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2009年8月

2009年8月31日 (月)

Tomさんのアマゾンレビュー

アマゾンレビュー、昨日の「さくら」さんにつづき、本日は「非正規雇用労働者を使用する事業主に対して、労働基準法を監督する立場から啓発指導する仕事」をされているTomさんのレビューがアップされています。

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4004311942/ref=cm_cr_dp_all_helpful?ie=UTF8&coliid=&showViewpoints=1&colid=&sortBy=bySubmissionDateDescending

>今、労働基準法に係る仕事をしていて常に感じるのは、労働法制の不自然さである。労働現場をみていないタテマエ論が多く、仕事をしていても、何か矛盾を感じながらの日々であった。

>頭の中のもやもやがスッキリと解消された気分である。

と評していただいております。ありがとうございます。

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労働政策:新政権の課題

だいぶ前に某誌から標記の原稿を依頼されていたのですが、さすがに選挙結果が明らかになる前には書くわけにはいかないので、本日一気に書き上げました。マニフェストと政策集INDEXをもとに、どの政策は適切でどの政策は問題があるかを要点だけ記述しています。刊行されるのは来月になると思います。中身は、拙著『新しい労働社会』の政策論の凝縮版というところです。

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「さくら」さんのアマゾンレビュー

拙著のアマゾンレビューに、「さくら」さんのすばらしい書評が載っています。

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4004311942/ref=cm_cr_dp_all_helpful?ie=UTF8&coliid=&showViewpoints=1&colid=&sortBy=bySubmissionDateDescending

日本のさまざまな労働問題の解説について

>正直に言えば、この紐解きが見えてくるまで何度か読み直す必要があった。しかし、最後には、複雑な糸の塊から一本を引き抜くことで、全ての線が一つにつながるのを見るような爽快感を覚えた

と評していただいていますが、それ以上に嬉しいのは、次の一節です。

>しかし本書が目指すのは、単なる解説ではない。日本の労働社会をうまく機能させるために「現実的で漸進的な改革の方向を示」すことであるという。筆者のブログで以前、「日本には地に足のついた理想主義というものが少なすぎる」という指摘を見かけたことがある。筆者は本書でそれを実際に示そうとしているのだと思う。

そうなんです。そこが一番伝えたかったメッセージであり、それがこうしてみごとに伝わっているのを見ることほど喜ばしいことはありません。ここのところが、ちょっとねじけた眼鏡で見られると、もうすぐに労働組合の手先に見られたり、財界の手先に見られたりしちゃうわけですが・・・。

>実のところ、筆者の提示する改革案(特に短期的なもの)はこれで全て解決という分かりやすいものではなく、地味でもある。だが、筆者がそうした方法をとる背景には、現行制度からの短期的かつ急進的な離陸を提唱することが現実には何ももたらしえないという認識がある。知的な面で誠実であろうとする姿勢に心から頭が下がった。

ありがとうございます。そういう姿勢を「知的に誠実」ととらえていただける読者こそが、拙著の本当の読者なんだと思っています。

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2009年8月30日 (日)

池田信夫氏の「書評」

捏造を批判されて逆上したのか、急いで拙著の「書評」をアップしたようですね。

http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/hamaguchi.HTML

ただ、「読んではいけない」という理由が、「俺も同じことを言っていたんだぞ」ということと、わたくしの属している組織への攻撃だけというのは、いささか悲しいところがあります。

もう少し、「こいつのこういう政策論はこのように間違っている」といった正々堂々たる正面攻撃があるかと思っていたのですが、拍子抜けというところです。

属性攻撃でもって中身の批判に代えるというのは池田氏の毎度おなじみのやり口ですので、まあ、リンク先の文章をじっくり鑑賞してもらうことにして、もう一点の「俺も同じことを言っていたんだぞ」について。

これは、労使関係史研究者の金子良事さんの批判がもっとも適切です。拙著の序章で示している認識枠組みは、労働研究者の中ではごく普通に共有されているものの一種であって、たかが10年前に池田氏が博士論文を書いて始めて提示したようなものではありません。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-44.html

>日本的経営論、日本的賃金論にある程度、親しんだ人ならば、欧米=契約、日本=所属という対立構造は受け入れやすいものなのかもしれない。実は、濱口さんの『新しい労働社会』の序章で雇用契約を欧米=職務、日本=メンバーシップと捉えているのもこのアナロジーとみてよい。言ってみれば、これは戦後数十年にわたって議論されてきたことを素直に継承したら、このような議論になるというような典型例なのである。

金子さんへのリプライでも述べましたが、わたくしの場合、その原型は孫田良平さんや田中博秀さんといった労働省出身の官庁エコノミストから得たものです。この辺については、金子さんへの応答の一環として、そのうちきちんと彼らの著作を引用しながら示したいと思っています。

いずれにしても、金子さんの感想ではありませんが、

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-date-20090809.html

>ここ数週間、濱口さんのブログで、御自身が一生懸命、探して紹介している(本当の意味でインタラクティブ!)『新しい労働社会』の書評を楽しみに読んでいると、彼のメンバーシップの議論に蒙を啓かれたという人が結構、いるらしいことが分かった。

金子さんから見れば、序章で言っていることはもう昔から労働研究者の間では共有されている今更の話であって、論ずべきは第1章から(とりわけ)第4章で論じられている政策論の是非なわけですが、その今更の論をたった10年前の自分の博士論文を盾に「今後、著者が「メンバーシップ」について言及するときは、拙著を必ず参照していただきたい」と言える神経も不思議なものでしょう。

まあ、この「読んではいけない」のどこにも、わたくしの具体的な政策論のどこがどのようにけしからんのか、片言隻句の記述もないということが、すべてを物語っているように思われます。

書評は書評の対象となった書物について語るよりもより多く書評氏自身の人間性を明らかにするものですが、この「書評」ほどそれに当てはまる指標も、ちょっとほかに思い浮かびません。

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中立を装った現状肯定論者

そろそろくるんじゃないかと思っていましたが、やはりきました。イダヒロユキ氏による拙著への批判。でも、できれば、もっと正面から批判してほしいですね。

http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/1064/(「同一価値労働同一賃金」への賛否、その手前)

>濱口桂一郎『新しい労働社会』(岩波新書)みたいな、中立を装った現状肯定論者(=財界が喜ぶことをいう人)などがはびこっているので、まあ、若くて元気な人にどんどん正面から全部潰していくような批判・言論活動をしてほしいです。

私は「中立を装」ったつもりはありませんが、均等待遇を口先だけのスローガンではなく実現可能なアジェンダとして打ち出す以上は、当面はこういうやり方しかなかろうと言っているわけです。

それで財界が喜ぶとも思えませんが

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2009年8月29日 (土)

またしても池田信夫氏の捏造

こういう指摘をすると、池田信夫氏がどういう反応をするかはいままでの経験から重々判っています。中身には一切言及せず、もっぱらわたしが労働省なる三流官庁の役人上がりの分際で、修士号もないくせに大学院で教えているとは笑止千万、俺様は博士(政策・メディア)だぞ・・・という悪罵がイナゴの大群とともに怒濤のごとくやってくるのは目に見えています。

とはいえ、これはいかにも捏造というべきでしょう。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/8c0f4f37800d4ba31f00651ee1d40693

>鳩山由紀夫氏によれば、「市場原理主義」が文化や伝統を破壊して、信頼にもとづく社会の秩序を危うくしているそうだが、それは本当だろうか。Francois et al.によれば、規制改革によって労働市場が競争的になると、労働者の信頼は高まるという。

そのフランソワさんたちが実際にどういうことを言っているかは、通常の英語力があれば理解できます。

http://voxeu.org/index.php?q=node/3906

>We test the hypothesis that competition between firms in the sector of one’s employment increases trust.

業界内の企業間の競争が激しければ激しいほど、競争に負けないようにがんばろうと、労働者の間の信頼は高まる・・・・・・・という仮説を検証しているのです。

その検証自体の適切さについてはここでは論評しません。ただ、仮説自体がいかにもそうだろうな、という納得性のあるものであることは確かです。トヨタと日産の競争が激しければ激しいほど、トヨタ社員同士の信頼感は高まったでしょう。

このリンク先の銀行の規制緩和が進むにつれて銀行員同士の信頼が高まったというのもそういう問題意識でしょう。

彼らはその理由についても、

>We think it is because competition disciplines people to act in the group’s interest.

