上の税金を今も支払い続けていることを自負しております。卒業生には日本電産の永守社長のように、物作りで日本を代表する経営者になった人もいます。地味ですが、母校の卒業生は平均的には社会的地位は高くはないのですが、ひたむきに日本の現場を確実支えています。
 むしろ、自民党政権下の行政改革担当である甘利大臣からは、このような大学は日本にとって大切であり、むしろ学生を増加させるべきであるとも言っていただきました。貧乏人、働く人を大切にするというスローガンの民主党が、世界にもない職業能力開発の指導員養成校を廃止するとは夢にも思いませんでした。
 母校が無駄であれば、私立大学は国家の統制を嫌い自由がモットーであり、金持が行く私立大学の補助金を無くすのが先決と思われます。私のひがみと思いますが、職業大を潰すような論陣を張る人達は裕福な家庭に育ち、有名大学を卒業し雄弁な方が多いとも感じています。
 普通の工学部の卒業生に指導員との説がありますが、機械にも触ることがあまりない文部科学省の教育で、しかも教員に必要な指導法もやっていない人に、直ちに教えられるわけがありません。この論によりますと、小中学の教員養成の教育学部も必要ないことになります。
 何れにしろ、職業大の廃止論には技能教育に対する差別を感じざるをえません。日本の物作りを支えているのは、現場で働いている技能者、技術者です。この人達を指導する指導員を養成する唯一の学校を潰す論は理解できません。海外からの留学生は、その国の局長クラスも複数出ています。技能五輪の裏方でも職業大が中心となっています。
 専門学校統への委託論もありますが、生徒が集まりやすい情報工学に見られますように、生徒の就職もできないことは周知の事実です。重要なのは、人気がなくて地味でも日本の物作りに重要な技能(溶接、旋盤、塗装等)を育てるという観点です。民間の学校ではできないのです。
 どうか母校を近視眼的に見ないで下さい。我々民間に行った卒業生は、他の大学の工学部の卒業生以上に、日本電産に代表されますように、日本国民に税金を含めて有形無形で貢献しています。調べて頂ければわかります。我々は、雇用保険の目的を達成していると思います。

 なお、以上の論は、一国民として見ても過去に無駄なことをやった雇用能力機構の存続の議論とは別の問題です。

 弁理士 富崎 元成

いつも思うのですがなんで百分率とか平均とかが
みんな好きなんでしょうか?
その背景をきちんと考えた上で使うべきでしょう。
特に文系の人たちは統計を自分の都合の良いように
使います。統計を意図的に使いますね。

 で職業大の教育は必要不可欠でしょう。
指導員とならなくても民間企業で十分その培った能力・技能を
発揮できると思います。富崎様の言うとおりです。
 大学で溶接、旋盤、塗装等を理論立てて実践教育している
ところはないでしょう。私は情報工学をやったんですけど
情報工学だって、その情報工学で動かす物がなければ
何の意味もないです。自動車・家電・機械、、、、。
物があっての情報工学です。あ、思い出しました。
授業で旋盤を使ってねじとナットを作ったことがあります。

 あと4割になんの根拠があって問題なのでしょうか?
その学校に入ったら職業選択を阻まれるのでしょうか?
たとえば、専門職を育てる大学、たとえば教育学部の
卒業生はすべて教職につくのでしょうか?
他の専門職を育てる学部にすべていえることです。
 もっと根本を言えば工学部を卒業したからといって
工業系の仕事を絶対しなければならないのでしょうか?
 文学部系の学部はなんのためにあるのでしょうか?

はまちゃん先生

無料でお尋ねして恐縮です。

雇用・能力開発機構の廃止に関して、
長妻大臣は、
新しい法人に移行する職員は試験を実施して採用すると言ってるのですが、
これって、裁判例の考え方からしていかがなんでしょうか?

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