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2009年9月11日 (金)

スウェーデンは「ナチ」か?

Alter_new_2009_0708 雑誌『オルタ』の7-8月号が「北欧神話?―グローバリゼーションと福祉国家」という特集を組んでいます。

http://www.parc-jp.org/alter/2009/alter_2009_07-08.html

この最初の市野川容孝さんと小川有美さんの対談がなかなか面白い。

>小川 ところで市野川さんは『社会』という本をお書きになられていますが、北欧にとって「社会」はもっともベーシックなキーワードで、社会(ソーシャル)を抜きにして国家(ステート)は語れません。ただ北欧の場合、国家に対して社会があるとの考えが希薄で、スウェーデン語の「社会」という言葉の中には「国家」の概念が入っているといわれています。社会が解決しなくてはいけないというときは、市民社会だけでなく国家も含め解決しなくてはいけない。この社会と国家の近い関係は、ラディカルな市民社会論の立場からは、「北欧の社会運動や環境運動は飼いならされたものだ」といった批判が向けられます。逆に北欧の組合や運動の側は、自分たちが組織率が高く、国家の意思決定にも参画できている、高度で活発な市民社会だと自負していたりする。こうした「社会に近い国家」を私たちがどう見ていくのかは、「モデル」ということ以上に、討議する価値があると思います。

もちろん、問題は、「ソーシャル」のかけらもないくせに、スウェーデンは解雇自由だという間違った思いこみだけでスウェーデンモデルを振り回す無知蒙昧さんなどではなく、国家はキライだけど「社会」はスキという「ラディカルな市民社会論」な方々にあります。北欧のことをよく知らないまま、そういう「左バージョンの反近代主義」(@高原基彰)でなんとなく憧れている人にとっては、次の会話は大変ためになるでしょう。

>市野川 ・・・それで、少し乱暴に言ってしまうと、今までソーシャルなものはナショナルなものと不可分で、ナショナル・ソーシャリズム、極論すれば「ナチ」しかなかった。つまり、ソーシャルなものがナショナルな境界、ナショナルな規制の中でしか担保されないというところがあったと思うんです。・・・・・・そこで、小川さんにお聞きしたいのは、北欧についてもソーシャルは結局「ナチ」でしかなかったのかどうかなんですが、その辺りいかがでしょうか。

小川 ナチス・ドイツのような自国民中心主義は、北欧のような小国ではそもそも成立しようがない。ただ、北欧福祉国家がナショナルなソーシャリズムから発展したかといえば、確かにそういう面があります。様々な歴史的背景がありますが、まず大きな転機として両大戦間の危機があった。世界大恐慌など戦間期に経済危機が深刻化する中で、共同体的な結合を志向するコミュニタリアン的な渇望が生まれていく。この時、議会制民主主義、社会民主主義が多くの国で挫折してしまいました。スウェーデンでは、社会民主党のハンソンがマルクス主義にはない「国民の家」というスローガンを唱えました。ソーシャルな救済とある種のコミュニタリアン的な価値が統合された形で、北欧の社会民主主義は生き残ったわけです。

つまり、一言で言えば、スウェーデンの社会民主主義とは「ナチ」である、と。

それが今もっとも先鋭的に現れている分野が移民問題になるわけです。

>現代ヨーロッパは、移民をめぐる問題で大きく揺れています。北欧も例外ではなく、福祉国家の価値観を共有せず、負担を十分に行わない移民、また男女平等とイスラム的な文化の衝突などに直面して、福祉国家の権利を国民に閉じようとする福祉国粋主義(ショービニズム)が問題になっています。つまり、国民的(ナショナル)に平等を確保することが、他者の排除を意味するようになってきている。それはまさにナショナル・ソーシャルゆえの境界化だと思うんですが、ではそこから、現実にここまできたナショナルな平等を否定すべきなのか、それは「赤子を風呂の水とともに捨てる」ことにならないかと。

こういう問題を真剣に考えないで、ふわふわと北欧ステキとかいってるのが「北欧神話」なんじゃないかとも思いますが、それはともかく、

>市野川 ソーシャルなものと多文化主義って、本来そりが合わないんですよね。・・・ソーシャルなものって、平等の創出に向けて介入や支援を呼び込んでいく一方、平等を求めるがゆえに、どうしても画一性の方に傾いてしまうんですね。

このナショナルな画一性、平等性ががっちりとあるがゆえに、解雇法制自体の規制度とは別に、北欧社会が雇用の流動性と社会の安定性を両立させているという面もあるわけです。わたしがよく引用する、「デンマーク社会って、国全体が一つのグループ企業みたいなもの」という某労組関係者の話ともつながってきます。

逆に日本はそういう画一性、平等性が欠けているというところから話が出発するのです。

>小川 北欧を持ち上げる論調では、最近ではしきりに「フレクシキュリティ」という言葉が濫用されていますが、大きな政府という部分はあえてあまり言われないんですね。公共部門により地方で雇用を創出し、男女の公私の共同参画を促進し、職業教育を行う。そうした公的な基礎的インフラがあっての労働市場の柔軟化であることが忘れられている。日本には市民的な反公務員・反増税感情があり、アナキズムの伝統もあり、北欧とはまったく異なる国家観を形成していると思います。

こういうところに、「左バージョンの反近代主義」(@高原基彰)が効いているんでしょうね。

ま、与党も野党も、公務員叩けば人気が出ると思い、実際その方が人気が出るような国に「フレクシキュリティ」は無理というのが本日の「ナチ」ならぬ「オチ」ということで。

(追記)

なんだか、相当な数のはてぶがついたようです。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7380.html

多くの方はご理解いただいているようですが、念のため一言だけ。上で市野川さんやそれを受けてわたしが言ってる「ナチ」ってのは、もちろんドイツの国家社会主義労働者党とわざとイメージを重ねることをねらってそういう言い方をしているのですが、文脈から判るように、あくまでも「ナショナル」&「ソーシャル」な社会システムという普通名詞の意味で言ってるわけで、ここでホロコーストだの南京虐殺だのといった話とは(根っこにさかのぼればもちろんつながりがないとは言えませんが)とりあえずは別次元の話です。

むしろ、これは必ずしも市野川さんの意見とは同じではないかも知れませんが、わたしの歴史観からすれば、アメリカのニューディールも、フランスの人民戦線も、日本の国家総動員も、スウェーデンの社会民主主義も、「ナショナル」&「ソーシャル」な社会システムへ、という同時代的な大きな変革のそれぞれの諸国における現れなのであって、その共通性にこそ着目すべきではないか、という話につながりますし、日本の話で言えば、戦時下の国家総動員体制と終戦直後の戦後改革とが一連の「ナショナル」&「ソーシャル」なシステム形成の一環としてとらえられるという話にもつながるわけです。

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コメント

ご存じかもしれませんが。

http://www.arsvi.com/1990/990501iy.htm

市野川さんが「ナチ」という名称を出されるのは、
こういう事実があるからでもありますね。

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PARC『オルタ 7/8月号』 http://www.parc-jp.org/alter/2009/alter_2009_07-08.html が、ちょっと遅れたけど発行された。 買える人はぜひ買ってください。(利害関係者・(笑)) [続きを読む]

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