企業間競争が人々を集団の利益のために行動するように鍛えるからだろう、と推測しています。

フランソワさんたちは、「労働市場が競争的になると、労働者の信頼が高まる」などと言うことは一言も言っていません。そもそもそんな仮説を検証しようなどとも考えていません。

まあ、池田信夫氏にとってはいつもながらのやり口ではあるのでしょうが、こういう捏造的紹介をされたフランソワさんたちにとっては、名誉毀損ものではないでしょうか。

(追記)

はてぶでinumashさんが紹介していますが、冒頭の記述のいきさつは、中立的立場から冷静に評論している「天漢日乗」さんの次のエントリが適当でしょう。関係するエントリがリンクされているのも便利です。

http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2007/12/vs_hamachan_b8c8.html

「品のない罵倒だなあ」という実例も引用されていますので、池田信夫氏の品性を鑑賞するのに好適です。いまに至るまで、全くやり口が変わっていないところも興味深いですし。

なお、切込隊長氏のこのエントリも、コメントも含めなかなか味わい深いものがあります。

http://kirik.tea-nifty.com/diary/2007/12/post_e50a.html

いま改めて読み直してみると、切込隊長氏は

>もしこの手のフレーミングに審判員がいるのであれば、いま語られている内容ではなくて、論じるべき政策的課題(フリーター問題など)の題材を与えて二人にそれについての解説や処方箋を簡潔に書かせ、それを比べてどちらがより知性的か、論理的かを読み手が判断したほうが早いのではないだろうか。

と語っておられたのですね。

ぜひ、拙著をお読みいただき、わたくしの解説や処方箋がどれくらい知性的か、論理的かを一刀両断に批判していただければこの上ない幸いです。

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マムチロさんの短評

「マムチロの乱読漂流記」で、拙著が一刀両断されていました。

http://www1.seaple.icc.ne.jp/mamchiro/book/book2009.8.htm

>労働省の官僚にしてJILUの研究者、浜ちゃん先生の新書。ブログの強硬ぶりとは異なりおさえた口調で通説を踏まえ論旨も明快。でも、関係者が多くて思惑の渦巻く現実と政治主導の名をかりた素人さんのかきまわしによって政策はなかなか理屈のようにはおさまらないのだよ。

JILPT(労働政策研究・研修機構)なんですが。

それはともかく、「政策はなかなか理屈のようにはおさまらない」のが判っているがゆえに、そこをなんとかおさまるようにいろいろと考えるわけなんです。

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2009年8月28日 (金)

拙著書評リンク集

拙著への書評を取り上げたエントリがかなりの数に上ってきましたので、ホームページの方でリンク集を作りました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/bookreviewlist.html

こうやって改めて読み返してみますと、実にさまざまな方々がいろいろな観点から拙著を評価していただいていることが判って、大変ありがたい思いでいっぱいです。

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政治ではなく、組合から組み立て直すべき-荻野進介さんの書評

日経ビジネスオンラインのNBO新書レビューで、荻野進介さんが拙著を取り上げていただいています。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090825/203259/

荻野さんは、リクルートの「Works」で「三種の神器を統べるもの」を喋ったときのインタビュワでもあり、メンバーシップのところはにやにやしながら読まれたと思います。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/recruitworksjingi.html

標題にもなっている集団的労使関係のところに着目していただいているのは私としては嬉しいところです。

>こうした改革をどう進めていくべきか。著者は、賃金や労働条件のあり方は誰かが上から現場に押し付けるのではなく、労使がきちんと話し合って決めるのが筋、という立場を取る。

 その舞台は労働組合であるべきだが、困ったことに日本の企業別組合は正社員のみに加入資格がある。これを改め、正社員と非正規労働者を包括する公正な労働者代表組織としての組合を再構築すべきだと著者は説く。・・・・・

>そう、非正規労働者でも結婚して子供を育てられ、正社員でも働き過ぎにならない社会を作るために、組合のあり方から考え直す著者の主張を実現するにはやはり政治の力が不可欠だ。来たる衆院選、国民はどんな選択をするだろうか。

というふうに、最後は見事に締めくくっていただいています。

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2009年8月27日 (木)

労務屋さんの書評から

まだ、ご本人がご自分のブログで紹介もされていないのに、勝手に先走って引用したりしては失礼に当たるかも知れないのですが、これはやはり紹介しないではおれない名文章でありますので。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1ecf.html(日本労働研究雑誌10月号特集は「ヨーロッパ労働法の現在」)

25日のエントリで紹介した『日本労働研究雑誌』9月号ですが、その最後でちらりと書いた労務屋さんこと荻野勝彦さんの書評。取り上げられているのは小嶌典明先生の『職場の法律は小説よりも奇なり』。

これは本ブログでも取り上げたことがありますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-85c1.html(職場の法律は小説よりも奇なり・・・別の意味でも)

荻野さんはもちろん「労務屋」として

>おおむね「職場、現実をよく見ずに制度設計してもうまくいかない」という実務実感をよく反映していて、実務家の中には我が意を得たりと感じる人も少なくないだろう。

という素直な感想を述べられるのですが、そのすぐ後で、その「現実」の先の「現実」にもちゃんと触れるのです。

>もっとも、この本は一面の真実ではあるにせよ、大抵の実務家はその一方で、こうした規制が導入されてしまう理由もわかってはいるのだ。契約期間の途中なのに一方的に「明日から来なくてもいいから」などと平気で言ってみたり、最低賃金すら守らなかったり、「我が社には年次有給休暇はない」などと真顔で言ってしまうような程度の低い使用者がいるのも残念な現実だ。これらに対しては、むしろ規制や取締で大いに厳しく臨んでもらいたい。こうした使用者がいるせいできちんと問題なくやっている労使にまで無意味に手足を縛るような規制をかけられるのはかなわない・・・・・・・というのが、大方の真面目にやっている実務家の本音だろう。

こちらが「大方の真面目にやっている」労務屋さんの本音の本音でしょうか。

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『ひろばユニオン』9月号「EU労働時間指令とは?」

労働者学習センターが発行している『ひろばユニオン』の9月号に「EU労働時間指令とは?」 という小文を書きました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hirobaunion0909.html

中身はEU労働時間指令のごく簡単な解説です。

最後のところで、ちょびっと日本への希望を書いています。

>このように指令改正は結局なりませんでしたが、現行のEU労働時間指令の内容自体が、現在の日本の労働時間状況からみると、学ぶべきところの多い存在であることは間違いありません。その中でも、EU内でもなお議論のある時間外含めて週48時間という基準はとても手が届きそうにありませんが、せめて1日最低11時間の休息期間とか、1週最低1日の絶対休日くらいは、本当の最低基準として確立させたいものです。

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拙著への短評いくつか

拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』(岩波新書)に対する短評がいくつか上がっていますので、簡単に紹介しておきます。

http://kogechahiguma.blog61.fc2.com/blog-entry-11.htmlこげちゃひぐまの本を片手に

>複雑な労働問題の「問題の所在」が確認できる本。

http://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/60416726.html海洋戦略研究

> 雇用契約をメンバーシップ契約という視点で解きほぐしていく様は目から鱗である。雇用システムを考える上で勉強になります。お勧めします。

http://ameblo.jp/fuyugare/entry-10325357747.html水紋鏡~呪詛粘着倶楽部~

>メンバーシップ契約として、現代日本の労働「契約」を考えることで一気に見通しがよくなる冒頭の整理部分だけでも必読。労働問題の解決を図るに法や規制を持ち出すためにこの書で示された地平は必ず踏まえないといけないと思われます。というか日本の新書は凄いな…

あと、twitterで拙著についてつぶやいていた人も何人かいました。

http://twitter.com/udonkun/status/3193087472udonkun

>確かに労働問題の見方がかなり明瞭になる本。著者のブログは約3年前から読んでいて、東大の公開講座に行ったりもしたけど、いろんな重要トピックが筋を通してまとめてある。おすすめ。

http://twitter.com/makonabe/status/2912388023makonabe

>Whiteあーそういえば、濱口桂一郎『新しい労働社会』を読了しました。正社員既得権益・ロスジェネ論・派遣村の衝撃などなど、真面目に労働問題について語るなら必読の書だと思いました。現状分析もすごいのに、氏の答えもまたすごい。完全に頭を抱った感じです。労働問題は奥深い。人の世だからこそかな。

