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2009年11月

2009年11月30日 (月)

ギデンス・渡辺『日本の新たな第三の道』

32347560 ギデンスの『第三の道』といえばイギリス労働党政権のまさにマニフェストの中心ですが、そのギデンス先生が渡辺聡子さんと共著で出された本です。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4478012164

>ついに、本格的な政権交代が実現した日本。しかし、新政権の迷走ぶりを見ても、半世紀以上にわたって硬直化してきた政治や社会のシステムが簡単に改革できるとは思えません。

では、政治や社会に関して、いま日本に最も求められていることは何でしょう。著者のギデンズらは、「市場主義改革と福祉改革を同時に推進すること」だと本書において主張します。

日本はイギリスのようなレッセ・フェール(自由放任主義)的な市場経済も経験していないし、そうかといって完璧な福祉国家も経験していません。日本には自由競争を制限するさまざまなシステムが存在し、市場原理が機能していない領域が多いのです。さらに、欧米諸国に比べると公的な福祉制度の整備も遅れています。

すなわち日本では、市場主義改革の必要性も福祉改革の必要性も、欧米よりもずっと大きいといえます。
言い換えれば、自由市場主義と福祉国家主義の弊害を乗り越え、両者をより高い段階で統合するという「第三の道」が、欧米とはまったく異なる文脈において日本では重要な意味を持つことになります。

本書では、そうした「日本における第三の道」がどうあるべきかについて、欧米の成功や失敗に学びつつ、様々な角度から検証していきます。

今後、日本が経済再生を果たし、市場の繁栄と健全な福祉制度を両立させ、激しく変化する世界の中で自らの意見や立場を主張していくということはけっして容易ではないでしょう。
しかしそれは「可能である」と著者たちは主張します。本書は、こうした目標を実現するために今後日本がとるべき方向性と方法論を提示するものです。


つまり、イギリスはレッセフェールと福祉国家を両方経験したので、そのいずれでもない第三の道という話になるのに対して、日本は福祉が企業に依存していたため、レッセフェールも福祉国家もどっちも乏しい状態なので、そのいずれをも推進せよという意味での第三の道という話になるんだということですね。

イギリスは自由市場も福祉国家も行き過ぎが問題なのに対して、日本はどっちも行かなさ過ぎが問題だと、こういう理屈です。

そして、いうまでもなくその「福祉」は「ポジティブウェルフェア」でなくてはいけない。つまり職業訓練と再就職を支援する積極的雇用政策でなければならない、とこの辺はまさに労働党の政策ですね。

この辺は、実はなかなか微妙なところがあって、そのレッセフェールでも福祉国家でもない日本型の企業依存の福祉の仕組みが、まさにモラルハザードにならず適度に安心感を与えつつアクティベートしていたという意味において、ポジティブウェルフェアとして機能していたという面があるわけで、そのメリットをどう生かしていくかという視点も必要になるわけです、実のところ。

このあたりは大変よく分かるのですが、低炭素産業社会への価値観変革というあたりは正直どうつながるのかよく分からないところです。

【本書の主な目次】

第1章 二一世紀の新たな社会モデル
1-1 産業構造の転換と社会変動──低炭素産業社会の到来
1-2 市場経済・政府・市民社会のバランス
1-3 柔軟な市場主義改革
1-4 教育の新しい役割

第2章 グローバル・ガバナンスの構築に向かって
2-1 グローバル化はもはや「事実」である
2-2 一次元的な世界の形成
2-3 グローバル化がもたらすリスク
2-4 新しいグローバル・ガバナンスにおける企業と国家の役割

第3章 「第三の道」と日本の選択
3-1 日本の現状と「第三の道」議論
3-2 「第三の道」の基本理念
3-3 日本とヨーロッパの制度比較
3-4 市場主義改革と福祉改革の同時推進

第4章 「欧州社会モデル」からの教訓
4-1 「欧州社会モデル」とは
4-2 ヨーロッパに学ぶべき一〇の教訓
4-3 新しいモデルの課題と展望

第5章 新社会への価値観変革──環境とポジティブ・ウェルフェア
5-1 低炭素産業社会への価値観変革
5-2 環境とライフスタイル変革

2009年11月29日 (日)

東大出版会『社会保障と経済』(全3巻)のご案内

Shakaihosho 12月上旬発行予定ですが、既に東大出版会のHPに広告が出ていますので、こちらでも宣伝しておきます。

わたくしは第1巻「企業と労働」の第5章「雇用戦略」を執筆しております。その他豪華メンバーによる執筆陣でありますので、出版されたら是非書店で手にとってご覧下さい。

http://www.utp.or.jp/series/shakaihosho.html

>未刊 第1巻 企業と労働

社会保障は単なる法律・制度・行政・サービスであるだけでなく,人びとの就労や企業活動と密接に関係し,また経済成長とも深くかかわりあっている.「企業と労働」という視角から,経済と社会保障を結びつける新たな理論と政策課題を明らかにする.

未刊 第2巻 財政と所得保障

医療や年金制度への信頼が揺らぎ,人びとの生活のセーフティネットに対する不安もひろがっている.給付・負担のバランスを保ちながら社会保障を維持・発展させていくためには何が必要なのか.経済・財政の視点から社会保障の現在とこれからを分析する.

未刊 第3巻 社会サービスと地域

人びとの安心・安全がもはや自明のものではない時代にあって,社会サービスはその重要性をさらに増している.社会サービスの給付と負担に焦点を当てた分析と考察により,社会連帯と自助努力のほどよいバランスをめざした国民的合意を形成するためのベースを提供する

宮島 洋・西村周三・京極高宣の3人の編集で、全3巻の内容は以下のようになっております。

第1巻 企業と労働

I 理論と政策
 1章 社会保障と経済の一般的関係 京極高宣(国立社会保障・人口問題研究所)
 2章 福祉レジーム変容の比較と日本の軌跡 新川敏光(京都大学)
 3章 生活保障としての働き方と技能形成の変化 西村幸満(国立社会保障・人口問題研究所)
 4章 社会保障の機能強化と労働組合の役割 小島 茂(日本労働組合総連合会)/麻生裕子(連合生活開発研究所)
 5章 雇用戦略 濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構)
II 社会保障と雇用・ワークライフバランス
 6章 企業内福利厚生と社会保障 西久保浩二(山梨大学)
 7章 女性のライフサイクルからみた労働と社会保障のあり方 川口 章(同志社大学)
 8章 女性の就労支援と児童福祉 野口晴子(国立社会保障・人口問題研究所)
 9章 高年齢者雇用の進展と社会の発展 高木朋代(敬愛大学)
III 社会保障と産業
 10章 保育サービス準市場の現実的な制度設計 鈴木 亘(学習院大学)
 11章 社会的企業における障害者雇用戦略 勝又幸子(国立社会保障・人口問題研究所)/赤星慶一郎(オムロンヘルスケア)
 12章 企業の社会的責任と社会保障 鈴木不二一(同志社大学)

第2巻 財政と所得保障

I 社会保障の経済分析
 1章 マクロ経済学から見た社会保障 小西秀樹(早稲田大学)
 2章 社会保障のミクロ経済学 駒村康平(慶應義塾大学)
 3章 地域経済と社会保障 山重慎二(一橋大学)
 4章 公的年金・企業年金と年金資金運用 米澤康博(早稲田大学)
II 社会保障と財政・税制
 5章 社会保障と財政・税制 宮島 洋(早稲田大学)
 6章 社会保障の役割と国民負担率 田中 滋(慶應義塾大学)
 7章 社会保障と地方財政 林 宜嗣(関西学院大学)
 8章 OECD諸国の社会保障政策と社会支出 金子能宏(国立社会保障・人口問題研究所)
III 所得保障と国民生活
 9章 公的扶助と最低生活保障 阿部 彩(国立社会保障・人口問題研究所)
 10章 少子高齢社会の公的年金 小塩隆士(一橋大学)
 11章 高齢期の世帯変動と経済格差 白波瀬佐和子(東京大学)
 12章 雇用保険制度改革 樋口美雄(慶應義塾大学)

第3巻 社会サービスと地域

I 国民生活と社会サービス
 1章 日本経済と医療・介護政策の展開 遠藤久夫(学習院大学)
 2章 医療・介護サービスの展望 府川哲夫(国立社会保障・人口問題研究所)
 3章 医療・介護の需要動向 川越雅弘(国立社会保障・人口問題研究所)
II サービス産業としての医療・介護
  4章 医療サービス供給体制 泉田信行(国立社会保障・人口問題研究所)
 5章 医療従事者問題 今中雄一(京都大学)
 6章 医療における技術革新と産業としての医療 西村周三(京都大学)
 7章 介護サービスの供給体制 岸田研作(岡山大学)/谷垣静子(岡山大学)
 8章 介護従事者問題 堀田聰子(東京大学)
III 福祉サービスの新展開
 9章 社会保障と地域活性化の維持 澤井 勝(奈良女子大学)
 10章 障害福祉サービスと社会参加 長江 亮(早稲田大学)
 11章 自治体行政における地域福祉サービス 金井利之(東京大学)
 12章 地域社会と社会保障 京極高宣(国立社会保障・人口問題研究所

河合塾非常勤講師の労働者性

産経新聞に興味深い記事が載っています。標題は「「雇い止めは解雇権乱用」元講師が河合塾提訴」というもので、なんだかごく普通の有期労働契約の雇い止め問題みたいですが、そういう生やさしい話ではありません。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/091129/trl0911290200000-n1.htm

>大手予備校の河合塾で数学の非常勤講師をしていた男性(53)が、契約を更新されず、“雇い止め”にあったのは解雇権の乱用にあたるとして、地位確認を求める訴訟を大阪地裁に起こしていたことが28日、分かった。非常勤が大半を占める予備校講師は、直接雇用でなく業務委託や請負とされる例が目立っており、行政が是正を指導したケースもある。原告側代理人は「判決次第では契約形態の見直しが業界に広がる可能性がある」と指摘している。

 訴状によると、男性は非常勤講師として約20年にわたり大阪校などで数学を担当。通常授業や講習、模試の作成に携わっていたが、同僚との交際を巡るトラブルから昨年5月に出勤停止処分を受け、翌6月に契約解除を通告された。

 男性側は、「河合塾は労働法の適用を免れるため建前上、請負などと称して雇用しており、偽装請負に当たる」と違法性を主張。毎年契約を更新してきたことから、常勤の専任講師と変わらない事実上の労働契約があったとしている。

これに対し河合塾は、答弁書などで「生徒数や受験傾向が変動する予備校事業は特殊であり、弾力的な契約が必要」と反論。各講師は指揮命令を受けず創意工夫で授業を行うため、請負契約は正当とし、「仮に雇い止めとしても、裁量が広く認められるべきで違法ではない」と主張している。

 男性は訴訟に先立ち労働審判を申し立て、大阪地裁は5月、河合塾に解決金100万円を支払うよう命じたが、復職が認められなかったため男性が不服を申し立て、訴訟に移行した。

 河合塾をめぐっては、福岡高裁が5月、福岡校の元非常勤講師による地位確認訴訟で、雇い止めは認めなかったものの、「強硬に契約解除を迫った態度は理不尽」として慰謝料350万円の支払いを命じた。これを受ける形で福岡中央労働基準監督署は11月、河合塾に雇用形態の是正を指導した。

 河合塾法務部によると、来年度に是正指導に沿った制度改正を行う予定だが、今回の訴訟については「講師として好ましくない行動を男性がとったことが争点で、契約の性質が論じられるべきではないと考えている」としている。

有期労働契約としての雇い止めの正当性の問題はとりあえずここでは置いておきます。「生徒数や受験傾向が変動する予備校事業は特殊であり、弾力的な契約が必要」というのは、それなりに理解できる言い分ですし、この事件における雇い止めの正当性を判断するだけの情報は必ずしもこの記事にはあるわけではありませんので。

それにしても、「各講師は指揮命令を受けず創意工夫で授業を行うため、請負契約は正当」という理屈はいかにもむちゃくちゃで、それなら常勤講師も雇用契約じゃなく請負契約なんでしょうか。それとも非常勤講師は指揮命令を受けずに創意工夫をするけれども、常勤講師は何の創意工夫もなく一挙手一投足すべて指揮命令を受けるというのですかね。

そもそもこんな理屈が通用するのなら、全国の教師はことごとく請負契約のはずですね。

牛丼屋のアルバイトを請負契約だと強弁する某牛丼チェーン店もありましたが、こういうのが横行する原因を考えると、最近本ブログ上で繰り返していることですが、「労働法は契約形式ではなく就労実態で判断する」という大原則が忘れられる傾向にあり、契約至上主義的傾向が妙に高まっていることがあるように思います。

先日の日本労働法学会において、わたくしが質問という形で発言した趣旨も、上記文脈とはやや違う文脈ではありますが、最近の労働法学の世界においていささか契約至上主義的傾向が強まっていることに対する疑義を呈したつもりです。

2009年11月28日 (土)

「権力」概念のない経済学の解雇問題への一帰結

筒井淳也さんの「社会学者の研究メモ」というブログに、「なぜ経済学には権力という概念がないか」という興味深いエントリが載っています。

http://d.hatena.ne.jp/jtsutsui/20091128/1259396867

>権力格差(ある人が別の人よりも強い権力を持っている)というのは、特定の人に意思決定権が多く与えられている、ということ。そしてある人が意思決定をしなければならない場合というのは、結果の不確実性がある場合です。もし不確実性がなければ、上司と部下の判断は常に一致するので、そもそも意思決定をする必要はありません。だから新古典派経済学の経済主体は、合理的選択をするだけで意思決定(判断)をするわけではありません。

>で、たいていの場合決定の結果は(思考コストを無限に負担できない以上)不確実ですから、誰かが「エイ、これでいっちゃえ」と決断をする必要があります。もし意思決定権がグループの成員に均等に配分されている場合、話し合いで決着をつける必要がありますが、大きな組織だと決定コストが膨大になるのでたいていはヒエラルキーにして、意思決定権を不均等に分配することになります。そして意思決定権は能力に応じて配分されるのが効率的になります。

>これが要するに権力ですが、規範的モデルでは権力配分は効率的であり、(レントがないとすれば)上司の意思決定に不満を持つ理由がなくなります。なので権力を問題にする必要もなくなります。多くの場合、「あの人には権力がある」というときは、能力を超えた決定権が与えられている場合、あるいは適切な判断が何かを審査する手続きをせずに決定をする権限が与えられている場合を指していると思います。つまり何らかの「不適切さ」(不公平、非効率等)が含意されています。

ここで筒井さんが述べておられることは一般的なことですが、これを具体的な雇用関係に当てはめて考えると、労働者を解雇することが合理的であるかどうかの意思決定が使用者に与えられていることの「権力」性を認識することができるかどうかという問題になるでしょう。

「こいつは無能である」という判断に不確実性がなく、その合理性はすべての人に明らかであるという完全情報を前提にすれば、すべての個別解雇は誰も異論を挟む余地のない合理的なものとなりますが、いうまでもなくそういうことはないわけです。「権力」概念のない経済学が、「権力」現象そのものである個別解雇をまともに取り扱うことができない(というより、解雇というのはすべて整理解雇のことだと思いこんでいる)のは当然のことかも知れません。

それに対して、経営状況が悪化して誰かを解雇しないと会社がやっていけないというのは、もちろん不確実性がなくなるわけではないにしても、かなりの程度客観的に判断できることですので、「権力」概念のない経済学でも取り扱うことができますし、整理解雇4要件の合理性を論ずることもできるのでしょう。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/wedge-2092.html(WEDGE大竹論文の問題点)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2595.html(終身雇用という幻想を捨てよ)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-ba7f.html(労働者を気分次第で簡単に解雇するような経営者はいる)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-b14a.html(3法則氏が、遂に解雇権濫用法理と整理解雇4要件の違いに目覚めた!)

ついでに、上のエントリでも引用した大変興味深い判決について:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_586b.html(ベンチャー社長セクハラ事件)

2009年11月27日 (金)

ミスマッチ社員の対応

『経営法曹研究会報』62号をお送りいただきました。いつも有り難うございます。

今号の特集は、「ミスマッチ社員の対応」。ミスマッチ社員とは、能力・適性不足、協調性欠如の社員のことで、まずはミスマッチ社員の早期発見・早期対応のための採用・試用期間中の留意点(石井妙子)、次ぎにミスマッチ社員に対して注意・指導を尽くす際にパワハラといわれないための注意点(三上安雄)、そして降格・降級、配転の留意点(丸尾拓養)、退職勧奨の留意点(峰隆之)、最後に解雇の留意点(深野和男)と、まさに経営法曹のみなさんにとって最大の関心事項がぎっしり詰まった特集になっています。

実際、ミスマッチ社員というのは確かにいるもので、そういうのに限って下手に扱うととんでもない祟りをもたらしたりしますので(ほら、そこのあなた、今、うんうんとうなずきながら読んでたでしょう)、このあたりは労務管理の立場からすると大変重要なところでしょうね。

どれも面白いのですが、最初の石井妙子弁護士の「早期発見・早期対応」のところから、大変率直な一節を

>「いい人を採用して育てる」というノウハウは、弁護士としては、分野が違うところがありまして、本日は、「解雇対策」という観点からの報告です。

さて、「解雇」をしやすくするには、「採用時からポストや担当職務を限定して契約締結する」、「要求される能力水準、知識・技能の水準を明示して契約する」ということになると思います

そして、とりわけ最後の深野弁護士の解雇の留意点のこのあたりは、まことに味わい深いものがあります。

>「指導や教育」についても、従業員を再生させる意味で行うこともありますが、他方、従業員の解雇準備のために行うこともあるわけで、後者の場合には、いくらいっても聞かないという状況、向上の見込みがないということを、客観的に明らかにするために、指導・教育をするということもあるわけです。

>・・・この人をいくら活用しようとしても会社で活用しきれませんということを、裁判所にアピールするためにやっている。そうだとすれば、何をどのようにやるべきかということが、自ずと出てくるわけです。

>裁判所にアピールするためにやるのに、必要以上に叱り飛ばしたり、あるいは罵詈雑言を浴びせたり、そんなことをする必要は、全くないわけです。

>上司が部下に一生懸命に教育・指導、忠告と行っても、あまり効き目がないという場合に、管理職の方はカリカリしてしまうことも往々にしてあると思います。しかし、そうした指導等には、会社と部下との雇用契約関係を解消するための前段階としての意味もあるということになれば、効き目があろうとなかろうと、冷静にかつ周到に指導等を行うことができるのではないかと思います。

自覚症状のあるみなさん、やたらにうるさい上司が、最近妙に冷静に指導するようになったな・・・と思ったら、もしかしら『経営法曹研究会報』を読んだのじゃなかろうかと疑ってみてもいいかもしれませんよ。

引き下げデモクラシー

03 先日ご紹介した宮本太郎先生の『生活保障』ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-4601.html(全政治家必読!宮本太郎『生活保障』)

何はともあれ本屋さんに走っていって買って読むべきではありますが、まあその前に頭の準備をという方のために、ごく簡単な要約版が、今をときめく(笑)勝間和代さんとの対談という形で、毎日新聞に載っていました。「<宮本太郎×勝間和代>対談 終身雇用制度」という記事です。

http://mainichi.jp/select/biz/katsuma/k-info/2009/06/post-30.html

http://mainichi.jp/select/biz/katsuma/k-info/2009/06/post-31.html

http://mainichi.jp/select/biz/katsuma/k-info/2009/06/post-32.html

特に味わい深い言葉:

>宮本 システム改革をしなくてはいけない局面ですが、短期的に一番受けるやり方は、国民の間にある疑心暗鬼、不信感をあおり立てる政治なんですね。正規の人に対する非正規の人たちの「特権で守られている」という思いや、逆に、正規の人たちの非正規の人たちに対する「働く気があるのか」という疑念。後者は実際、政務官から発言があって陳謝しましたが、インターネット上では支持の声が出ていた。疑心暗鬼をあおり立てる政治家の言説は、短期的には一番受ける。でもこれは二流の政治であって、丸山真男の言葉でいう「引き下げデモクラシー」です。こっちが恵まれすぎている、こっちが保護されている、などといって引き下げを求める。それだとみなが落ち込んでいくだけです。どうやってお互い良くなるウィンウィンゲームを実現できる理念を出すのかが大事です。

まさに「全政治家必読」であるゆえんです。政党を超えて、すべての政治家に拳々服膺していただきたい言葉でもあります。

『総括せよ!さらば、革命的世代』

9784819110778 産経新聞社大阪社会部の河居貴史記者から、『総括せよ!さらば、革命的世代』(産経新聞出版)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.sankei-books.co.jp/books/title/9784819110778.html

この本は、産経新聞に連載された「さらば革命的世代」という連載記事をまとめたものですが、

>40年余り前、わが国に「革命」を訴える世代がいた。当時それは特別な人間でも特別な考え方でもなかった。にもかかわらず、彼らは、あの時代を積極的に語ろうとはしない。語られるのは中途半端な武勇伝だけであり、「そういう時代だった」「みんなそうだった」と簡単に片付ける人もいる。そして、私たちの「隣人」としてごく普通の生活を送っている。彼らの思想はいつから変わったのか。また変わらなかったのか。あるいは、その存在はわが国にどのような功罪を与えたのか。そもそも当時、この国のキャンパスで何が起きたのか。彼らが社会から引退してしまう前に、“総括”する。

沈黙を解き、あの時代を語るときがきた!

