池田信夫氏の「書評」
捏造を批判されて逆上したのか、急いで拙著の「書評」をアップしたようですね。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/hamaguchi.HTML
ただ、「読んではいけない」という理由が、「俺も同じことを言っていたんだぞ」ということと、わたくしの属している組織への攻撃だけというのは、いささか悲しいところがあります。
もう少し、「こいつのこういう政策論はこのように間違っている」といった正々堂々たる正面攻撃があるかと思っていたのですが、拍子抜けというところです。
属性攻撃でもって中身の批判に代えるというのは池田氏の毎度おなじみのやり口ですので、まあ、リンク先の文章をじっくり鑑賞してもらうことにして、もう一点の「俺も同じことを言っていたんだぞ」について。
これは、労使関係史研究者の金子良事さんの批判がもっとも適切です。拙著の序章で示している認識枠組みは、労働研究者の中ではごく普通に共有されているものの一種であって、たかが10年前に池田氏が博士論文を書いて始めて提示したようなものではありません。
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-44.html
>日本的経営論、日本的賃金論にある程度、親しんだ人ならば、欧米=契約、日本=所属という対立構造は受け入れやすいものなのかもしれない。実は、濱口さんの『新しい労働社会』の序章で雇用契約を欧米=職務、日本=メンバーシップと捉えているのもこのアナロジーとみてよい。言ってみれば、これは戦後数十年にわたって議論されてきたことを素直に継承したら、このような議論になるというような典型例なのである。
金子さんへのリプライでも述べましたが、わたくしの場合、その原型は孫田良平さんや田中博秀さんといった労働省出身の官庁エコノミストから得たものです。この辺については、金子さんへの応答の一環として、そのうちきちんと彼らの著作を引用しながら示したいと思っています。
いずれにしても、金子さんの感想ではありませんが、
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-date-20090809.html
>ここ数週間、濱口さんのブログで、御自身が一生懸命、探して紹介している(本当の意味でインタラクティブ!)『新しい労働社会』の書評を楽しみに読んでいると、彼のメンバーシップの議論に蒙を啓かれたという人が結構、いるらしいことが分かった。
金子さんから見れば、序章で言っていることはもう昔から労働研究者の間では共有されている今更の話であって、論ずべきは第1章から(とりわけ)第4章で論じられている政策論の是非なわけですが、その今更の論をたった10年前の自分の博士論文を盾に「今後、著者が「メンバーシップ」について言及するときは、拙著を必ず参照していただきたい」と言える神経も不思議なものでしょう。
まあ、この「読んではいけない」のどこにも、わたくしの具体的な政策論のどこがどのようにけしからんのか、片言隻句の記述もないということが、すべてを物語っているように思われます。
書評は書評の対象となった書物について語るよりもより多く書評氏自身の人間性を明らかにするものですが、この「書評」ほどそれに当てはまる指標も、ちょっとほかに思い浮かびません。
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» [読書]雇用システムは「混ぜるな危険」 [concretism]
濱口桂一郎「新しい労働社会―雇用システムの再構築へ」を読みました。 新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書) 作者: 濱口桂一郎 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 2009/07 メディア: 新書 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書の構成は非常にシンプルで、序章の冒... [続きを読む]
ちょっと補足します。
メンバーシップと職務の比較は労働研究まわりの人だけかもしれませんが、メンバーシップ論の共有については、労働研究者というより、もうちょっと広い範囲の人を想定していました。具体的には1990年代以前の経営学(ジャーナリスティックな話も含めて)をかじった人を考えていました。ちなみに、昔(1950年代から60年代)、産業社会学は人間関係学派を介して経営学ともファミリーでしたので、そこも含めていいのかな。何れにせよ、そのあたりの人たちにとってもこの議論はファミリアだという話です。
それから、私が第4章を取り上げたのは、多分、それが私の役割だろうと勝手に考えたからで、もっとも大事なことかどうかは分かりません。個人的には一番大事なのは「生命を守る」という基本的な価値観をはっきりさせるようという提言だと思ってます。これは動かしがたいですね。現実には法律の運用は大事ですが、問題の性質からいえば労基法以前の話です。もちろん、仕事に命を賭ける(賭けさせられるではなくて)という生き方にどの程度、他人が介入できるのかという難しい問題はありますが、そんな各論を議論する前に、とりあえずは誰もがちゃんと頭に入れておくべき考え方だと思います。
投稿: 金子良事 | 2009年8月30日 (日) 13時17分