さらに、こういう「読書メーター」というのもあって、

http://book.akahoshitakuya.com/b/4004311942

ほそいさんという方が、

>興味深い。日本の雇用関係法制の一貫性のなさと実態への合致しなさは抜本改正が必要ということを痛感する。ただ、この本で理想とされていることは現状の労使関係からすると革命的なまでの変革が必要なわけで。なかなか難しい気がする。でも良い本ですよ。

と評したかと思うと、

takizawaさんという方が、

>本書の特徴は、「過度に保守的にならず、過度に急進的にならず、現実的で漸進的な改革の方向を示そうとした」点にあるといえる(はじめにより)。例えば、非正規労働者問題には、長期的には賃金制度改革が望ましいが、現在の賃金制度を前提にすれば、期間比例原則を採用するのが好ましい、といったように。

と解説していただいています。

このtakizawaさんの指摘された点は、まさに私の言いたいところを端的に述べていただいたという感じです。

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2009年8月26日 (水)

最低賃金、市が決定 千葉・野田市、業務委託契約条例案

昨日の朝日の記事ですが、

http://www.asahi.com/politics/update/0822/TKY200908220127.html

>千葉県野田市は、市発注の公共事業や業務委託に携わる民間労働者の賃金水準を確保するため、市長が定める最低賃金以上の給与を支払わなければならないとした公契約条例案を9月の市議会定例会に提出する。条例案が可決されれば、来年度の発注から実施する予定という。

 条例案は、予定価格が1億円以上の公共工事や1千万円以上の業務委託契約が対象。業務委託については施設の清掃や設備の運転管理、機器の保守点検に限定する。市が定める最低賃金は、毎年、農林水産省と国土交通省が公共事業の積算に用いる労務単価や、市職員の給与条例を勘案して決める。

 最低賃金が守られない場合は契約を解除でき、解除で生じた損害額の賠償を求めることができるとし、事業者名を公表する。また、下請け業者が最低賃金を下回った場合は、受注者が連帯して労働者に支払う義務を負う。

 一般競争入札の採用が拡大し、低価格での落札が増えていることから、市は「低入札はいずれ労働者の質の低下を招き、市民にマイナスとなって跳ね返ってくる」として対策を検討し始めた。05年に県市長会に公共事業での最低賃金の確保などを盛り込んだ公契約法の制定を提案。その後、全国市長会から国に要望として上げられたが、一向に進展しないため、今回、市単独で条例化に踏み切った。

 労働者の賃金を守る法としては最低賃金法があるが、同法で定める最低賃金は労働の実態からはかけ離れていることも賃金水準を確保できない要因の一つになっている。

これについて、さっそく監督官出身の社労士として八面六臂の活躍中の北岡大介さんがご自分のブログでコメントされています。

http://kitasharo.blogspot.com/2009/08/blog-post_26.html

>以前から、公共部門から民間への業務委託の拡大と、一般競争入札の広がりに伴い、受託業者に雇用される労働者の労働条件の低さが顕在化し、指摘され続けていました。何らかの対応が要請されていることはそのとおりと思いますが、その際も以下の点への考慮は必要ではないかと考えます。

・同一価値労働同一賃金の観点から見た公務員(これに準ずる職員)と業務受託業者等の労働者との労働条件格差(特に賃金)の問題

・上記問題に際して、民間市場における業務受託料金の水準をどのように考えるのか、あるいは同水準を考慮することなく、公務員給与水準に合わせる方向で対応するのか

・公務員給与水準をどのように考えるか

・市条例等で最低賃金額を設定する際の決定プロセス・関与者、その内容の合理性
(※国の最低賃金決定に準じ、公労使3者構成で協議・決定するのか、あるいは市独自で判断?)

・国の最低賃金制度との関係をどのように考えるか

いずれにしても注目すべき動きであるといえ、今後の動向を追っていきたいと思います

この問題については、ご承知の方もおいででしょうが、ILOの94号条約という国際基準があります。

最近『世界の労働』誌に書いた「ILO条約が日本の労働・雇用法制に与えた影響」の最後のところで、これにちょびっと触れています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/ilojapan.html

>1949年の公契約における労働条項条約(第94号)は、公的機関が発注する契約について、法律上の最低基準ではなく、一定水準の適正な賃金・労働条件を義務づけるもので、近年のリビング・ウェイジ運動との関連でも注目されつつある。日本にはまったく対応する法制は存在しないが、かつて1950年には労働省内で、公契約に労働大臣が定める一般職種別賃金を下回らない旨の条項を含むべしとする法案が作成されたことがある。

実は、全建総連がこの条例制定運動をここ数年来繰り広げてきていまして、

http://www.zenkensoren.org/news/02jorei/jorei01.html

>長引く不況を背景として、下請業者や現場労働者への工事代金や労働条件の切り下げなどが横行する無法状態とも言える劣悪な状況が続く中で、改めて見直されてきている『建設現場に適正なルールを確立させる』ための運動は、全建総連が中心となって進めてきている公契約条例(法)の制定に向けた取り組みを主軸に、公契約労働に携わる他産業の人達をも巻き込んで、広範囲な展開を見せ始めています。

全建総連の内部では、全建総連本部の数年前の再提起に応える形で各県連・組合において活発に取り組みが展開されており、すでにさまざまな成果も挙げられています。

『条例(法)』の制定を目差すという運動は、達成までに想定されるハードルが極めて高く、しかも長期的な展望・視点も必要となるスケールの大きな取り組みではありますが、以下に紹介するように、建設業に携わるさまざまな立場の皆さん、そして、『公契約』にかかわる他産業の皆さんからも大きな共感・反響を得ながら、着実に取り組みが前進してきています。

事情はよく分かりませんが、今回の野田市の条例案もこの流れにあるのではないかと思います。

それから、上でちらと触れている1950年労働省の動きについては、来月『季刊労働法』に載せる「最低賃金制の法政策」の中で簡単に解説しています。興味のある方は是非ご購入くださいませ。一般書店で販売される雑誌の論文は最新号が店頭にある間はHPに掲載しませんので。

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個人請負型就業者に関する研究会

明後日、8月28日に、厚生労働省は第1回「個人請負型就業者に関する研究会」を開催するということです。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/08/s0828-1.html

今のところ、この開催案内しかありませんが、この問題が近年の労働関係の重要な課題になってきていることはご承知の通りです。

JILPT研究員の周燕飛さんは、この問題をずっとフォローしてきている方です。

http://www.jil.go.jp/profile/shu.html(研究員プロフィール)

JILPTのディスカッションペーパーとして、

http://www.jil.go.jp/institute/discussion/2005/05-011.html(雇われない、雇わない働き方― 個人請負の労働実態に関する比較研究 ― )

を書かれているほか、上のリンク先のプロフィールにいくつかこのテーマの論文がリンクされていますので、参考になると思います。

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「雪かきブログ」さんの書評

「雪かきブログ」さんに書評いただいていました。

http://cinemayukikaki.blog.shinobi.jp/Entry/98/

>極東ブログに触発されて読んでみる。

さすが、finalventさんの影響力は大きいですね。

>新書は新書でも岩波新書なので、要求される前提知識が高くて、それなりに読むのは疲れるけど、昔の新書ってこの程度のレベル感で書かれていたような気もするな。現状の労働問題の総括としては、多分これ以上のものは見つからないと思う。

文章はできる限りわかりやすく書いたつもりですが、労働問題の今日の主要トピックをほとんどすべて詰め込んだものですから、どうしても読むのに疲れるかも知れません。でもその方が、消費税込み735円という値段からするとお得だと思うんですよ。

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2009年8月25日 (火)

日本労働研究雑誌10月号特集は「ヨーロッパ労働法の現在」

本日刊行された日本労働研究雑誌10月号、特集は「ヨーロッパ労働法の現在」です。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/09/

記事は次の通り。

提言

世界金融・経済危機とEU諸国の対応 (148KB)

鈴木 宏昌(早稲田大学商学学術院教授)