という、大変興味深い本であります。

登場人物は、

>本書に登場する主な証言者たち
重信房子/秋田明大/塩見孝也/表三郎/三田誠広/佐々淳行/西部邁/宮崎学/鈴木邦男/鴻上尚史/立花隆/加藤登紀子/植垣康博/弘兼憲史/奥島孝康/浅羽通明/小浜逸郎/若松孝二……
表紙、解説 山本直樹

という豪華メンバー。

で、EU労働法政策のhamachanとどういうつながりがあるの?と御疑問の方々もおられるかも知れませんが、別にわたくしは部員が4人も頭をかち割られた東大の社会科学研究会にいたわけでもなく(笑)、人的なつながりはまったくありません。本書のもとになった記事が産経新聞に連載されていた頃、元赤軍派議長の塩見孝也さんがシルバー人材センターに登録して働いているという記事を見つけて、大変興味をそそられ、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-d14f.html(赤軍派議長@シルバー人材センター)

>うーむ、左翼運動に半世紀をつぎ込んで、今になって「ようやく労働の意義を実感」ですかね。いままでは地に足のついていない革命運動だった、と。

>今頃そういうことを言われても・・・。

というエントリを書いたというだけのことなのですが。

河居さんは団塊ジュニア世代で、全共闘は完全に歴史上の出来事だそうです。わたくしはまさにそのはざまの世代で、この時はまだ小学生、NHKの相撲中継を見ているのに、やたらに安田講堂の攻防戦のニュース映像が入って中断するので、「なにやってんだよ、相撲が見られないじゃないか」と文句を付けていた記憶があります。大鵬が45連勝で驀進中でした。

057459 ちなみに、河居さんは産経新聞の『生活保護が危ない』の取材スタッフでもあるということで、こちらも本ブログで取り上げたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post_ea5a.html(生活保護が危ない)

>こういうのを読むと、しっかりした社会的センスを持って取材する記者の力はすごいなあと思います(もちろんそちらが少数派なのですが)。

今後とも、こういう本格的社会派の記事をお願いします。頑張ってください。

2009年11月26日 (木)

夢の鼎談、かな?

200912 昨日発行された『ビジネス・レーバー・トレンド』12月号は、リンク先にあるように「これからの高齢者雇用を考える」という特集ですが、ここではその話ではなくて、巻末の次号案内について、

12月25日発行予定の1月号では、「労使関係の再構築」という特集で、こういう座談会が載る予定です。

>座談会:今後の労使関係のあり方、方向性を考える

神津里季生・基幹労連事務局長

荻野勝彦・トヨタ自動車人事部担当部長

濱口桂一郎・JILPT統括研究員

実は、本日の午前中、この鼎談を行って参りました。中身は出てのお楽しみということで。

なお、論文としては、

>集団的労使関係の再構築-労働者代表制の模索を中心に  JILPT主任研究員 呉学殊

記事としては、、

ILO団体交渉に関するハイレベル3者会合レポート 国際研究部

が載る予定です。

これまでややもすると個別的労使関係に傾きすぎていた問題意識ですが、連合20周年の提言の中に「集団的労使関係の再構築」が打ち出され、運動方針にも盛り込まれた今、あらためて集団的労使関係のあり方を考える上で、なにがしかのお役に立つならば幸いです。

2009年11月25日 (水)

8,9割までは賛成、しかし・・・八代尚宏『労働市場改革の経済学』をめぐって

20090204000124881 八代尚宏先生より、近著『労働市場改革の経済学-正社員保護主義の終わり』(東洋経済)をお送りいただきました。ありがとうございます。

>民主党政権がすすめようとしている派遣労働の規制強化は、ワーキングプアの解消には何も役に立たない。労・労格差解消には何が必要か。労働問題の第一人者が鋭く切り込む。

http://www.toyokeizai.net/shop/books/detail/BI/de5ccf48e3e54e342eaac73906771e91/

もしかすると、私とは全然意見が対立すると思っておられる方々もいるかも知れませんが、実のところ、本書で書かれていることの8,9割近くには賛成です。

具体的は、目次の

序 章 労・労対立
     ──古くて新しい問題
第1章 なぜ今、労働市場の改革が必要なのか
     ──環境変化への対応
第2章 非正社員問題とは何か
     ──同一労働・同一賃金の徹底を
第3章 派遣労働禁止では誰も救われない
     ──派遣労働者保護法への転換を
第4章 日本的雇用慣行の光と影
     ──低成長時代への対応
第5章 こうすれば少子化は止められる
     ──男女双方の働き方の改革を
第6章 男女共同参画とワーク・ライフ・バランス
     ──最大の障害は日本的雇用慣行
第7章 エイジフリー社会実現に向けて
     ──高齢者に「中間的」な働き方を
第8章 非正社員重視のセーフティ・ネット改革
     ──雇用保険を医療保険型に
第9章 公共職業安定所と労働行政の改革
     ──労働行政にも「選択と集中」を

第8章までの議論は、認識論としてはほぼ共通するものがありますし、実践論としてはいささか急進的でやや観念的にすぎるという印象はありますが、方向性としては間違っているわけではないと思います。

おそらく重要なポイントは、長期雇用保障と年功賃金の雇用慣行は、「非効率的だが公平な働き方」であるどころか、その正反対の「効率的だが不公平な働き方」だという認識でしょう。

いくつか八代先生の文章を引用しますが、拙著の認識とかなり近いことに気づかれるでしょう。

>日本的雇用慣行は、高度成長期に普及した専業主婦付きの男性世帯主の正社員を暗黙の前提とした働き方でもある。世帯主が仕事に専念できるよう、家事・子育ての配偶者ぐるみで雇用し、生活費を保障する仕組みは、低成長期で世帯主の賃金が伸び悩むと生活は苦しくなる。他方で、夫婦がともに働く世帯にとっては、慢性的な長時間労働や、家族の別居に結びつく転勤は深刻な問題となる。

>たとえば、育児休業法の改革や保育所の整備は大事であるが、それらの政策は、暗黙のうちに、女性を男性と同じ形で働く、「女性労働の男性化」への支援である。しかし、共働き世帯の女性に、専業主婦付きの男性世帯主と同じ働き方を求めることには明らかな限界があり、むしろ就業とその他の活動についての女性の多様な働き方を男性にも選択肢として提供する必要がある。

>現状の長時間労働が当たり前の働き方と見なされるままでは、共働き家族で仕事と子育てとの両立は困難であり、いずれかを選択せざるを得ない。そこで妻がやむを得ず仕事を辞めると、子育て後、再びフルタイムの仕事に就くことは非常に困難となる。これは、男女共同参画社会の理念に反することになる。

また、帯の文句にあるように「派遣労働禁止では誰も救われない」というのも、まさにわたくしも昨今繰り返し述べているところです。

それでは、「hamachan=八代尚宏」かというと、そうではありません。おそらく一番重要な違いは、公的メカニズムに対する評価にあるように思います。

日本的雇用慣行に頼るのではなく、八代先生が上で述べるような「公平」な労働市場を構築するためには、(それこそデンマークのフレクシキュリティが積極的労働市場政策として職業紹介や職業訓練に膨大な額をかけているように)今まで以上に公的なメカニズムが必要になるはずなのに、そこのところで突然公共悪者論の懐メロに変調してしまうところが、本書の最大の問題点ではないかと思われるのです。

これは、実は八代先生が序章でこう述べておられることの対象を変えた生き写しという面があります。

>複雑な社会問題を簡単に説明する常套手段は、大昔の「独占資本」という表現のような「悪者」を作り出し、すべてをその責任にすることである。

わたくしも全くそう思います。そういうスケープゴート作りに狂奔する連中が一番いけない。そして現代日本社会において、「独占資本」以上にあらゆるところで「悪者」にされているのが「公共サービス」であるのも見やすいところです。

もちろん、けしからぬ公共機関もけっこうあるので、それは大いに攻撃されればよいのですが、本書が対象としている労働市場改革に関して言えば、改革を進めようというのであれば、公共メカニズムをより強化する必要こそあれ、とても縮小などできるはずはないにもかかわらず、妙に民営化市場主義のにおいがつきまとうというのが、本書の最大の矛盾点ではないかと思うのです。

実をいえば、日本的雇用慣行に依存する労働政策においては、大企業の正社員にとってはハローワークや職業訓練校などほとんど縁のないものであって、むしろ雇用調整助成金や能力開発給付金などの企業を通じた支援策がメインであったわけです。公的メカニズムに対する侮蔑的な社会風潮は、実は企業主義の時代の大企業正社員の感覚であるともいえます。

それを変えようと主張しているはずの本書が、なぜか公的メカニズムに対してはもっと民営化せよという論調になるのは、ものごとをイデオロギッシュに捉える人にとっては何の不思議もない当たり前のことに見えるかも知れませんが、物事の理路をきちんと考える人にとっては、かえって不思議な現象に思えるのではないでしょうか。このあたりが理解できるかどうかが、この問題の鍵であるように思います。。

(付記)

第2章で述べられている解雇規制についての記述は、例によって「整理解雇4要件」と書くべきところを「解雇権濫用法理」と書いてしまっているなど、いささか危ういところはありますが、実のところ以下の記述はわたくしの考えときわめて近いものがあります。

>日本の「解雇規制」の問題点は、必ずしも規制が厳しすぎることではなく、予見可能性が低いことである。・・・それ故、裁判に訴えられる視力のある大企業の労働組合と、そうでない中小企業の労働者との間には、労働者保護の程度に大きな格差が生じている。

>他方で、裁判に訴える金銭的・時間的余裕のない中小企業の労働者には、判例法による労働者保護の実効性はほとんどない。このため、中小企業の経営者から見れば、解雇自由の現状から、わざわざ金銭賠償のルールで縛られることはむしろ不利となる。

これは全くその通りです。

こういう文章が書けるということは、八代先生は物事がよく見えているということです。これを福井秀夫氏あたりと一緒くたに考えてはいけません。

本日神戸大学経済学部で講義

本日、神戸大学六甲台キャンパスで労働問題のオムニバス講義の一つとして「労使関係と政策決定」をお話ししてきました。

神戸大学といえば、今年の5月、日本労働法学会で報告するはずだったのが幻と消えた因縁の場所ですが、ようやくお礼参りをすることができました(笑)。

東大や政策研究大学院で大学院生相手の授業はやってきましたが、学部学生相手の講義はなかなか機会がないので、ありがたい経験です。

実は、先日新型インフルエンザ(?)で38.8度の熱を出し、おまけに「読者」氏から地獄の底から聞こえてくるような声が携帯電話にかかってきたその日に、東大のジェロントロジーの講義が予定されていたのですが、残念ながら断念せざるを得なかったもので、そのリターンマッチでもあります(意味不明)。

喋った中身は、レジュメは次の通りですが、

神戸大学講義レジュメ                                           2009/11/25
「労使関係と政策決定」                                          濱口桂一郎

1 労使関係の概観
 (1) 企業別組合主義
 (2) 分権的団体交渉と春闘
 (3) 企業別組合を通じた情報提供と協議
 (4) 過半数代表者と労使委員会
 (5) 新たな従業員代表制に向けて?

2 歴史的考察-労働運動
 (1) 労働運動の発生
 (2) 労働運動の激発
 (3) 戦間期の労働運動
 (4) 終戦直後の労働運動
 (5) 急進的労働運動の挫折と協調的労働運動の制覇
 (6) 春闘の展開

3 歴史的考察-労使協議
 (1) 間接管理体制
 (2) 工場委員会体制の形成
 (3) 工場委員会体制の展開
 (4) 産業報国会体制
 (5) 経営協議会体制
 (6) 労使協議会体制

4 新たな従業員代表制に向けて?
 (1) 労働基準法制定時の過半数代表制
 (2) 過半数代表制の発展
 (3) 過半数代表制の改善
 (4) 労使委員会制度
 (5) 労働契約法制における従業員代表制の構想
 (6) 連合の労働者代表委員会法案

5 労働政策決定と三者構成原則
 (1) 三者構成原則の形成
 (2) 三者構成原則の展開と動揺
 (3) 三者構成原則の基盤としての労使関係システムの再構築
 

わりと関心が高かったようで、最後の質疑の時間だけでなく、終わったあとも教壇に何人もの学生さんがやってきて、熱心に質問をいただきました。これもまた、大変ありがたいことです。

正味の講義時間1時間半、行き帰りの時間が4時間半ずつという1日でしたが(駅を降りてから大学の本体にたどり着くまでがまた大変)、大変充実した時間を過ごさせていただきました。

2009年11月24日 (火)

全政治家必読!宮本太郎『生活保障』

S1216 宮本太郎先生より、岩波新書から出た新著『生活保障-排除しない社会へ』をお送りいただきました。ありがとうございます

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0911/sin_k501.html

この本は、まさに時宜を得た本です。今こそ、全政治家、とりわけ与党政治家のみなさんが熟読玩味すべき本といえましょう。

岩波編集部の方の紹介文でも、

>「貧困や格差の拡がりを目の当たりにし、犯罪や自殺の増大にかかわる報道に接するたびに、足下が底割れしていくような感覚が拡がっていく」と著者は言います。多くの人々が生活に不安を感じ、あるいは、社会からの疎外感にとらわれるような現在の社会は変えていかなければなりませんが、いったい、何をどう変えればいいのでしょうか。問題は複雑に絡み合い、非常に困難な作業が待ち受けています。

 本書は、多くの人々が就労でき、あるいは社会に参加できる「排除しない社会」をどう実現するのかについて論じています。そこでの切り口となるのが「雇用」と「社会保障」を結びつけて考える「生活保障」というキーワードです。日本の過去と現状を振り返り、これからの「生活保障」のあり方を考えます。スウェーデンなど欧米の経験も参考にされますが、安易な国外モデルの導入ではなく、日本型の生活保障をどう再構築するかが議論の中心となります。

 社会保障や雇用の政策について扱っていますが、私たちが「生きる場」をどう確保するのか、互いに認め合える社会とはどういう社会か、といったテーマも重要な要素として取り上げられています。その中では、秋葉原殺傷事件の犯人についての考察なども行われています。

 これからの社会保障政策のかじ取りをする政治家や官僚はもちろん、すべての働く人、あるいはそれぞれの事情で労働環境から離れている人たちが、これからの社会について考える際にぜひ読んでいただきたい一冊です。

と述べています。

目次は次の通りです。

はじめに―生活保障とは何か   
      
第一章 断層の拡がり、連帯の困難

1 分断社会の出現
2 連帯の困難
3 ポスト新自由主義のビジョン

第二章 日本型生活保障とその解体   

1 日本型生活保障とは何だったか
2 日本型生活保障の解体
3 「生きる場」の喪失

第三章 スウェーデン型生活保障のゆくえ

1 生活保障をめぐる様々な経験
2 スウェーデンの生活保障
3 転機のスウェーデン型生活保障

第四章 新しい生活保障とアクティベーション

1 雇用と社会保障
2 ベーシックインカムの可能性
3 アクティベーションへ

第五章 排除しない社会のかたち

1 「交差点型」社会
2 排除しない社会のガバナンス
3 社会契約としての生活保障

おわりに―排除しない社会へ
 あとがき
 参考文献

わたくし的には、ベーシックインカム論が妙にはやりだしている昨今、「アクティベーション」をあるべき方向性として明確に打ち出している点が大変共感するところです。

「おわりに」から、宮本先生の趣旨が凝縮されている一節を引用しておきましょう。こういう文章を書かれる宮本太郎先生という人格には全幅の信頼がおけると本当に感じます。

>原因が定かではない不安が広がると、「公務員の既得権」「特権的正規社員」怠惰な福祉受給者」等々、諸悪の根源となるスケープゴート(生け贄)を立てる言説がはびこり、人々の間の亀裂が深まる。多様な利益を包括する新しいビジョンを提示する意欲と能力を欠いた政治家ほど、こうした言説を恃む。そして「引き下げデモクラシー」が横行する。

これに対して、本書は、生活保障という視点から、雇用と社会保障の関係の見直しこそが新しいビジョンの出発点になるべきであると主張してきた。雇用と社会保障をどのようにつなぎ直すかについては、アクティベーションという考え方を重視した。・・・

>着実な改革は、私たちが生きる社会の歴史と現状から出発するものであり、またすべからく漸進的なものである・そして、戦後の日本社会が何から何までだめな社会であったというのは間違いである。団塊世代の論者に多い気もするが、この国の過去と現在を徹底的に否定的に描き出し、憤りをエネルギーに転化しようとする議論もある。・・・徹底的な否定の上に現実的な改革の展望を切り開くことも難しいであろう。

戦後日本が実現してきた雇用を軸とした生活保障は、ある意味で「福祉から就労へ」という「第三の道」型の社会像を先取りしていた。日本型生活保障の、こうした形は継承されていってよい。その一方で日本型生活保障は、すべての人々をカヴァーしたわけではなく、経済成長の中での貧困や孤立など、たくさんの問題点を伴ってきた。・・・

>本書は、雇用を軸とした生活保障を、より多くの人を包摂するものとして再構築し、併せて囲い込み構造を解消して人々のライフチャンスを広げていく道筋を考えた。・・・・

拙著『新しい労働社会』をお読みいただいたみなさんには、宮本先生のビジョンと拙論との間に通い合うものを感じていただけるのではないでしょうか。

日本労働研究雑誌で江口匡太さんが拙著を書評

『日本労働研究雑誌』12月号は「最低賃金」の特集ですが、とりあえずそれは後回しにして、拙著『新しい労働社会』について江口匡太さんが書評(読書ノート)していただいていますので、そちらを紹介しておきます。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/12/(まだ載ってません。明日にはアップされるでしょう)

江口匡太さんに拙著を書評させるというのは、なかなかに味のある人選だと思いました。というのは、江口さんは『解雇法制を考える』において、整理解雇規制の合理性を経済学的に説明する論文を書かれるなど、日本型雇用システムの経済的合理性を経済学的に主張する労働経済学者として有名な方だからです。

したがって、江口さんからすると、第1章から第4章に至る様々な具体的政策提言には親近感を感じ、それとは対照的に序章のメンバーシップとジョブ論に対しては、違和感を感じられることになります。

江口さんはそこを「この序章と後の4章との間にわずかながら断絶を感じた」と書いておられますが、実際のところは「わずかながら」というよりも、かなりの断絶感を感じられたのではないかと思います。その証拠に、序章の議論に対して、

