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2009年8月17日 (月)

「市場主義に不可欠な公共心」に不可欠な身内集団原理

拙著の紹介が載っている『東洋経済』最新号に、大竹文雄先生が「市場主義に不可欠な公共心」というエッセイを書かれています。

http://www.toyokeizai.net/shop/magazine/toyo/detail/BI/f7a367fe62e35fc8af3c641822a0bc5d/

>不正に社会保障給付を受け取ることへの罪悪感が小さい社会では、失業保険が充実せず、解雇規制が強い。・・・

>つまり伝統的経済学が念頭に置いてきた極端に利己的な人々を前提とすれば、労働市場の規制が強くなると言う皮肉な結果が得られるのだ。

>市場原理主義が公共心を一掃してしまったという批判があるが、本当の問題点はそこにあるのではない。公共心が低下し、不正な政府サービスの利用が広まると、政府による規制が強化され、逆に市場が機能しなくなることが問題なのである。一方、ウソをついて不正な受給をすべきではないという価値観が広まっている場合にこそ、失業給付の充実と同時に規制の少ない競争的な市場が達成できるのである。少ない雇用保護と充実した失業給付・再就職支援という北欧で進められているフレクシキュリティ政策の背後には、不正な政府サービスの受給をしてはならないという高い公共心がある。

ここで言われていることは、それ自体としては間違いではありません。ある意味で実にもっともなことです。しかし、問題を「高い公共心」という形而上的倫理道徳問題に放り投げて、それを成り立たせている経済社会的下部構造に論及しないならば、それは問題のすり替えになってしまう危険性すらあります。

この問題は、実は本ブログでも何回も論じてきたところですし、拙著197頁の「フレクシキュリティの表と裏」でやや皮肉な口調で論じたところでもあります。

>ただ、デンマークモデルを考えるに当たっては、同国が他の北欧諸国と同様、労働組合の組織率が極めて高く、全国レベルの労使交渉によりものごとを決めている社会であるという点を無視することはできません。特に、失業保険がゲント・システム、すなわち労働組合の共済活動に国の補助が行われるという形で行われていることや、労使関係の枠組みがほとんど全て中央レベルの労使団体間の労働協約によって決定され、実行されている国であり、議会制定法は最小限にとどめられていることは重要です。このようにマクロな労使関係を中心に国の政治が構築されている社会のあり方をコーポラティズムと呼びますが、そのような文化の希薄な社会に外形だけデンマークモデルを移植しようとしてもうまくいかないであろうと、EUも警告しています。
 やや誇張した言い方をすれば、デンマーク社会全体が一つのグループ企業のようなもので、その労使間でルールを定め、みんなで守っていくという仕組みだと言ってもいいかもしれません。そうすると、解雇自由といってもそれはある子会社から配転することが自由だという意味に過ぎませんし、失業給付もグループ内のある子会社から他の子会社に配転される間の休業補償のようなものですから、その間教育訓練を受けて早く新たな子会社に赴任しようとするのも不思議ではないわけです。
 だとすると、OECDのいうデンマークの「ゴールデン・トライアングル」は、コーポラティズムという最も重要な要素を意図的に抜きにして、解雇が自由で失業給付が手厚く労働市場政策に熱心という現象面のみを取り出したものであり、やや詐欺商法的な匂いがつきまといます。

組織率9割を超えるような労働組合やゲントシステム型の失業保険基金といった、具体的に個々の労働者たちを公共心ある存在たらしめるような実定的な制度を抜きにして、利己的な個人が相争う市場という土俵に放り込まれた孤独な個人たちにただ「公共心を持て!」と呼ばわることに、何ほどの意味がありうるものか、という問題です。公共心とは、つまるところ「仲間を裏切ってはいけない」という倫理なのではないのか、守るべき「仲間」を破壊しつつ、公共心を説くことはそもそも矛盾しているのではないか、という問題です。

415wfqp24al 最近読んだ松尾匡さんの『商人道ノススメ』への最大の違和感もそこにあります。公共心とは、ある種の身内集団原理と別物ではないのではないかと私は思います。

批判されるべきは、どこまでを同じ仲間として扱うべきかという問題に対して、現実にそぐわない区別=差別を無理に維持し続けることなのであって、「信頼」と「公共心」の源泉である仲間意識それ自体ではない、と私には思われるのです。

(念のため)

いうまでもなく、こういう仲間意識に立脚した「公共心」は、その仲間に入ろうとしない「他者」には厳しいものでありえます。そのことを原理的に批判する立場も十分あり得ます。私もそういう立場をそれとして尊重するつもりはあります。ただし、そういう「絶対的他者ともまったく同様につきあうべき」という原理的な立場に立つのであれば、自分たちのルールに従わない「異物」には一転して大変厳しい顔を見せる「北欧の公共心溢れる市場主義」を褒め称えるのは差し控えるべきでしょう。

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コメント

(以下リバタリアン氏風に)
「私が直感的に床屋談義風のエッセイだと判断した大竹先生のコラムの問題点を論理的に的確に指摘している点がよい。」と思いました。

ブームとなった「品格」みたいに胡散臭いものを感じてスルーしたのですが…

話変わって。

ケルト民族にとって尊崇の対象であった大地母神がローマ帝国その他の民族の侵略(進出)に伴い民話の魔女悪鬼の類に零落したのを連想いたしました。
ある民族(グループ)にとっての豊穣多産の象徴は敵対する異民族にとっては死神に他ならないという意味で。

http://b.hatena.ne.jp/m-matsuoka/20120118#bookmark-76526825

”富の再配分や福祉の配給を政府に任せた結果が今の米国。再配分も福祉も階級の破壊も最良の分配機能である自由競争に任せれば済む。日本が行うべきは自由競争の維持であって、政府の仕事を増やすことでは無い。”

竹中平蔵先生ですら「私が市場原理主義者なら、市場がすべてを解決すると信じ込んでいることになるでしょう。そんなことはありえません」と述べている。(WIKIPEDIAより)


○○をやってもうまくいかないのは○○が足りないからだ論法にはいささか鼻白むものがありますな・・・

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