論文

ヨーロッパ労働法の今―解題にかえて

大内 伸哉(神戸大学大学院法学研究科教授)

EU労働法政策の形成過程

濱口 桂一郎(JILPT統括研究員)

EU労働法とイギリス労働法制

有田 謙司(専修大学法学部教授)

オランダの労働法制改革におけるフレキシキュリティ理念と平等原則

大和田 敢太(滋賀大学経済学部教授)

EC法のイタリア労働法に及ぼした影響―保護と柔軟性

マウリツィオ・デルコンテ(ボッコーニ大学法学部教授)

変容する「スウェーデン・モデル」?―スウェーデンにおけるEC指令の国内法化と労働法

両角 道代(明治学院大学法学部教授)

EC指令の国内法化によるフランス労働法制への影響

奥田 香子(京都府立大学公共政策学部准教授)

EU指令の影響とドイツ労働法制の現状

中内 哲(熊本大学法学部准教授)

EU指令の国内法化にともなうスペイン労働法の変化―男女均等待遇と有期雇用縮減への取り組みを中心に

大石 玄(北海道大学外国語教育センター非常勤講師)

わたくしがEUレベルの動向を概観した上で、ヨーロッパ各国労働法の専門家の皆様が、EU労働法指令の各国労働法への影響について解説しています。

大内先生は、イタリアのことはイタリア人の方に任せて、解題を書いておられます。

スペイン担当の大石玄さんは、左下にリンクしている「博物士」さんであることは皆様ご存じの通りです。

なお、特集以外では、労務屋さんこと荻野勝彦氏の書評が注目です。

読書ノート

小嶌典明 著 『職場の法律は小説より奇なり』

荻野 勝彦(トヨタ自動車株式会社人事部担当部長)

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厚生労働白書は「自立支援」がテーマ

本日、厚生労働白書が公表されました。これは労働経済白書が現状分析白書であるに対して政策周知白書ですので、労働社会政策の方向性がくっきりと見えてきます。

http://www.mhlw.go.jp/za/0825/c04/c04.html

第1部 暮らしと社会の安定に向けた自立支援

第1章 暮らしと社会の安定に向けた自立支援(1~16ページ(PDF:1,881KB))

第1節  自立した生活の経済的基盤のためのセ-フティネット
第2節  個人の自立を取り巻く環境の変化

第2章 様々な場面における、個人の自立と社会の安定に向けた取組み

第1節  若者の自立支援(17~37ページ(PDF:2,728KB))
第2節  高年齢者の生活と雇用の安定のための支援(38~42ページ(PDF:553KB))
第3節  障害者の自立支援(43~60ページ(PDF:2,317KB))
第4節  障害者の自立支援(43~60ページ(PDF:1,745KB))
第5節  非正規労働者で生活困難に直面した人々等に対する支援(76~91ページ(PDF:1,891KB))
第6節 生活困窮者の自立支援(92~104ページ(PDF:1,674KB))

第3章 まとめ(105~106ページ(PDF:255KB))

という構成ですが、まとめのところを見ておきましょう。

>働くことにより生活の安定を得て自立するということは、本人が生きがいを持って豊かな人生を送れるようにすることはもとより、我が国の経済活力の源である。また、自立した個人が社会保障の支え手となることを通じて、我が国社会の持続的発展が可能となる。

昨今の経済情勢の下で、かつてないほどに様々な人々が自立困難な状況に置かれている。社会的支援を必要とする人々にとって、生活の自立及び就労による自立は重要であるが、自立をめぐる状況は一層厳しいものとなっている。また、若者の雇用をめぐる状況も厳しく、非正規労働者についても契約解除や雇止めが急増し、生活困難に直面する人が増加した。

障害者や母子家庭の母等については、これまでも、雇用施策と福祉施策が相まって、経済的な支援を含めた生活面での支援を行いながら、意欲と能力に応じた就労を目指すための支援を行ってきたところであるが、例えば住居等の生活基盤を失った離職者に対しても、就職して自立するためには雇用面での支援と生活面での支援が両面から必要になってきている。生活困難に直面した場合に、生活に困窮してしまわないうちに、雇用施策と福祉施策が相まってセーフティネットとして機能することは、社会保障の重要な役割であり、人々が自立できるようにするための支援として欠かせないものとなっている。

この考え方を思いっきり粗雑かつ政治的に正しくない言い方でいうと、「自民党が他の無責任な野党と違うのは、大事な税金を、働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」となってしまうのですが、もちろんきちんと丁寧な言い方をすると、

>人が生きていく上で、様々な理由で自立が損なわれるような状況になる場合がある。昨今の厳しい経済情勢は、多くの国民の生活に影響を与え、人々が就労し、自立して生きていくということに大きな困難を与えている。

人々が生活困難に直面した場合に、生活に困窮してしまわないうちに、雇用施策と福祉施策が相まって直ちに支援の手が差しのべられ、自立を維持できるようにすることがセーフティネットの重要な役割である。

雇用施策や福祉施策は、こうした機能を果たしてきているが、今後も一層充実させ、強化していく必要がある。

国民一人一人が、生活基盤を確立し自立することは、持てる能力を発揮することを通じて生きがいにつながるものであるとともに、我が国の経済活力の維持にとっても重要である。

個人が生活困難に直面したり、生活に困窮したりした場合に社会保障がセーフティネットとして機能し、個人が持てる力を発揮できるようにしていく必要がある。

このことを通じて個人の自立が支えられ、自立した個人の支え合い、連帯により社会保障が支えられている。

これこそが「自立支援」なのです。

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寺田盛紀『日本の職業教育』

32283577 寺田盛紀さんの『日本の職業教育 比較と移行の視点に基づく職業教育学』は、淡々として記述の中に、この問題を考える上で必要な情報は漏れなく盛り込まれていて、とても有益な本だと思います。

私は、労働法政策の観点から、もっぱら制度の動向や労使などいろんな関係者の見解を中心に調べてきたので、とりわけ第2章の職業教育の理念・思想をめぐる流れは新鮮でした。教育界の方々にとっては逆なんでしょうけど。

日本学術会議の接続分科会で田中萬年さんがちらと喋っていた宮原誠一の生産主義教育論というのは、

>「日本は新しい憲法の下にアジアにおける平和な産業国、とりわけ製造工業国として独立しなくてはならない」そのための「基礎的な力を青少年に養わせることが教育の任務である。そうした教育が、消費生活ではなく生産生活を中心に、そして労働から遊離した階層ではなく労働する国民大衆の必要を中心に、計画されなければならない」

というようなことを言っていたんですね。

ところが、高度成長期の勝田守一の議論というのは、これは今日に至るまで教育学界に大きな影響を与えているのだそうですが、

>職業は人を孤立させる。・・・・・・徒弟的な訓練は、機械の一部としての単純労働の技能に過ぎなくなる恐れがある。

と、「端的にいえば職業(教育)否定の「人間的価値論」」を示し、「ルネッサンス的(人文主義的)教養理念」を称揚するものだったのですね。しかし、寺田さんが的確に批判しているように、

>およそ特殊化されない労働は少なくとも企業社会には存在しない。組織社会のほとんどの人間は、仕事の範囲がさまざまであっても、分割された職業労働を担い、その中で人間形成を遂げているのである。

こういう職業教育否定論が、拙著139ページでちらりと触れた日教組(正確にはその附属機関の国民教育研究所)の教育多様化批判論の根っこにあったのでしょう。

そして、ここで拙著の文脈にむりやりに引きつけてしまうと、こういう「特殊化されない労働」を称揚する職業教育否定論と、ジョブなきメンバーシップ型の日本型企業社会のあり方とが、見事に共鳴して、「官能」中心の採用システムの源泉ともなっていったというあたりが、世の中の皮肉なところと言えそうです。

本書の内容は以下の通り。

職業教育の概念と対象—職業教育研究は何を問題にするのか
職業教育の比較史—ドイツ・欧州と日本
職業教育の理念・思想—人間形成目的と経済目的の関連
職業教育の分析・評価と国際比較—2つの歴史軸と3つの構造次元
高校職業教育の目標と教育課程—就業生活との緩やかなレリバンス
高等学校における産業現場実習と職業教育—戦後高校教育の変動要因との関連で
高校職業教育と職業・就業の関連構造—就職関係における密接な関係
高等教育における職業教育—日本・アメリカ・ドイツ
企業における人間形成と教育—OJTの職業教育学的検討
職業・技術教育職の教員・指導員論—職務と養成システム
職業教育改革論—デュアルシステムとキャリア教育との関連