>こうした日本の雇用システムをガラパゴス的と位置づける場合、解決策はもっと市場システムによるべきだという主張になりがちだ。

と評されています。そして、それに対して、ロバーツや小池和男の理論を引いて、ガラパゴスというよりも程度の違いに過ぎないと批判されています。

私は、そもそもガラパゴスといえども程度の違いだろうと思いますが、後の4章の議論を展開する上でもその程度の違いを明確化した方が、処方箋が何をどの程度維持し、何をどの程度変えようとしているのかをはっきりさせるという意味で、有用であろうと思っています。認識論的にはラディカルに、というのは、実践論の現実性を測るという意味もあるわけです。また、ガラパゴス論が必ずしも市場システムによる解決策を志向するというわけでもないのではないかと思います。

このあたりは、ヨーロッパの文脈でいうと、生産レジーム論と雇用レジーム論、福祉レジーム論の交錯するあたりなのですが、具体的な政策論の提示を主目的とする拙著では、あまり踏み込んでいません。

それから、江口さんは指摘しておられませんが、逆に日本の労働社会のかなりの部分(中小零細になればなるほど)は正社員といえどもメンバーシップ型になっているわけでもありません。その辺も、さらりとアリバイ的な記述を置きながら、あえて判った上で書いているところはあります。

いずれにしろ、絶妙の方向からの絶妙の書評を投げ込んでいただいた江口さんに、心から感謝申し上げたいと思います。

ひとりごと(他意なし)

法律学はリアル世界からの一つの抽象。

経済学もリアル世界からの一つの抽象。

抽象と抽象を絡み合わせたからといって、フルーツフルとは限らない。

法律学は、経済学者が「そんなもの要らねえ」と捨象したものから抽象し、

経済学は、法律学者が「そんなもの要らねえ」と捨象したものから抽象し、

お互いに、大事なことを捨てて要らねえものを大事にしているように見える。

その結果、「法と経済学」はただの悪口の言い合いになる。詰まらない。

必要なのは、まずはリアル世界をリアルに認識すること。

広く言えば社会学、労働問題について狭く言えば労使関係論とか労務管理論といった、現実にベタに張り付き、あんまり抽象理論的じゃない学問の存在理由ってのは、たぶん、そのへんにある。

だから、社会学「理論」なんてのはそもそも矛盾してんだよね。

とか言ったら叱られるかな。

2009年11月23日 (月)

EU雇用白書2009

本日、欧州委員会は「雇用白書2009」(2009 Employment in Europe report)を公表しました。

http://ec.europa.eu/social/main.jsp?langId=en&catId=89&newsId=642&furtherNews=yes

3章立てで、第1章は「経済危機の時代のEU労働市場」(EU labour markets in times of economic crisis.)、第2章は「労働移動、移行、長期失業」(Labour flows, transitions and unemployment duration)、第3章は「気候変動と労働市場への影響」(Climate change and labour market outcomes)となっています。

第3章がどういうことを書いているのかというと、

>Low-carbon policies will significantly change EU employment structures

The EU's moves towards a competitive low-carbon economy will become important driving forces from a labour market perspective. Although the total net job creation effects may not be very large – as creation of new 'green' jobs and greening of existing jobs will partly be offset by loss of some existing jobs – the underlying structural changes will involve re-allocation of workers across economic sectors and skill types.

Climate change and related policy measures will therefore have an important impact on the future demand for skills. The new competencies required by the low-carbon economy will, at least initially, favour high-skilled workers. However, with market deployment of new technologies, lower-skilled workers should also be able to fill the new jobs – provided they receive adequate training. Hence, policy focus on skills - to ease transitions towards new jobs and to limit emergence of skills gaps and shortages – together with adequate social dialogue are the main ingredients needed to facilitate the shift to low-carbon economy..

低炭素経済への移行は、新たな「グリーンジョブ」を作る一方で既存のジョブを失わせるので、ネットの雇用創出はそれほど大きくない。むしろ業種やスキルタイプの間の労働者の再配分が大きな問題。そのためにも低技能労働者の訓練が重要、というのが主なメッセージのようです。

普通の労働者感覚

以前にも取り上げた「ニートの海外就職日記」ブログに、最近、普通の労働者感覚を示す妙味深いエントリが連投されているので、紹介しておきます。このブログ、やたらに「w」を多用する表現方法がいかにも私の趣味には合わないのですが、そこを我慢して読むと、言ってることは実にまっとうな、普通の労働者感覚なんですね。

http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-314.html(24時間営業で首の締め合いが激化w。)

>「普通の仕事をしている人間」って何だ? 「普通のクソ仕事を~」の間違いだろw? こういうニュースを読むと、この社会はもう何かが根っこから決定的に間違ってるとしか思えんな。自分らがクソ労働環境での我慢大会から抜け出せないからって、役所も銀行も我慢大会に参入wして遅くまで開けろ、24時間営業にしろ、土日も働けって。。。どうしても不幸の横並びを強要したいようだなw。「俺たちの負荷を減らせ」ではなく「あいつらの負荷を増やせ」。「俺たちの休みを増やせ」ではなく「あいつらの休みを減らせ」みたいなww

>社畜クオリティーここに極まるww。これ言ってるの雇われの身だろ? 見習うって何を? 釣りだと言ってくれよw。いつもの事ながら、もうクソ会社、クソ経営者様はウハウハだな。クソ労働環境で心身の限界まで搾りまくっても刃向かって来るどころか、我慢大会の不参加者wを探し出しては、お前らも遅くまで働け!って叩いてくれるんだからなw。あと、昔から根強いけど、日本人の役所叩きはハンパないね。お役所的な働き方を敵対視した僻み、妬み根性丸出しのコメが多過ぎで笑ってしまったよw。クソ経営者はさぞかし上機嫌でこのニュースを読んでるんだろうなあw

>それにしても、仕事様wが強過ぎて有給すら気軽に取れないクソ社会だからこそ、こんなニュースが出て来るんだろうな。思考停止して、この歪みの原因(クソ労働環境以外に何があるって言うんだ?)に気付く事もなく、「俺らがこんなにキツい思いしてるのに楽するヤツがいるのが許せない」って感じで不幸の横並びを押し付けてたんじゃあ、首の絞め合いがendlessに続くだけ。みんなが不幸になる事で幸せを感じるってのは病み過ぎだろ? まあ、逆に言えば、それくらい労働環境がクソ過ぎるって事なんだろうけどなあ。。。

http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-315.html(役所叩きはクソ会社、クソ経営者の思うツボw)

>これぞ正論w。役所や銀行の営業時間に文句を垂れるよりも、ちょっとの用事で抜け出す事も出来ない、もしくは有給を使って休む事もままならないクソ労働環境に異議を唱えるのが筋だろ? 役所の窓口でキレてモンスターカスタマーぶりを発揮するくらいなら、労基法無視でろくに休みも取らせないクソ経営者に刃向かえよ、とw。

いつもの事だけど、怒り、不満を向ける方向が真逆。一番の問題は、仕事様wが強過ぎて平日に私用を済ますための休みも取れないようなクソ労働環境であって、「定時で帰れない俺らのために遅くまで開けてろ!土日も営業しろ!」って役所叩きに励んでいるようじゃ、クソ会社、クソ経営者の思うツボだぞw。我慢大会wの不参加者がいないかどうか見張って、不幸の横並びを押し付ける社畜思考ほどクソ経営者に都合の良いモノはないよな~。まさに高みの見物状態で「おお、いいぞ!もっと叩けw」ってほくそ笑んでるんだろうな

人様に24時間営業を要求するということは、回り回って自分も24時間営業を強いられるということなのですが、社会全体がそういうモードになってしまうと、労働者としての自分がどこかに飛んで行ってしまって、もっぱら偉い顧客様としての自分だけがぐるぐる回り続けるのでしょうね。

「クソ仕事」さんの癖のある表現形式には違和感を感じられるみなさんには、清家慶應義塾塾長の次の言葉がちょうどいいかと思われます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-5f77.html(清家先生の味わいのある言葉)

>他人を忙しく働かせておきながら、自分だけはゆとりある生活をしたいというのは虫がよすぎる話である。もし自分がゆとりある生活をしたいのなら、例えば商店やコンビニ、あるいは宅急便などサービス業の営業時間規制などにも協力すべきであろう。

2009年11月22日 (日)

市役所職員マンマークさんの拙著書評

マンマークさんの「市役所職員の生活と意見」ブログに、拙著『新しい労働社会』の書評が載っています。

http://manmark.blog34.fc2.com/blog-entry-94.html(不勉強職員へのサプリメント))

>そんな中で思ったのが、日本の雇用の根本的な問題はどこにあるのかということ。

>そこで、書店へ行き、何冊か選んで読みましたが、その中で私の知りたかったことに一番応えてくれたのがこの『新しい労働社会』でした。

ということで、いくつかの事項について取り上げられているのですが、個々の事項よりも、

>しかし、私にとってこの本の一番の効果は、今まで在籍していた幾つかの課で頭を悩ませた事柄同士の繋がりが見えてきたことです。

 例えば、「男女雇用機会均等法」、「管理職と管理監督者」、「社会保障とモラルハザード」などは、それぞれの事柄に関係のある課に在籍していた時には、その事柄だけの理解しかしていませんでした。 いわば「点」としての理解です。

 それが、この本で示されている幾つかのキーワードを通して「点」同士を繋いでいる「線」が見えてきました。
 日頃は、その時に担当している業務にしか目が向いていないので(一種の縦割り感覚)、今回のように自分が担当してきた業務を違った視点から見つめ直すことの必要性を改めて感じました。

と、それらを全体的な雇用システムの中で位置づけて捉える視点に注目していただいたことは、著者のわたくしとしても大変うれしく、ありがたいことです。

そして、拙著の議論への疑問として

>ただ、この本の一番の難所は、やはり第4章でしょう。

 著者がポピュリズムに走る恐れがあると指摘している「学識者のみによる哲人政治」は、御用学者による政府応援団体になる可能性が高い点で私も反対ですが、それでは「政労使の三者構成原則」のメンバーとして、著者が労働組合に望んでいる正規・非正規を含めた労働者代表組織という役割を、当の労働組合が果たせるのかどうか。

と提起されている点も、まさに問題点を衝いているもので、

>とにかく、全体を通して、日頃不勉強な市役所職員である私には、良い刺激になる本でした。

 近視眼的思考の進行を弱めるためにも、たまにはこういう「サプリメント」を摂取したほうがいいようです。

といわれるような「不勉強」どころか、大変鋭い感覚で毎日社会状況をご覧になっていることが窺われます。

なお、最後に、

>ただ、この濱口先生、冷静でありながら血の気の多い方のようで、それもブログの楽しみ方のひとつかもしれません。

と言われていることには、やはり一応異議を呈しておきます。わたくしとしては全然血の気が多いわけでも喧嘩っ早いわけでもなくて、できれば平和裡になごやかにいろんな方々と議論をしていきたいのですが、なぜかそれを許していただけないような人が多くて・・・(笑)。

(追記)(っつうか・・・)

z​h​a​*​g​*​rさんの「暴言日記」というブログで、

http://blogs.yahoo.co.jp/zhang_r/22869313.html(血の気が多いhamachan先生 )

>いやいや、見ている側が心配になるくらい「血の気」が多いですよ(笑)。

そうですかねえ、こんなに穏やかで、争いごとの嫌いな人間はあまりいないんじゃないかとさえ思っているんですけど(笑)。

『安西愈先生古稀記念論文集 経営と労働法務の理論と実務』

32301551 『安西愈先生古稀記念論文集 経営と労働法務の理論と実務』(中央経済社)をお送りいただきました。安西先生、有り難うございます。

本書については、以前、別のエントリで、松下プラズマディスプレイ事件大阪高裁判決を批判する中山慈夫さんの論文の抜き刷りをいただいたことについて触れたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-ae66.html(大内伸哉『最新重要判例200労働法』)

しかし、本書は、そもそも編者が山口浩一郎、菅野和夫、中島士元也、渡辺岳という錚々たる顔ぶれであるのに加え、労働法学者、労働関係弁護士の最高級の方々が顔を並べられていて、安西先生のすごさが窺われる一冊になっています。

Ⅰ 労働契約

二十的権利について  小西國友

偽装請負と黙示の労働契約  中山慈夫

転勤命令権とその限界  石井妙子

私傷病休職者の復職と負担軽減措置  鎌田耕一

経営上の理由による解雇  野川忍

Ⅱ 賃金・賞与・労働時間

賃金の支払い原則に対する素朴な疑問  井上克樹

職務給・職務等級制度をめぐる法律問題  土田道夫

賞与の支給日在籍条項をめぐる法理の再検討  山田省三

退職金制度と退職金割増に関する諸問題  外井浩志

労働時間の算定にかかる一考察  山本圭子

Ⅲ 労働条件の変更

労働条件の不利益変更における「労働者の不利益の程度」の解釈  岡芹健夫

就業規則の最低基準効と労働条件変更(賃金減額)の問題について  淺野高宏

Ⅳ 非正規労働者・雇用平等

非正規労働者に対する基本的法政策と若干の解釈  小林譲二

労基法4条と「男女同一賃金の原則」をめぐる法的問題  林弘子

アメリカにおける「仕事と家庭」の法状況  中窪裕也

Ⅴ 労災補償

労災補償における疾病の業務上認定に関する試論  山口浩一郎

ドイツの労災保険とその特徴  西村健一郎

精神障害の労災認定・訴訟の動向  黒木宣夫

シックハウス症候群研究と対策の動向  相澤好治

Ⅵ 労働組合・不当労働行為・労働協約

会社解散をめぐる不当労働行為事件と使用者  菅野和夫

労働組合法における要件事実  山川隆一

労働組合の組織変動に関する実務上の課題  徳住堅治

協約に拘束されない使用者団体メンバー(OTM)  辻村昌明

過半数代表者が締結した労使協定の効力に関する若干の考察  渡邊岳

Ⅶ 労働刑事

労働刑事事件と公訴権濫用論  渡辺直行

どれも大変興味深い論文なのですが、私の関心事項に関わってくるものとしては、上記偽装請負のもの以外には、転勤命令権、整理解雇、職務給、非正規労働者、過半数代表者に関するものが特に興味深いものでした。

さて、安西先生といえば、労働法の世界では知らぬものは居ないでしょうが、その経歴はまさに努力の人といえます。高卒で初級公務員として就職してから10年で法曹になるまでの経歴を書き抜いてみましょう。本書の717ページです。

1958年 香川県立高松商業高校卒、香川労働基準局採用(国家公務員初級)

1960年 国家公務員中級職合格

1962年 中央大学法学部法律学科卒業(通信課程)

1964年 労働基準監督官試験合格、労働省労働基準局へ

1965年 国家公務員試験上級職(甲種・法律)合格

1968年 司法試験第二次試験合格

1969年 労働省退職、司法修習生

爪の垢を煎じて飲ませたい人々が一杯いそうです。

2009年11月21日 (土)

「ナマケモノになりたくて」さんの本格的な書評

「ナマケモノになりたくて」さんに大変本格的な書評をいただきました。

http://lovesloth.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-e7d4.html

>それで、この本の成果なんだけど、なんといっても「濱口先生の議論が、『岩波新書』になった」という点でしょう。労働問題に関心がある人なら、たいていの人は、hamachanのブログは知っていると思う。情報がぎっしりで、いつも重宝しているものである。ご本人も「労働問題では最も中身の濃いブログの一つだと自負しています。」とあとがきに書いている。しかし、だ!逆に、あまりに情報が「濃すぎて」、わたしのほうな障害を持っていると、次から次へと情報を追いかけてしまい、テンションが上がりきり、発狂し寸前になる(マジで)。だから、hamachanのブログは、とっても魅力的なのだが、あえて用事がない限り見ないように努力しているブログの一つである。そして、そのhamachanの岩波新書なのである。これは、情報量に弱いわたしだけではなく、パソコン音痴の人びとにも、hamachanを読んでもらうことができる非常によいツールではないか。この本の一番のすばらしさは、岩波新書というコンパクトな形態にhamachanの世界が凝縮された点なのだ。おわり。

と、これだけで「おわり」ではなくて、ここから本格的な書評が始まるのです。

>本当は、左翼の先生方にはもう一度考え直してもらいたい点が少なくなく、その点で濱口先生に共感するところは多いなと感じた本だったのだけど、その点については、どうも今日はまとめることができない。(わたしの脳は、いま超高速で回転したいと欲していて、「まとめる」という地味な作業に抵抗している。)だから、気になったところだけど、非常に乱暴に記録しておく。

ということで、非常にわたくしの議論の本質的な点を衝いた異論を2点示されます。第1は認識論として、第2は当為の議論として、いずれも的を射た論点です。

>第1点。濱口先生は、本当は分かっているとは思うのだけど、パートタイム労働者等について、以前は学生アルバイトと主婦の労働だったが、その後パートタイム労働者等も生計維持者となってきて、問題が大きくなったというような表現をするときがある。しかし、昔から、先生が指摘しているように、シングルマザーなどのように、非正規労働によって生計を維持してきた人びとは少なくなかったはずだ。シングルマザーのみならず、日立メディコの原告だって、たしか男性だったでしょう?問題は、量的に昔は生計維持的パートタイマーが少なかったのではなく、昔は生計維持的パートタイマーが社会的周縁に追いやられて、不可視化されてきたことにあるのだ。主婦パートは「普通の家庭の普通の女性」の働き方だけど、生計維持的パートは「きわめて特殊」であり、「普通ではない下位の働き方」という位置づけがなされてきたのだと思う。それを補強するものが、もちろん、配偶者控除や配偶者特別控除などの主婦制度である。現在、それが変わったのはなぜかと言えば、量的に非正規労働が増えたということもあるかもしれないけど、もう一つ、婚姻や家族制度および女性の働き方等に対するこれまでの異議申立て運動や、湯浅さんたちがやっている反貧困ネットワークの力もあるはずだ。つまり、これまで見えなかったものが可視化されたということだ。

一言で答えれば、その通りです。この本におけるわたくしの議論は、判る人が読めばお判りのように、意識的に図式的な議論の進め方をしているところがあります。序章のジョブとメンバーシップもそうですし、ここで指摘されている正規・非正規と家計維持・家計補助の関係もそうです。しかし、とりわけ一般向けの新書本においては、おおむね正しい図式的な議論を展開することで明確なイメージを読者の脳裏に構築することの意義は、それがより現実に対応していないにもかかわらず依然として強力な偏見を再考させる戦略としては重要なものがあると考えており、無限に多様な現実の姿をいきなり無秩序に示すことはかえって読者を混乱させると考えています。

ここで指摘されている正規・非正規と家計維持・家計補助の関係については、政策論として、いままでの(今までも必ずしも全面的にそうであるわけではなかった)対応関係が国民の意識としてなお強固に残っている現状を踏まえて、「かつてはかなりの程度そうであったけれども、今やそうではなくなってきたんだよ」という説明図式がもっとも効果的であろうという判断に基づいています。その意味では、戦略的な書き方であることは事実です。

そうして示した図式が必ずしもすべてに適用されるものではないということは、さりげなく、しかしきちんと例示をしながら明記してはいるのですが、あまりそこを強調しないようにさりげなさげに書いているというのも確かです。このあたりは、一般向けの新書本としての戦略です。

