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2009年8月 2日 (日)

高校生の進路と親の年収の関連について

Tky200907300476 東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策研究センターが、7月31日付で標記の調査結果を公表しています。同日の朝日新聞にも報じられて、左のグラフはそちらからコピーしたものですが、原資料はここにあります。

http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/crump/resource/crump090731.pdf

>図表1、図表2では、両親の年収によって明らかに大学進学率の差があることがわかります。たとえば、年収400万円以下の家庭では4年制大学進学率が31.4%にとどまるのに対して、1000万円を超える家庭では62.4%に達しています。また、図表3では、男女差、都市部と地方の間の差が大きいこともわかります。
図表4では、国公立大学への進学率は、所得による違いが小さく、高等教育の機会均等を果たすために国公立大学が果たしている役割が大きいことがわかります。
図表5では、現在よりも経済的ゆとりがあるとすれば、子どものために何をさせてあげたいかを尋ねたところ(複数回答)、「とくに現在の希望を変更することはない」という回答が最も多いいっぽう、年収が低いほど「就職よりも進学」「短大・専門学校よりも4年制大学」という回答が多くなっています。進学をしたくてもできない子どもを支援する政策の必要性を示唆しています

朝日の記事にあるように、

http://www.asahi.com/edu/news/TKY200907300473.html

>センター長の金子元久教授(高等教育論)は「このままでは大学教育を受けられる人が所得の階層で固定化してしまう。進学したくてもできない人を支援するセーフティーネットの政策をつくる必要がある」と指摘している

というのがまず普通の反応なのでしょうが、そしてそのこと自体には私は共感しますが、なぜそうなのかというところをきちんと整理しておく必要があるようにも思います。

なぜなら、もし大学というのが職業人生とは関係のない趣味としての教養をお勉強するための場所であるならば、お金がないからその「趣味」ができない貧しい子供にすべて国民の税金で支援してあげなければならない理由は必ずしも説明できないからです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-1a8d.html

大学で学ぶことに「職業的有用性」があるのであれば、貧しい子供に大学教育を受けさせることは、いわばマクロな職業能力向上政策としての意味を持ちますから、公的資金を投入する正当性があります。

この点は、拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』の中でもちらりと書いております。147ページからの「教育は消費か投資か?」というコラムをお読みください。

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コメント

しばしば高等教育を受ける機会を均等にするべきという話が出てくるのは、今の日本において世間一般でイメージされている(であろう)「いい仕事」に就く=つまり「大手企業に正社員として」就職する事、その為には「偏差値の高い4年制大学を卒業した」という経歴が必要だと見做されてしまっている所があるからではないだろうか。私はこのエントリ-を読んで改めてそう思ってしまいました。
そりゃ、低所得層の出身者が個人の能力に関係なく「いい仕事」に就けず複数の零細ブラック企業ばかりを転々とするしかないとかいう状況が社会全体で固定化されてしまうという状況は考え物でしょうし。

>お金がないからその「趣味」ができない貧しい子供にすべて国民の税金で支援してあげなければならない理由は必ずしも説明できないからです。

目的が「良い就職」ならば、本音論としては、「現実に、良い大学を卒業すると、良い就職ができることが多いから」で十分ではないでしょうか。効果が得られるならばそれは意味のある投資ですよね。

「採用において、学歴よりももっと信頼できる指標があるからそちらを重視しましょう」とか、「大学をより有意義なものにするためにカリキュラムを見直しましょう」という議論はあると思いますが、あくまで、それは「なぜ良い就職のために大学に進学するのか」という話とは別の話だと思います。恐らく、別の目的を設定されているのではないかと思いますが。

大学で学ぶことに「職業的有用性」については、二流の職人は一流のなりそこねだけで占められたほうがいいのかどうかという受け入れ側の問題と合わせて考えないといけないのではないでしょうか。

詳しくは、自分自身のwebで書こうと思いますが筆が遅いもので、、。

>なぜなら、もし大学というのが職業人生とは関係のない趣味としての教養をお勉強するための場所であるならば、お金がないからその「趣味」ができない貧しい子供にすべて国民の税金で支援してあげなければならない理由は必ずしも説明できないからです。

これはもう完全に個人によるのではないかと思います。大学に限りませんが、職業訓練校で学んだCADやヘルパー資格、インテリアコーディネーター資格も、自分の収入を増やすためには何の役にも立っていない・・という若い失業者に何人も知っています。

特にCAD資格の講座はたくさんありますが(失業者訓練に)、卒業生のどのぐらいの割合が、学校で学んだことが生かせる仕事に就いているのか、かなり低い割合ではないでしょうか。

大学教育におっしゃるような「職業訓練としての価値」を求め、「趣味的な興味の追及」は二の次にするのなら、世間一般の大学の大半の学部は、金儲けに直結しそうにないガクモンをやるわけです。
ガクモンそのものに趣味的な要素があるような気もします。