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電機連合の賃金政策

昨日、都内某所で某プロジェクト。

後半は拙著にもとづく均衡処遇論をめぐってですが、前半の電機連合の第6次賃金政策の話が面白かったです。

本ブログでも取り上げた日経社説ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-6548.html(日経社説に電機連合の賃金政策)

社説の標題は「正規、非正規社員の壁を崩す電機連合」となっていましたが、実は日経の記者に喋った大部分は、社説にも出ていますが、「職種基準による個別賃金要求方式」の中身で、電機連合モデルによるスキル・能力基準の設定などを説明し、「最後の1,2分くらいで非正規の話をしたら、それが中心の記事になっちゃった」んだそうです。

まあ、マスコミ的には賃金制度のあり方という形よりも非正規問題という切り口の方が「ウケ」ますからね。ていうか、このプロジェクトもそういう切り口なわけですが。

それはともかく、この第6次賃金政策の資料を読んでいくと1967年の第1次賃金政策以来の賃金制度モデル(基本給体系)が説明されていて、戦後日本の賃金制度論の観点からも大変興味深いものがあります。

この第1次賃金政策における「職種別賃金」とは、「どのような企業で働いていても、どんな仕事をしていても、社会的に一人前と見なされる年齢に達していれば、標準世帯を維持するに足る最低生活費が保障されるだけの水準を横断的に決め、その上に職種に応じた適切な格差で金額を積み上げるもの」とされていました。家族形態が変わってきてますから「標準世帯」とか古めかしく感じられるところもありますが、ある意味で今日的課題と通ずるものもあるように思われます。

考えてみれば賃金制度論とは生活保障の原則と労働対価の原則という2大原則の間でどう折り合いを付けるかという問題でありつづけたわけです。

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2009年8月24日 (月)

安原宏美さんの拙著書評入り口

「女子リベ」の安原宏美さんが、遂に満を持して拙著の書評を始められました。

http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10327219923.html

安原さんに書評していただけること自体心躍る思いがします。

かなり長いエントリですが、是非リンク先をお読みください。

書かれた私が感動しています。

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mcguinnessさんの書評

mcguinnessさんの「Curiosity Diary」で、拙著を取り上げていただいています。

http://ameblo.jp/mcguinness/entry-10324294459.html

>労働関係最強ブロガー(と前々から思っていたら、本書のあとがきで著者が自称?されてましたね。。)、hamachan先生の新書。

たらーり、たらーり・・・。いやまあ、岩波新書のあとがきで自分のブログを宣伝したのは私が初めてだったりして・・・。

>岩波新書なので仕方ないのかもしれないが、随所にもう少し分かりやすい論理図解、概念図解を入れると良いのに・・・と思った。せっかくの内容だが、文章だけで読んで、この論理や因果関係を頭に収めることが出来る人は限られると思うので。ちなみに、自分は図解メモを作りながら読んだ。

申し訳ありません。別に岩波新書だからではなく(担当の方からは、もう少し「絵」を入れられないか、と言われました)、私にその能力がなかったからです。

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後藤和智さんの短評

『POSSE』第4号の「なんともはや」鼎談で相当にディスカレッジされた後藤和智さんが、ご自分のブログ「後藤和智の雑記帳」で、「選挙「後」の青少年関連政策を考えるための5冊+α」の中で、拙著を取り上げておられます。こちらも短評。

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/memo/2009/08/5-c291.html

>労働環境に関する制度、及び法律的問題を考える上での基礎的書物であり、なおかつ現時点で最高の書物。

ありがとうございます。

なお、この5冊とは、

・後藤和智『「若者論」を疑え! 』(宝島社新書)
・苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書)
・濱口桂一郎『新しい労働社会』(岩波新書)
・田中秀臣『雇用大崩壊』(NHK出版生活人新書)
・山野良一『子どもの最貧国・日本』(光文社新書)

+αとは、

飯田泰之ほか『経済成長って何で必要なんだろう?』(光文社)、

今野晴貴『マジで使える労働法』(イースト・プレス)

ついでに、『POSSE』鼎談のトラウマでしょうか・・・、

>「実存的解決」だとか「革命」とか「精神的貧困の解消」だとかと比べていまいち人気がないのが「既存の学術的手法や法律の活用」。少なくとも経済問題や労働問題の解決に関してはこれより効果的なものはないと思うのだが。これも精神の貧困というものだろうか。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/posse-f863.html(『POSSE』第4号つづき)

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根本的なところで異議があるが・・・

「未来の読書ノート」さんの拙著への短評

http://blog.goo.ne.jp/f_mirai/e/365bae01d9af641df8fc60eccc5a45d1

>本書について、根本的なところで異議があるが、いくつか参考点はあった。

根本的に意見の対立する方にも「いくつか参考点はあった」といっていただけることは、根本的に意見の一致する方に「全面的に参考になった」と言われる以上に、有り難いことだと考えています。

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2009年8月23日 (日)

「不機嫌な職場」の不均等な職務構造

『労働基準広報』などを出している労働調査会のHPの「労働あ・ら・かると」というコラムで、大野正和さんが「「不機嫌な職場」の不均等な職務構造」という興味深いエッセイを書かれています。

http://www.chosakai.co.jp/alacarte/a09-08-2.html

>かつての上司は、「仕事というのは、言われたことをやるだけでなく、言われてないことをやることだ」と部下に諭したものだ。日本の企業では、仕事の責任範囲が曖昧で人の能力やその時々の状態によって変化をさせることが多い。

 この曖昧さは欧米企業と対比するとわかりやすい。欧米企業は職務を中心に組織が組み立てられている。この職務により評価や報酬も決められており、必要なスキルも明らかになっている。人事、組織が職務を中心に運営されている。

 その一方、日本企業は上記の例のように責任範囲を曖昧にし、人の能力や実態に合わせ、責任範囲を伸び縮みさせる方法で組織を運営している。

これは拙著の序章で述べたジョブ型とメンバーシップ型の話ですが、これが成果主義の導入で、

> 「あなたの仕事は何なのか? あなたの成果は何なのか?」

 これは従来の曖昧さを出来る限り排除し、個人個人の仕事をはっきりとさせていった。成果主義とは、これらを全社的に問いかける運動だった。この運動は、曖昧さによる問題が大きくなっていた日本企業にとっては、非常に有益な「成果」をもたらした。

 ところが、ここに大きな問題が生じてきた。

と、とりあえず評価した上で、こういう問題が生じてきたと指摘します。

>それは、旧世代は仕事の範囲が曖昧であったが、曖昧であったがために自分の仕事の前後工程や関連工程を常に意識し知る必要があった。その結果、自分の仕事をしていても、受け手の状態を考えながら自分の仕事の調整をする、お互いの仕事の間に落ちそうな状態を事前に察知して手を伸ばすなどの行動が自然にとれていたのである。曖昧なるがゆえに、個人間のつながりが強化されていたのである。

 その一方、その状態を知らない新世代に変わるにつれ、自分の仕事の範囲しか知る必要がない状態でよしとされたため、個人間のつながりが極端に悪くなってきた。「あなたの仕事の範囲はこう。期待する成果はこれ」と言われてきたら、その範囲に集中すればよいと考えることが当然となる。

 こうして世代が移るにつれ、前後工程への理解や意識の度合いが減り、仕事は分断されてきた。さらに、「それは私の仕事ではない」状態が蔓延するにつれ、自分と他者との間に落ちるような仕事に対し、手を差し出すということが減り、日本の会社の強みであった「すりあわせ」「柔軟な協力体制」に綻びが生じてきた。それが昨今、頻発する品質問題などのベースにある組織問題である。

とりわけ、重大なのは、それが不均等な形で現れることだと大野さんはいいます。

>もともと柔軟な職務構造では、各人の職務範囲や内容に重なりの部分が生じ、誰の担当かがはっきりしない領域が多い。柔軟さ(フレキシビリティ)とは、「曖昧性」をもった領域をつないでいく「人と人との間」のコーディネーションなのである。だからこそ、型にはまったフォーマルな職務ではなく、人柄や人格といわれるような人的要素が必要になる。