そうですね。経営学方面の方々も含めて「労働研究者の間で共有」と言ったつもりでした。
一つ裏話をしますと、今回の新書、私の最初の企画案では序章はなかったんです。労働時間、非正規労働、セーフティネット、労働組合という4つの政策論だけで構成するつもりだったんですが、岩波書店の担当者の方が、一般の読者向けに序章に当たるところを入れた方がいいと強く勧められたのです。
さまざまな批評を読んでいくと、結果的に、それは「当たった」ことになります。
金子さんにとっては「今更」でも、一般の読者の方々にとってはあながち「今更」ではないんですよ。
投稿: hamachan | 2009年8月30日 (日) 14時39分
「今更」という風には思ってませんよ(笑)。
内容というか根幹は伝統的でも、語り口は新鮮でした。それは魅力でもありますが、ひょっとしたら、問題でもあるかもしれませんね。
たしか、ヴァレリーの名言に、哲学とは出来れば知りたいと思っていることを知っていることで説明するものだ、という趣旨のものがあったと思うのですが、それとちょっと似てる現象です。私はインテリ層を立派だと思いませんので、あまり意識が高い読者層というのは嫌なんですが、岩波新書の読者層がそういうものであるならば、おそらく、日本的経営論はご存知だろう、と。だから、新しい話?いやいや、知っている話じゃないですか、と語りかけてみたのです。多分、皆さんもある程度の知識を前提にして読んだからこそ、ああそうか、と思われたんだと推測しています。研究者も含めて、本当に新しい内容の議論をすぐに理解できる人はきわめて少数ですしね。
とはいえ、分からないと読む人は付いていけないので、出版戦略はズバリ、お見事だと思います。実際に効用も多いと思います。ただ、その一方で、古い皮袋に新しい酒を入れない、というごとく、こういう枠組みだと、医療・介護関係者の労働問題には拡張していきにくいですね。生命が大事、という線だったら、そこまですんなり拡張できたと思います(非資本主義セクターへの拡張)。経営学では徐々に非営利組織への関心が高まりつつありますが、労働研究も同じ道を辿る必要がありそうです。
投稿: 金子良事 | 2009年8月30日 (日) 15時33分
社会学では一般的な議論だと思います。ドーア先生も類似の議論をしています。
大事なのは、それを体系的に展開したかどうか、また今後、それが多くの研究者に受け入れられるかどうかです。
投稿: 博樹 | 2009年8月31日 (月) 09時35分
佐藤博樹先生のおっしゃるように、労働問題は経済学者、経営学者、社会学者、人類学者等々々の十字路で、少しずつ違うディシプリンから同じようなアプローチがされていると感じます。
私はそのいずれでもないので、政策論に必要な限りでざっくりとまとめてみることができるのかな、と。
もともとこの序章は、政策研究大学院で外国からの留学生に教えるために作った講義メモがもとなので、ざっくりしすぎているのは判っているのですが。
投稿: hamachan | 2009年8月31日 (月) 10時55分
濱口桂一郎氏に質問です。なぜ濱口氏は10月初旬に出版された池田信夫氏の新刊『希望を捨てる勇気』の書評をブログにお書きにならないのですか?俺には不思議です。
濱口氏はたぶんこうおっしゃるでしょう。「池田氏が勝手に私の本を書評したからといって、私が彼の新刊を書評せねばならない義務はない」。
しかし本当にそうでしょうか?濱口氏は池田氏を挑発していた。
>投稿: hamachan | 2009年8月25日 (火) 23時14分
>それと、ほんとは「読んではいけない」で罵倒したい気持ちがこうして吹き出たとか(笑)。 さすがに、ひと様に「読んではいけない」という理由が、「修士号もないこっぱ役人上がりのくせに。 俺様は博士だぞ」だけでは恥ずかしいのでしょうが、 それ以外に罵倒する理由が見つからないのですかね。
そしてご自分が池田氏を挑発したことも暗に認めている。
>捏造を批判されて逆上したのか、急いで拙著の「書評」をアップしたようですね
ユニークで自分の5~6倍以上の集客力があるブロガーが自著を取り上げてくれたらそれだけでも感謝をするべきです。池田氏に対して感謝の一言もないのはどうしてですか?感謝どころか、池田氏の書評をさらして業界の知識が少ないことを小馬鹿にしていた。労働法がご専門の濱口氏と、経済学者である池田氏では、雇用・労働問題に関して、知識の絶対量に差があって当然です。濱口氏のやっている事は礼儀を欠き、池田氏への批判は間違っています。
>もう少し、「こいつのこういう政策論はこのように間違っている」といった正々堂々たる 正面攻撃があるかと思っていたのですが、拍子抜けというところです。
>まあ、この「読んではいけない」のどこにも、わたくしの具体的な政策論のどこがどのように けしからんのか、片言隻句の記述もない
実のところ俺は、この濱口氏の書評の批判が出た後でも、池田氏の新刊が出たら、濱口氏はその新刊をブログで書評するだろうと疑っていませんでした。しかし濱口氏が『希望を捨てる勇気』の書評を出す気配はありません。
些細なことだし、池田氏には「余計なおせっかいだ!」と逆に俺が怒られるかもしれませんが、俺は今回はじめて濱口氏がどういう人間かよく分かった気がします。
濱口氏は池田氏の本を批判して経済音痴であることが露呈するのが怖いのですか?それとも最初っからご自分は池田氏の本の書評など書く気がないのに、池田氏の書評はさらして彼を小馬鹿にし、アクセス数を稼いだだけですか?
