権丈先生の痛烈な一撃
またまた例によって例のごとく、権丈善一先生のコピペですが、
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/
ご自身で、『atプラス』に書かれた「政策技術学としての経済学を求めて――分配、再分配問題を扱う研究者が見てきた世界」の序論と結論の一部をアップされていますので、これ幸いとそのままこちらにコピペさせていただきます。
一言一言がいちいち痛烈な一撃になっておりまして、これぞ権丈節の醍醐味、心ゆくまでご堪能あれ、というところです。
>序論
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最近の、つまりマルクス経済学が衰退して後に、社会保障研究に参入してきた経済学者への評価はおおよそ次のように相場が決まっている。――制度を知らない、歴史を知らない、市場、市場と連呼してはそれが国民生活にいかなる影響を与えるのかについての想像力が欠けている、選択の自由は望ましいというただそれだけの思いこみで政策提言をする、ときには制度設計者たちの意図を大きく曲解させる推計をしては議論を無意味な大混乱におとしめる等々、およそプラスの評価は見られない。されど彼らの知名度は不思議なことに高く、政策形成に影響を与える結構重要な地位を与えられることがある。なぜ、こういうことが起こるのか? ここではそういう問を立ててみようと思う。
なお、最初に断っておきたいことは、経済学以外の世界から眺めれば、経済学というあたかもひとつの考え方があるように見えるかもしれないが、経済学の中には、他の世界と同様に、実はいくつもの流派がある。経済が危機に瀕し国民生活の底が抜けてしまっている今、経済学をひとくくりにしてこれを全否定したくなる反経済学の感情が起こるのは分かる。しかし、昔から、まともな経済学というものは確実にあり、それを論じる人もたしかに存在してきたのである。ただそうした真っ当な流派が主流派たり得なかったということが真相であり、その原因は、今日的な経済学教育や経済学を学ぶ人に問題があるということを分かってもらうのが、本論の主なねらいである。
結論
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「隠れ」経済学ファンである私の思考は、相当部分、経済学に負っており、経済学の切れ味はなかなか鋭いものがあると思っている。しかしながら、この切れ味鋭い経済学を是非判断の分別ない者が手にするということは、「小児が利刀を弄ぶ」のと同じことになるのである。小児が利刀を弄んで今日の惨状をもたらしたことが、今の反経済学の流れを生んでいる――少なくとも社会保障という分配、再分配の世界ではそうだろうと、私は考えている。
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権丈先生すっかり元気がないというか、元のテンションに戻られたというか…
絶望を演じられているだけかも知れませんが、少なくとも外から見た目は…
投稿: 自戒を込めて | 2009年10月15日 (木) 22時23分