 「境界の柔軟性」とは「どこで自分の仕事が終わり他人の仕事が始まるか」がはっきりしないことである。そこには、「自分の仕事」と「他人の仕事」の「明確な」区分ができない曖昧さがある。欧米の職務構造では、明確な区分があるから「それは私の仕事ではない」というのが自分の仕事分担を守る言葉となる。それが、インフォーマルな仕事を「拒否する」根拠となるのである。

 自分の仕事と他人の仕事の境界線が不明確であるとき、その境界線上の仕事はどちらが分担するのだろうか。いちばん望ましいのは、お互いの忙しさに応じて臨機応変に両者が仕事を分かち合うことだろう。逆に両方が何もしないことも考えられる。

>わたしは、職務の明確化そのものには賛成である。問題は、それを誰がどのように推進していくのか、その過程の混乱をどのようにくい止めるのかにある。場合によっては、一方的に負担を背負い込む一部の人たちがますます増える結果になるかもしれない。

職務の明確化にともなって誰の分担でもない仕事領域が広がり、結局はその部分を配慮性の強い人が抱え込む可能性があるからだ。曖昧な自分がそれに抗しきれるだろうか。まだまだ検討すべき余地があるだろう。

わたしは、これは仕事のやり方自体はジョブ型にしないまま、人件費抑制を目的に成果主義を導入してしまったことのツケだと思います。

企業の仕事のスタイルは未だに明確なジョブ記述に基づいて各人の任務のデマケがはっきりしているなどという情況では全然ありませんし、そもそも成果主義を導入した幹部たちにもそんな意図はかけらもなかったのでしょう。

ところが、成果主義でやるからと書かれた目標に照らして短期の成果で評価していくことになると、評価されるように表面だけジョブ型風に行動することがその側面だけでは合理的になってしまいます。それでは実際の職場は回らなくなるので、気配りの効く人ほどそこを抱え込むことになり、へとへとになって、しまいに鬱病になっていっている、というのが大野さんの見立てであるわけです。

実際には職務の明確化が進んでいるわけでもなくて、職務構造は曖昧なままだと思います。本当にジョブ型の構造になったのなら、「誰の分担でもない仕事領域が広が」ったりしているはずはありません。そういう曖昧な仕事領域は従前通り広がっているにもかかわらず、成果主義に適応して勝手に自分の責任範囲を明確化してしまった者がそうできなかった者を搾取しているという情況でしょうか。

いずれにしても、大変興味深い、いろいろとものを考えさせるエッセイです。

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Yahoo掲示板ルート134さんの書評

Yahoo掲示板で、ルート134さんが拙著『新しい労働社会』について丁寧な書評をしていただいています。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835561&tid=l5edegia4nb8badfa4ka4da4a4a4f&sid=1835561&mid=7144

各章ごとにご意見を頂戴していますので、簡単にコメントしておきたいと思います。

>序章は、我が国の雇用構造を概観した記述です。
 概ね納得できますが、我が国の雇用構造の特徴が、我が国の就業が原則として「人に職をつける」ということに原因すること、及び我が国の労働組合のほとんどが企業別労働組合になったことは、二村一夫氏や野村正實氏が指摘されるように、我が国はヨーロッパと異なり同業組合(いわゆるギルド)がほとんどなく、産業(職種)別の労働組合につながらなかったことにも言及していただきたかったと思います。

ご指摘はまったくその通りですが、序章はそれ自体は政策論を論じた部分ではなくその前提になる部分ですので、政策を簡述した新書本という本書の性格上、歴史記述にあまり踏み込む余裕はなかったとご理解いただければ。

まあ、ご指摘の点をはっきり書いておけば、日本の労働組合をギルドだと決めつけた一知半解氏がその誤りを摘されて逆上した件の構造がくっきり浮かび上がったのでしょうが、そこだけ書くわけにもいきませんしね。

日本の労務管理の歴史的展開については、わたくしのホームページに自分なりにまとめたものがありますので、ご参考にしていただければと思います。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrm.html

>第1章は、正規従業員の働き過ぎの問題について論じられています。
 いわゆる「名ばかり管理職」や「ホワイトカラー・エグゼンプション」についても、報道されているような残業代云々という問題ではなく、過大な労働時間から労働者をどうやって守るかという視点で論じられています。
 また、我が国では経営悪化や業務縮小による整理解雇には厳しい規制があるのに、労働者の個人的な事情による解雇については規制がないことの指摘もあります。
 目を引くのは、終業から次の始業までの時間である休息時間を連続11時間とする規制が提案されていることです。休息時間の確保規制については、電機労連(現:電機連合)の元中央執行役員、グローバル産業雇用総合研究所所長である小林良暢氏も、『なぜ雇用格差はなくならないのか』(日本経済新聞出版社)で指摘されています。濱口氏の問題意識は小林氏と共通しているようです。

小林良暢さんとは様々な点で問題意識が共通していると思っております。この休息時間の問題については、わたくし、小林さんに加えて、旧労働省出身で関東学園大学にいかれた田中清定さんも以前からその導入を主張しておられます。

>第2章では、いわゆる派遣労働者など非正規従業員の問題について論じています。いわゆる偽装請負問題については、戦前の工場法で定められた使用者責任や建設業に関する労働基準法第87条で定められた元請の労災保険料支払責任を、製造請負に関する規制のない現状と対比しています。
 派遣労働については、労働組合の労働者供給事業や臨時日雇型有料職業紹介事業と比較して論じています。
 私は、登録型派遣禁止や製造業派遣禁止に対する濱口氏の批判には、異議があります。なぜ直接の有期雇用に限定してはならないのかという説明がないからです。
 しかし、有期労働の規制や、有期労働者にも勤続期間に比例した待遇を義務付ける期間比例原則の導入には、私も賛同いたします。

派遣の問題は各方面から異論を頂戴しているところですが、「派遣が悪いから派遣を規制さえすればよい」という思考停止の恐ろしさを、政治家もマスコミ諸氏ももう少し意識してほしいという思いは変わらないところです。非正規の均等待遇については、そろそろ連合も本格的な動きが始まりますので、わたくしの提起も意味を持ってくるのではないかと思っています。

>第3章では、勤労貧困者(いわゆるワーキング・プア)問題から入り、生活給や職業教育訓練について言及されています。
 生活給の問題については、わが国で非正規従業員が増え、生活給の前提条件である内部労働市場から外部労働市場の時代に移っていることを考えると、生活給主義の維持は難しくなるでしょう。
 職業訓練については、濱口氏はヨーロッパの複線型教育制度を念頭に入れ、外部労働市場に対応することを考えていらっしゃるようです。しかし、産業構造の変化や雇用の流動化を進めようとすると、特定の職業教育を受けた人は却って不利になるのではないかという懸念が残ります。現にヨーロッパは我が国よりも失業率が高いのは、専門の職業教育による就職の硬直化と無関係ではないと思います。
 また、我が国の最低賃金がヨーロッパに比べて著しく低い現状が変わらない限り、職業訓練の効果は薄いという問題が残ります。

教育システムと職業教育の問題は、すでにcharisさんの書評でも取り上げられたように、重要な問題です。新書本という性格上あまり詳しく書いておりませんが、あくまでも「即戦力」というよりは長い職業人生に有用な基礎的職業教育という観点が必要なのだと思います。

>第4章では、労働条件の変更における労働者の代表組織の在り方について論じています。濱口氏は、現実の労働組合が正規従業員だけの組合である現実を認めたうえで非正規労働者を含めた労働者代表機関をどうするかについて、企業別組合に可能性を見出しているようです。しかし、私は、労働組合とは全く別の、設置義務及び議決権のある労働者代表組織を設けるべきでしょう。労働組合の設立は任意であり、複数の組合が乱立している場合、特定の労働組合が労働者を代表しているとは言えないからです。

これも、金子良事さんが全く別の視点から異論を唱えておられるように、まさにコントロバーシャルな点です。わたくしの議論は、本ブログでも書いたように、現実を踏まえてあえて矛盾する議論を提起しているところに特徴があります。

この点を簡潔に説明したエントリがこれです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-ea62.html(迷跡目録さんの書評)