もしそうならあなたがやっていることは卑怯だ!
ぜひ濱口桂一郎氏に『希望を捨てる勇気』の書評をしていただいて、「池田氏のこういう経済政策はこのように間違っている」と正々堂々たる 正面攻撃をしていただきたいと思います。
投稿: 読者 | 2009年10月23日 (金) 01時29分
「読者」さんは何か勘違いをしておられるようですが、そもそも本エントリのタイトルにおいて、私が「池田信夫氏の『書評」』とカギ括弧付きにしてあるのは、上の記述に明らかなように、いかなる意味においてもそれが書評の名に値するような代物ではないと考えるからです。
「読者」さんは、
>濱口氏はたぶんこうおっしゃるでしょう。「池田氏が勝手に私の本を書評したからといって、私が彼の新刊を書評せねばならない義務はない」。
と言われるのですが、池田氏がわたくしの政策論について、それこそホワエグ論でも休息期間規制でも、請負と派遣の話でも偽装有期の規制でも、教育費や住宅費の問題でも、集団的労使関係の話でも、どれか一つでも取り上げて辛口でも何でも批評をされたのであれば、わたくしもまったく同一の知的倫理的水準水準において、池田氏の本を論評することができるでしょう。
しかしながら、もし出版元と現所属先と出身組織に対する単なる悪罵のみからなる文章を「書評」と呼ぶというのであれば、私はそのような下品な文章を書けと言われても断固拒否します。「読者」さんは、わたしがダイヤモンド社と上武大学とNHKへの悪罵を繰り広げ、ついでに「池田氏の言っていることは、私も前に書いていたぞ」とでも付け加えれば満足されるのかも知れませんが、私はそのようなご要望にお応えするつもりは毛頭ありません。近々ダイヤモンド誌編集部の方のインタビューを受ける予定ですし、NHKには「何回も出演させていただいているし、上武大学に対しても箱根駅伝おめでとうと素直な祝意を表する以外に何もないのです。
本ブログにも時々、単なる悪罵のみを目的としたコメントが寄せられることがありますが、具体的な内容がなく単なる悪罵のみのものは削除しています。悪罵の対象が池田信夫氏であるものも数十件書き込まれましたが、すべて削除されています。お心当たりの方は反省していただきたいと思います。池田信夫氏と対立している人間のブログだから、その悪罵を書けば公開してくれるだろうなどという低劣な心性の人間を認めるつもりはありません。
いずれにしろ、わたしは人の愚劣な「書評」がまともな意味における書評になっていないことを指摘することはしても、同じ倫理水準の「書評」と称する誹謗中傷文書をわざわざ作成するつもりはありません。「読者」氏が池田信夫氏の「書評」を前提にしてそれに対応するものをなぜ書かないのかといわれる以上、そんな下劣なものを書くつもりは毛頭ないというのが唯一の答えです。
もし、これはあくまで現実に反する仮想ですが、池田信夫氏の書評が拙著の具体的な政策提言に関わるような誠実なものであったとしたら、と問われれば、そのような誠実な書評者に対しては、自ずから誠実な対応をすることになるでしょう、と答えることになりましょう。残念ながら、これは現実に反する仮想ですから、なぜそうしないのかという問いはそもそも根拠を有さないことになりますが。
投稿: hamachan | 2009年10月23日 (金) 08時08分
ご丁寧なご回答どうもありがとうございます。反論します。俺は必死で書いているので「単なる悪罵のみを目的としたコメント」などと濱口氏に一方的なレッテル貼りをされて削除されたくありません。絶対に削除しないでください。