職業大学を作って職業直結の実務家の養成・・と言っても、そこの大学を出れば、職業訓練校の先生になれる、のなら「直結」かもしれませんが、かなりの割合の学生が、職業大学で学んだことと無関係な進路を選ぶ可能性が高いと思っています。それならそういうガッコを税金で作ること自体がムダか?というとそうも言いきれません。

法科大学院に関しては、卒業生全員がプロの法律家にはなれないわけです。プロになれないから、趣味追及か?と言うとそうでないし、かといって税金で補助しないというわけにもいかない。

これはそもそも、

>このままでは大学教育を受けられる人が所得の階層で固定化してしまう。進学したくてもできない人を支援するセーフティーネットの政策をつくる必要がある

という問題意識から、その問題意識の存立根拠は何か?を議論しているのであって、一般的に大学教育のあり方なるものを論じているのでもありませんし、大学はすべからく職業教育機関になるべしなどと主張しているわけでもありません。

>ガクモンそのものに趣味的な要素があるような気もします。

と、私もそう思います。

問題は、俺は貧しいから職業と関係のない趣味を公費でやらせろ、という主張がどこまで認められるものかです。当該趣味の世界で抜群の成果を挙げられるような才能を有する人であれば別ですが、単に並の人として普通に楽しむだけの趣味を公費で賄えという主張は、資源に限りがある現世においては、優先順位が著しく下の方にならざるを得ないと思われます。

資源に限りがある現世において、普通程度かそれ以下の才能しかないような人々に対してであっても、公費負担で高等教育を受けさせてあげるべきだという主張を、優先順位のかなり高いところに持っていこうとするのであれば、当該高等教育の内容が全くの趣味でございますというわけにはいかないでしょう、というだけのことですが。
それとも、そういうわけにいくと思われますか。


(追記)

ついでにいうと、当該職業教育機関が当該職業に対してどこまで実際に役に立つか立たないかは、ここでのそもそも論とは次元が異なります。
公費で運営されている現実の職業教育機関のいくつかが当該職業目的にあまり役立っていないことは、当該職業教育機関への公費投入の正当性に疑問を投げかけるだけであって、一般的に趣味のための教育機関への公費投入を正当化するわけではありません。

>問題は、俺は貧しいから職業と関係のない趣味を公費でやらせろ、という主張がどこまで認められるものかです。

「趣味」と「実学」を分ける境界があいまいなので・・「1円でも稼げそうなら実学」とか、「自活できる収入にならなきゃ趣味」とか、そういう定義ですかね?

>当該趣味の世界で抜群の成果を挙げられるような才能を有する人であれば別ですが、単に並の人として普通に楽しむだけの趣味を公費で賄えという主張は、
>当該高等教育の内容が全くの趣味でございますというわけにはいかないでしょう、というだけのことですが。

hamachan先生が「才能」をどう定義されているのか不明ですが、音大出身者は「大学にまで来るようになったら(先天的な)才能の差なんか問題じゃないのよね」という言い方をします。先天的な資質より重要な「成功の要件」がありますから、「貧乏だし、勉強嫌いだし、才能もなさげだから、進学なんかムダ」と一蹴するのはかわいそうです。

「貧乏で才能もなさげ」だから公費でガッコ行けて格差縮小!という美点もあるわけです。「裕福で才能あり」「貧乏だが才能あり」なら、放置しても頭角を顕しそうな気もします。

「親が金持ちなら子はどんな進路でも選べるのに、貧乏だと制限がある、のはどうか?」という論点なので、格差解消的解法であるべきなのですが、「知能」「才能」は生まれつきの格差なので(みんな非常に深刻に気にしている格差)。

IQ(才能)と年収と寿命は正比例する傾向があるので、「低IQ者への格差是正措置」も血税の無駄とは言い切れません。

ですから、そういうことを一生懸命主張すべき相手は残念ながら私ではありません。

大学なんてお遊びなんだから、金のある人がやってればいいだろう、という考えに対して、いや、遊びだからこそ貧しい人にも平等に与えられるべきだという主張はもちろん立論可能ですし、それなりに筋が通っているとも思いますが、それが政策として実現可能かという点で、私は若干の疑問を抱かざるを得ないというだけのことです。

そのような主張を世の中に対して突きつけていくべきだという考え方は十分にありえますし、大変美しいものだとも思いますが、私は大学教育の公的費用負担という実現すべき政策を、もっと実現可能な論拠づけで攻める方を選びたいというだけのことで。

子供の職業であれ趣味であれ、あらゆる活動の選択肢について、親の金と全く無関係にするためには、親は子供の世話をしてはいけない、すべて国民は平等に国家の管轄下で育てられなければならないというラディカルな共産主義政策をとる必要がありますが、そこまで主張するならともかく、現実の社会でどこまで実現可能だと思いますか。