もう一点目、こちらは当為のレベルでより深く突っ込んでいます。

>第2点。これは、第1点と非常に大きく結びつく。第4章で濱口先生は、非正規労働者も含めた企業レベルの労働者組織の必要性を説く。それは反対しないんだけど、ただ、その労働者組織に非正規労働者全員が加入して、それで職場内の利害の調整はできるのだろうか?濱口先生は、非正規労働者の利益もきちんと代表しなければならないのだ、と論じるのだけど、そして、それには異論はないのだけど、非正規労働者の現状というのは、そんなに簡単ではない。なぜならば、これまでの「政治」「政策」は、非常に巧妙かつ複雑に、この非正規労働者という集団をぶつぶつと分断することに成功しているからである。「古典的」な「女性のパートタイマー」に限定しても、103万円のカベで優遇されるのはサラリーマンの妻だけである。ここで、サラリーマンの妻とそれ以外というように、家族関係で彼女たちは分断される。優遇されない女性たちは、時給を1円でも上げようとするだろうが、優遇される女性たちはそんなことはどうでもいい。これだけ限定的な集団であっも、一緒の闘うことが非常に難しいのである。派遣労働者であれば、これがよりいっそう複雑になることは、もういうまでもない。
そういう意味で、わたしは職場内に複数の組合が、それぞれの利害を代表すべく混在することに意味はあると思う。濱口先生は、それは集団的労使法制ではなく、個別的労使紛争処理なのだという。けれども、中間団体(企業)内にある集団の「力関係」の調整は必要だろう。日本国憲法が、勤労者に団結権を保障することにより、労働者の交渉力を「補強」したように、これまで不可視化され、下位の、力のないものをされてきた非正規労働者の集団の「交渉力を補強」しなければ、企業内の民主主義は実現しないのではないかと思う。そういう意味で、コミュニティユニオンとか、小さな組合にも集団的労使法制上、小さくない意味があるように考えている。

第4章は、労働法、労使関係論の玄人の方々が、一番違和感を感じられ、疑義を提示されている点です。ここで「ナマケモノになりたくて」さんが示されているのも、まさに、どこまでが「集団的労使関係」であり、「集団的労使関係法制」が対応すべき事象であり、どこまでが「個別的労使関係」であり、「個別的労使関係法制」が対応すべき事象であるのか、という大問題に直接関わる問題です。

ここでわたくしは、意識的に、集団的労使関係を異なった利害の調整機能という意味でのミクロ政治的なものとして描こうとしています。それは、それをマクロ政治的な民主主義論とつなげるための戦略でもあるのですが、個別利害を擁護するための手段として集団的労使関係を活用しようとする人々にとっては、大変異議のあるところであろうと認識しています。

ここは、論じ出すと大変なので、とりあえずこれくらいで。

2009年11月20日 (金)

スウェーデン人に理解できないこと

久しぶりに、拙著『新しい労働社会』について評論していただいているブログ記事を見つけました。「嶋川センセの知っ得社会科ー女性のためのお仕事相談室ー」というブログで、

http://blog.livedoor.jp/letchma11/archives/51360404.html(外国人が理解できない日本型雇用&地下鉄で働くパート労働者の労組結成)

というエントリですが、

>最近納得のことがありました。近所のスウェーデン人とどうしても話が噛み合わないことがありました。それは、例えば今回判決が確定した商社兼松の「男女賃金差別」の裁判がなぜ14年間もかかったのかもありますが、「均等法指針の雇用管理区分」とか「総合職とか事務職」とか、「秘書課に配属された原告はなぜ裁判の対象にならないのか」とか、これらに共通する「職務」に関してスウェーデン人は全く理解できないのです。

商社兼松の判決に対しては前回のブログを見てください。

彼が理解できないのは、ひとえに私の語学力が原因と思い、ネットでこれらのことが英文で書かれたものを示しましたが、3ページほどのWWNhttp://www.ne.jp/asahi/wwn/wwin/fwhatwwn.htmがCEDAW(女性差別撤廃委員会)に出した要望書ですら「読むのに3日間もかかった」と言うのです。確かに法律用語は難しいですが、英語ぺらぺらの人がなぜ?って、原因が分かりませんでした。

そして今回ようやく納得の文章に出会えたのです。とっくに知っていたことなのに、きちんと文章で読んでみて再認識でした。

ということで、拙著の序章の文章を引いていただいております。

>そうとう前のことですが、電力会社に事務職で就職した女性卒業生が、「事務でも最初は電信柱に登らされた」と言ってました。まさしくこれですね。スウェーデン人の理解できないことは、「事務職で入社したのに、なぜ電信柱に登るのだ?」ということです。日本以外の国では、事務職ならずっと事務職、レジ係りならずっとレジ係りなんですね。この電力会社の例は多分研修の一環だと考えられますが、スウェーデンではあり得ないことなのでしょう!

いろんな部署や転勤を経て男性はスキルを磨き、定年まで勤めるのが日本の一般的な労働者の生き方です。女性は男性とは異なり殆どの人は定年まで同じ職務にあることが一般的です。だから、男性と女性では賃金が違って当然だとされてきました。今回の商社兼松の判決は一部不満は残るものの画期的なものだということができます。詳しくはブログを見てください。

家族を伴っての転勤や、工場勤務だったり、営業に回ったり、総務をやったりというような働き方はまず日本以外では考えられないということなんですね。この点を説明しなかったから、彼は理解できなかったのだと思います。しかし、説明したとしても理解できたかどうかは不明ですが…。

2009年11月18日 (水)

EU派遣業界の労使対話戦略

最近、派遣業界の方々とお話しする機会が多いのですが、一つ思うのは、派遣業界がもっぱら規制緩和論者、市場原理主義者と思われているような人々ばかりとつきあい、その流れの勢いに乗ることで事業の拡大を図ることに急で、労働者保護を真剣に考える人々と真摯な対話の努力をすることを怠ってきたことが、今現在のこの状況を招く遠因になっているのではないかということです。

風向きが変われば、今まで役に立ってきたイデオローグは却って派遣業界の極悪さの証明にしかなりません。そういう人々が数年前までと同じ調子で居丈高に「派遣を禁止すれば企業が海外に逃げ出すぞ」と言えば言うほど、「なるほど、派遣業というのは低賃金と劣悪な労働条件でやっている業界だったんだな」という印象を強め、派遣業界に対する攻撃の正当性を強める一方になるでしょう。

派遣労働が労働者にとっても有意義な労働市場メカニズムであることをきちんと伝えるために必要なのは、何よりも労働者側に立って物事を考える人々を味方に惹き付けることであったはずですが、そういう戦略が欠落していたことは、そういう必要性を感じられない時代がつい数年前まで続いていたとはいえ、やはり反省すべき点であると思われます。

派遣業界の発展のために何がなされるべきであったのかを考えるヒントは、日本と同じようにかつては派遣事業の禁止から出発して、今では労働市場メカニズムとして確立するに至っているヨーロッパの派遣業界の活動に求めるべきでしょう。

http://www.euro-ciett.org/index.php?id=94

欧州派遣事業協会(EuroCiett)のHPの労使対話に関するページです。ここには、欧州のサービス関係の大労組であるUNI-Europaとの間で2000年、2007年、2008年と公表された共同宣言が載っています。派遣事業者と派遣で働く労働者の組合という派遣労使が明確に方向性を指し示すからこそ、それが全産業の労使にも影響を与えうるし、ひいては政策決定の方向をも動かすことができるのです。

EUの派遣業界は明確な労使対話戦略を選んできました。日本の派遣業界はその道を選ぼうとはしませんでした。あえて厳しい言い方をすれば、現在の苦境は自分で作り出したといえないこともありません。

本日の日経夕刊生活面

本日の日経新聞夕刊の「生活・ひと」面(第11面)が、「雇用不安を働く」という昨日からの記事の2回目で、その右下のコラム的な記事で、わたくしがコメントしています。

>雇用安定化への議論は、製造業派遣の禁止など規制強化に集中している。だが、識者には、「非正社員も働き続けられる仕組み作りが重要」との意見も少なくない。

>・・・「非正社員にも雇用期間に応じ、解雇時に金銭を払うルールを設けてはどうか」と話すのは、労働政策研究・研修機構の統括研究員、濱口桂一郎さん。これにより非正社員も次の仕事を得るまでの生活の不安が軽くなると見る。また、非正社員の賃金水準についても、正社員との差を見直すことが必要と見る。

>目先の雇用不安の原因の一つは正社員と非正社員の待遇格差。無視できない視点だろう。

うむ、ちょっと、表現が違うところもありますが、おおむね趣旨はこういうことです。

2009年11月16日 (月)

菅沼隆さんのフレクシキュリティ論 in エコノミスト

20091113org00m020011000p_size6_2 今朝発売の『エコノミスト』誌ですが、一つ読んでおくべきものとして「学者が斬る」があります。菅沼隆さんが「環境福祉国家に挑戦するデンマーク」というのを書かれているのですが、環境と福祉はちょっとおいといて(失礼)、半ば以降で書かれているフレクシキュリティの話が、近頃はやりの一知半解的首切り自由バンザイ型フレクシキュリティ論とは違い、デンマークにおられた経験を踏まえて、ちゃんとその社会的基盤を指摘されています。

>重要なことは、第一に、労使がプログラムの作成に実質的に参加していることである。理事会の会議に形式的に参加しているのではなく、具体的なプログラム作りに参加している。第2に、学生も含めてステークホルダーの参加が認められている点である。

職業訓練プログラムの場合、中央政府の計画策定、業界ごとのプログラムの策定のいずれにも経営者団体と労働組合から代表が委員として参加している。労使は雇用政策において「労働市場パートナー」「社会的パートナー」と位置づけられており、対等の権限で政策立案に関与する。・・・

>このような手厚い職業紹介体制、緻密で実行力のある職業訓練プログラムを可能にしている条件として、雇用政策に莫大な公的資金が費やされていることを忘れてはならない。

>「大きな福祉国家は非効率」であるという命題は、デンマークやスウェーデンの良好な経済パフォーマンスを見れば、事実として否定されている。だが、なぜ非効率ではないのか?その論理を明らかにする必要がある。・・・

第1に、大きな政府は、政治が特定の目的に向けて資源を重点的に投入できる可能性が大きいことを意味する。必要な政策に振り向けることができる資源が潤沢であれば、政策が成功する確率は高まる。

第2に、21世紀の福祉国家は、「参加」を不可欠とすることである。単に金をばらまいても、効果が上がるとは限らない。ステークホルダーの誰もが政策に能動的に関与しなければ、無駄となる。・・・

第3に、教育と訓練という人的資源投資には大きな政府が効果的であるということである。教育投資の成果は、長期的に回収できるものである。グローバル化が進展する現在、民間セクターは近視眼的で短期的な経営戦略を選択しがちだ。中長期的な視点に立って教育と訓練に安定的に人的資源投資をできるのは公共部門だけである。・・・

いままで繰り返してきたことですが、もっともらしくフレクシキュリティがどうとか語る人間がいた場合、それが本物か偽物かを判別するのは簡単で、労働組合を敵視し、大きな政府を攻撃する人間はそれだけでインチキであると判断できます。

『エコノミスト』誌最新号の「どうなる派遣」特集

20091113org00m020011000p_size6 本日発売の『エコノミスト』誌11月24日号が、第2特集として「どうなる派遣」を組んでいます。

http://mainichi.jp/enta/book/economist/news/20091113org00m020012000c.html

◇【特集】どうなる「派遣」

・派遣は規制強化へ それでも解決しない“名ばかり有期”雇用    黒崎 亜弓

・楽観できない雇用情勢 規制強化は逆効果の可能性も    有馬 めい

・具体化しない均等待遇 正社員の職種別賃金の明示が第一歩    小林 良暢

・インタビュー 古賀伸明・連合会長 「組合員だけの利益追求では社会から孤立する」

・注目の労働者派遣法改正 山場は12月、問われる“政治主導”    東海林 智

・人材業界は専門派遣や紹介にシフト 製造業では期間工や請負回帰か    本間 俊典

・インタビュー 細川律夫・厚生労働副大臣 「製造業派遣の原則禁止は企業の競争力向上にも貢献する」

このうち、黒崎亜弓さんが主にわたくしと日本労働弁護団の棗一郎弁護士の話を中心にまとめた最初の記事が、よくまとまっています。

わたくしは、

>情緒的な議論で労働者保護と事業規制が混同されている

>1985年の派遣法制定以来、ずっと同法がはらんでいた問題が、今噴き出した

と述べ、棗弁護士も、

>問題は有期雇用に行き着く

と認識しながらも、あえて今派遣法改正を前面に押し出している理由は

>活動を集中させるためだ

と政治的戦術であることを明言しています。

>これまではずっと規制緩和の歴史だった。やっと今回初めて、30年たって突破できる、その象徴なのだ

実を言えば、棗さんたちがそのように思う気持ちはよく理解できるところはあります。勝ち誇る規制撤廃論者があらゆる労働者保護を踏みにじるような議論を展開していたのは、つい最近までのことなのですから。

ただ、労働法政策の観点からすれば、それは全体のバランスを欠いた「派遣だけ血祭り主義」であるという指摘はしないわけにはいかないということです。

2009年11月15日 (日)

グローバル経済危機と労働法の役割

本日、早稲田大学小野講堂で開催された「グローバル経済危機と労働法の役割-国際比較を通じて」という国際シンポジウムを傍聴してきました。

http://www.globalcoe-waseda-law-commerce.org/symposium/index.html

正確には、早稲田大学比較法研究所&グローバルCOE共同主催「法創造の比較法学-新世紀における比較法研究の理論的・実践的課題」という2日間のシンポジウムの第2日目です。

>アメリカの金融危機に発したグローバルな経済危機は、世界各国における雇用危機を引き起こしている。ILOは、もっとも楽観的なシナリオによっても、2009年には、2007年末よりも1800万人も多い失業者と世界平均で6.1%の失業率を記録するであろうと予測している。日本においても、「派遣切り」の横行や「ホームレス」の増大の中で、<格差社会論>から<反貧困論>へと議論の基調が推移している。

本シンポジウムの目的は、以下の二つの問題について国際比較を通じて検討することである。一つは、アメリカの金融危機に発したグローバル経済危機が各国の雇用状況にどのような影響を与えているのかであり、もう一つは、そうした状況がそれぞれの国の労働法制や労働法理論にどのような問題を提起しているのかである。
この検討を通じて、21世紀における労働法の新たな課題を明らかにし、労働法の再構築の方向性について展望のある議論を行いたい。


本シンポジウムには、イギリス、アメリカ、イタリア、デンマーク、韓国、日本のそれぞれの国から労働法の専門家が参加する。

パネラーは以下の通りです。

司会:浅倉むつ子(早稲田大学)、清水敏(早稲田大学) 
09:30~09:45 挨拶 開会にあたって-G-COEからのメッセージ
    上村達男(G-COE拠点リーダー・法学学術院長)
09:45~10:00 シンポジウムの趣旨説明-日本からの問題提起(1)
問題提起(1):石田 眞(早稲田大学) 
10:00~10:50 イギリス:報告・コメント・質疑
報告:Hugh Collins(LSE) コメント:石橋 洋(熊本大学)
10:50~11:40 アメリカ:報告・コメント・質疑
報告:Karl Klare(Northeastern University) コメント:林弘子(福岡大学)
11:40~12:30 イタリア:報告・コメント・質疑
報告:Bruno Caruso(Catania University) コメント:大内伸哉(神戸大学)
12:30~14:00 昼食
14:00~14:50 デンマーク:報告・コメント・質疑
報告:Ole Hasselbalch(Aarhus University) コメント:和田肇(名古屋大学) 
14:50~15:40 韓国:報告・コメント・質疑
報告:盧尚憲(ソウル市立大学) コメント:根本到(大阪市立大学)
15:40~16:00 コーヒーブレイク
16:00~18:00
日本からの問題提起(2)と全体討論
問題提起(2):島田陽一(早稲田大学)
指定討論者:各国参加者 毛塚勝利(中央大学) 菊地馨実(早稲田大学)

長時間の中身の濃いシンポジウムで、1日聞いているだけで結構疲れました。

はじめのイギリスのヒュー・コリンズ先生は、第3の道の労働法で有名ですが、今日のお話は「労働法における第3の道を超えて:労働法の憲法化に向けて」というもので、実は、その肝心の「憲法化」の中身がよく理解できないままでした。でも、たぶん多くの聴衆がそうだったんではないかと思います。

次のアメリカのクレア先生のお話はわかりやすいというか、いかにアメリカがダメかというペシミズムに満ちたお話。アメリカの労働法は禄でもなくて、労働基準をきちんと守らせることもできないし、労働組合を作るのも難しいので、低賃金のやり放題。ウォールマートなんか、最賃違反でいっぱい訴えられて5億ドル払わされているけど、それでもお釣りがいっぱい来るほど低賃金で利益を得ている。低賃金を福祉給付で面倒みているので、これは国民の税金に寄生しているのと同じだ等々。その低賃金の連中に返せる当てもなく金を貸し込んだのがサブプライムローンなので、金融危機をもたらしたのは実はアメリカ労働法の弱さである云々。

イタリアのカルーゾ先生はイタリアのフレクシビリティを目指したビアジ改革と最近のEU流のフレクシキュリティの話。

フレクシキュリティといえば、デンマークというわけで、たぶん今日のシンポの目玉は、デンマークの労働法の先生であるハッセルバルク先生が、デンマーク流のフレクシキュリティを歴史をさかのぼりながら説明されたことでしょう。いい加減なセコハン情報ばかりが流通するフレクシキュリティだけに、こういう機会は大変貴重だと思います。

当然のことながら、先生が指摘されたのはデンマークの労使関係システムで、労働者の90%近くが労働組合員で、失業保険が組合経由で支給されるコーポラティズムを抜きにフレクシキュリティは語れないということなのですが、その労使関係システムがEUの圧力で危機に瀕しているというのが皮肉です。

韓国の廬先生のお話は、むしろ日本の現下の課題とよく似ていて、特に非正規職保護法の2年経過後のドタバタ劇の話は、日本の派遣法の2009年問題とよく似ています。

最後の島田陽一先生のお話は、わたくしの現在の問題意識に一番近いものだと感じました。

何にせよ、こういう中身の濃い話を1日聞いていると、「脳みそがお腹いっぱい」状態になります。もう入りません。

2009年11月14日 (土)

アンディ・ファーロング/フレッド・カートメル『若者と社会変容 リスク社会を生きる』大月書店

L35031 アンディ・ファーロング/フレッド・カートメル『若者と社会変容 リスク社会を生きる』(大月書店)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.otsukishoten.co.jp/cgi-bin/otsukishotenhon/siteup.cgi?&category=1&page=0&view=&detail=on&no=489

>国際的かつ実証的視座から捉える、不安と閉塞の実像
先進諸国が共通して直面する雇用・教育・文化にわたる構造変化は、若者の社会経験をどのように変化させているのか。ポストフォーディズム、後期近代、リスク社会などの概念を、膨大な実証データによって検証。教育、雇用、余暇、犯罪、政治参加などさまざまな側面における変容と変わらぬ不平等を、国際比較から明らかにする。

という本で、内容は次のようになっています。

日本語版への序文
第1章 リスク社会
第2章 教育をめぐる変化と連続
第3章 社会変容と労働市場への移行
第4章 依存と自立をめぐる変化
第5章 余暇とライフスタイル
第6章 後期近代における健康上のリスク
第7章 犯罪と犯罪被害
第8章 政治と参加
第9章 後期近代における認識論的誤謬
訳者解説
参考文献

翻訳されたのは:

乾彰夫(いぬい あきお) 首都大学東京/東京都立大学 教授。
西村貴之(にしむら たかゆき) 首都大学東京 都市教養学部助教。
平塚眞樹(ひらつか まき) 法政大学 社会学部教授。
丸井妙子(まるい たえこ) 翻訳家、日本社会学会会員。

の方々です。

さて、現代先進社会の若者をトータルな視座から捉えようとする本書を、わたくしがきちんと紹介することは無理な話なので、労働市場への移行問題を取り扱った第3章から、興味を惹き付けられた一節をいくつか引用しておきましょう。

>1980年代から起きている変化は、若者が労働市場にはいるということの性格を根本から変えてしまったように思われる。現在、雇用への移行が完結するのにより長い時間がかかるようになる一方で、経路の多様化は若者たち一人一人の移行経験がいっそう個人化されたことを意味する。・・・

>しかし、個人化や進路の多様化は、若者の移行結果に影響する構造的決定要因の弱まりをあらわすものと考えるべきではない。[なぜなら]若者の移行期における経験は、さまざまなレベルで、階級やジェンダーに従って差異化されていると見ることができるからである。・・・

