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モリタク先生のフレクシキュリティ批判の的はずれ

モリタク先生こと森永卓郎氏がフレクシキュリティを「財界が仕掛ける・・・新しい罠」と批判しています。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20090929/184436/

しかしながら、残念ながらその批判は、日本の文脈における日本の財界や財界寄りのエコノミスト批判としてはそれなりに理解できる面もありますが、ヨーロッパに行ってそういう発言をすると社会民主派や労働組合からも「わかってない」と思われる危険性がありますので、もうすこし世界的な文脈を理解してから喋ったり書いたりした方がいいと思われます。せめて、欧州社会党の10原則くらいは目を通しておいてほしいところです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/10_7fc9.html(欧州社会党の10原則)

確かにごく最近になって竹中平蔵氏がフレクシキュリティを持ち出して偉そうに解説しているのはあまり愉快な姿ではないでしょうが、それは彼が権力の中枢にいた5年間に全然見向きもしなかったものであり、その解雇規制緩和以外の要素である「手厚い失業中の生活保障」「手厚い教育訓練などの積極的労働市場政策」は、むしろ彼の在任中は、言うところの自己責任論でもって否定しつづけたものなのであってみれば、「どの面下げて、今頃フレクシキュリティだって?」と批判するべきものであって、竹中憎しでフレクシキュリティまで全否定しようというのは、むしろその思う壺というべきでしょう。

さらに、拙著でも一項目当てて解説したように、デンマーク型フレクシキュリティとはマクロレベルの労使合意でもって政策を作り動かしていくというコーポラティズムの極地ともいうべきシステムを前提としており、フレクシキュリティという言葉を労使決定システム抜きに語ること自体が詐欺師的行為というべきなのですが、そういう真に批判すべき点がすっぽり抜け落ちてしまいます。

経済財政諮問会議や規制改革会議から労働者の代表を排除し、「ソーシャル」な政策を憎悪し続けた竹中平蔵氏にデンマークモデルを口にする資格があるのか、というのが真に問うべき彼の罪であって、そこのところを見逃すような責め方は、一見全否定でかっこよさげに見えますが、実は竹中氏の真の罪を免責するものと言うべきでしょう。

なぜなら、モリタク氏の批判を読んだ読者は、竹中氏は(本当はセキュリティのないフレクシビリティという一方的に労働者に過酷な政策をやったがゆえに批判されるべきであるにもかかわらず)はじめからフレクシキュリティ路線だったかのような虚像をまとうことができるからです。

この手の一見一番苛烈に批判しているように見えて実は味噌も糞も一緒にすることによって論敵の後ろめたさをやわらげてやってしまうたぐいの議論は、私に言わせれば竹中氏に密かに塩を送っているのと同じです。

モリタク氏が世界の潮流を理解しないでフレクシキュリティを全否定しても、結局中長期的にはそういう方向に進んでいくことになるのですから、その時に、竹中氏が「俺も最初からフレクシキュリティ論者だったんだぞ」というような顔をしてしゃしゃり出てきたときに、ぴしりと「そうじゃないだろ!」というためには、モリタク氏のような真の的を外した批判は百害あって一利なしでしょう。

(追記)

早速、竹中平蔵氏と同様、フレクシキュリティの「キュリティ」部分に対しては憎悪感しか抱いていないような反ソーシャル思想に充ち満ちた捏造常習犯の奴隷制論者が、モリタク氏の味噌も糞も一緒くたの軽率な議論を鬼の首を取ったかのように喜んで、攻撃し始めていますな。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/3a2a6ca1227997527c4cb9887cd20acc

こういうインチキ学者のブログだけしか読まないようなうかつな人間は、デンマークが労使が交渉ですべてを決めるコーポラティズムの国だなどということはつゆ知らぬまま、労働組合を諸悪の根源と叩まくるのがフレクシキュリティだという完璧に間違った信念を強化していくわけです。

そういう嘆かわしい事態を引き起こす原因の一つに自分のうかつな文章が貢献しているのかも知れないと、モリタク先生には真剣に自省していただかなければなりません。

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コメント

「インチキ学者のブログだけしか読まないようなうかつな人間」です。

だからでしょうか、わたしは池田信夫氏を「フレクシキュリティの「キュリティ」部分に対しては憎悪感しか抱いていないような反ソーシャル思想に充ち満ちた捏造常習犯の奴隷制論者」とは思えません。また竹中氏も同様です。

