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2009年9月11日 (金)

広田照幸『ヒューマニティーズ教育学』

4000283243 昨日、日本学術会議の大学と職業の接続検討分科会に出席し、親委員会から出席されていた広田照幸先生から近著『ヒューマニティーズ教育学』(岩波書店)を直接お手渡しでいただきました。ありがとうございます。

教育学にはほとんど無知蒙昧のわたくしですが、早速読ませていただきました。あまり本筋には関係のないつまらない感想になるかも知れませんが、労働業界という斜め横から覗き込んだ感想ということでご容赦をいただければと思います。

http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-028324-3

教育は社会のあり方やその変化と無縁ではありえない.その思想や制度は,近代の大きな変動のなかで変容を遂げ,経済のグローバル化や地球規模の課題が,現代の教育にさらなる変容を迫っている.未来の人間や社会のあり方を考え,そこに働きかけていく営みに向けた知として,いま教育学の何が組み換えられていくべきなのかを考える.

1 教育論から教育学へ―教育学はどのように生まれたのか?(誰でもしゃべれる/誰でもやれる教育?;教育とは何か;教育学の成立)

2 実践的教育学と教育科学―教育学を学ぶ意味は何か?(実践的教育学;教育科学;なぜ学ぶのか)

3 教育の成功と失敗―教育学は社会の役に立つのか?(教育の不確実性;教育可能性に向けたテクノロジー;教育学と社会)

4 この世界に対して教育がなしうること―教育学の未来はどうなるのか?(何のための教育か;ポストモダン論の衝撃;教育目的の迷走;教育目的再構築論の危うさと可能性)

5 教育学を考えるために―何を読むべきか(本を探す;好循環;教育学を学び始めるために;教育学を深めるために;最後に)

昨日の高原基彰さんの本への書評のテーマともややずれながらつながるのですが、もともとそれなりに(失敗もしながら)教師たちの役に立ってきた規範的理論としての実践的教育学が、ポストモダン論の衝撃で「教育の正当性や方向性を根拠づける最終的な足場はない」ということになり、あらゆる教育学的規範は恣意的な言明だということになってしまい、

>近代教育学の言明が持つ恣意性や権力性が暴かれる研究が、次々にされた。

>教育学者が確固とした足場に立って教育の目的について語り得なくなった近年の事態は、実践的教育学の規範創出力が著しく減殺された状態である。

その結果、教育学者がシニシズムに陥り、黙り込んでいる空隙に、財界人、エコノミスト、保守政治家や保守的評論家がやすやすと入り込んできて、教育システムのなかに市場原理や競争、評価を持ち込もうとしたり(新自由主義)、ナショナリズムや道徳的保守主義を浸透させようと(新保守主義)するようになった、というわけです。そして、「シロウト教育論が、十分な教育学的吟味を経ないまま、教育改革を強力に推し進めてきた」という事態が今日まで政府の中枢部で展開してきたわけですね。

この歴史的見取り図はほぼ正しいように思います。ただ、斜め横からの感想ついでにいえば、ふわふわしたポストモダンの攻撃を受ける前のモダンな教育学自体に、その規範を支える現実感覚がどの程度あったのだろうか、という思いもしないではありません。

それは、この分科会で田中萬年さんが述べたように、「教育における職業的イレリバンス」の問題とどこかで深くつながっているように思われます。

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