>たとえば、男女を問わず一番上層の社会階級の出身者たちの大多数が直線型の移行経路をたどるのに対して、低い社会階級の出身者の大部分が非直線型の移行経路をたどっている。

とりわけ「まとめ」のところの次の一節は、現代日本の若者論としても大変的をついているように思われます。

>新たな「情報社会」におけるフレキシブルな技能労働者に対する需要が、ある若者たちにとっては有利な状況を生んでいるが、なお続いている労働市場内部の格差づけられた分割は、従来の特権が確実に守られる一助となっている。しかし、従来の格差が持続しているにもかかわらず、若者たちは主観的には、労働市場への複雑な経路を自己再帰的に切り抜けていかなければならず、そうすることで、労働市場の中で到達できる結果に対しては自分だけが責任を負うべきだという感覚を強めている。若者たちは労働市場への複雑な迷路をうまく選び取り、通り抜けることを強いられている。そこで客観的に見れば失敗のリスクが小さいときでも、自分の得る成果は個々人の技量次第であると思ってしまうことが多い。その結果、リスクがあると認識することで主観的な不安に陥ることさえある。

>移行はますます個人化され、さまざまな社会的背景を持つ若者たちが、自分の状況をリスクと不確実性に満ちたものであると認識している。一方、有力な証拠によれば、客観的なレベルでは、リスクは不平等なやり方で、従来から続く社会的な格差にぴったりと沿う形で分配されている。多くの若い労働者たちの目には、職業経験が社会階級やジェンダーと関連している状況はよく見えない。このように状況の不透明性が増してきたことは、労働市場における経験の変化のスピードと関連するだけでなく、経験の断片化とも結びついているといえる。

このあたりが、第9章で述べられる「後期近代における認識論的誤謬」とつながるのでしょう。そこではこういう皮肉な一節があります。

>さらにいえば、とりわけ高等教育進学率の増加や、低技能のサービス部門への高学歴労働力の定着は、自分たちがミドルクラスであるとの認識を若者たちに付与してきた。たとえ客観的にはそうでないとしてもである。繰り返すならば、これが認識論的誤謬のプロセスなのだ。

本書の最後の一節は、この「認識論的誤謬」からの脱却がテーマです。

>言い換えれば、高度近代の人生生活においては、認識論的誤謬が繰り返されている。この認識論的誤謬の内側で、長期的な歴史的プロセスの一部をなす、集団性から次第に隔絶されていく感覚が、リスクと不安という主観的認識と強く結びついて存在する。個々人は、日々の生活のあらゆる場面でぶつかる一連のリスクを乗り越えていくことを強いられる。しかしながら、個人主義の強まりによって、危機は個人のコントロールを超えて起こるプロセスの結果としてよりも、個人の欠陥として認識される状況が生まれる。この文脈で、現代社会で若者が直面している問題の一部は、個人レベルで問題を乗り越えようとする努力自体から生じている場合もあることを、我々は見てきている。強力な相互依存の鎖の存在に気づかぬまま、若者たちは多くの場合、集団的問題を個人的行動で解決しようと試み、避けがたい失敗の責任を自分で負おうとしてもがいているのだ

2009年11月12日 (木)

本日の東大社研雇用システムワークショップ

ということで、本日、東大社研の雇用システムワークショップでお話をしてきました。

私の目の前に佐藤博樹先生、仁田道夫先生がどんと座られて、なかなか(汗・・・)でしたが、なんとか1時間弱お話、1時間強質疑応答という時間割を無事に切り抜けることができました。

ご質問いただいたのは、上記佐藤博樹先生、仁田道夫先生に加え、中村圭介先生、佐藤香先生、水町勇一郎先生、黒田祥子先生、司会の玄田有司先生、さらに経済産業省の児玉直美さんとお名前を聞けなかったお一人でした。

いずれも、大変適確な質問をいただき、答えるわたくしにとっても大変いい経験になりました。心より感謝申し上げます。

告知

ココログを管理するニフティ社よりの依頼により、「池田信夫イナゴ氏のストーカー行為」および「池田信夫氏の熱烈ファンによるわたくしへの糾弾全記録」の2つのエントリを削除します。

(念のため)

これは「読者」氏が二度とああいうストーカー行為をしないという前提での削除ですので、もし万一再びかかる行為に出た場合には、即座に上記2エントリを復活し、全国の皆様の閲覧に供しますので、ご留意下さい。

東大社研の雇用システムワークショップ

本日午後3時より、東京大学社会科学研究所の生涯成長型雇用システムプロジェクトの第7回ということで、わたくしが若干のお話しをさせていただきに参ります。

http://das.iss.u-tokyo.ac.jp/future/koyou.html

>○第7回 雇用システムワークショップ

日時: 11月12日(木)15:00~17:00

場所: 東京大学社会科学研究所 
赤門総合研究棟5階 センター会議室(549)

テーマ:「新しい労働社会-雇用システムの再構築へ」または「ねじれた政策論をどう正すか」

報告者:濱口桂一郎氏(労働政策研究・研修機構)

ちなみに、

>ワークショップにご関心のある方は、

研究者、学生、実務者、政策関係者などを問わず、

誰でも自由にご参加いただけます。

(原則として、事前申し込みは不要で、参加費も無料です。)

だそうです。

2009年11月11日 (水)

労働者は、企業に対して公正であることを求める権利を有しています

勝間某さんのイケイケトークから始まった「「35過ぎて独身でいること」の限界とはなにか」という大変多くのブックマークが付いたyellowbellさんの「背後からハミング」というブログのエントリ自体については、特に今更何かをコメントするつもりもないのですが、

http://d.hatena.ne.jp/yellowbell/20091106

そのエントリへの反応に対するyellowbellさんの返答のエントリに、上述の文脈から離れて、それ自体として大変味わい深い文章がありましたので、わたくしのブックマークとしてここにいくつか引用しておきたいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/yellowbell/20091108理想と現実、評価と偏見

>「綺麗事を言っても、現実の労働環境はそうじゃないじゃないか、だったらそれをわかってなお理想論をぶつのはそれは愚痴にすぎないよ」というご意見は、労働組合にとっては真正面から向き合わないといけないことです。

いち労働者として、上司がそんな高潔ではありえない、会社がそんなに公正であるはずがないという諦観は、やむを得ないことでもあり、ある意味、持っておくべきことでもあるというのはよくわかります。

 しかし、人事考課や給与体系など、こと企業のシステムに対して意見をするときは、いち労働者の諦観をベースにしてお話をしたのでは、労働環境はどんどんと後退しかねません。

職場や企業の環境によっては、いち労働者として上司とつきあうときと、労働組合として企業と渡り合うときで、許容すべき前提が異なることになってしまうのかもしれません。それでも、労働を支えるシステムを語る時に最初から「どうせできっこないんだから」と投げ出しては、今後、どんなことだって手にすることはできなくなるでしょう。

 上司は偏見から自由ではありえない。私がそうであるように。会社は万事公正でありえない。労働組合がそうであるように。

おっしゃるとおり、そこから目をそらして、理想論だけに逃げ込んではいけません。労働問題を語る者は竹林の七賢であってはなりません。

だからといって、あるべき姿という意味においての理想から目をそらすことも、これはしてはいけません。

あるべき姿と、とりあえず実現できる姿、このふたつを、だんだんとあるべき姿側に近づけていくのが、労働問題を語る者の忘れてはいけない使命感だと思っています。絶対に、現実を「現実だから」という理由で肯定することだけは避けなくてはいけません。

>労働者は、企業に対して公正であることを求める権利を有しています。あるいはそれすらも理想郷に見えるような、とても絶望的な職場もあるのでしょうが、そこをあきらめてしまったのではご自分の権利を守る人がいなくなってしまいます。

労働者の権利は理想ではありませんし、あってはなりません。権利は現実です。それ以外の現実は、非難されるべき現実なのです

『講座現代の社会政策3 労働市場・労使関係・労働法』

4750330884_2 明石書店から刊行された『講座現在の社会政策』というシリーズの第3巻『労働市場・労使関係・労働法』を、執筆者のお一人である上西充子先生より贈呈いただきました。ありがとうございます。

ここでは、まず講座全体のタイトルを示しておきましょう。

第1巻 戦後社会政策論

第2巻 所得保障と社会サービス

第3巻 労働市場・労使関係・労働法

第4巻 ジェンダー

第5巻 市民社会・労働・公共空間

第6巻 グローバリゼーションと福祉国家

という構成です。その第3巻が本書で、石田光男・願興寺ひろしのお二人の編著で、各章のタイトルと執筆者は以下の通りです。

序章 サステナブルな労働社会

第1部 労働市場

第1章 地域産業振興策の多様な道筋と雇用の創出・・・北島守

第2章 フリーターの職業能力開発とマッチング・・・上西充子

第2部 労使関係と制度

第3章 日本企業の人事改革と仕事管理・・・石田光男

第4章 長期安定雇用における高年齢者・・・久本憲夫

第5章 パートタイム労働をどう考えるか・・・首藤若菜

第6章 サプライヤー企業の働き方と労使関係・・・願興寺ひろし

第7章 連合政策の展開の分析・・・鈴木玲

第3部 労働法

第8章 最低賃金制の現状と課題・・・吉村臨兵

第9章 労使関係の個別化と法・・寺井基博

それぞれに、興味深い論点がたくさんありますが、まずは送っていただいた上西先生のフリーター論。

「まとめ」の言葉を用いると、この論文は「フリーターの問題から学校教育のあり方や雇用・労働市場・社会政策のあり方などを問い直すという方法」をとっています。それは、「フリーター問題をフリーター問題としてのみ取り上げることが多くの論点を見逃すことにつながること、また、フリーター問題をフリーター問題としてのみ対処しようとすることが限定的な効果しか持ち得ないこと」からとられています。

最後のパラグラフは味わい深いので、そのまま引用しておきます。

>フリーターとは、第1節で見たように、従来の枠組みでは捉えられない存在であったがゆえに、「フリーター」という命名がされ、分析の対象となった。当初は、彼らの職業意識に着目するなど、彼ら個人の問題として捉えようとする傾向が社会的にあった。しかし、雇用情勢の悪化の中で大量のフリーターを生み出さざるを得ない高校の現状が明らかとなり、フリーターからの離脱が困難な年長フリーターの滞留が見られるようになり、また様々な対策が試みられる中で対策の難しさが明らかになるにつれて、フリーターの問題は従来の新規学卒就職という学校から職業への移行のあり方を問い直す問題につながり、また、正社員と非正社員が税制・社会保険制度や労働市場、職業能力開発の面で分断された状況にある現状を問い直す問題につながることが明らかになってきているのが今日の状況だといえよう。

本田由紀先生の拙著ご紹介がアップ

Hop_p 日曜日の朝日新聞読書欄に載った本田由紀先生による拙著『新しい労働社会』のご紹介が、ネット上にアップされています。

http://www.asahi.com/shimbun/dokusho/booksurf/091111/hop.html(仕事で困る前に 本田由紀)

>学生や生徒でいられる時期はすぐ通り過ぎて、その先には仕事の世界が待っています。でも、ちょっと辺りを見回せば、景気や雇用に関する暗いニュースばかりで、この社会や自分はどうなっちゃうんだろうって、怖くなってしまいますよね。不安や恐怖だけだと身動きとれなくなるし、逆に自分だけは大丈夫なはずって、カラ元気を出して突っ張ってみても、あれよあれよと言う間に現実に裏切られてしまうかもしれません。

ということで、今野晴貴さんの『マジで使える労働法』(イースト・プレス)、『ノンエリート青年の社会空間』(中西新太郎・高山智樹編、大月書店)に加えて、拙著をご紹介いただいているわけです。

拙著の重版決まる

S1194 おかげさまで、7月末に出版されてから4ヶ月足らずで、拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』の重版が決まりました。初版の18,020部がほぼ売り切れたということで、お買い求めいただいた皆様には、改めて心より感謝申し上げます。

政権が交代して、労働政策への関心がさらに高まる中、より多くの皆様に読んでいただけると、大変幸いです。

この時期に書評していただいた本田由紀先生及び樋口美雄先生にも、あらためてお礼申し上げます。

2009年11月10日 (火)

宮本太郎先生の時論2点

最近刊行された総合雑誌に宮本太郎先生の時論が載っていました。

799 一つは岩波の『世界』の臨時増刊号です。

http://www.iwanami.co.jp/sekai/2009/ex/799.html

「大転換——新政権で何が変わるか、何を変えるか 」という特集の中で、宮本先生は「アクティベーション型保障に舵を切れ――民主党政権と生活保障の転換」という論文を書かれています。

宮本先生自らの言葉を引けば、

>本稿は、民主党政権の生活保障政策の現状についてより踏み込んだ解釈を試み、その上で新たに望まれる展開の方向性について考える。受け身のベーシックインカム型になりつつある生活保障政策を、能動的なアクティベーション型に転換するべきだというのが、本稿の主張である。

そして、例の麻生内閣による緊急人材育成・就職支援基金を、天下り団体だからと凍結を図り、結局一部凍結となった経緯を「職業訓練をめぐるジレンマ」という項で詳述し、

>アクティベーション型の生活保障のためには、現状がいかに問題含みであっても、職業訓練など公共サービスの供給体制を整備し、刷新し、活用していかなければならない。そのためにも、民主党政権はどこかのタイミングで、単なる官僚制批判から、行政の信頼を高める改革へと歩を勧める必要がある。

と喝破されています。

1231_issue_img もう一つは『中央公論』です。

http://www.chuokoron.jp/newest_issue/index.html

こちらも、表紙にドドーーンと舛添前厚労相の顔が載っているように、舛添さんの手記が目玉で、特集は「年金は甦るか」ですが、こちらにも宮本太郎先生が「「ばらまき」を回避し雇用を支えよ─民主党政権と生活保障ビジョン」という論文を書かれています。

内容は上記『世界』とよく似ています。こちらでも上記緊急人材育成・就職支援基金をめぐるドタバタ劇を述べた上で、

>雇用を軸とした生活保障を刷新していくためには、良質な公共サービスが求められる。ところが、「脱官僚」の旗の下で、行政の問題点を叩き、現金給付を追求し続けるならば、良質な公共サービスの実現は遠のくばかりなのである。どこかで行政への信頼醸成へと転換を図らなければ、そもそも将来の社会保障体制の構築ができない。各種の世論調査などでは、人々は生活不安の解消のため税金が使われるならば、負担増もやむなしと考えている。ところが、行政不信が政権自らによって再生産されるならば、政府が安定した財源を確保するために増税を正面から論議するという道もまた閉ざされるのである。

ここまで堂々たる正論を、『世界』と『中央公論』という二大論壇誌が同時に載せるということに、いま求められる政策がどこにあるかがよく示されていると思います。

なお、宮本太郎先生は、来週発売される岩波新書で『生活保障-排除しない社会へ』という本を出される予定です。

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_top/newtop.html

>★宮本太郎さんの『生活保障 排除しない社会へ
 不安定な雇用、機能不全に陥った社会保障。生活の不安を取り除く「生活保障」を再構築するため、新しい社会像を打ち出します。

これも必読書です。

『ジュリスト』にわたくしの判例評釈 on 奈良県立病院事件

L20092079311 7日発売の『ジュリスト』11月15日号に、わたくしの判例評釈が載っております。

http://www.yuhikaku.co.jp/jurist/detail/018004

>[労働判例研究]
地方公務員たる医師の「宿日直」の監視断続労働性及び「宅直」の労働時間性――奈良県(医師時間外手当)事件――奈良地判平成21・4・22●濱口桂一郎……113

この事件については、本ブログでも何回か取り上げておりますが、法律雑誌上で正面から評釈したのはこれが初めてだと思います。

なお、この号の特集は「高齢社会と法の取組」で、次のような論文が掲載されております。いずれも大変有用ですので是非お読み下さい。

◇高齢社会と社会保障――特集にあたって●岩村正彦……6
◇高齢社会の現状と将来像,そこから見えてくる課題●小島武彦……16
◇介護保険制度と高齢者ケア●森 真弘●野村 晋……24
◇高齢社会の高年齢者雇用政策のあり方●山川和義……31
◇高齢社会における医療制度と政策●島崎謙治……38
◇年金制度と法――変動するリスクと年金受給権●江口隆裕……47
◇高齢社会に求められる刑事政策●吉中信人……55

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-0100.html(医師の当直勤務は「時間外労働」)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-3bfa.html(奈良病院「当直」という名の時間外労働裁判の判決)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/413-eed8.html(奈良県立病院の「医師に関して有効な労働基準法41条3号に基づく宿直許可申請書および許可書」)

2009年11月 9日 (月)

『労働基準広報』で渥美・濱口対談

さて、『労働基準広報』の11月21日号から、渥美由喜さんとわたくしの連載対談「働き方未来図」が始まりました。権丈英子先生に続く第2弾ということになります。

>労働問題には政治的解決が必要に世代間格差を話し合うための議論を

>連載対談第2回のゲストは、(独)労働政策研究・研修機構統括研究員の濱口桂一郎氏。厚生労働省出身の濱口氏は、これまでの役人として経験を活かしながら、今後の日本の労働政策のあり方について積極的に発言していることでも知られている。今回は、現在の労働政策のあり方を中心に話が展開する。

ということで、人事労務関係の皆様のお手元にはそのうち回ってくるはずです。

「光の領分」さんの拙著書評プラス

「光の領分」さんの拙著への書評です。

http://pvpmtfv.blogspot.com/2009/11/blog-post.html

主として第4章について、

>著者も無理筋なことはわかっていてこのように書いたのだと思う。これで論議が盛り上がれば、突破口も見えるかもしれないし、そうでなくても今の労働運動(色々な思想を背景にしたものがあるが)の問題点を浮き上がらせることができるから、インパクトを与えられればそれなりに成果がある。戦略があり、さすが有能な役人さんだと思う。ナイーブな左翼思想集団あたりには出来ないことだ。

と、身に余る評価をいただいておりまして、有り難いことなんですが、そのあと・・・、

>まあ人によっては「狡猾」と感じる人もいるだろうけど、困難な状況を打破するにはそれなりの戦略が必要なわけで、池田信夫のいじめ方を見てもわかるように、hamachan先生切れるな、と思うのだ。

いや、わたくしが池田信夫氏をいじめたのではなくて、池田信夫氏がわたくしを罵倒したことから話が始まったのです。そこのところは、歴史認識として何遍でも繰り返しておきます。

労働政策の戦略論で「狡猾」と言われるのは褒め言葉として素直に受け止めますが、ことネット上のトラブルに関しては、わたくしがいじめられっ放しなのですよ、本当に。

『ダイヤモンド』誌での発言

Dw_m さて、『ダイヤモンド』誌11月14日号において、わたくしが若干のコメントを発しております。

http://dw.diamond.ne.jp/contents/2009/1114/mokuji.html?keepThis=true&TB_iframe=true&height=460&width=800

「民主党経済総点検」という特集の「Manifesto5 雇用・経済」の「雇用」のところで、

>民主党の雇用政策について、労働問題に詳しい有識者に共通する見解は、「湧き上がった個別問題に蓋をするだけで、多層的な労働問題を根本から解決しようという議論がなされていない」(濱口桂一郎・労働政策研究・研修機構統括研究員)というものだ。

という総論的コメントをしております。いろいろと山のように喋ったんですが、最大公約数的総論だけということで、まあ、「総論バカじゃ駄目、各論こそいのち」とか言ってるわたしが各論なしの総論だけというのも皮肉なんですが、紙幅の制約上やむを得ません。

