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2009年8月10日 (月)

単純な構図化とプロパガンダ

金子良事さんの拙著への批判点として、

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/

>この本全編にたしかに、濱口さん一流の現場感覚は埋め込まれていると思うが、正直に言うと、相当に背景に隠されていて、私の感覚ではそれを読み取るのは相当に難しいだろうと思う。たとえば、昔からこのクラシカルな議論は大企業モデルで、中小企業には当て嵌まらないではないか、という批判があった。濱口さんもそのことは承知しているから、きちんとエクスキューズを書いている。そして、中小企業が重要でないとは思っていない。ただし、大企業における過労死の問題、非正規問題など、論点を絞って政策を提言する分には、たとえ中小企業の問題を捨象したとしても、それはそれで有効なフレームワークなのだ。したがって、「日本は~」と書いてあるからと言って、日本全体のことを説明しているなどと早合点してはいけない。極めてピンポイントを狙い済ました叙述なのである。

>政策は設計する段階では、いろいろと複雑な事情をそれこそ十重二重に考える必要があるが、訴える段になったら、単純でなければならない。その意味で本来、政策提言はその内容を問うまでもなく、少なからずプロパガンダ的性格を持たざるを得ないのである。まず、政策提言を読むときには、こうした性格を知る必要があるだろう。

この指摘は全面的に正しいのです。まあ、「プロパガンダ」だといわれてあまり愉快ではないというような情緒的な話は別にして、およそ無限に複雑な社会現象をわかりやすく解説し、一定の政策方向に読者を引っ張っていこうとするならば、一定の抽象すなわち一定の捨象は不可避なので、それを「単純な構図化とプロパガンダ」と呼ぶならば、私が『新しい労働社会』でやったことはまさにそれに該当するでしょう。

結局これは土俵設定をどれくらいの広がりで考えるかということの従属変数であって、その土俵設定との関係でどれくらい有用な「単純な構図化」になっているか、という問題と、その土俵設定自体がそもそもの問題意識との関係でどれくらいレリバントであるのか、という問題と、二段階で評価されるべきであろうと思います。

そして、実は上の引用で金子さんが「きちんとエクスキューズを書いている」と述べているように、序章の最後のところに、労働問題がある程度判っている人ならにやりとすることをさらりと書いてあります。その「さらり」が、普通の読者にはあまり強い印象を残さない程度でしかないのは、それに続く本論で主として論じていることが、「単純な構図化」がより当てはまる大企業における正社員と非正規労働者の矛盾とその社会政策的含意にあるからです。

一方、最近本ブログの読者の方々にも強い印象を残したであろう解雇規制問題の文脈でいうと、メンバーシップに基づき整理解雇は難しいが逆にロイヤルティに欠ける奴の解雇は認められやすいという本書の「単純な構図化」はまさに大企業バイアスそのものであって、中小零細企業になればなるほど、そもそもなんであれクビは切りやすいという解雇自由な世界に近づいていきます。しかしながら、それを不用意に本書の議論の文脈に持ち込むと、ただでさえ混乱している読者の頭がますます混乱してしまいます。「おいおい、日本は首切り易いのか、首切りにくいのか、どっちなんだ、はっきりしろ」と、テレビの討論番組なら罵倒されて、終わりです。少なくとも、私はそう考えて、本書の土俵をそのように設定し、その旨を序章の最後に明記しておいたわけです。

それを「プロパガンダ」というか、というのはなかなか難しいところですが、少なくとも政策科学的志向を持った社会問題の研究としては十分あり得るやり方であると考えています。おそらくその点が、「政策提言をフィールドにしていない」歴史的実証主義に立つ金子さんとスタイルとして一致し得ないところなのかも知れません。

逆に、このように「単純な構図化」が問題になること自体、私が純粋理論派ではなく、生々しい現実から(一定の抽象過程を経て)議論を組み立てていく立場であることを示しているとも言えるでしょう。このあたりは両棲類たるわたしの存在構造それ自体であると考えています。

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コメント

ありがとうございます。

すみません。主観的には批判ではなく、解説を書いたつもりなのですが・・・分かりやすくいうためには極端にという方針なので、あえて「プロパガンダ」を使ってしまいました。

一番、伝えたかった点は、濱口先生が解説されているプロセスは政策を作るときには誰がやっても経ざるを得ないということです。ですから、仮に私が政策に影響を与える立場にあるならば、内容は措くとして、全く同じ行動をとります。

ただし、科学的手法はあくまでその過程で使う道具の一つであって、全体で一番大事なものだとは考えていません。おそらく科学性よりも「土俵設定」をするときに、腹をくくることの方がクリティカルだろうと思います。その行為はおそらく、事実の捨象よりも、事実上、政策の優先順位をつけることを意味しているからです。

いえ、私にとって「批判」とは本質に達する解説ということですから、別段「悪口」という意味で使ったわけではありません。(「プロパガンダ」は、いささかペジョラティブな手垢のついた言葉になってしまっていますが)

的確な解説をしていただいたことに感謝しているくらいです。

実をいうと、岩波新書の読者層として想定している(必ずしも労働問題に詳しくはないが)社会的に上層に位置する知識層には、拙著のような「抽象」「捨象」がもっとも適切であると思っていますが、もうすこし事態に詳しい政労使の専門家向けに書くときには、その仕方をシフトすることになります。

そのあたりをどう説明したらいいか、と思っていた所に、うまい具合にいいボールを投げ込んでいただいた感じです。

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