音楽を例に取れば、現実問題として親にそれなりの余裕がなければ、音楽家を目指すのはなかなか難しいのが実情でしょう。それを超えて、金を出してやろうと言われるくらいの才能を小さい頃に示さない限り。その実態がけしからんから、抜本的に改革すべきだという理念を口で語ることはもちろん可能ですが、私のリアリズムはそれには距離を置かせます。
「親が金持ちなら子はどんな進路でも選べるのに、貧乏だと制限がある、のはどうか?」というのは、少なくともそれが趣味も含む形で論じられるのであれば、残念ながら私はそれを論点とする気はありません。
私のリアルな理想主義は、それをせいぜい普通の人々に可能な職業選択の範囲でのみ論点とすることを求めます。もちろん、これは私の「リアリズム」なので、それを押しつけるつもりはありませんが、このリアリズムのない議論が、いささかなりとも世間で通用するようにも思われませんが。

>問題は、俺は貧しいから職業と関係のない趣味を公費でやらせろ、という主張がどこまで認められるものかです。

(本音論では)これを決めるのは採用する側である企業側であってお上では無いでしょう。我々にとっては「趣味」に見えたとしても、企業側が必要性を認めればOKなのです。逆に我々にとっては有意義に感じても企業側が必要性を認めなければNGです。

主張に説得力を持たせたいために、建前論としての根拠を設けたいという考えは良いのですが、しかし、企業の意向を考慮せずに、建前論のためにカリキュラムをいじるというのはいかがなものかと思います。企業の意向を無視して人材育成を行って失敗した例として、需要の少ない人材を増やしすぎた例としてはポスドク(高学歴ワーキングプア)問題が思い出されますし、抑制しすぎた例としては医師不足の問題が思い出されます。

低所得者層の所得倍増を目的とするならば、根拠は「企業が大学生を必要とするから」で十分ではないかと思います。「日本の国際競争力を高めるための大学のカリキュラム改訂」というのは有りだと思いますが、それはあくまで別の話(目的)です。同じように、hamachan先生が「企業が大学生を必要とするから」で納得されないのは、きっと別の思惑をお持ちだからではないかと思うのですが。

>このままでは大学教育を受けられる人が所得の階層で固定化してしまう。進学したくてもできない人を支援するセーフティーネットの政策をつくる必要がある

>問題は、俺は貧しいから職業と関係のない趣味を公費でやらせろ、という主張がどこまで認められるものかです。

>私は大学教育の公的費用負担という実現すべき政策を、もっと実現可能な論拠づけで攻める方を選びたいというだけのことで。

>「親が金持ちなら子はどんな進路でも選べるのに、貧乏だと制限がある、のはどうか?」というのは、少なくともそれが趣味も含む形で論じられるのであれば、残念ながら私はそれを論点とする気はありません。私のリアルな理想主義は、それをせいぜい普通の人々に可能な職業選択の範囲でのみ論点とすることを求めます。もちろん、これは私の「リアリズム」なので、それを押しつけるつもりはありません

hamachan先生の神経を逆なでするかもしれませんが、「親の所得に関わらず進学できる大学教育セーフティネット政策」とは「学部専攻に関わらず、希望者に一律の学費を渡す」しか存在しえないと思います。文科省が大学(校)であると定めたガッコの一覧表がありますが、あの表に載っている大学ならどこでも差別せず、一律同額の奨学金を出す。あるいは世帯年収が200万円以下の学生に対しては国公立を問わず学費を無償(減額)にする、という方法です。

「職業と無関係の趣味」とありますが、「瓢箪から駒」的に、将来何で食っていけるようになるか?なんて学生には(誰にも)予測不可能だからです。逆に実学の代表のような法学部・経済学部へ公費をかけて進学して、その学習内容を生かせる職場に就けるとは限りません。芸術学部漫画学科を出て、制作会社に入って、ゲームを作る・・という夢も「そんなのはリアリズムに照らして実学じゃないから公費負担は無理だ」と言い切れない気がします。企業のニーズを考えると、今は実現の可能性も高いです。

ですから、私の神経などどうでもいいのです。

私自身は、虚学も結構好きなのですよ。暇になったら是非やりたいところです。

世間様が、虚学の勉強をやりたい人は全員公費で面倒見ようということになれば、それでいいのです。

しかし、今までの虚学教育の膨張は、親が子どもの大学教育費の面倒を見るという社会的前提の上に立脚して実現してきたという面がありますから、今になって全額公費で面倒みろといえますか?というだけの話ですね。

それから、今までのエントリをお読みいただければ判るように、私はまさしく日本の法学部や経済学部でやっていることが言葉の正確な意味での「実学」に当たるとは到底思えないと思っています。日本の大学教育の最大の問題点はそこにあるのです。

法学部出ただけの人間をこれっぽっちでも法律専門家として使えますか?「リーガルマインド」?何いってんだい、ちゃんちゃらおかしいや、てなところです。私の主たる関心、問題意識はそこにあるので、初めから虚学だといってる分野には、別段責めるつもりもありません。好きな人が好きにやってればいいだけの話で。

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