各論は拙著をどうぞ、ということで。

『エコノミスト』誌で樋口美雄先生が拙著書評

20091106org00m020020000p_size6 というわけで、本日発売の『エコノミスト』誌11月17日号において、樋口美雄先生が拙著を書評されています。

http://mainichi.jp/enta/book/economist/news/20091106org00m020021000c.html

冒頭のパラグラフを引用しますと、

>派遣労働やワーキングプア、ホワイトカラーエグゼンプションといった労働諸問題が、昨今、大きな政治課題になっている。この種の問題を扱った書物は、最近よく見かけるようになったが、その多くは統計データやヒアリングを通じ、問題の実態を明らかにすることに主力が注がれている。これに比べ、本書はその解決策に焦点を当て、必要な緊急対策を検討するとともに、問題の背後に潜む日本型雇用システムの本質に迫り、この改革なくして抜本的解決はないとし、その具体的基本戦略について論じる。・・・

と、真っ正面からわたくしの提起を受け止めていただいた書評となっております。

最後のパラグラフで、

>著者は長年にわたり、わが国の雇用政策の現場を経験し、欧州連合(EU)の雇用政策、社会政策の実施やその影響を、身近な立場で見続けてきた。そうした経験に裏打ちされた知見に基づくわが国の歴史的変遷や諸外国の動向についての記述を読むと、一見大胆にも思える本書の提言も説得力を増してくる。

と、わたくしの方法論(「私は、労働問題に限らず広く社会問題を論ずる際に、その全体としての現実適合性を担保してくれるものは、国際比較の観点と歴史的パースペクティブであると考えています」(拙著「はじめに」)より)をお認めいただいていることも、嬉しい限りです。ありがとうございます。

2009年11月 8日 (日)

本日のETV特集

Img1108_01s 本日、NHK教育テレビで10時から放送予定の「ETV特集」は、「作家重松清が考える働く人の貧困と孤立の行方」です。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/index2.html

>去年暮れから年始にかけて開設された「年越し派遣村」。仕事とともに寝る場所までも失う派遣など非正規労働者の現実を目に見える形で示した。政府は、講堂を宿泊場所として提供し、補正予算に失業者への緊急対策を盛り込むなどして対応。野党3党が派遣法の抜本改正に動くなど、政治を動かす原動力となった。
作家 重松清さん(46歳)は、普通の人が、仕事場や学校、家庭で、「孤立」し、時に自分自身や他人を傷つける事件に追い込まれてしまう様を、小説やノンフィクションで見つめ続けてきた。重松さんは派遣村に、「長く働いても何の技術も身につかない仕事と働き方があふれ、簡単にクビを切られる」現実にショックを受けるとともに、「孤立」を抜け出す希望を見たという。
派遣村には、派遣切りにあうなどして失業した505人とともに、1692人のボランティアが集まった。実行委員会は、連合、全労連、全労協という労働組合のナショナルセンター、路上生活する人たちを支援するNPOや弁護士、非正規の労働者が個人で加盟するユニオンなど。重松さんは、垣根をこえて生まれた、人と人とのつながりに、「孤立を脱する物語」の可能性を見いだすという。派遣村から10ヶ月、関係した人々は今どのように現実と向き合っているのだろうか。
番組では、重松清さんとともに、「派遣村」を担った弁護士やユニオンの活動現場を訪ね、いま働く人たちの直面する「貧困」と「孤立」の現実と、そこを抜け出す道を考える

わたくしも取材を受けております。どういう形ででてくるか、興味深いところでありますな。

(追記)

ということで、派遣法の経緯のところでちょびっと顔を出しました。

最低賃金の話もしたんですが、そちらは後藤道夫先生の理路整然とした話しぶりの方を使われたようです。

OECD『日本の若者と仕事』翻訳刊行のお知らせ

41826735coverpage_japan そろそろ、こちらで宣伝しておいてもいい頃合いじゃないかと思いますので、宣伝しておきます。

昨年12月のエントリで紹介したOECDの「Jobs for Youth: JAPAN」(日本の若者と仕事)ですが、中島ゆりさんの翻訳、わたくしの監訳で、近く明石書店から出版の予定です。

OECDという先進世界のコモンセンスの視点から日本の若者雇用問題を眺めると、いろいろと参考になることが多いと思います。

OECDの本書に関する説明は:

http://www.oecd.org/document/35/0,3343,en_2649_34747_41567907_1_1_1_1,00.html(Jobs for Youth/Des emplois pour les jeunes: JAPAN)

昨年12月のわたくしのエントリは:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-ce0b.html(日本は若者が安定した仕事につけるよう、もっとやれることがある)

簡訳の部分だけ再録しますと、

>日本は若者が安定した仕事につけるよう、もっとやれることがある

>日本の若者は安定した仕事に就くのがますます難しくなっており、政府は職業訓練制度を拡大するとともに、社会保障の適用範囲を若い非正規労働者に拡大すべきだ

>若者は日本の労働市場の増大する二重構造にひどい目に遭っている。若者の3分の1は非正規労働だ。低賃金で社会保険も適用されず、技能とキャリアを発展させる可能性も乏しい。派遣から常用への移行も困難で、多くの若者が不安定雇用の罠にかかっている。

>来ました。教育、なかんずく大学教育のレリバンス!学生に企業が求める技能を与えるため、実業界と密接な連携を、と。

>若者向けの公的職業訓練を拡大せよ、と。日本のオピニオンリーダーたちは、能開機構を潰すことが正義だと思いこんでいるみたいですがね。

>正規と非正規の間の保護のギャップを埋めて、賃金や手当の格差を是正せよ。すなわち、有期、パート、派遣労働者の雇用保護と社会保障適用を強化するとともに、正規雇用の雇用保護を緩和せよということです。もちろん、あらゆる雇用保護はことごとく根絶せよなどと誰かさんのようなことを言っているわけではありません。

>若者向けの積極的労働市場措置を強化せよ。不安定な若者の数に比べ、あまりにも少なすぎる。もっと公的資金を投入せよ。特に学校中退者に。

原著が公表された昨年12月にも「まさに時宜を得たというか、時宜を得すぎているんじゃない、というぐらい絶好のタイミングで公表されておりますな」と申し上げたんですが、政権が変わって、「コンクリートから人へ」とか言っているはずなのに、その「人」作りを叩きつぶそうという動きも蠢動している今日、再び「まさに時宜を得たというか、時宜を得すぎているんじゃない、というぐらい絶好のタイミングで」翻訳出版することになるというのも、何かの巡り合わせでありましょうか・・・。

本田由紀先生による拙著ご推薦

本日の朝日新聞の「どくしょ応援団 YA(ヤングアダルト)のためのブックサーフィン」というコーナーで、本田由紀先生に拙著『新しい労働社会』をご推薦していただいております。

「仕事で困る前に」というタイトルで、取り上げられているのは、POSSEの今野晴貴さんの『マジで使える労働法』、本ブログでも取り上げた中西・高山編『ノンエリート青年の社会空間』、そして拙著の3冊です。

拙著について述べたところを引用しますと:

>・・・それにしても、どうしてこんなに仕事の世界が荒れてしまっているんだろう、と思ったら、hamachanこと濱口桂一郎さんの『新しい労働社会』(岩波新書)がお薦めです。日本型雇用の本質とは何か、それがどうしてうまくいかなくなっているのか、じゃあどんな仕組みが必要なのか、説明してくれています。「産業民主主義」「集団的合意形成」って、言葉は難しいけど、要するに、仲間と支え合いながら、きちんと話し合うことが大事っていうことですから、上の2冊とやっぱり重なってくるところがあるんです。・・・

この記事で、若い世代にも読者が広がってくれるとうれしいですね。

2009年11月 7日 (土)

『エコノミスト』誌で樋口美雄先生が拙著を書評の模様

20091106org00m020020000p_size6 毎日新聞社のHPによりますと、来週月曜日発売予定の『エコノミスト』誌11月17日号において、樋口美雄先生が拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』(岩波新書)を書評されるようです。

http://mainichi.jp/enta/book/economist/news/20091106org00m020021000c.html

>◇書評

・『新しい労働社会』 樋口 美雄・評

樋口先生といえば、日本の労働経済学においていまや第一人者ですので、その書評は身が引き締まります。これは早く読んでみたいです。

企業の責任と公共の責任

先日の「ハローワークのワンストップはいいけれど」に対して、また「庶務課の職員」さんからコメントをいただきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-11b2.html

ただ、ご本人が「このコメントは公開しなくて結構です」と言われているので、わたくしに対する私信ということになり、ここに公開してわたくしのリプライをするわけにはいきません。

ただ、内容的にとても重要なことを含んでいるので、別にエントリを立て、実質的にそのリプライになるようなことを書きたいと思います。

問題は、ハローワークの職員自身が精神的肉体的に疲弊して、「なぜ、今自分たちの仕事が必要なのか」が見えなくなっているということです。

この最大の原因は、企業と国家と市場という三題噺を適確に整理する議論がなされないまま、客観的にその役割が重要性を増しつつある中で、逆にその役割を貶める発想がまかり通るところにあります。

昨日、職業能力開発大学校に関するエントリで述べたこととほとんど同じ理路なのですが、「職種と職業能力に基づく流動的な労働市場」が「誰も排除しない包摂的な労働市場」として機能するためには、パブリックな労働市場メカニズムが不可欠になります。1960年代までの労働行政は、まさにそういう方向性を目指していました。

ところが、石油ショック以後の労働行政は、企業による教育訓練と雇用保障を最大の政策目標に設定し、パブリックな機能はその企業保障への援助(雇用調整助成金の支給など)が第一で、そこからこぼれ落ちた人々への公的な直接援助(職業紹介や職業訓練)は事実上最優先ではなくなりました。

その「企業主義の時代」のバイアスこそが、ハローワークや公共職業訓練機関に対する莫迦にしたようなものの言い方の源泉にある発想です。「企業がちゃあんとやってくれているのに、なにを公共が下らんことをやっているのだ」という高慢な発想ですが、これが無意識的にいまに至るまで尾を引いているのです。

ところが、世の中の風潮は、1990年代半ばから「市場主義の時代」になり、「企業がちゃあんとやってくれる」わけではなくなったのですが、その後の「失われた十年」では、「市場に任せさえすれば、すべてがうまくいく」という奇妙な信仰が流行し、とにかくすべて自己責任ということになりました。そして、ようやく最近になって、いままで市場原理主義を唱えていた人々が、今頃になって気がついたような顔をして、デンマーク型のフレクシキュリティがどうたらこうたらと、知った風なことを言い始めたという次第です。

マクロ的な労使合意システムというデンマークモデルの最重要なポイントを言わないOECDの「雇用見通し」においても、その重要な軸が手厚い職業指導や職業訓練という積極的労働市場政策であることは明確に指摘されています。まさに、これまでの市場原理主義者たちが、パブリックな労働市場メカニズムの重要性を認めざるを得ない状況に、いま足を踏み入れつつあるこの時代において、かつての「企業主義の時代」の残像のごとき「企業がちゃあんとやってくれるから公共はいらない」という時代遅れの発想が、国家権力が諸悪の根源という40年前の新左翼思想に固着したままの人々の手によって、いま実行に移されようとしているというのが、今日の最大の皮肉であるわけです。

このあたり、厚生労働省の中の人もどこまでその論理的連関が理解されているのかいささか心許ないところもありますが、ハローワークの現場のみなさんには、是非、企業パターナリズムが縮小する時代であるからこそ、直接労働者に支援するパブリックの役割が重要になるのだということをしっかり理解して、自信を持って職務に精励していただきたいと思います。

2009年11月 6日 (金)

日本経団連タイムスにまた出ました

先日、日本経団連タイムスの10月29日号に、「EUの雇用政策と生活保障制度の動向について聞く」として、講演概要が載りましたが、引き続き、11月5日号にも、今度は「EUの有期労働契約法制の動向について」講演概要が載っております。

http://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/times/2009/1105/08.html

>日本経団連の労働法規委員会労働法企画部会(庄司哲也部会長)は10月22日、東京・大手町の経団連会館で会合を開き、労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員からEU(欧州連合)の有期労働契約法制の動向について説明を聞いた後、意見交換を行った。

先のものが社会保障委員会企画部会であったのに対し、今回は旧日経連主流の労働法規委員会労働法企画部会です。

このように、労使団体に呼ばれるネタで、現在どういう問題への関心が強いかがよくわかります。

能開大が「ムダ」であるという思考形式の立脚点

「事業仕分けチーム」が、他のいかなる「ムダ」よりも真っ先に取り上げたのが、職業能力開発大学校であるという点に、この「行政刷新」なる思考形式のおそらくは無意識的なバイアスが濃厚に示されています。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091105-OYT1T01075.htm(「事業仕分けチーム」視察開始、能開大など2か所)

>政府の行政刷新会議は5日、2010年度予算の概算要求から無駄な事業を洗い出す「事業仕分けチーム」のメンバーが対象事業候補の現場視察を始めた。

 尾立源幸参院議員と菊田真紀子衆院議員は、独立行政法人「雇用・能力開発機構」(本部・横浜市)と同機構が運営する「職業能力開発総合大学校」(神奈川県相模原市)の2か所を視察した。同大学校では、職業訓練指導員を育成する目的で設立されたのに、卒業生のうち指導員として就職できるのは全体の4割未満にとどまっていることなどの説明を受けた。

 仕分けチームは6日以降も国際協力機構(JICA)本部などを視察する。

 同会議は5日、11日からの仕分け作業で取り上げる事業候補を約3000事業から約240事業に絞り込んだ。仙谷行政刷新相らは関係閣僚と協議したうえで、9日に開かれる同会議の会合で対象事業を正式決定したい考えだ。

絞り込んだトップバッターが能開大だというのですから、この人たちの目には、公的職業訓練というのは、ムダ中のムダだと映っているのであろうことは想像に難くありません。

実は、それは、1970年代半ば以降の、わたくしのいう「企業主義の時代」にもっとも適合的な思考形式であったのです。

1960年代の高度成長期には「職種と職業能力に基づく流動的労働市場」を目指していた日本の労働政策が、石油ショックを契機として企業における教育訓練と雇用保障を中核とする政策に大きく転換したということは、わたくしが繰り返し述べてきたことですが、政策の中心が企業内教育訓練に集中すればするほど、公的職業訓練などというものは残余的、周辺的な地位に追いやられていくのは当然でした。

「企業主義の時代」に「ムダ」の代表に見えるようになっていった公的職業訓練ですが、1990年代半ば以降「市場主義の時代」になっても、あまり復権しませんでした。この時は例の竹中平蔵氏がフリードマンを持ち出して「教育バウチャー」とか騒いだので、「教育訓練給付」という名のNOVA補助金が保険料から大量に支出されるというのが中心であったのです。もっとも、1998年に封切られた山田洋次監督の『学校Ⅲ』は、リストラにあった中高年たちが必死に職業訓練に励む姿を描き、公的職業訓練の意義を世に訴えました。

ようやく市場主義の時代が過ぎ去ろうとし、とはいえ企業主義の時代に戻るのでもなく、労働者が職種と職業能力に基づいて流動的にしかも安定的に労働市場をわたっていけるような社会を作ろうという機運が出てきた、この期に及んで、公的職業訓練を「ムダ」の一丁目一番地と見なすような発想が、民主党政権の中枢に巣食っているというのは、なかなかシュールな事態ではないかと思われます。

この「ムダ」切りの人々は、どのような労働市場の姿を思い描いているのでしょうか。

教育訓練はみんな企業が正社員にしっかりやってくれるから、公的職業訓練なんか余計だよ、という社会なのか、

教育訓練は、NOVAみたいな民間の学校がやってくれるから、そこにお金をじゃぶじゃぶ流せばいいよ、という社会なのか、

「ムダ」といえば脳みそが思考停止というのではなく、労働市場のあり方論を少しは頭の片隅に置いた上で、考えていただきたいと思います。

(参考)雇用政策思想の転換の経緯については:

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hitotokokudo.html(雇用政策の転換)

(念のため)

これは、雇用・能力開発機構という組織自体をどうするかという問題とはとりあえず独立の問題です。

2009年11月 5日 (木)

恐らく今後労働政策談義でこの濱口本を踏まえないブログ労働政策論は無視しても良いだろう

その後一々ブログ上で紹介しておりませんが、10月から11月に入っても、拙著『新しい労働社会』に対する書評は絶えることなくいろんな人々から発せられています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/bookreviewlist.html

ここでは、まず新聞・雑誌等、次にブログその他個人ホームページ、最後にtwitter上でのつぶやきを採録しています。紹介しなかった書評にも、結構面白いものがあります。

さて、本日付の最新の拙著書評はnomurayamansukeさんによる「萬の季節」というブログですが、

http://d.hatena.ne.jp/nomurayamansuke/20091105#1257373435

わたくしの戦略を深いレベルで捉えていただいていて、著者冥利に尽きる書評となっております。

まず冒頭、

>恐らく今後労働政策談義でこの濱口本を踏まえないブログ労働政策論は、無視しても良いだろう。それくらい網羅的かつ画期的な内容になっている。

とお褒めいただいているのですが、その説明が実に深いところに手が届く議論になっているのです。

>著者が恐らくゴールとしているのは、ワーク・ライフバランスの実現である。ところが日本の労働法制は、構造的にこの理想とはほど遠い。最初の制度設計に対して、職務給実現に向けた圧力が再三かけられるが、結局メンバーシップ型が温存されたままオイルショックを迎え、日本企業はメンバーシップ型の柔軟性を活かして乗り切ってしまう。逆に言うと、これは労働者が、かなり過酷な配転や残業を受け入れることで雇用を維持することができる、という経験になってしまった。そして恐らく日本が落ちたこの十五年の経済的停滞に対しても、多くの企業で今尚この「経験」を活かした対応が為されているに違いない。そしてこの対応も限界なのだ。限界だからホワイトカラーエグゼンプションや過激な解雇規制撤廃の議論がボーガスとして出てくるのだろう。

恐らく立ち返るべきなのは1日な24時間しかないという事実と我々の命は一つしかないという単純な事実だ。スーパーマン妄想に浸って命を縮めるには人生は短かすぎる。我々は誰もがヒット一本で数百万を稼ぐ野球選手になれるわけではないのだ。

著者の提案で真っ先に目についたのは、非正規雇用に対する賃金の支払いである。読みが間違いでなければ、これは有体に言えば、高卒初任給は保障しろということだろう。地味に見えるが、これはなかなか冴えた手なのではないか。先ずは非正規雇用に高卒初任給を保障する。これは企業にとっては人件費の膨張に繋がる。人件費を精査しようとすれば正社員の働き方や給与を見直すしかない。この見直しは恐らく職務給実現への圧力として機能するだろう。そしてhamachanのロードマップ上では、同時に労働時間の制限と新しい労働政策にベストマッチする社会保障が模索されることになる(恐らく周到なhamachanはこういったメニューも既にアレンジ済みなのだろう)。そしてハローワークの機能強化といった重要なインフラ整備が整ったところで、解雇規制の緩和が図られるという感じだろうか。つまり非正規雇用に対する賃金が改革の発火点になるのだ。

拙著の全体戦略を、あえて明示しなかったことも含め、かくも明確に摘出してみせる技には舌を巻きます。

ただ、最後のところで、

>hamachanは有名なリフレ派嫌いではあるが、現実の貧困層よりも利子生活者の利益を優遇するかのような日銀の姿勢には批判的であり、日銀と同意見と見られる民主党にも批判的である。

なんだか昔の喧嘩が永遠にまつわりつく感じですが、何回も繰り返すように、わたくしは「リフレ派嫌い」ではありません。特定の「リフレ派」と称する一定の人々の(リフレ政策とは直接関係のない)言動が好きになれないというだけでありましてね。

組合未加入の非正規労働者の処遇改善も~ 2010 春季生活闘争基本構想

連合の非正規労働センターのHPに、10月30日付で標記の記事が出ています。

http://www.fairwork-rengo.jp/modules/rengo_news/?page=article&storyid=184

>連合は、29 日に開催した中央執行委員会で、非正規労働者を含めた全ての労働者を取り組み対象とする「2010 年春季生活闘争基本構想」を決定しました。

>取り組みの柱の1番目に、非正規労働者を含めた全ての労働者を対象に、賃金・労働条件等の労働諸条件改善に取り組むことを掲げ、これを、すべての組合が取り組むべき「ミニマム運動課題」と位置づけています。
具体的には、すべての産別・単組に対し、非正規労働者の賃金引き上げ、正社員化、企業内最賃協定締結の拡大と引き上げ等、様々な課題についての労使協議・交渉の推進、社会・労働保険の加入状況点検の実施を求めています。

