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実証を欠いた理論は暴走する by 高梨昌

最近、高梨昌先生はわたくしの言動をあまり快く思われておられないようで、小一時間ばかりお電話でお叱りをいただいたこともありますが、まあ、確かに派遣法は創ったときからインチキだったなどといえば、派遣法の生みの親である高梨先生がお怒りになるのはごもっともなのですが、こちらも派遣については空論をいってるつもりはなく、まさに現実に即した議論を展開しているつもりなので、中身までごもっともと申し上げるつもりもないのですが、まあそれはともかく、

それとは別にいろいろなところで高梨先生がいわれることには「その通り!」といいたくなるような台詞も多く出てきますので、本日はそれを紹介したいと思います。社会政策学会誌の『社会政策』第3号の巻頭言を書かれていてそのタイトルが「実証を欠いた理論は暴走する-労働経済学から社会政策へ」。

ますはじめに「市場原理主義の破綻」ということで、

>なるほど、新古典派経済学派は、数学的統計的方法などを用いて、経済的所領の「定量的」分析については若干の貢献をしてきたことは否定できないが、生身の人間の多様な価値観に基づく経済的社会的行動を解く「定性的」分析については合理的期待仮説に基づく人間の単純類型化によってまったく放逐してしまったのである。

新古典学派の知的構造は、古典は経済学を形式的に単純化し、自然科学的方法を借りて、統計的、数学的に厚化粧したに過ぎないのである。もともと統計的観察による数値は、アクチュアルステイタスであれ、ユージュアルステイタスであれ、相関関係は示せても、因果関係は示せないし、大量観察であっても、多数が有意味な事実であるのか、それとも少数が有意味な事実であるのか、その統計だけからは判断できないなど事実の一面しか解らないのである。

このあと「学問的実践としての実態調査」として、

>いうまでもなく実態調査では、文書資料の収集と整理、統計的調査と各種統計の収集、聞き取り調査など多様な事実発見の方法を用いて、労働の世界の実像を把握し、理論形成や政策立案の素材の提供に苦闘してきたのである。・・・既存のいわゆる官庁統計や数学的算式だけからは、生身の人間の経済的社会的諸行動が生み出す労働の世界は客観的かつ具体的に認識できないし、まして労働研究の理論形成も、政策形成にも寄与できないと考えていたからである。

と正論を述べられるのですが、そのあといささか横道に入り、「毛沢東の『実践論・矛盾論』を振りかざして革命家の政治的実践を学問的実践と同一視して調査を行な」う研究者を糾弾するのですが(関係者には誰のことかすぐに解るのでしょうが)、まあ、それはともかく、

最後の「社会政策研究の復権を」において、次のような宣言をされています。

>周知のように昭和30年代前半に「社会政策から労働経済学へ」という大きな流れが生まれ、大学の「社会政策」の講座も「労働経済」と看板を塗り替えられただけではなく、講義の内容は新古典派経済学に席巻されて今日に至っているのである。これでは労働問題研究を志す次世代の人材は育たないこととなろう。

今世紀こそ、経済政策の一分野として狭められ矮小化された「労働経済学」ではなく、社会理論を駆使した気宇壮大な「社会政策」研究の復権を図る時代の幕開けであることを訴えたい。

この威風堂々たる言葉の直後に、中谷巌氏といういささか矮小な相手に対する

>こうした恥知らずな手合いには、日暮れて鳴く「ミネルバの梟にもなれない」という、恩師大河内一男先生の皮肉を込めた言葉を呈すれば足りる。

という皮肉を付け加えているのはいささか余計な気もしますが。

(追記)

下のコメントで、稲葉振一郎氏が高梨先生にかなり手厳しい批判をしています。

「労使関係論とは何だったか」シリーズとも読み合わせると、なかなか興味深いものがあります。

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コメント

正直、高梨先生のその手の言動には「中谷と五十歩百歩」ではないにせよいいとこ「二十歩百歩」ではないかといいたくなる気持ちもあります。
「市場原理主義」かどうかはともかく、派遣業法にせよ「生涯学習社会」構想にせよ、客観的に見れば先生は競争促進的・市場親和的・規制緩和的な労働政策の旗振りを率先してやってきた(そしてそれはもちろん全面的に間違いであったはずもない)方ですからね。
中谷・野口とは異なり既に十年以上前、バブル崩壊以降にはある種「回心」を表明しておられましたとはいえ。
どのような状況においては(「市場原理主義」と素人目には区別がつきにくい)競争促進的政策が合理的であり、どのような局面ではそうではないか、についての識別とそれに基いた提言を怠ってきた点では、もちろん他の労働研究者の多くも同罪とは言え、とりわけ80年代以降の労働政策の動向を大きく左右してきた高梨先生には、「構造改革」ブームへの抵抗ができなかったことへの反省を少しはしていただきたいのですが。

投稿: いなば | 2009年9月25日 (金) 18時50分

おそらく、高梨先生ご自身の中では、必ずしもそうではなかったのだと思います。

それは、高梨先生がわたくしのいう「日本的フレクシキュリティ」を前提として、あくまでその周辺領域(おんなこども)についての規制緩和を進めたのであって、決して中核部分(成人男子)の規制緩和を唱道したつもりはなかったからだと思うのです。

わたくしと高梨先生が並んで登場した「大原社会問題研究所雑誌」の今年の2月号で、高梨先生はこう語っておられます。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/604/604-01.pdf

>ところで,「登録型派遣」を事務処理派遣で認めた理由について触れなければならない。それは,これらの専門的業務に従事しているのは専ら女子労働者であることに着目したからである。労働者派遣法の立法化問題が審議されていた当時は,いま一つ男女雇用機会均等法の立法化が重要な労働政策の課題として審議されていた。均等法の最大の争点の一つは,女子労働者の職業生活と家庭生活との関連のつけ方にあった。

>派遣システムは,中途採用市場での求人と求職のマッチングに役立つ需給システムであると考えてきた私は,派遣に当って「登録型」を認める必要があると考えた。その理由は,次の事実に注目したからである。求職者のニーズは,フルタイマーとして正社員と同様の勤務形態を望むものは少数派で,自己のライフスタイルや家庭生活との調和を考えて働きたいという女性が多数派であった。また,専門的知識と経験を必要とする専門職への求人には,通訳や速記など単発的なアドホックな求人があること。また書記的事務でも,複数の者が交替しても仕事が処理できる性質の仕事であることなど,必ずしも「常用雇用形態」である必要性は少ないことに注目したからである。

現代の視点から見れば、なんとジェンダーバイアスの濃厚な発想であることか、と思われるかも知れませんが、80年代半ばという「時代精神」を考えれば、おそらくきわめて現実に即した考え方であったのでしょう。

「規制緩和-規制強化」の軸一元論ではこの間の労働問題の変容過程は判らないし、一方ジェンダー論だけで割り切ろうとしてもだめなわけで、マクロ経済状況の労働市場への影響などさまざまな要因が複合して今に至っているわけで、その辺、中谷巌と「二十歩五十歩」というのもいささかずれているような気がいたします。

投稿: hamachan | 2009年9月25日 (金) 23時32分

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