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2009年8月 8日 (土)

高校普通科

charisさんとの議論の中心にある論点を、哲学や美学といった個々の学問分野の意味や価値をどう考えるかという個別領域ごとにそれぞれ思い入れやら何やらがあり得る論点を捨象して(私自身の思い入れは最後のところに付記します)、ある意味で本質的なところだけを純粋抽出すると、職業教育ではないという消極的な定義しかできない「高校普通科」をどう考えるかという問題に至ります。

たまたま、児美川孝一郎さんのブログ「Under my thumb」の標題のエントリが載っていましたので、一つのヒントとして。

http://blogs.dion.ne.jp/career/archives/8637771.html

>昨日は,神奈川県高校教育会館主催の教育講座の講師として,「権利としてのキャリア教育」について話をしてきた。

なかなか感度の高い先生がたと議論できたのは,面白かったし,今どきの学校現場がどれほど“押し込められて”きているのかが(表現は悪いけど),ひしひしと伝わってきた感じ。

最後の討論の際に,議論になった論点の一つは,生徒数ベースで約72%が普通科に通うという日本の学校制度をどう見るかという点。

僕などは,これに対してかなりネガティブな見方をしていることを提示したわけだけど,高校の先生たちの感覚としては,そう単純ではないところがある。

圧倒的な普通科体制というのは,かつての政策としての高校多様化に対置して,運動の側もそれを求めてきたという経緯もあるし,高校が職業科中心になった場合,中学生段階でもアイデンティティ分化を求めることになるわけだけど,日本の家庭や子どもたちの実態としては,それには無理があるという現場感覚・・・

他方で,日本的な普通科体制を支えてきた企業内教育の側が,いまや相当に縮小しているという現実もあり,高校卒業後の公的職業訓練機関がきわめて貧弱だという日本の現実を考えれば・・・

ていねいに,かつ慎重に議論しなくてはいけない論点ではあることは確かなんだけどね。

たしかに、「ていねいに,かつ慎重に議論しなくてはいけない論点」なんですね。

児美川さんは、私も参加している日本学術会議の大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会 大学と職業との接続検討分科会において、本田由紀さんとともに幹事をされていて、考え方としてもまさに「職業レリバンス」派なんですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-edd3.html(大学と職業との接続検討分科会)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ba51.html(日本型雇用システムにおける人材養成と学校から仕事への移行)

職業レリバンスなき教育を受けたまま労働市場に投げ出されてひどい目にあっている若者達に、せめて身を守る「鎧」として職業能力を・・・というワークの側からの問題意識と、そんなこと言ったって現実の子供達は・・・というスクールの側からの現実認識を「トゥ」でつなげることができるものかどうか、大変悩ましいところです。

児美川さんのエントリのコメント欄のギャルソンさんのこの言葉もなかなかに深いものがあります。

>関連があるかいまひとつ自信がないのですが、アカデミックな教科のほうが職業教育教科の内容よりも格が高いというか、あるいはありがたい?というかそういう傾向とかあると思うのですが(ないかもしれませんが)その理由は何故なんでしょうか。自分自身はそういう風に思ってしまう傾向があるような気がします。その一方で、僕の周りの子どもたちに関しては、普通科高校に進学した子どもたちよりも高専や専門高校に進学した子どもたちの活躍ぶりのほうをよく聴くような気もします。

関連があるか」どころか、ある意味でそれが問題の中核でしょう。

これもまた、本ブログでむかし論じあったテーマですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)

>これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。

およそ具体的な職能については企業内訓練に優るものはないのですが、とは言え、企業行動自体が徐々にシフトしてきつつあることも確かであって、とりわけ初期教育訓練コストを今までのように全面的に企業が負担するというこれまでのやり方は、全面的に維持されるとは必ずしも言い難いでしょう。大学院が研究者及び研究者になれないフリーター・ニート製造所であるだけでなく、実務的職業人養成機能を積極的に持とうとし始めているのも、この企業行動の変化と対応していると言えましょう。