また、春季生活闘争の取り組みでは初めて、組合員ではない非正規労働者に対しても処遇改善等の取り組みを求めることを明記しました。

これは、連合が組合員の枠を超えて非正規の処遇改善を求めていくという点で、これまでの自発的結社、組合員のための組合という発想を一歩踏み出たものと評価することができるでしょう。

>中央執行委員会終了後の記者会見で古賀会長は、具体的内容は関係委員会で検討するとした上で、「18.1%の組織された労働者だけの利益を追求するのではなく、全ての労働者の利益を追求することが重要。組織によって温度差があることは事実だが、まずは雇用形態や組織・未組織に関わりなく、働き方や処遇の実態について労使交渉や協議のテーブルに乗せることを求めて行きたい」と述べました。

非組合員も含めた「すべての労働者の利益を追求する」パブリックな組織としての労働組合という思想が、どこまで現場レベルにまで広がっていけるのか、課題が大きいでしょうが、さもないと、労働組合を攻撃することのみを使命と心得る人々に攻撃の武器を与え続けるだけであるということも事実であるわけですから。

日本労働弁護団の労働者派遣法規制強化反対論に対する意見

同日付で、日本労働弁護団が「労働者派遣法規制強化反対論に対する意見」を公表しています。

http://homepage1.nifty.com/rouben/teigen09/gen091028a.html

私も最近、製造業派遣禁止論をはじめとした規制強化論に対する批判をあちこちで展開していますが、この意見書が対象としているのは、

>反対論① 「労働者派遣法の規制強化(特に登録型派遣の禁止)は就労機会の喪失につながり、失業をもたらす」。

反対論② 「派遣法の規制強化(特に製造業派遣の禁止)は、人件コストの安い海外への企業流出を招き、国際競争力を損なう」。

反対論③ 「派遣労働者が『派遣』という働き方を求めている。特に子育て中の女性は仕事と育児・家事の両立のため、(登録型)派遣がよいと考えている。

反対論④ 「貧困の問題は社会保障制度の問題である。派遣法の規制強化は貧困の解決につながらない」。

というものであって、労働者派遣システムの根本に立ち返って議論すべきだという私の意見と噛み合うものでは必ずしもありません。

実際、人件費コストゆえに派遣を守れという言い方は、要するに派遣をチープレーバーとして維持しろという議論ですから、とても受け入れられるものではありません。労働者本人の生活を成り立たせられないような低賃金でしか維持できない事業は、そもそも維持できるはずがないのでしょう。おんなこども論は、いままでの非正規モデルであって、それではこぼれ落ちる層が大量に出てきたから問題になってきているわけです。

しかし、そもそもこの提言がいうように派遣は「企業の人件コストの大幅削減にはつながらない」のであって、問題の本質は派遣先にとっての採用と解雇の際の柔軟性の確保にあるわけです。ヨーロッパ諸国にとってもまさにその柔軟性の必要と労働者にとっての安定性を両立させようとしているのであって、

>現在議論されている3党案の内容はこれら先進諸国と同程度の規制内容を定めるにすぎず、むしろ非正規労働者をめぐる労働法制の国際基準に沿うものである。

というのは、いささか事実と違うように思われます。ヨーロッパのどこにも、製造業派遣を原則禁止にしている国はないはずです。

まあ、そこはわかった上で、政治的にこういう議論を展開しているのだとは思いますが。

日本労働弁護団の有期労働立法提言

日本労働弁護団が、10月28日付で「有期労働契約法制立法提言」を公表しています。

厚労省の有期契約研究会が佳境に入り、先日わたくしも呼ばれたように日本経団連も対応をいろいろと考えてきている中で、一つのボールが投げ込まれたというところでしょうか。

http://homepage1.nifty.com/rouben/teigen09/gen091028c.html

まず、もっとも特徴的なのはかなり厳格な入口規制です。

>第1 有期労働契約の範囲

使用者は、次の各号に定める正当な理由がなければ、期間の定めのある労働契約(以下、「有期労働契約」という)を締結することはできない。

  ① 休業又は欠勤する労働者に代替する労働者を雇い入れる場合 (*1) 

  ② 業務の性質上、臨時的又は一時的な業務に対応するために、労働者を雇い入れる場合 (*2) 

  ③ 一定の期間内に完了することが予定されている事業に使用するために労働者を雇い入れる場合 (*3) 

期間は更新と一体の話ですから、両者をまとめてみると、

>第2 契約期間

1 有期労働契約は、前条各号に定める正当な理由がある場合に必要とされる合理的期間を超えて締結してはならない。 (*4) 

2 前項の期間は、3年を上限とする。

>第7 有期労働契約の更新

1 有期労働契約は、1回に限り更新することができる (*14)。但し労働契約の全期間が3年を超えることはできない。

と、更新してもしなくても上限は3年、更新回数は1回までという規制です。

更新についてはさらに、

>2 有期労働契約の更新には正当な理由がなければならない。

3 使用者は、有期労働契約の更新に際し、労働者に対して、第3条各号に定める事項を書面により明示しなければならない。

4 使用者は有期労働契約の期間満了後、契約期間の3分の1の期間が経過しない限り、同一業務に労働者を受け入れることはできない。(*15) 

5 前4項の定めに反する有期労働契約は、期間の定めなく締結されたものとみなす。有期労働契約期間が満了した後労働者が引き続きその労働に従事したときも同様とする。 (*16) 

6 労働者が有期労働契約の更新の申込を行い、使用者の更新拒絶に合理的な理由があると認められない場合は、従前と同一条件(期間は1項の範囲内)で有期労働契約の更新があったものとみなす。 (*17) 

と、非常に厳しく規制されます。ちょっと戻りますが、更新の場合に限らず、一般的に、

>第4 前3条に違反する有期労働契約の効果 (*9)

前3条の定めに反する有期労働契約が締結された場合は、期間の定めのない労働契約が締結されたものとみなす。 (*10)

という規定もあります。

一つの考え方として、有期契約はよほどの場合にのみ認められる例外措置であって、通常の場合は必ず無期契約であるべきという立場に立脚するかどうか、ですが、その場合、無期契約における解雇規制のあり方を同時に議論する必要が出てくるでしょう。解雇自由論ではもちろんなく、解雇規制の平準化という問題です。

それから、次の期間満了前の解雇と退職の扱いの格差は、一般的な労使の力関係で格差で説明可能であるかどうかはかなり疑問です。

>第5 期間満了前の解雇

使用者は、期間の定めのある労働契約について、やむを得ない事由がある場合でなければ、その契約期間が満了するまでの間において、労働者を解雇することができない。 (*11) 

第6 期間満了前の退職

1 労働者は、合理的な理由があるときは、期間の定めにかかわらず、2週間以上の予告期間を定めて、いつでも退職の申し出をすることができる。 (*12) 

2 前項の予告期間の経過により有期労働契約は終了する。前項による退職の申し出に予告期間の定めがないときは、その申し出の後2週間の経過により有期労働契約は終了する。 (*13) 

現実の有期労働者のかなりの部分は、実際には恒常的にある仕事であるのに契約は有期で雇われているのが実情でしょうから、無期契約の場合と同じように労使の条件に格差を付けることは実態論的に正当化される面があると思いますが、この提言のように有期契約が極めて限定的になった場合においては、そのような例外的な条件下の有期契約においてかかる格差を正当化する理由はなくなるように思われます。

本当に上記第1に示された3つの場合にしか有期契約を締結できないのであれば、それらの場合には期間満了前の退職に対する拘束性があってもいいのではないでしょうか。

差別禁止については、

>第8 差別禁止

1 使用者は、有期労働契約を締結している労働者(以下、「有期契約労働者」という)につき、比較可能な条件にある期間の定めのない契約の労働者と均等な労働条件をもって処遇しなければならない。但し、異なる労働条件が客観的合理的理由による場合は、この限りではない。 (*18) 

2 前項の労働条件には、賃金、休日・休暇、福利厚生その他異なる扱いが客観的に正当化されない労働条件がすべて含まれる。 (*19) 

拙著でも述べたように、正社員内部でも職務給的な意味における同一労働同一賃金原則が成り立っていない日本社会において、何を「均等」というのかという大きな問題があるわけで、この提言もそこは語っていません。

わたしは、拙著で示したような「期間比例原則」が、とりあえず使えるものさしだろうと思っています。

2009年11月 4日 (水)

「クビ代1万円」すら「ムダ」ですか?

本ブログの各エントリに付けられたブックマーク数で、昨日の湯浅誠さんのやつが一気に200件を突破してしまいましたが、それまでの1位は「クビ代1万円也」の96件でした。

http://b.hatena.ne.jp/entrylist?sort=count&url=http%3A%2F%2Feulabourlaw.cocolog-nifty.com%2Fblog%2F

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-fb88.html(クビ代1万円也)

ここでは、解雇自由化論を批判する観点から、現在都道府県労働局の窓口で行われている個別労働紛争解決制度の実態をいくつか引用して、日本の解雇の実情を説明しましたが、なかなかその辺の感覚が世間に伝わらず、依然として「日本では解雇も労働条件の不利益変更もほぼ不可能」などと大まじめな顔をして説く人々の群れが絶えないようです。

一つにはそういう世間の無理解を正すという意味もあり、現在わたくしは個別紛争処理事案の分析というのをやっています。この件については、7月に経営法曹会議で講演したときにちらりと触れているので、そのときの発言を引用しておきますと、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/zadankai.html正社員及び非正規労働者の労働契約の終了にまつわる法的問題の現状と展望

>世の中では、解雇とか雇止めというのは、あちこちで山のように行われているわけです。そういったところでは、金銭で解決どころか、びた一文も払わない形でそのまま雇用が終了するというのは幾らでもある。
 私は、今、労働政策研究・研修機構におりまして、今年度のプロジェクト研究として、各地方の労働局でやっている個別紛争の斡旋事案の中身を分析し始めています。まだ事案を見始めたところですが、実にさまざまであるというのは当然ですが、解決の仕方も実にさまざまで、もっと言うと、基準は何もない。斡旋というのは本来そういうものだといえば、会社側が嫌だと言えばそれまでの話なので、当然と言えば当然ですが、これはどう考えても会社がひどいなと思うものでも、本当に5万円、6万円のはした金で解決しているものもあれば、こんなひどい労働者に金を出すのかというようなものに40万円、50万円払ったりしている。

そういう問題意識で現在分析をしているところなのですが、一昨日の日経の記事は、どうも民主党政権はそういう問題意識などムダの極みであると考えているのではないか、という疑いを抱かせるのに十分なものでした。

http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT3S0200P%2002112009&g=MH&d=20091102(行刷会議の事業仕分け、3省63事業ムダ洗い出し 雇用機構など )

>2010年度予算編成に向けて政府の行政刷新会議が無駄を洗い出す対象事業のうち、厚生労働、経済産業、外務各省の所管分が2日、明らかになった。

例によって、官僚のやっていることはデフォルトとしてムダであるに違いない、という強固な信念に立脚しておられるのではないかとおぼしき「事業仕分け」だの「ムダ洗い出し」だのといった表現が飛び交っていますが、このリンク先には具体的な「ムダ」扱いされようとしている事業名は、(新聞政治部が脊髄反射的に「悪」とラベルを貼り、職業訓練とか雇用促進住宅とかに関する社会部記者の感覚は一切反映されない)雇用・能力開発機構しか載っていません。

そこで、一昨日の日経夕刊をじっくり見てみると、なかなか素敵な「ムダ」の数々が並んでいます。その中に、

>個別労働紛争対策の推進

というのもちゃんと挙げられています。

個別労働紛争の解決のために国民の税金を使うなどというのは許し難いムダであるようです。

なるほど、「民主党革命」というのは、いきなりクビだと言われたり、パワハラを受けた労働者が思いあまって駆け込んでくる労働相談窓口はムダであると、いわんや経営者にあれこれ助言指導したりするのはムダであると、ましてや両者の間であっせんを試みて、少ない額でもなにがしかの金銭解決につなげていくことなど、言語道断のムダ遣いであると、こういうことを言わんとしているのでありましょうか。

確か、民主党のマニフェスト(正確には「政策集INDEX」では、「個別の労使紛争に対する適正、簡便、迅速な紛争解決システムの整備促進を図ります」(32ページ)というのもあったはずで、一体どういう考え方に立ってものごとを進めようとしているのか、理解に苦しむところでもあります。

「行政刷新」というのは、誰にとってのどういう「ムダ」を排除しようとしているものなのか、仙谷大臣と、とりわけ連合総研から行政刷新会議に参加されている草野理事長には原点に立ち返った議論をお願いしたいと切に念じております。なにしろ、

>担当するワーキンググループ(WG)が2日午後から各省からの聞き取り調査に着手し、今月半ばに第1次報告をまとめたい考えだ。

だそうなので、へたをすると、わたくしの研究がのろのろと亀の歩みをしている間に、肝心の個別紛争解決制度自体が、「ムダ」だと烙印を押されて、研究対象が自動的に消滅してしまいました、という顛末にならないとも限りませんので。

松本孝行氏の拙著書評

「人材ビジネス総合商社と称し、人材に関するあらゆるサービスの窓口として研修や採用、コンサルティングなどを企業向けに企画」されておられる松本孝行氏が、その「労働問題中心、ブログ」において、拙著を書評されています。

http://matton.blog91.fc2.com/blog-entry-363.html(【書評】それでは時間がかかりすぎる…)

松本さんは、わたくしの説明には特に異議はないようですが、わたくしの結論にはきわめて否定的です。その理由は、

>ただ、最後の結論部分がいただけません。それでは遅すぎる、個人的にそう思います。

>赤木さんがなぜ希望は戦争と言ったのか、それは戦争によって立場がフラットになり、丸山真男のような地位にあった人であっても、中卒の上官から殴られるような逆転状況が直ちに起こるため、戦争という方法に活路を見出していたわけです。

>つまり最も重要なのは圧倒的パワーとスピードによって現在のワーキングプア問題や正社員・費正規社員の格差問題などが解決されることが望まれているわけです。もし著者の言うような方法で政労使の話し合いを進めていった場合を考えてください。時間がかなりかかることが予想されます。おそらく、10年以上の時間を要するでしょうことは想像できます。その時、赤木さんたち氷河期世代は40代後半へ突入していくわけです。

>このようなスピード感覚では今そこにある危機には対応できません。だからこそ城氏をはじめ、圧倒的パワーとスピード、すなわち小泉元首相のようななりふり構わない手腕を用いて一気に物事を進展させる必要があると考えているわけです。今、労働関連の苦境に立たされている人たちからすれば、ハードランディングが熱望されるのは当たり前のことです。

>著者の言うような方法は確かに民主的な手続きを経ており、制度としては非常にキレイです。ただ、民主的な手続きというのは時間がかかるものなのです。時間がかかる民主的な手続きをとることは、現在の労働諸問題においてはまったく非現実的なものであると言わざるを得ません。今必要なのはキレイな方法で労働問題を解決することではなく、なりふり構わず問題を解決する圧倒的パワーとスピードが必要なのです。

松本さんも「ウルトラC」を期待する陣営なのですね。

でも、人類史、とりわけ20世紀の現代史は、「圧倒的パワーとスピード」で「ハードランディング」させようとしたナチスやソ連の実験が結局大いなる失敗であったと物語っているように思います。

2009年11月 3日 (火)

湯浅誠氏が示す保守と中庸の感覚

20090608000126101 『東洋経済』最新号は、左の表紙のように「崩れる既得権 膨張する利権」で、これはこれで大変興味深いものですが、ここでは、湯浅誠氏と城繁幸氏の対談がいろんな意味で大変面白く、取り上げたいと思います。

世間的には、湯浅誠氏と言えば、左翼の活動家というイメージで、城繁幸氏と言えば、大企業人事部出身の人事コンサルで、保守的とお考えかも知れませんが、そういう表面的なレベルではなく、人間性のレベルで見ると、なかなか面白い対比が浮かび上がってきます。

>横断的な労働市場を作ることは同感です。それを妨げるものとして、中途採用に消極的な企業や企業別組合、人材育成能力のない派遣業者などの問題があることも理解できます。ただ移るには環境を整えないと無理。第2のセーフティネットもうまくいきません。

>城さんの考えでは諸悪の根源は解雇規制ということになるわけだ。私もフレクシキュリティ政策は評価しますが、それは失業しても生きていけるという状態がなければ無理ですよね。失業しても生きていける、たとえば職業訓練に対する企業のコミットメントなど外部労働市場を作ることに企業も参加してもらわないと、そう問題を立てないと実際に物事は動かなくありませんか。

社会問題がさまざまな側面が複合的に絡み合ったものであり、それゆえにある側面だけに着目して一刀両断する議論には現実性がないということを、理解しているのが「大人」であり、理解できないのが「子ども」であると考えれば、ここでの湯浅誠氏の役回りは、ききわけのない子どもをたしなめる大人のそれに見えます。

城氏の「子ども」っぷりをよく示すのが、普通の労働者のはなしにプロ野球選手を持ち出したがるところですが、湯浅氏は悠揚迫らぬ風情で、

>その考えは危険だと思います。純粋な競争原理が貫徹できるプロスポーツの世界は、社会のごく一部なんですよ。その原理ですべて成り立つとすれば、それこそ何の規制もいらないし、完全な自由放任がベストでしょうが、人生はプロスポーツではない。誰でも最低限の生活は確保されないと困ります。セーフティネットもいらないし、人がばたばた死んでも仕方がないということになりませんか。

「人生はプロスポーツではない」。

こう言われたら、まっとうな大人であれば、「いや、私は何もすべてがプロスポーツと同じだというわけではない。ただ、そういう側面を無視すべきではないといっているんだ」と、一歩退いて、攻め口を変えるところですが、城氏はかたくなに、

>私は仕事も全部プロスポーツと同じだと思っています。

と言い切ってしまうのですね。この辺が、「子ども」っぷりのいいところです。

湯浅氏の言葉に戻ると、

>十分なセーフティネットも横断的労働市場の形成もない現段階では企業から離れたら生活できなくなるんだから、既得権といわれようと、しがみつくに決まっていますよ。

>雇用の問題だけで完結する話でもありません。日本では子どもの教育費や家賃、ローン返済など住宅費の負担が急激な山形カーブを描いている事情を加味しないと。ヨーロッパが職務給でやれるのは教育費や住宅負担が少ないからです。

と、社会問題の多面性をふまえたシニアな議論を展開していくのに対して、城氏は例によって

>教育費ですが、いまの状況では私は大学にはあまり優先順位を感じません。ある程度優秀で熱意がある人しか大学に行く必要はなく、学びたい人は自分で奨学金を取ればいいと思います。

というまことに視野狭窄というか、社会性の欠落したどこぞの国の教育ヒョーロン家かと見まがうような発言です。お前が大学に優先順位を感じるかどうか聞いているんじゃねえだろ、とテレビなら突っ込みが入るところですね。自分の狭い了見を述べている割に、そこに自分自身がどこの大学を出させてもらったのか、という反省が見あたらないところも、その「子ども」性をよく示しています。

結局、この二人の「大人」性と「子ども」性は、次のやりとりで明確に浮き彫りになります。

>城さんの話は「ウルトラC」があるような感じがするんですよ。ここさえやればうまくいくんだ、という。でも私はウルトラCはないと思う。いくつものステップを踏まないと、いきなり欧州型の職務給などにはならないし、横断的労働市場も形成されない。

