「Cafe Esquisse」さんの書評
「Cafe Esquisse」さんに、8月23,24日の両日、書評をいただいておりました。
http://wyeth.jugem.jp/?day=20090823(アカデミズムとプレカリアートの断絶の深さを思い知る)
http://moonlight0516.jugem.jp/?eid=154(アカデミズムとプレカリアートの断絶の深さを思い知る2)
>『新しい労働社会』読了。ブログ「EU労働法政策雑記帳」の読者には、エントリの単行本化はめでたいことである。著者のhamachan先生のご専門が「EU労働法と社会政策」なので、雇用のはなしばっかりじゃなくって、本の30%ぐらいはセーフティネットについて書いてある。いわゆる「格差はいけん!」みたいな床屋談義に堕することなく、イデオロギーや党派性はとことん排して、事実の検証と、緻密で隙のない多面的な論考によって社会政策を包括する、みたいな本である。
「アカデミズムとプレカリアートの断絶の深さを思い知る」という標題の意味は、次の通りです。
>あまりにも手厚い失業手当×生活保護を与えると、働こうという意欲が削がれるという問題は日本もEUも共通らしいのだが、生保@日本は「受給しにくく、一度もらいはじめると支給停止になりにくい」とある。読んでいて「求職意識のない人の生保支給は、支給停止にする(ような制度改正が必要)」という部分で違和感があった。雨宮さんとかプレカリアートの人たちだったら、絶対にこういう言い方しないだろうなぁとふと思ったからだ。
確かに言わないでしょう。
でも、そこを言わないで、ただただ「寄こせ」論だけで、どこまで攻めきれるのか、派遣村の衝撃でみんな言葉を失っている間はいいけど、みんな気持ちが落ち着いてくると、そういうロジックだけで世の中が動かせると思うのは、やはり違うと思うわけです。
いったんもらい始めたらなかなか出て行かないから、よほどのことがなければ中に入れないんだ、といういままでのロジックを破るためには、言いにくいことをあえて言わないと、説得力が出てこないのです。
これは、「アカデミズム」との断絶という話ではないと思います。福祉系の学者は結構ワークフェア的発想には批判的なんです。むしろ、私の中の「実務家」的側面が、それをあえて言うと損するよと言う世間的配慮を押しのけて言わせていると思っています。
>繊細で傷つきやすい自分が、強く勤勉な「人材」に変わる必要なんかないんだよ・・という政治的メッセージがプレカリアートで、そういう人がすがる制度が生保である。生保が今のような柔軟性のない制度であることが、優しすぎてうまく生きられない若者にはむしろ好都合に働いている。
それは違うと思うな。「繊細で傷つきやすい」ことは悪いことじゃない。繊細で傷つきやすくては働けない、という社会がおかしいのだとは思わないですか。
>しかしhamachan先生じゃないけど「働く気のない奴の生存権は知らん・・」制度に変更されたら、プレカリアートのような(何のバックも利権もない)政治的な運動もその灯が消されてしまうなぁと、暗い気持ちになった。別にhamachan先生が特に冷たいというわけでなく、常識的な日本人はそのように感じ、考えるだろう。しかしアカデミズムとか政策決定という場において、「異質な感受性を持つ人の声も聞きましょう」という主張は、ある種、贅沢かわがままに受け取られてしまうのだなぁ。うちはここに支配階層とプレカリアートの断絶を感じるよ。以前にhamachan先生と雨宮さんが朝日新聞で対談をやって、雨宮さん「すれ違い対談だった」と書いていたが、そのすれ違いの理由がこの本を読むとよくわかる。「労働と競争は別だから、わけてほしい・・」というプレカリな声は、勝ち組(支配階層)の闘争本能の発露の前にかき消されてしまう。
冷たいんじゃなくて、「僕は繊細で傷つきやすいんだから、働かなくても社会が面倒見るべきだ」というロジックが、そのコストを負担する人々にどういう影響を与え、その結果、「働きたいんだけど、いまはとても働けないから何とかしてほしい」という声に的確に対応することをかえって困難にしてしまうという社会的帰結をどう考えるのか、ということなんですが。
そして、私自身雨宮さんと対談して、彼女の主張は決して「働く気がなくても面倒見ろ・・・」というものではないと感じていますが。
(参考)
雨宮処凜さんとわたくしの対談(朝日新聞紙上)は、これです。
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