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2009年11月14日 (土)

アンディ・ファーロング/フレッド・カートメル『若者と社会変容 リスク社会を生きる』大月書店

L35031 アンディ・ファーロング/フレッド・カートメル『若者と社会変容 リスク社会を生きる』(大月書店)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.otsukishoten.co.jp/cgi-bin/otsukishotenhon/siteup.cgi?&category=1&page=0&view=&detail=on&no=489

>国際的かつ実証的視座から捉える、不安と閉塞の実像
先進諸国が共通して直面する雇用・教育・文化にわたる構造変化は、若者の社会経験をどのように変化させているのか。ポストフォーディズム、後期近代、リスク社会などの概念を、膨大な実証データによって検証。教育、雇用、余暇、犯罪、政治参加などさまざまな側面における変容と変わらぬ不平等を、国際比較から明らかにする。

という本で、内容は次のようになっています。

日本語版への序文
第1章 リスク社会
第2章 教育をめぐる変化と連続
第3章 社会変容と労働市場への移行
第4章 依存と自立をめぐる変化
第5章 余暇とライフスタイル
第6章 後期近代における健康上のリスク
第7章 犯罪と犯罪被害
第8章 政治と参加
第9章 後期近代における認識論的誤謬
訳者解説
参考文献

翻訳されたのは:

乾彰夫(いぬい あきお) 首都大学東京/東京都立大学 教授。
西村貴之(にしむら たかゆき) 首都大学東京 都市教養学部助教。
平塚眞樹(ひらつか まき) 法政大学 社会学部教授。
丸井妙子(まるい たえこ) 翻訳家、日本社会学会会員。

の方々です。

さて、現代先進社会の若者をトータルな視座から捉えようとする本書を、わたくしがきちんと紹介することは無理な話なので、労働市場への移行問題を取り扱った第3章から、興味を惹き付けられた一節をいくつか引用しておきましょう。

>1980年代から起きている変化は、若者が労働市場にはいるということの性格を根本から変えてしまったように思われる。現在、雇用への移行が完結するのにより長い時間がかかるようになる一方で、経路の多様化は若者たち一人一人の移行経験がいっそう個人化されたことを意味する。・・・

>しかし、個人化や進路の多様化は、若者の移行結果に影響する構造的決定要因の弱まりをあらわすものと考えるべきではない。[なぜなら]若者の移行期における経験は、さまざまなレベルで、階級やジェンダーに従って差異化されていると見ることができるからである。・・・

>たとえば、男女を問わず一番上層の社会階級の出身者たちの大多数が直線型の移行経路をたどるのに対して、低い社会階級の出身者の大部分が非直線型の移行経路をたどっている。

とりわけ「まとめ」のところの次の一節は、現代日本の若者論としても大変的をついているように思われます。

>新たな「情報社会」におけるフレキシブルな技能労働者に対する需要が、ある若者たちにとっては有利な状況を生んでいるが、なお続いている労働市場内部の格差づけられた分割は、従来の特権が確実に守られる一助となっている。しかし、従来の格差が持続しているにもかかわらず、若者たちは主観的には、労働市場への複雑な経路を自己再帰的に切り抜けていかなければならず、そうすることで、労働市場の中で到達できる結果に対しては自分だけが責任を負うべきだという感覚を強めている。若者たちは労働市場への複雑な迷路をうまく選び取り、通り抜けることを強いられている。そこで客観的に見れば失敗のリスクが小さいときでも、自分の得る成果は個々人の技量次第であると思ってしまうことが多い。その結果、リスクがあると認識することで主観的な不安に陥ることさえある。

>移行はますます個人化され、さまざまな社会的背景を持つ若者たちが、自分の状況をリスクと不確実性に満ちたものであると認識している。一方、有力な証拠によれば、客観的なレベルでは、リスクは不平等なやり方で、従来から続く社会的な格差にぴったりと沿う形で分配されている。多くの若い労働者たちの目には、職業経験が社会階級やジェンダーと関連している状況はよく見えない。このように状況の不透明性が増してきたことは、労働市場における経験の変化のスピードと関連するだけでなく、経験の断片化とも結びついているといえる。

このあたりが、第9章で述べられる「後期近代における認識論的誤謬」とつながるのでしょう。そこではこういう皮肉な一節があります。

>さらにいえば、とりわけ高等教育進学率の増加や、低技能のサービス部門への高学歴労働力の定着は、自分たちがミドルクラスであるとの認識を若者たちに付与してきた。たとえ客観的にはそうでないとしてもである。繰り返すならば、これが認識論的誤謬のプロセスなのだ。

本書の最後の一節は、この「認識論的誤謬」からの脱却がテーマです。

>言い換えれば、高度近代の人生生活においては、認識論的誤謬が繰り返されている。この認識論的誤謬の内側で、長期的な歴史的プロセスの一部をなす、集団性から次第に隔絶されていく感覚が、リスクと不安という主観的認識と強く結びついて存在する。個々人は、日々の生活のあらゆる場面でぶつかる一連のリスクを乗り越えていくことを強いられる。しかしながら、個人主義の強まりによって、危機は個人のコントロールを超えて起こるプロセスの結果としてよりも、個人の欠陥として認識される状況が生まれる。この文脈で、現代社会で若者が直面している問題の一部は、個人レベルで問題を乗り越えようとする努力自体から生じている場合もあることを、我々は見てきている。強力な相互依存の鎖の存在に気づかぬまま、若者たちは多くの場合、集団的問題を個人的行動で解決しようと試み、避けがたい失敗の責任を自分で負おうとしてもがいているのだ

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コメント

胸が(耳が?)痛みますな。
団塊世代あたりだとなかな気づかない「現実」「認識」「感覚」かもしれませんね・・・

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