迷跡目録さんの書評
迷跡目録さんの拙著への書評です。トラックバックを頂きました。
http://blog.livedoor.jp/akiotsuchida/archives/51698093.html
「納得の労働論」という評価を頂いております。ありがとうございます。
>そもそもこの著者の論がしっくりくる理由というのも、実定法の規定に沿った、私法の一般原則を踏まえた、手堅い論理構築が好きという自分の趣味に合致するからなんだろうと気づいた次第です。
第3章までに展開される日本の雇用体系の現状と課題の分析、そして解決の方向性の提示は、歴史的かつ比較法的な考察が過不足なく盛り込まれ、非常に説得力に富んでいます。
というお褒めの次に、さらに、このような的確な指摘を頂いています。
>ただよくわからなかったのは、一方で、
まず、あるべき労働者代表組織は純粋な自発的組織であってはいけません。(186頁)
とあり、他方で、
ここまで述べてきたように、まさにこの点を改革して、正社員と非正規労働者を包括する公正な労働者代表組織として企業別組合を再構築することが、現実に可能な唯一の道であるように思われます。(203頁)
とあるところ。
ご指摘の通り、ここはわざとあえて矛盾する議論を展開しています。
すでに金子良事さんによる批判への回答で述べたように、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-21c8.html
>実は、第4章での私の議論は本質的に矛盾を抱えています。「186ページの挑発」というのは、詰まるところ、「労働者代表組織は労働組合であってはならないが、労働組合でなければならない」ということなんですね。この論理的矛盾を論理的に解決するのは簡単で、どっちかに身を寄せてしまえばいいのです。
それをあえてしないで、労働組合を労働組合のままで包括的労働者代表組織にしてしまおうという論理的矛盾をわざと晒しているのが第4章なので、だからこそ、(世間で流行っている労働の議論からすると「地味」に見えますが)これほどコントロバーシャルで炎上しやすい議論もないはずだと、私は思っているわけです。論理的に二律背反のはずなのにあえてそういう議論を提示しているところに、わたしのリアリズム観があると考えていただければ。
理屈としての整合性だけを考えるのであれば、
1 自発的結社としての労働組合が大事だ
(1) 誰でも労働組合を作れるのに作らんような奴は知らん
(2) 労働組合の自主的な組織化努力を見守ろう
2 労働組合とは別に公的強制設立機関としての包括的労働者代表制を
(1) 結社としての労働組合は産別中心化して生き残れ
(2) 労働組合はなくなっても仕方がない
という風な考え方がありえます。どれもそれぞれに理屈としてはもっともな理屈は立ちますが、1(2)と2(1)は現実可能性に疑問符が付き、1(1)と2(2)は現実にそうなる可能性が強いだけに「そんなことでいいのですか?」という疑問に答えきれないのではないかと思えます。
この問題はどこか他の国にモデルを求めて答えが出るような問題ではありません。欧州諸国は、産業レベルに自発的結社としての労働組合がきちんと存在していることを前提に、その事実上の影響力のもとに、企業・事業所レベルに公的な強制設立の包括的労働者代表システムを設けているわけです。自発的結社としての労働組合の存立根拠がほとんどすべて企業レベルにしか存在しない日本において、それと同じレベルに別の労働者代表制を作ってしまうと、機能がもろにバッティングしてしまい、2(2)の結末に至る可能性が高まってしまいます。
そこで、「出羽の守」としては、日本も欧州のように産別中心化すべきといいたくなるところでしょうが、そこがなまじリアリストの「出羽の介」としては、そんな無理なことを言ったって・・・となるわけで、あえて本質的に矛盾を抱えた議論を提示しているのです。
そこのところを見事に指摘していただいた迷跡目録さんに感謝いたします。
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