>濱口氏は労働法制の歴史と制度趣旨をきちんと踏まえたうえで労働問題を論じており、この本はお勧めできる本です。

このご評価は、まさにわたくしにとって我が意を得たりというべきものです。ありがとうございます。

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2009年8月22日 (土)

自営業主にとって最賃引き上げは望ましい件

和歌山で珈琲店を営んでおられる江川さんが、そのブログで最低賃金の引き上げを歓迎しています。

http://blog.goo.ne.jp/ekawa1024/e/5f680f42086e86f0663fe3f709e90523(最低賃金1000円)

>理論的には、失業は、労働という商品の需要と供給の問題ですから、最低賃金を1000円にしたりして、賃金の伸縮性を奪ってしまえば、失業が増大するということなのですが、この考え方には、どうしても同意できません。

経済が停滞しているので失業が発生しているのなら、内需を拡大させるなどして雇用を確保するのが、政府・行政の仕事だと考えるわけです。
最低賃金で一生懸命に働くよりも、生活保護で生活する方が生活が楽になるという矛盾を解決するのが、政府・行政の仕事だと考えるわけです。

>自己雇用者(個人の自営業者)の場合、普通の労働者の2倍~3倍働くことで、人並みか、それよりもちょっとだけ多くの収入を得ていたのですが、平成になってからのデフレ経済と優秀な低賃金労働者が増加した影響をもろに受けていて、「働いても、働いても、我が暮らし楽にならず」の状態になってしまっています。

ということで、法律で定める最低賃金が上昇すればするほど、個人の自営業者の収入も、それに連動して上昇するはずですから、今、巷で話題になっている最低賃金1000円という話は、個人の自営業者としては歓迎すべき話です

ちょっとかっこよすぎるかな?と感じるかも知れませんが、もう一つのエントリを読むと、自営業主が最賃引き上げを望む気持ちが明晰に書かれています。

http://blog.goo.ne.jp/ekawa1024/e/99dae1ece5d706f7f615a5330042d437(最低賃金)

>私のように零細な独立自営業者、10年も前なら、別に経営方法についてあれこれ考えなくても、会社勤めをしている人の倍働けば、普通の生活を楽しむことができる収入を得ることができました。
会社勤めをしている人の倍働くことで、人を雇用している事業者よりも、コスト的に簡単に優位に立てたわけです。
 
現在はどうかというと、零細な独立自営業者は、人を雇用している事業者に、コストだけで対抗することができなくなっています。
何故かというと、事業者側の人件費コストが低下してしまったからです。
 
最低賃金を引き上げると、事業者が人を雇用しなくなるという意見もありますが、人海戦術を採用している事業所の場合、人を雇用しなければサービスのレベルが低下するだけですから、競争力が無くなってしまいます。
競争力を維持しようとすれば、人の雇用を中止することができないと思います。
 
そうすると、我々零細な独立自営業者も、ある程度、息をつくことができるわけです。

零細自営業者は、法律上労働者の賃金ではないが経済学的には人件費である自己労働コストを合法的に最低賃金以下に下げることによって、価格競争力を獲得しているわけですから、最低賃金が下がれば下がるほど、自営業者の生き残る余地は限りなく少なくなっていくわけですね。

世の中には、最低賃金反対、労働者保護はことごとく廃止せよといいながら、その同じ口で脱サラ自営業開業を推奨する奇妙な方々もいますが、零細自営業者のサバイバル戦略という観点からは、雇用労働者の労働コストのみを高めに維持しておくことが望ましいということになるわけです。

逆に、労働者保護の観点からは、自営業者の自己労働コストを無規制のままにしておくとそれに引きずられて最低賃金も上がらない、という議論がこれは昔からありまして、そこで雇用労働者の最低賃金だけではなくて、家内労働者(内職)の最低工賃も規制せよという話になってきたという歴史的経緯があるわけです。

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八代先生&依光先生 on 経済財政白書&労働経済白書

今朝の朝日では、HPには掲載されていませんが、「非正規雇用どう考える 経財・労働両白書を読み解く」という興味深い特集記事が載っています。

>今夏に政府が出した二つの白書は対照的な内容になった。内閣府の経済財政白書は、非正規雇用の存続を前提に、景気回復が格差解消につながるとする。一方、厚生労働省の労働経済白書は、正規雇用の拡大による所得の向上が重要だという。・・・両白書を2人の識者に読み解いてもらった。

というわけで、経済財政白書側に立って労働経済白書を批判するのが八代尚宏先生、労働経済白書側に立って経済財政白書を批判するのが依光正哲先生という役回りになります。

本当は、内閣府の西崎参事官と厚労省の石水調査官のガチンコ対決というのが実現すれば大変面白いところだったのでしょうが、まあさすがにそういうのは難しいようで、両先生による代理戦争ということになったようですが、その分、白書の対立点を超えた面白い論点も出てきています。

とりわけ、八代先生の次の一節は重要です。

>不況期の解雇リスクが高まるという現実を受け入れた上で、労働行政も変わるべきだ。現在は判例で正社員の解雇が難しいが、それは労働組合が支援できる大企業の場合だ。大多数を占める中小企業では、正社員の解雇は容易になっている。今後は法律で解雇の補償条件を明確にし、企業規模で大きな差が出ないようにする必要がある。

>また、解雇される可能性を前提にする以上は、雇用保険や職業訓練の拡充は不可欠だ。未熟練労働者をきちんと訓練する派遣会社は育てた上で、法律違反の企業は厳しく罰しないといけない。

これらについては、私もまさにそう思います。ただ、八代先生が政策形成の中枢におられた頃は、既存の規制を緩和することに精力が集中されて、こういったことはあまり語られなかったように思いますし、八代先生と同じ陣営にいると思っている人々はそこまで深く考えることなく、単純に規制は全部撤廃して保障もなくせばなくすほど世の中はうまくいくと脳天気なことを口走っていたように思います。

まあ、いずれにせよ、単純に裁判所の判例だけでもって日本の解雇規制が厳しいと一方的に断罪する一部の傾向が、こういう冷静な発言によって反省するきっかけになるならば望ましいことでしょう。

これもひとつの「大企業枠を外せ!」ということかも知れません。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-55.html

一方、依光先生も、

>長期雇用に立ち返っても、昨秋以降のような経済危機になれば、企業は雇用調整を行わざるを得ない。非正社員がいなければ正社員にリストラの波が及ぶのは必至で、長期雇用化ですべてバラ色の未来が開けるわけではないが、それでも、ずっと時給千円の非正社員という状態よりはいい。

と、問題の本質が解雇規制と雇い止めそれ自体によりも、長期的な雇用労働条件の格差の固定化にあることを指摘しています。

>結婚や出産、子どもの教育を含め、長期的な視野に立った人生設計ができなければ、内需拡大はあり得ない。

その目標をどういう政策手段を用いて実現していくかこそが論ずべき最も重要なポイントであるはずなのですが。

その一つの提起が拙著第3章であるわけです。

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やったもん勝ち・・・再び

政治家やマスコミ人が派遣事業自体がけしかるかけしからんかという議論にうつつを抜かしている間に、そのギョーカイは凄惨なことになっているようです。

そのギョーカイの人が書いている「雇用維新」というブログで、

http://ameblo.jp/monozukuri-service/entry-10323706728.html

>派遣改正の問題やら、偽装請負の問題やら、09年問題やら…。

ぜんぜん根本の問題に触れてくれないので、市場では再びやったもん勝ちの様相を呈してきた( ̄_ ̄ i)

働く時間帯変更したら、抵触日はリセットされる…。

同じ作業だけど多少作っているものが変わったので、リセット…。

同じ作業でも、派遣会社変更でリセット…。

こんな事例が増えている( ̄□ ̄;)

むちゃくちゃです

しかもメーカーが条件を出し、これができるなら契約という流れが出来始めている。

コンプライアンス意識の高い派遣会社や、派遣の今後を悲観して廃業する会社とは、正反対に「儲かってしょうがない」…そうだ(`・ω・´)