>私はそれでもウルトラCに賭けてみたい。

世の中の仕組みをどうするかというときに、「ステップを踏むなんてもどかしい」と「ウルトラCに賭ける」のが急進派、革命派であり、「ウルトラCなんかない」から「ステップを踏んでいくしかない」と考えるのが(反動ではない正しい意味での)保守派であり、中庸派であると考えれば、ここで湯浅氏と城氏が代表しているのは、まさしくその人間性レベルにおける対立軸であると言うことができるでしょう。

(追記)

「人間性」という言葉に妙な拒否反応を示す方が多いようです。

政治学でいう政治的性格といった方が良かったかも知れません。

同じ社会主義者といっても、経済活動を一挙に国有化すること(ウルトラC)により一気に至福の天国を実現できると思いこんで、プロレタリア革命を遂行したレーニン型のパーソナリティと、議会制民主主義の中で少しずつ労働者の権利を拡大し、福祉を拡大することによってその理想を実現しようとしたフェビアン主義者たちのパーソナリティとでは、きわめて対照的です。

上の対談でも、湯浅さんは職務給や横断的労働市場やフレクシキュリティに対しても基本的には同感しているので、理想とする社会像については考えられるほどの違いはないと思われます。ただ、湯浅さんは、「悪い奴ら」を殲滅して、一気に「正しい社会」をでっち上げるなんてことはできるはずがない、と考えているわけです。城氏はそれができるし、やるべきだと思っているわけですね。

あえて、どっちが優れているとか劣っているとかいう必要はないでしょうが、私がどっちを好んでいるかは、本ブログのいままでの記述から明らかでしょう。

わたしが興味を惹かれたのは、「活動家一丁上がり」などと言っている左翼活動家の湯浅氏がフェビアン的であり、企業の人事部に対して現実的なコンサルやアドバイスをしている(はずの)城氏がレーニン的であるという、対比の妙が面白かったからです。

東洋経済の中の人も、似たような感想を持たれたようですが。

『労働情報』誌における拙著書評

雑誌『労働情報』誌において、編集委員の木島淳夫さんによる拙著『新しい労働社会』の書評がされています。

ネット上にはないので、スキャンして貼り付けました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/20091102133939357_0001.pdf

さすがに『労働情報』誌だけあって、序章よりも、第1章から第3章よりも、主たる関心は第4章に注がれています。これはまさに期待していたとおりです。そして、

>労働法制における労使対等原則の言葉とは裏腹に株主資本主義が横行する状況では、闘争の側面が前面に出ることは当然である。そして名ばかりユニオンなどの問題が指摘されるようになっている今日、企業別組合への著書の評価は高すぎるのではないかと感じる。

という評語は、『労働情報』誌の立場からはまさにそう見えるだろうな、と思っておりました。興味深かったのは、

>本書は切り口と結論(提言)はかなり異色だ。評者の周辺でも、本書をめぐっては賛否両論の状況にあるが、著者の問題提起は、労働運動の側としても受け止め、対話し、対応すべきであろうと思われる。

賛否両論ですか。そうだろうと思います。ある意味で、意識的にそこをねらっています。私は、議論の中身は努めてわかりやすくしたつもりですが、「ああ、こいつはこういう思想なんだな」と、人の考え方を酸かアルカリかPH何度で測るようなやり方で測られないように、わかりやすくなんかなってやらない、というのがモットーですから。

わかりやすいと思って、私を安易に批評すると、それでは批評できていないところが必ず出るようにしてあります。

2009年11月 2日 (月)

こういう「官僚主導」はなくなるんでしょうね

労務屋さんのところで、雇用保険料率の引き上げに労使が合意したという日経の記事について論評されています。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20091030

その中で、

>さて、今回の引き上げに関しては、そもそも前政権が現行の0.8%に引き下げた際に公労使三者が三者とも「雇用失業情勢が悪化しているときに、妙なことをするものだ」と思っていたわけで、まあ予想通りの展開といえましょうか。

と、生ぬるい書き方をしているところは、実際の政治過程はまことに奇怪千万であったわけで、そのいきさつについては、産経の記事を引いて本ブログで詳しく取り上げたことがありますので、復習しておきましょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-fe7d.html(経済同友会代表幹事の正論と財務省の陰謀)

>>産経新聞 【経済深層】大失業時代 雇用保険料引き下げの“陰謀”

http://sankei.jp.msn.com/life/welfare/081227/wlf0812272101000-n2.htm

> 失業者の増大に加え、非正規社員への適用拡大で保険金の支給が急増するのは確実なのにもかかわらず、保険料を引き下げた背景には、巨額の積立金の存在がある。

 「貯金があるので、企業や雇用者に還元する」というわけだが、そんな単純な話ではない。

 「保険料引き下げの裏には、国庫負担をやめたい財務省の陰謀がある」

 雇用保険部会の多くの委員と厚労省が引き下げに猛反発した理由がこれだ。

 国は毎年度1600億円のお金を拠出しており、財政事情が悪化の一途をたどり続ける中、財務省としては少しでも支出を減らしたい。ただ、積立金が余っているなら、まず保険料引き下げるのが筋で、国庫負担だけをやめるわけにはいかない。

そこで財務省は「景気対策の目玉の一つとして、麻生首相に引き下げを進言した」(政府関係者)。引き下げに乗じて国庫負担もやめようという戦略だ。

 さらに平成21年度予算編成の過程で、シーリング(概算要求基準)で定められた社会保障費の自然増を2200億円抑制するという取り決めをほごにする議論が浮上。財務省は「雇用保険の国庫負担廃止とたばこ1本当たり3円の増税で、2200億円の財源を捻出(ねんしゆつ)するシナリオを描いた」(同)。

 結局、たばこ増税は与党税制調査会の反対で、国庫負担廃止も「雇用情勢の悪化」を理由に、実現しなかった。

そして、この財務省によるぺんぺん草の跡地に、雇用保険料率の引き下げという奇怪なお荷物だけが残されたわけであります。

これと、経産省が旗を振る賃上げによる内需拡大論とが不気味な融合を遂げたのが、雇用保険料率引き下げ分による賃上げ要請という世にも不思議な「政策」というわけで。

財務、経産という霞ヶ関の御優秀な官僚が、厚労省の三流役人を無視して制度をいじくり回すと、こういうスバラ式政策が産み出されるという標本のような事例でありました。

これからは、こういう「官僚主導」はなくなるんでしょうねえ。「埋蔵金」がどうとか譫言を垂れ流す脱藩官僚諸氏の主導とかも。

なくなってもらわないと困ります。

一知半解でも判ること

わたしはいうまでもなく、地球環境問題には無知蒙昧であり、中身について何か判ったようなことを言う資格はまるでないことは重々自覚していますが、それにしても、

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51303508.html

いままで地球温暖化なんか嘘だ、まやかしだと強硬に主張していた人間が、(ないはずの)地球温暖化を防ぐためには公害源として有名な亜硫酸ガス(二酸化硫黄)を大量にばらまけ、と主張するのが論理的一貫性に欠けることだけは理解できます。

自然科学的な解説や批判は中身について語りうる方がされるでしょうから、わたくしが一知半解であれこれ言うことは一切控えますが、これって、いままで日本に貧困なんかない、嘘だまやかしだと主張していた人間が、(ないはずの)貧困を防ぐためには(ベーシックインカムと称するはした金の代わりに)社会保障制度をことごとく廃止すればいいというのに、何となく似ている気がします。

もちろん、最大の問題は、こういうインチキな議論に引きつけられてしまう心の弱い善男善女の群れなのでしょうが・・・。

2009年11月 1日 (日)

「労働者性」問題と「三者間労務供給」問題の区別が付かない人々

事態はかなり深刻だということが判ってきました。

ネット界のゴキブリ(@稲葉先生)こと「ふま」が労働法の基本も判らぬ愚か者であることは周知のこととはいえ、それが意気揚々と持ち出す実例が、世間の労働法リテラシーのあまりの欠如ぶりを如実に示すものであったからです。

http://www.wam.go.jp/ca30/shuroshien/detail/c02/200906_02/200906_02.html

これが、その工場のライン作業を請け負っている社会福祉法人を紹介しているHPなのですが、

>仕事内容は、まず、美容室向けのシャンプー、トリートメントなどラインに流れてくる製品に、しっかりとロット番号が打たれているか、押しても液もれしないかどうかを検品します。検品の結果、製品に問題がなければ、ラベルを貼り、商品をクリアケースに入れて梱包し箱に詰め、パレット上に積んでいきます。その箱をダンボールに入れて積んでいきます。取材当日は、これら一連の工程を専門職員1名とパート社員2名と利用者6名の計9名が役割を分担し黙々と仕事を進めていました。
 「びいはいぶ」が取引先の工場に出向いて作業を行なうのは、「本当の働く力は、本物の働く場所での体験の中でしか育たない」(奥西利江施設長)と考えているからです。奥西さんの言う“働く力”とは作業能力を指すのではなく、仕事を続けていく体力や社会人としての立ち居振る舞い、マナーやあいさつ、援助の求め方まで含めた総合的な力のことです。

いや、もちろん、障害者のみなさんがこういう形で就労に参加することはとてもいいことです。労働者としてね。

ところが、こういう風に働いていても、障害者たちは授産施設と全く同様、「利用者」という位置づけのようです。

>取材で訪れた日も、工場のラインでパート職員と利用者が一緒に作業をするのはもちろん、一緒に休憩をとり、楽しそうに会話しながら食事を取っていました。専門職員との関係とは異なり、共に働くパート職員との関係は、社会との関わり合いそのものです。「びいはいぶ」では、こうした社会との自然な関わり合いによって、利用者の意識に変化をもたらし、“社会性”や奥西さんの言う“本当の働く力”を育んでいくのです。

>「施設内で働いていた時と比べ、利用者のみなさんが休まなくなったことが何より大きな変化です」。こう語るのは「びいはいぶ」のサービス管理責任者の民田絵都子さんです。利用者たちは企業の現場に出向いて働くことによって「自分が頼りにされている」と実感することができ、仕事に対する責任感が芽生えるようです。

障害者たちを「労働者」と見る観点は全くないようです。

で、問題は、なぜ彼らはかくも天真爛漫に、障害者たちが労働者ではないと思っていられるのでしょうか。

その秘密は次の一文にあります。

>現在の活動スタイルは、法律上の制約があるためミルボンの社員から仕事上の指示を受けたり、一緒に働いたりすることはありません。

はあ?

「法律上の制約」って何?

もしかして、派遣先からの指揮命令が問題になる「偽装請負」ととんでもない勘違いをしていませんか?

三者間労務供給関係における「労働者派遣」と「請負」の区別から生ずる「偽装請負」の問題と、

労働法、とりわけて労働基準法の適用となるか否かが問題となる「労働者性」問題における「雇用」と「請負」の区別から生ずる「偽装請負」の問題が、脳内混線していませんか?

行った先の工場の従業員から指示を受けるかどうかというのは、派遣・請負問題における「偽装請負」問題においては、きわめて重要なメルクマールですが(私は拙著で述べたようにこのことにはいささか疑問を持っていますが、それはともかく)、「雇用」か「請負」かという「偽装請負」問題においては、何の意味もありません。そんなこと一生懸命気を配っても、「労働者性」問題には何の役にも立ちません。

と、いうことが、この人々には全く判っていない!

そして、真に恐るべきことは、これは単にこの社会福祉法人が勝手に思いついてやっていることではなく、地方自治体の障害者福祉部局に相談して、「こうやれば大丈夫だよ」といわれたからやっているのでしょうから、障害者福祉行政の人間にも、上記二つの全く異なる「偽装請負」概念が脳内混線していて、区別できていないらしいということが窺われるわけです。

これだけでも相当の脱力感ですが、それだけではありません。もっと恐ろしい日本の行政機構の真相がさらに浮かび上がってきます。

このHP、本件を立派な美談として紹介しているこのHP、「WAM NET」といって、

http://www.wam.go.jp/

福祉医療機構という厚生労働省の立派な独立行政法人の福祉・保険・医療の総合情報サイトではありませんか。

ことここに立ち至って、まともな労働法研究者はことごとくいいしれぬ脱力感をおぼえるでありましょう。

旧厚生系と旧労働系の「二つの文化」の間のかくも大きな断層に、今更ながらため息が漏れます。

念のため、一言。「素人じゃ、どっちが正しいか、判断できません。」ではない。医師の労働時間問題について、医政局はじめとする医療界がことごとく「医療法の宿直なんだから宿日直だ」といっても、彼らに労働基準法の解釈権限はこれっぽっちもありません(奈良県の中の方はそう思っていなかったようですが)。障害者福祉行政が総力を挙げて何を言っても、現実に働いている人の労働者性の判断基準に対して、一切解釈権限はありません。労働法とはそういうものです。

最低賃金法には障害者の特例があるが労働基準法には障害者の適用除外規定はないということの本質的意味をよく噛みしめていただきたいのですが、彼らの生産性水準に応じた最低賃金以下の支払いをすることは認められても、たとえば上の事例で、同じ工場内で働いていた工場従業員と「利用者」と称する障害者が同じ事故にあって怪我をした場合に、前者は労働災害になるけれども、後者は私傷病になるというのは、認められないということなわけですよ。

障害者の雇用の場の拡大のために最低賃金など何らかの特例措置をするということは、労働者性を前提としていろいろありえます。しかし、雇用拡大という政策目的のために、労働者であるものを労働者でないと扱うということは、労働基準法のどこをどうひっくり返しても不可能です。労働法とはそういうものです。

(追記)

実をいうと、上記二つの「偽装請負」問題の脳内混線は、かなり広く見られる現象のようです。

拙著に懇切な書評をいただいたこともある「企業法務マンサバイバル」ブログにおいて、

http://blog.livedoor.jp/businesslaw/archives/51881755.html(急増する個人請負の労働問題―告示37号は「労働者性判断基準」ではありません)

>そもそも告示37号というものは、派遣と請負の区分について言及した「だけ」のものであって、これを基準に個人請負の労働者性を判断するのは間違いであると。

と、基本中の基本の当たり前の話を、改めて語られてみたりすると、世間の労働法リテラシーというものの水準に、改めてぞっとする思いを抱かざるを得ません。

そして、おそらくは多くのマスコミ人や政治家の方々も、これと同水準の「偽装請負」脳内混線状態のまま、未だに放置プレイされているのではないか・・・と。

ブックマーク急上昇

ネット界のゴキブリこと「ふま」氏の熱烈かつたゆまない、全く関係のないエントリに手当たり次第片っ端から意味不明のぶくまをなすりつけていくという活動のおかげで、拙ブログへのブックマークが急上昇し、前月比+462件で、計8858件、ココログの中では10位になりました。

http://tophatenar.com/ranking/bookmark?url=http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/&blog=cocolog

上にあるのは偉大なるfinalventさんの極東ブログや切り込み隊長ブログ、天漢日乗さんや小倉弁護士の「la_causette」などで、EU労働法政策などという地味な辺境的分野を対象にしている拙ブログにしては偉く出世したものです。これも挙げて、見境いなしにぶくまをつけまくったネット界のゴキブリこと「ふま」氏のおかげです。

ついでに、購読者数とぶくま数の相関図上に拙ブログをプロットすると、

異様にぶくま数が突出していますな。

労基法上の「労働者性」と労組法上の「労働者性」

まさか、本ブログの読者のなかにネット界のゴキブリ「ふま」ごときの愚言に惑わされる方が居られるとは思いませんが、念のために、ごく簡単に労働法における「労働者性」についての現状を説明します。労働法を勉強した方にとっては今更の話なので、スルーしていただいてかまいません。

「労働者性」とは、要するにある働いている人にある労働法規を適用すべきかどうかという判断基準です。

その労働法規が労働基準法その他の労働保護法規である場合については、現在の法適用状況はほぼ明確です。

旧労働省に設置された労働基準法研究会がまとめた報告書が行政の判断基準として用いられ、裁判所もほぼこれをそのまま認めています。

ですから、先日紹介した障害者の小規模作業所が工場のライン請負に進出して、当該工場の雇用労働者と並んで同じ作業をしている状況は、労働基準法の適用という観点からするとどうひっくり返っても「労働者性」があるといわざるを得ないはずで、訴えがあれば監督署はそのように指導監督するはずですし、裁判所もその判断を認めるはずです。

最低賃金法上に障害者の特例措置の規定はあっても、労働基準法上に障害者であることを理由にした労基法の適用除外規定というのは存在しない以上、それ以外の判断はあり得ないはずです。(政治的判断で、あえてその処分をしないということはありえますが)

それに対して、現在裁判所で大きな問題になっているのは労組法上の「労働者性」です。

ここで、まず、労基法と労組法における「労働者」の定義規定を見ておきましょう。両者は規定ぶりが違うのです。

労働基準法:

(定義)
第九条  この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、事業又は事務所(以下「事業」という。)に使用される者で、賃金を支払われる者をいう。

労働組合法:

(労働者)
第三条  この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によつて生活する者をいう。

労働基準法を直接施行する行政機関は労働基準監督署であり、そこの判断基準(上記労働基準法研究会報告)がそのまま裁判所の認めるところとなっているので、そちらについてはあまり問題はないのですが(といっても具体例ではいろいろと問題がありますが)、

労働組合法を直接施行する行政機関は労働委員会であり、そこが「うちの法律でいう『労働者』ってのは、労基法上の労働者よりも広くって、「職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によつて生活する者」なんだから、偽装自営業だけじゃなく、実質的にも自営業的な面を持つ人々も入るんだ」と考えて、広め広めに解釈して、救済命令を出した事件について、裁判所がひっくり返しているというのがいまの事態なのです。

裁判所の言い分は、労基法と労組法とで「労働者」の範囲が違うなんて馬鹿なことがあるか、労働者はどの法律でも一緒のはずだ、という立場なんですね。だから、労基法研究会報告が労基法の適用基準として作成した細かな基準を労組法上の適用基準としてそのままもって来て、それに当てはまらないじゃないか、というわけです。もともと、その人々が労働組合を作って団体交渉を要求することができるか、という観点ではなくて、労働基準監督官が「オイコラ」とやるべきかという観点で作られた基準なのですが、そのあたりには裁判官はあまり敏感ではありません。

労働委員会側にとっては、労基法における労基法研究会報告のような明確な判断基準を定式化したものがあるわけではないというのが弱みといえば弱みなのでしょう。

労働法の世界ではバイブルとされる菅野和夫先生の『労働法』第8版では、この問題について次のように記述されていますが(480ページ)、

>私自身は、労組法上の「労働者」か否かに関する・・・判断を「使用従属関係」の有無という枠組みで行うことには疑問がある。労組法の定義規定(3条)の立法過程を調べると、同規定は、「給料生活者」である限りは広く労組法上の労働者性を認めようとする趣旨で、「賃金、給料その他これに準ずる収入によって生活する者」のみを基準とするように起草されたことが判明するのであって、同規定のこの明示の基準(要件)のほかに「使用従属関係」の存在という要件を加えることは立法過程にそぐわない。この立法趣旨からは、労組法上の「労働者」性はあくまで「賃金、給料その他これに準ずる収入によって生活する者」という基準に則して判断されるべきである。その場合「賃金、給料」は、労働契約上労働者が労務の対価として受けるものであることは明らかであり、この基準は、結局、労働契約下における労務供給者およびこの者と同程度に団体交渉の保護を及ぼす必要性と適切性が認められる同種労務供給契約下にある者(これが「その他これに準ずる収入によって生活する者」にあたる)を意味する、と解すべきである。

残念ながら、現時点では地裁でも高裁でも、この文章を熟読玩味した裁判官に出会えていないという現状のようです。

一方、労基法上はどうひっくりかえっても労働基準監督官が出張ってくるべき人々ではないプロ野球選手について、東京都労委が労働組合として認めたことについては、例のストライキ問題の時に事実上裁判所でも認められてみたいな形になっているのも、厳密に考えるとよく分からないところではあります。

以上、労働法の授業をまじめに聞いていた人にとっては今更の話でしたが、少しはお役に立てた人がいれば幸いです。

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