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2009年8月23日 (日)

「不機嫌な職場」の不均等な職務構造

『労働基準広報』などを出している労働調査会のHPの「労働あ・ら・かると」というコラムで、大野正和さんが「「不機嫌な職場」の不均等な職務構造」という興味深いエッセイを書かれています。

http://www.chosakai.co.jp/alacarte/a09-08-2.html

>かつての上司は、「仕事というのは、言われたことをやるだけでなく、言われてないことをやることだ」と部下に諭したものだ。日本の企業では、仕事の責任範囲が曖昧で人の能力やその時々の状態によって変化をさせることが多い。

 この曖昧さは欧米企業と対比するとわかりやすい。欧米企業は職務を中心に組織が組み立てられている。この職務により評価や報酬も決められており、必要なスキルも明らかになっている。人事、組織が職務を中心に運営されている。

 その一方、日本企業は上記の例のように責任範囲を曖昧にし、人の能力や実態に合わせ、責任範囲を伸び縮みさせる方法で組織を運営している。

これは拙著の序章で述べたジョブ型とメンバーシップ型の話ですが、これが成果主義の導入で、

> 「あなたの仕事は何なのか? あなたの成果は何なのか?」

 これは従来の曖昧さを出来る限り排除し、個人個人の仕事をはっきりとさせていった。成果主義とは、これらを全社的に問いかける運動だった。この運動は、曖昧さによる問題が大きくなっていた日本企業にとっては、非常に有益な「成果」をもたらした。

 ところが、ここに大きな問題が生じてきた。

と、とりあえず評価した上で、こういう問題が生じてきたと指摘します。

>それは、旧世代は仕事の範囲が曖昧であったが、曖昧であったがために自分の仕事の前後工程や関連工程を常に意識し知る必要があった。その結果、自分の仕事をしていても、受け手の状態を考えながら自分の仕事の調整をする、お互いの仕事の間に落ちそうな状態を事前に察知して手を伸ばすなどの行動が自然にとれていたのである。曖昧なるがゆえに、個人間のつながりが強化されていたのである。

 その一方、その状態を知らない新世代に変わるにつれ、自分の仕事の範囲しか知る必要がない状態でよしとされたため、個人間のつながりが極端に悪くなってきた。「あなたの仕事の範囲はこう。期待する成果はこれ」と言われてきたら、その範囲に集中すればよいと考えることが当然となる。

 こうして世代が移るにつれ、前後工程への理解や意識の度合いが減り、仕事は分断されてきた。さらに、「それは私の仕事ではない」状態が蔓延するにつれ、自分と他者との間に落ちるような仕事に対し、手を差し出すということが減り、日本の会社の強みであった「すりあわせ」「柔軟な協力体制」に綻びが生じてきた。それが昨今、頻発する品質問題などのベースにある組織問題である。

とりわけ、重大なのは、それが不均等な形で現れることだと大野さんはいいます。

>もともと柔軟な職務構造では、各人の職務範囲や内容に重なりの部分が生じ、誰の担当かがはっきりしない領域が多い。柔軟さ(フレキシビリティ)とは、「曖昧性」をもった領域をつないでいく「人と人との間」のコーディネーションなのである。だからこそ、型にはまったフォーマルな職務ではなく、人柄や人格といわれるような人的要素が必要になる。

 「境界の柔軟性」とは「どこで自分の仕事が終わり他人の仕事が始まるか」がはっきりしないことである。そこには、「自分の仕事」と「他人の仕事」の「明確な」区分ができない曖昧さがある。欧米の職務構造では、明確な区分があるから「それは私の仕事ではない」というのが自分の仕事分担を守る言葉となる。それが、インフォーマルな仕事を「拒否する」根拠となるのである。

 自分の仕事と他人の仕事の境界線が不明確であるとき、その境界線上の仕事はどちらが分担するのだろうか。いちばん望ましいのは、お互いの忙しさに応じて臨機応変に両者が仕事を分かち合うことだろう。逆に両方が何もしないことも考えられる。