>そもそも本エントリのタイトルにおいて、私が「池田信夫氏の『書評」』とカギ括弧付きにしてあるのは、上の記述に明らかなように、いかなる意味においてもそれが書評の名に値するような代物ではないと考えるからです。
俺の目には「書評」に見えます。「書評の名に値するような代物ではない」は濱口氏の一方的な私見です。お金をとって本を書いて売るプロは、気にくわない書評は「こんなものは書評(批評)ではない」といって書評子を貶める行為は絶対にやってはいけません。濱口さんが書いたのは新書であり、商品なのです。プロなら自由な批判を受けるのは当然であり、自分が理解できない書評スタイルもその中に含まれることも覚悟せねばなりません。
>池田氏がわたくしの政策論について、それこそホワエグ論でも休息期間規制でも、請負と派遣の話でも偽装有期の規制でも、教育費や住宅費の問題でも、集団的労使関係の話でも、どれか一つでも取り上げて辛口でも何でも批評をされたのであれば、
それならば逆に伺います。
濱口氏は公に多数回に渡り池田氏を批判してこられましたが、実のところ「経済学者としての池田信夫」を批判しているのですか?それとも「表現者としての池田信夫」を批判しているのですか?どちらですか?
これまで濱口氏がお書きになった池田氏をあてこすった表現の中には「経済学者らしからぬ」とか「トンデモ経済学者」とか「経済学者もどき」etcとあるので、「経済学者としての池田信夫」を批判されてこられたのかな?と思いますが・・
しかし濱口氏が「経済学者としての池田信夫」を批判してきたのだと仮定すれば、「池田氏が経済学者として失格であるという証明」を濱口氏が出す必要があります。しかし濱口氏は、池田氏が経済学者としての能力の欠陥を証明したと呼ぶのに足るエントリをお書きになったことは一度もありません。
つまり事実として、濱口氏は経済学リテラシーは池田氏よりずっと低いわけですから、「経済学者としての池田信夫」を批判することは不可能です。だから濱口氏は「表現者としての池田信夫」を批判してきたことになります。池田氏は経済学者であり、プロの表現者です。日本におけるプロのブロガーの草分け的な存在ですから、専門である経済学を離れて、社会一般の多様な題材を取り上げて文筆活動されています。労働法・雇用関連の記載もその一部です。
濱口氏が「表現者としての池田信夫」を批判してきたのだとしたら、その批判が正当であると言い張るためには次の2点のいずれかは証明する必要があります。
(1)プロの表現者として池田氏よりも濱口氏のほうが才能・実績・実力がある。
(2)プロの表現者として見ても池田氏には批判に値する何かがある。
どうでしょうか?(1)に関してはもはや何も言うべきことはないと思います。(2)についてですが、池田氏が個人で書いているブログの中に、プロの労働法学者からみて「いいかげんだ」と思われるような記載があったと仮定しても、それは濱口氏が繰り返してきたような侮辱に値するものなのかどうか。「日本労働法学会では問題視されても、ブロゴスフィアでは問題視されない程度である」と俺は思いますし、学会がブロゴスフィアより上であるという価値観は俺にはありません。
>しかしながら、もし出版元と現所属先と出身組織に対する単なる悪罵のみからなる文章を「書評」と呼ぶというのであれば、私はそのような下品な文章を書けと言われても断固拒否します。
俺は濱口氏に「池田氏の本を書評してほしい」という読者リクエストは出しました。しかし「下品な文章を書け」とリクエストしたことは一度もありません。
俺はむしろ「恨みに対して恩を持って報いよ」(老子)ではないけれど、書評のみならず普段から法曹として誰よりも高い人格を濱口氏には示してほしい。「学問的誠実に満ちた一流の書評」を今からお書きになったらどうでしょうか?
