真正リバタリアン氏と私との唯一の大きな違い
真正リバタリアン氏が、なかなか興味深いことを言っています。
http://libertarian.seesaa.net/article/127352993.html(Don't trust anything except truth)
はじめは、まあ当たり前のことですが、
>世の中には、自分はなんでも分かっているようなふりをする思い上がった自称専門家が多い。
特に大学の世界には、そのようなアホしかいないといっても過言ではないと思えるほど、思い上がった自称専門家であふれている。大した一流大学ともいえない大学の教員でも驚くほどの尊大な無恥厚顔ぶりだ。”サイバーなんちゃってリバタリアン”氏なんかも、いい加減な”専門知識”を振りかざしつつ、まじめに財政破綻論や増税を唱えているようだが、そういう”経済評論家”というのは、すぐに底を見透かされて飽きられる運命だということを肝に銘じたほうがいい。そろばん1級をとった人間がなんでも分かったような顔をしないのと同じくらいの当たり前の謙虚さをこれら自称専門家はわきまえる必要がある。
その次のパラグラフが重要です、
>真摯な態度とは、いわば法律に対する信頼とJusticeに対する信頼との違いでもある。学問に対する献身と、真理に対する献身の違いとも同じだろう。前者は必要ないし、後者が欠如している場合は前者はまず完全に有害なものとなる。
実のところ、この部分に私はほとんど賛成です。
拙著『新しい労働社会』において、残業代ばかりを規制するくせに実労働時間の規制力が弱い現在の労働時間法制や、派遣労働者の労働条件はホッタラケにして派遣事業の事業規制ばかりにこだわる現行派遣法に対して、手厳しく批判しているのも、まさに「法律」に対する信頼ではなく、私なりの「Justice」に対する信頼を示しているつもりです。
ただし、共通するのはそこまでです。
次のパラグラフで、真正リバタリアン氏と私がどこで別れるかが判ります。
>現実=市場は常にある意味真実なのだから、大事なのは経済学といった”なんちゃって科学”ではなく真実=市場なのだ。観念的に理解するのではなく、植物学者が顕微鏡や拡大鏡で植物を観察するように、現実と向き合って観察すべきなのだ。
私ならこう言います。
>現実=社会は常にある意味真実なのだから、大事なのは経済学といった”なんちゃって科学”ではなく真実=社会なのだ。観念的に理解するのではなく、植物学者が顕微鏡や拡大鏡で植物を観察するように、現実と向き合って観察すべきなのだ。
市場「も」社会の一部であることは確かですから、その意味では上の文も全く間違いではありません。しかし、もし、市場だけが社会だと思いこんでいっているのであれば、それは間違いです。
たった一つの、一見言葉一つだけの違いですが、しかし、人間観、社会観として最大の違いです。
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