本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます

このときのコメント欄でのやりとりが、非常におもしろいので、ぜひリンク先をお読みいただきたいと思います。

(付記)

ちなみに、私自身の哲学への個人的な思い入れは、

>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

ということに尽きます。

一番おぞましいのは、”日本型雇用システムの中でいかなる長時間労働にも耐えて24時間がんばれる「人間力」を養うための「人間テツガク」を”、というような、「テツガクの職業的レリバンス」です。日本でテツガクの職業的レリバンスとかをまじめに議論し出すとほぼ間違いなくそういう話にしかなりません。私はそういうのは断固としてイヤです。

これは個人的趣味のレベルの話ですので、無視していただければと思います。

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コメント

「テツガク」ねえ、フランスのバカロレアでは、スピノザについての論述の問題が出ると聞いたことがあります。
論理的な思考と議論の訓練自体は、資格につながるような「職業レリバンス」のある訓練の前に必要なのではないかなあ。
日本の学問でも政治でも、根本の「哲学」がないことが一番の問題だと思うことがありますよ。
O先生のご意見などうかがいたいところです。

charisです。主旨はよく分ります。4年制大学進学率が50%で、高校普通科卒が72%であれば、専門学校に進学という道があるとしても、かなりの数の職業レリバンスなき若者が社会に出ざるをえない。職業高校に人気がないのだとすると、やはり、形式は普通高校でありながら、教科の内容は実学的な要素を高めるのが一つの方向でしょう。

ただ、大学は今でも十分に実学的な学部・学科がたくさんあるし、文科系の学部を無理に実学化する必要があるのか、「職務」を通じて就職する部分と、「人」として採用されて就職する部分と、両方あってもよいではないか、というのが私の考えです。

あと、哲学の「職業レリバンス」ですが、西洋哲学の良質の部分がちゃんと生きていれば、「24時間働くぞー」にはならないと思います。

わざわざ拙ブログまでお出まし頂き恐縮の限りです。
実は、上述の大学と職業との接続検討分科会でも、「理科系は違うぞ」と指摘されていますし、私自身、本ブログでも繰り返し、問題の焦点は法学部、経済学部といった一見実学のようでありながら、実は卒業後の職業人生との有機的なつながりの乏しい部門にあると申し上げているところです。

「大学は今でも十分に実学的な学部・学科がたくさんある」のは確かですが、人口的にその太宗を占める「文科系の学部」が、えせ実学で客引きして実は「人間力でござい」などというのは、やはりいかがなものかと私は思います。これは、そもそもえせ実学で客引きなどかけらもしていない哲学の先生であるcharisさんに言うべき話では本来ありませんが。

この職業レリバンスの話で悩ましいのは、私自身は実は結構趣味としては虚学が好きな人間であるのに、議論のなりゆきでそういう部分をも否定しようとする我利我利唯物論者みたいな立ち位置になってしまうことなんですが、少なくともこの議論の土俵で私がそういうペルソナを脱ぎ捨てるわけにはいかないのですね。

「付記」の話はこれ以上しない方がいいのでしょうが、あえて申し上げれば、「西洋哲学の良質の部分がちゃんと生きていれば、「24時間働くぞー」にはならないと思います」と言えるのは、そもそも哲学に職業レリバンスなどはなから期待されていないからではないでしょうか。私はそれでいいと考えているのです。哲学に職業レリバンスなんか糞食らえと思っているのです。なまじ哲学科卒業生にも「「人」として採用されて就職する部分」が必要だなどというくだらない話が持ち上がって、「哲学科学生の人間力向上計画」などという愚劣な計画を作成させられることになったら、charisさんの期待するようなものにはまず間違いなくならないと思いますよ。だから、一素人哲学ファンとして

>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

と3年前から申し上げている訳なんです。

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