捏造についてはわたしは判断できませんが、すくなくとも両氏はなんどか「セーフティネット」の重要性を述べていますから。

たいへん得るものの多い当ブログなのですが非理性的な記述に困惑します。

観点、分析、その後が違うのは当然だと思います。議論を戦わせ、批判しあうことは有意義です。しかしそれが人格評論、否定につながるのは非建設的だと思いますしわたしは不快です。

池田氏も強くその傾向があって残念に思っています。(メディアでお見かけする氏は気をつかう穏やかな方なのに活字になるとどうして人格攻撃的なのか不思議です。)

理解不足なのかもしれませんが、わたしのような素人から見るとお二人の違いはそれほど大きくなく中核と革マルのようで残念です。

ご著書『新しい労働社会』に対する池田氏の「反書評」は「おっしゃるとおり、私ならすこし違った分析を加えるが」とわたしはとりました。

投稿: kiokada | 2009年10月 4日 (日) 22時15分

もし「kiokada」さんが、自ら「たいへん得るものの多い当ブログなのですが」と仰るように、本ブログを過去から読んでこられた方であるならば、3年前から池田氏がもっぱらわたくしの出身官庁(労働省)および在職機関(かつては政策研究大学院大学であり、現在は労働政策研究・研修機構)に対する罵倒のみをこととし、内容に関する建設的批判は一切行ってこなかったことは十分ご承知のことと存じます。

わたくしは、内容に関する批判であれば、どのような酷烈なものであっても、建設的に受け止める用意はあります。その実例はいくつも本ブログ上に見いだすことができると存じます。

しかしながら、内容に対する反論をしようにもその余地のない属性への誹謗のみをおこなう徒輩に対しては、そもそもいかなる意味においても建設的対応の余地はないと考えます。

それとも、「kiokada」さんは、「博士号もない」「天下り教授」という属性のみで罵倒されているときに、建設的反論が可能であるとお考えでしょうか。もしそうお考えであるならば、具体的な反論のやり方をご教示願いたいと思います。

わたくしはその点に関しては、かつて本ブログに寄せられたあるコメントに尽きると思っています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/3_a7ad.html


>悪口に対して真剣に反論する学者っているんですか?
どっちの味方というわけでもないですが、前回の論争も今回の論争も、論点をずらさずに戦ったのがhamachan、形成不利とみて論点を悪口に意図的に移行させて逃げたのが、I氏ですよ。
I氏の直感による問題提起には感服することが多々あります。でも、直感は直感にすぎません。学問的誠実には勝てないのですよ。

もちろん、そのような低劣な誹謗は無視するというのが一つの高邁な生き方であることは事実です。池田氏は学界や政策決定者の世界においては決定的にマイナーな存在にすぎませんので、そのような対応にも一定の合理性はあります。

ただ、ブロゴスフィアにおける影響力でもって物事の軽重を判断する人々もいないわけではありませんので、ときには無視しきれないこともありましょう。それをもって「中核と革マルのよう」といわれるのでは、なにをかいわんやとしか申し上げようがありません。

投稿: hamachan | 2009年10月 4日 (日) 23時41分

ご返事ありがとうございます。

「中核、革マル」のくだりはまさしく大雑把すぎ、私の間違いのように思います。お詫びします。

投稿: kiokada | 2009年10月 5日 (月) 15時35分

お詫びいただき恐縮です。ただ、普通の職業人としては、いきなり「お二人の違いはそれほど大きくなく中核と革マルのよう」と言われると、今にも鉄パイプで頭をかち割られそうで、いささか怯えますよ、普通は。

実は、かつて革マル派の機関誌で、正村公宏先生と並べて「連合イデオローグ」と褒めあげられたことがあったものですから、その記憶が影響したのかもしれません。

http://www.jrcl.org/liber/l1704.htm

また、池田信夫氏自身が革マル派の巣窟であった東大の社会科学研究会の部長で、仲間が4人内ゲバで殺されたと述べているのも、一瞬脳裡をよぎったりします。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/87b82fb7d88e3e98eaf045b8401db2c7

投稿: hamachan | 2009年10月 5日 (月) 17時53分

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