>わたしは、職務の明確化そのものには賛成である。問題は、それを誰がどのように推進していくのか、その過程の混乱をどのようにくい止めるのかにある。場合によっては、一方的に負担を背負い込む一部の人たちがますます増える結果になるかもしれない。

職務の明確化にともなって誰の分担でもない仕事領域が広がり、結局はその部分を配慮性の強い人が抱え込む可能性があるからだ。曖昧な自分がそれに抗しきれるだろうか。まだまだ検討すべき余地があるだろう。

わたしは、これは仕事のやり方自体はジョブ型にしないまま、人件費抑制を目的に成果主義を導入してしまったことのツケだと思います。

企業の仕事のスタイルは未だに明確なジョブ記述に基づいて各人の任務のデマケがはっきりしているなどという情況では全然ありませんし、そもそも成果主義を導入した幹部たちにもそんな意図はかけらもなかったのでしょう。

ところが、成果主義でやるからと書かれた目標に照らして短期の成果で評価していくことになると、評価されるように表面だけジョブ型風に行動することがその側面だけでは合理的になってしまいます。それでは実際の職場は回らなくなるので、気配りの効く人ほどそこを抱え込むことになり、へとへとになって、しまいに鬱病になっていっている、というのが大野さんの見立てであるわけです。

実際には職務の明確化が進んでいるわけでもなくて、職務構造は曖昧なままだと思います。本当にジョブ型の構造になったのなら、「誰の分担でもない仕事領域が広が」ったりしているはずはありません。そういう曖昧な仕事領域は従前通り広がっているにもかかわらず、成果主義に適応して勝手に自分の責任範囲を明確化してしまった者がそうできなかった者を搾取しているという情況でしょうか。

いずれにしても、大変興味深い、いろいろとものを考えさせるエッセイです。

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コメント

拙論の掲載ありがとうございます。
わたしは、マイナーな論者なので励まされます。
後藤さんの批判する「実存的解決」に傾斜する自分ですが、そこに制度論をいれたいのです。
HPもご覧ください。
今後ともよろしくお願いします。

わざわざ拙ブログにいらしていただき、感謝申し上げます。

同じ労働関係の研究者(と言っていいですよね)として、ネット上に自分の見解を公開している同士として、これからも末永くおつきあいのほどをお願いいたします。

私は、頭の構造上、どうしても「実存的」よりは「制度的」な議論の展開になりますが、制度の根っこには実存があるということもやはりきちんと意識して行きたいと思っています。

社会科学では、なぜ他ならぬこの「私」が(非正規であり、過労死するのか)という問いに答えられませんね。
ここが、限界でしょうか。
あすの、労働あらかるとにそのへんのことが掲載される予定です。
濱口先生こそ、最近コメントなどで「過労」なのではないですか。このコメントはスルーしてください。
オプトアウトしてくださいね。

失礼しました。
オプトアウトの反対で、先生ご自身も「そこそこ働いて家に帰ろう」でした。日本語で表現できる方がいいですね。

広がれ!!ココロ系
せっかくおほめにあずかっておいて、恩を仇で返すようですが、わたしにはどうしても濱口さんらの制度論がしっくりきません。
わたしを含め、地を這うように働いている多くの人たちは、職場の人間関係やストレスやいわれなき理不尽な格差に悩まされています。
だからこそ、その理不尽さを制度で政策で解決しようというのはわかるのですが、そこには、「こころ」や「あはれ」が感じられません。ないものねだりなのでしょうが、絶望的な議論の「格差」を感じます。
戦略的に制度論を語っておられるのもわかるのですが、どうしてもこころのざわめきがおさまりません。

いえいえ、制度論には制度論の意味があり、実存論には実存論の意味があると思っています。
私が制度論に自らの論を限定するのは、あくまでもそれが比較優位だからであって、それ以外の論を否定するつもりなどありません。
是非、「こころのざわめき」を的確に言語化していっていただきたいと思います。

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