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2009年10月 8日 (木)

「せんせいのおしごと」の雇用システム論的説明

「気がつけば 図書館日記も 6限目」というブログで、拙著『新しい労働社会』の序章の枠組みを使って、学校教師の職務内容について面白い説明がされています。

http://sun.ap.teacup.com/kodamac/684.html(せんせいのおしごとについて)

メンバーシップ論を説明した後、

>日本の教師の仕事内容が学校に関するあらゆることであるのは、「聖職」観だとか教授の自由とかいう文化的側面もあるけれど、こういう日本型の労働慣行によるところも大きいように思う。非常勤講師という「調整弁」が子育てするお母さん先生や大学院生が多かったりしたことも、同じ構図だと思われる。
 ためしに自分の仕事を「職務」という概念に基づいて分解して、それぞれをアウトソーシングしてみたと考えよう。はたして、今の自分1人と比べたとき、費用対効果はどちらが高いのだろうか?

「授業する人」+「クラブ顧問する人」+「担任する人」+「掃除の指示する人」+「保護者との連絡する人」+「進路相談する人」+「カウンセリングする人」+「校務運営の会議する人」+「会議の資料つくる人」+「プリント印刷する人」+「試験問題つくる人」+「採点して集計する人」+「試合の引率して審判する人」+「京都や近畿の役員する人」+・・・・

 要するに、学校という組織に所属する正規教育職員、というのが「教師の仕事」なのであろう。そして、これを時間労働問題として計算しようとすることが問題解決にはならないということだろうし、だからといってホワイトカラーエグゼンプションの導入というのも根源的な解決策ではないような気もする。

そうなんですね。学校教師というもっともジョブ型に親和的に見える職業が、実は「学校が必要とすることを適宜適切にこなすのが仕事」なわけです。

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コメント

どこかで…
と思ったら
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0110505279
>安藤亮大。42歳。損保会社支社長から中学教師へ転身を図った。失業なしの公務員。春、夏、秋、冬3回の長い休み。気楽な稼業のはずが、残業代のつかない果てしない放課後作業に、部活引率、修学旅行、休日もなんのそのの思惑外れの長時間労働。しかも彼を陥れる怪文書が!?(以下略)

 はじめまして。
 アタマの整理のつもりで勝手なつぶやきをブログにエントリーしたところ、著者の先生に「面白い説明」とおっしゃっていただいて、すこし自信になりました。
 と同時に、「教員の労働条件」をめぐる問題は、大いに厄介な問題であることも、わかりました。
 「学校が必要とすることを適宜適切にこなすのが仕事」とは言いつつも、実際にはそれは「業務命令」として出されることは少なく、あくまで「ボランティア」(満足いく教育実践のために必要な自主的活動)として処理されています。ですから何が業務の範囲内で何がそうでないのか、そして超過勤務がどれくらいなのかは、まったくわかりません。さらに、「そんなの教師のやる仕事ではない」と言って最低限のことしかしない人に対しても道義レベルでしか反論できません。
 今後とも勉強させていただきたく思います。
 ありがとうございました。

>satLさま
 『新参教師』も読んでみます。熊谷作品は『邂逅の森』しか読んだことがないのですが、なんだか違った雰囲気の作品のようですね。

教育労働の問題はなかなか根が深く、現行民法の前に制定されたが施行されなかった旧民法では266条で「医師、弁護士及び学芸教師は雇傭人とならない」と規定していました。
逆に、角力、俳優、音曲師その他芸人と座元興業者との間の雇傭契約には適用するとしていたのですね。
現代の感覚からするとなかなか興味深いところです。

http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/547
「雇傭人とならない」医師の世界も変わっているようですね。

このブログや「新しい労働社会」をよんで上記のエントリーを読むと正規-非正規、メンバーシップ型-ジョブ型が旧来の医局所属型と新型に対応するように思えます。あるいは「病院勤務医というジョブ型に親和的に見える職業が、実は「病院が必要とすることを適宜適切にこなすのが仕事(であったが変わりつつある)」とも読めるかもしれません?

医師業界で新しい雇用形態が可能なのは第一にもちろん、相対的希少性・需給関係(就業機会)と給与の面で喰いっぱぐれがないためでしょうが、
医局というギルド的な=法律の裏づけの無い「派遣」システムにより2-3年?毎に強制的に転勤があり、長期雇用-退職金のウェイトが低い、あるいは企業福祉に類するものが端から整備されていなかったので(女性医師にとっての保育サポートなど)正規雇用のメリットが少なく、ジョブ型への移行に関する壁が低いというのもありそうです。
(逆に旧型に残っている人は旧型なりのメリットを感じているのでしょう)

 以前、何かのコラムで、教師と医師の職業倫理について書かれていたことを思い出しました。
 教師も医師も「世間知らず」として批判されてきましたが、実は、世間知らずだからこそ、無制限無定量の業務に携わることが自明のように考えられてきたのではないか、というものでした。
 教師や医師の働き方が「世間並み」になったとき、はたしてこれまでのサービス水準が維持されるのかというと、はなはだ怪しい気がします。

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