そして『希望を捨てる勇気』にしても『なぜ世界は不況に陥ったのか』にしても、まともに内容を批評しようと思えば相当なレベルの経済学リテラシーが必須であり、そのような高度な経済学リテラシーを持ち合わせていない濱口氏には経済学者が読むに値する書評を出すのは不可能だと考えています。書評すら出せない濱口氏に池田氏のことを「インチキ経済学者」呼わばりする資格はありません。
>「読者」さんは、わたしがダイヤモンド社と上武大学とNHKへの悪罵を繰り広げ、ついでに「池田氏の言っていることは、私も前に書いていたぞ」とでも付け加えれば満足されるのかも知れませんが、
俺がいつ「相手のレベルに合わせた書評を書いてください」というお願いを出したのでしょうか?
>池田信夫氏と対立している人間のブログだから、その悪罵を書けば公開してくれるだろうなどという低劣な心性の人間を認めるつもりはありません。
濱口氏がコメント削除していたとは初耳です。正直に少し驚きました。俺が書いた池田氏の悪口は100%掲載なので、コメント管理されていたとは知りませんでした。
>いずれにしろ、わたしは人の愚劣な「書評」がまともな意味における書評になっていないことを指摘することはしても、同じ倫理水準の「書評」と称する誹謗中傷文書をわざわざ作成するつもりはありません。
それならは俺の考えに反論する形で構いませんので「まともな意味における書評」を定義していただけませんか?俺の目から見ると池田氏の書いていることは書評になっているのです。
投稿: 読者 | 2009年10月24日 (土) 13時14分
>俺の目には「書評」に見えます。「書評の名に値するような代物ではない」は濱口氏の一方的な私見です。お金をとって本を書いて売るプロは、気にくわない書評は「こんなものは書評(批評)ではない」といって書評子を貶める行為は絶対にやってはいけません。
池田信夫氏の当該文章が「書評」の名に値するかどうかを、あなたと議論するつもりはありません。
ここに、その全文を引用しますから、それを読んだ自称「読者」さん以外のまっとうな読者のみなさんが、それをどう評価するか、です。
======================
厚生労働省の家父長主義を解説したパンフレット
濱口桂一郎『新しい労働社会』 岩波新書
岩波書店といえば、この反書評の常連だ。かつては日本の文化を担っていた出版社が、1970年あたりで時計が止まり、社民党御用達の泡沫出版社になってしまったのは、日本の文化のためにも惜しむべきことだ。本書も、規制によって労働者を「保護」する厚生労働省の家父長的な労働行政を厚労省の官僚に解説させたもので、本というより役所のパンフレットに近い。
著者は日本の雇用関係が「メンバーシップ」にもとづいているという大発見を最近したそうだが、そういう議論は経済学では昔からある。日本では少なくとも私が1997年に書いた本の第5章で、Hart-Mooreに代表される所有権(ownership)によるガバナンスに対して、Krepsなどの評判によるガバナンスを会員権(membership)という言葉で紹介し、第6章「メンバーシップの構造」でそのインセンティブ構造を論じている。
著者はこのメンバーシップ(長期的関係)がなぜ成立したかというメカニズムを説明していないが、これはゲーム理論でおなじみのフォーク定理で説明できる。彼が「日本の雇用の特殊性」として論じている問題は、気の毒だが、20年以上前に経済学の「日本型企業システム」についての研究で論じ尽くされたことなのだ。先行研究があるときは、それを引用するのが学問の世界のルールだ。新書はかまわないが、今後、著者が「メンバーシップ」について言及するときは、拙著を必ず参照していただきたい。
また著者は、このメンバーシップが「日本の労使関係の特質」だとして、それを前提に議論を進めているが、いま日本で起こっている問題の本質は、このようなメンバーシップを支えてきた成長によるレントの維持が困難になってきたという変化だ。それがなぜ生じたかは、日本で長期的関係が発達したメカニズムを分析しないと理解できないが、スミスもケインズも読んだことがない著者にそれが理解できないのはやむをえない。
他は欧州の労働市場などの紹介で、特に独創的な見解が書かれているわけでもないが、「ネオリベ」に対する敵意だけはよくわかる。結論は「ステークホルダーの合意が大事だ」ということだそうだが、これは「みんな仲よくしよう」といっているだけで、何も内容がない。企業の所有権をもたない労働組合が強いステークホルダーになって効率的な意思決定を阻害し、欧州企業の競争力を弱めている、というのが最近の経済学の実証研究の結論だ。
著者は厚労省から政策研究大学院大学に派遣されて「なんちゃって教授」をしばらくやっていたが、最近は「労働政策研究・研修機構」という独法に戻ったようだ。そこに勤務していた若林亜紀氏の『公務員の異常な世界』によれば、研究員が足りないと事務員を「昇格」させて埋め、彼女がまじめに研究して本省に都合の悪い結論を出したら、報告書を握りつぶす所だそうだ。無駄な組織には、無駄な人物が棲息しているわけだ。この独法は、行革で何度も廃止の対象にあげられながら労組の反対で生き延びてきたが、「聖域なき無駄の削減」をとなえる民主党政権はどうするのだろうか。
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この中でかろうじて「書評」の名に値するのは、「メンバーシップ」論に対する「俺も10年前に博士論文に書いていたんだぞ」というところだけであり、実はその点については、池田氏に限らず、労使関係論の世界では昔から言われていることですね、と上のエントリの本文で述べています。
ほかのどの論点でも過去の先行研究を挙げるなどということはしていない一般向けの新書版ですから、いささか難癖の嫌いはあるといえ、その点については池田氏の指摘を私は認めています。しかし、「書評」の名に値するのはそこまでです。
それ以上に、「岩波書店といえば、この反書評の常連だ。かつては日本の文化を担っていた出版社が、1970年あたりで時計が止まり、社民党御用達の泡沫出版社になってしまった」だの「規制によって労働者を「保護」する厚生労働省の家父長的な労働行政を厚労省の官僚に解説させたもので、本というより役所のパンフレットに近い」だの「著者は厚労省から政策研究大学院大学に派遣されて「なんちゃって教授」をしばらくやっていたが、最近は「労働政策研究・研修機構」という独法に戻ったようだ」だの「無駄な組織には、無駄な人物が棲息しているわけだ。この独法は、行革で何度も廃止の対象にあげられながら労組の反対で生き延びてきたが、「聖域なき無駄の削減」をとなえる民主党政権はどうするのだろうか」といった単なる悪罵の連続に対してまともに対応する必要はないというのが私の判断であり、
同次元の「書評」を書く気にはなれないというのが正直なところです。
それから、「読者」さんであるかどうかは知りませんが、私は単なる悪罵のみからなるコメントは削除しています。実例としては「池田信夫って馬鹿ですねwww」というようなのがあります。それに対して、池田信夫氏がなぜどのように間違っているかについて書かれたコメントはそのまま掲載しています。その原則に何の変わりもありません。
(追記)
それにしても、上記のような「書評」を擁護しながら、平然と
>「恨みに対して恩を持って報いよ」
などとうそぶくことのできる「読者」さんの倫理水準は、(もしそれが自らの水準を人に求めているのであれば)人間としてはあり得ないほど高潔であるのか、それとも(自分にはできないことを人に求めているのであれば)人間として信じがたいほどその反対であるのかいずれかであるように見えます。
そのいずれであるかは、必ずしもここで明らかにされることではありませんが、池田信夫氏に対しても同様のことを言う用意があるかどうかはその適切な示準となるであろうとは思われます。
なんにせよ、「読者」さんは、上記のような池田氏の「書評」を「俺の目から見ると池田氏の書いていることは書評になっている」といいながら、一方で私に対しては、「俺は濱口氏に「池田氏の本を書評してほしい」という読者リクエストは出しました。しかし「下品な文章を書け」とリクエストしたことは一度もありません」とか「俺がいつ「相手のレベルに合わせた書評を書いてください」というお願いを出したのでしょうか」などと、何の気後れもなく平然と言い放つことができる素晴らしい正義感をお持ちのようですから、何を申し上げても倫理観に訴えるなどということは絶望的かも知れませんが。
上のお答えにも書いたように、池田氏の「書評」なるものは、拙著の政策提言の何一つとして一言一句たりともコメントしていません。ホワエグ論でも休息期間規制でも、請負と派遣の話でも偽装有期の規制でも、教育費や住宅費の問題でも、集団的労使関係の話でも、何一つとして論じようとはしていません。それが歴然たる事実です。
つまり、書評に書評でお返しするという前提そのものが成り立っていないのです、「読者」さんの高邁なる「恨みに対して恩を持って報いよ」の境地に達するのでない限りは。
私は残念ながら修行が足りないので、そこまでの境地には達していないのですが、少なくとも上記「書評」を書いた池田信夫氏に比べれば、同レベルの誹謗中傷文書を書かないという点において、若干の倫理的優位性を主張させていただいてもよろしいのではないかと考えています。それ以上の優位性を主張するつもりは毛頭ありません。
投稿: hamachan | 2009年10月24日 (土) 17時12分