下手にコンプイアンスなどと言わず、メーカーの使い勝手のいい業者となり、利益だけを求める…。

そういう業者が求められている現実が再び市場にある。

それでいいのか

そんなんで胸張って生きれるのか

…と言ったところで、そんな会社のオーナーが、羽振りいい姿を見たらどう思いますか

しかも肝心のユーザーが都合のいい方を選ぶ…。

いつかは摘発されるにしても、それまでは儲け放題、やり放題。

最悪処分されたところで、やり方はある。

これが今の派遣問題の元凶だ。

ニーズがあるからギブがある…ではなくニーズがあっても、それに義がなければギブできないようにしなければ意味はないのではないのだろうか

今苦しんでいるのは、むしろ志し有る業者の方だ(T▽T;)

こういう実態をどうきちんと規制していくかという問題意識をオピニオンリーダーの人々も持つ必要があるでしょう。

いまの派遣論議は、資本主義がけしかるかけしからんかばかりに関心を集中して、その資本主義のもとで働く労働者の実態には何の関心もなかった昔の社会主義者に似たところがあるように思いますね。

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だからそれは本当の争点じゃないって

今朝の朝日の《にっぽんの争点:雇用》は「派遣規制 日雇いだけか」と、いかにも派遣「事業」を事業規制することが労働問題の争点であるかのような、いまの政治の奇妙なずれた争点をそのまま映し出していますね。

http://www2.asahi.com/senkyo2009/news/TKY200908220043.html

>自民党は「行き過ぎた市場原理主義とは決別する」(麻生首相)と表明したが、派遣の規制についての言及は、雇用期間が30日以内の日雇い派遣の原則禁止にとどまる。

>対する民主党は・・・・・社民、国民新党との共通政策では、日雇い派遣の全面禁止に加え、仕事がある時だけ雇用契約を結ぶ登録型派遣や、製造業への派遣を原則禁止するなど、与党より強い派遣規制を掲げた。

両党にとって争点は派遣事業というギョーカイ規制の程度であって、派遣労働者の雇用労働条件をどう改善していくかという問題意識は、

>連立与党を組む公明党が、派遣会社が得る手数料を規制し、派遣先の賠償責任を強化することなどを掲げているのと比べても、経済界への配慮がうかがえる。

公明党の方にしっかりとあるようです。

それはそれとして、記事の中で未だに

>86年、通訳など専門業務に限定する形で始まった派遣は、99年には対象業務が原則自由化され、04年には製造現場への派遣も解禁された。

だから、そういうインチキなものの言い方はいい加減やめるべきだと何回言ったら・・・・。派遣法を24年前に作ったときの意図は、それまで事務処理請負業と称していた一般事務の派遣をファイリングというユーフェミズムのもとに専門職だとごまかして認めることであったことは明白であるわけで。

派遣法ができてから99年改正でネガリスト化するまで、派遣労働者の大部分は通訳だったとでも言うの?そういうインチキな前提で、専門職限定などという空疎な議論を展開するから、派遣をめぐる議論はことごとくインチキな議論になるのですよ。

この辺、拙著85頁から詳しく論じていますので、いまの派遣議論のいい加減さに耐えられない人は是非じっくりとお読みいただきたいと思います。

この記事の中で一番まともなことをいっているのが、

>期間従業員やパートなど、派遣以外の有期雇用をどう位置づけるのかという課題も残る。06年に偽装請負が問題になった時には、多くの企業が請負から派遣に切り替えた。派遣を規制しても、請負など別の不安定な働き方に変わるだけならば意味がない。派遣ユニオンの関根秀一郎書記長は「不安定な雇用全体を視野に入れた制度設計が必要だ」と指摘している。

というのが悲しい。政治家のみなさんも少しは労働問題をまじめに(本質にさかのぼって)勉強してほしいところです。

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2009年8月21日 (金)

幸福実現党の応援団に福井秀夫氏

Lib_face_200909 幸福の科学の機関誌「ザ・リバティ」9月号に、例によって福井秀夫氏が登場しています。増田悦佐氏と浜田和幸氏も一緒のようです。

http://www.the-liberty.com/newest/index.html

>衆院選特集
政界三国志
貧乏自民×亡国民主×幸福実現

特集 貧乏自民×亡国民主

増税不況を許すな
◆インタビュー◆
 福井秀夫(政策研究大学院大学教授)
 増田悦佐(ジパング 経営企画室 シニアアナリスト)
 浜田和幸(国際未来科学研究所代表)

福井氏は、近年とみに規制緩和路線を撤回しつつあるように見える「貧乏自民」よりも「幸福実現」に期待しているということなんでしょうかね。

本ブログでも、福井氏と幸福の科学のつながりについては、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_8643.html(集団カルト経済学)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-a3f2.html(幸福実現党)

何回か触れてきましたが、正直いって、よくこの「党」(ていうか「諸派」ですけど)の応援団を買って出る勇気があるなあ、と。

この記事の中身については、

http://demosika.blog35.fc2.com/blog-entry-135.htmlミントの忙中閑あり

というブログに一部引用されていますので、幸福を実現する福井秀夫氏の政策をしばしじっくりと味わってみたいと思います。

>『医は算術』の考え方で医療はもっとよくなる

医療は市場主義になじまないという、変なテーゼが厚生労働省にありますが、これは誤りです。
株式会社は、資本主義の権化などではなく、資金調達の便宜と専門分業化を円滑に進めるための技術的な道具立てです。

医療は、サービス産業の中でも、お金も人手もかかる労働集約型産業の標本みたいな分野です。
多額のお金を調達し、高度な専門人材を集め、それを有機的に連携させるには、株式会社こそ、最も向いているのです。

医は仁術だから儲けてはいけないと言う人がいますが、実際には出た利益を医療法人の理事長とその身内で山分けする権益を守るために、そう言っていることも多いので要注意です。


株式会社にすれば、より患者本位の医療をするところに資金や人が集まるようになります。
さらに医療株式会社が上場すれば、コンプライアンスがしっかりするので、経理面でも運営面でも透明性が高くなります。
コスト削減に努めて経営体質もよくなります。


正面切って、「フェアな市場」にしてしまった方がいいのです。
株式会社にすると金持ちしか相手にしないという人もいますが、それですべての病院の経営が成り立つほど金持ちは多くいません。


むしろ、消費者(患者)に支持される内容と価格にするために切磋琢磨が始まって、安くて質の高い医療が実現するでしょう。

また高度な難病治療を行うところは、今より優秀な人材が集まり、さらに高額の所得を獲得できるはずです。

有権者が見分けなくてはならないのは、改革に反対するのは、農業や医療などの分野で既得権を持った人たちと、彼らと結託した政治勢力だということです。
彼らは少数なので結託しやすく、政治勢力になりやすいのです。

こうした特定の利益集団の影響を受けないようにする必要があります。

一方、医療サービスの向上で利益を得る人、安全でおいしい農作物の受益者は広く全国にいますが、そういう人たちは業界団体がないので、政治勢力にはなりにくいのです。

こうした消費者の利益を守るのはどのような政策なのか。
有権者はそこに目を向けなければなりません。

なるほどね。

ただ、いまのアメリカの政策論争を見れば分かるように、医療制度の本質的問題は医療保険で平等な医療を保障するか、金のある人だけが医療を購入できる社会にするか、という点であるので、医療機関それ自体が医療法人か株式会社かというところにあるわけではありません。株式会社だろうが何だろうが、公的医療保険のもとで保険医療だけをしている限り、別段「金持ちしか相手にしない」ことに合理性はありません。実際、私は株式会社病院を認めないいまの政策に合理性があるとも思えません。

しかし、福井氏の言いたいことはそんなところではもちろん無いのでしょう。公的医療保険のもとでは医療価格は公定制ですから、「消費者(患者)に支持される内容と価格にするために切磋琢磨が始まって、安くて質の高い医療が実現するでしょう」という言い方からすると、病院が自由に価格設定できる自由医療制を前提に語っているように見えます。

福井氏は、もっと率直に、公的医療保険なんていう社会主義経済はやめてしまえと主張すべきでしょう。「シッコ」の世界こそが理想の世界だとはっきり言うべきではないでしょうかね。それで国民がついてくるかどうかは別ですが。

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コールセンター職場が示すもの

JILPTのコラム、今回は前浦穂高さんの「コールセンター職場が示すものとは?」です。

http://www.jil.go.jp/column/bn/colum0129.htm

>最近私たちの身近な職場となったコールセンターであるが、この職場がいくつか問題を抱えていることが明らかとなった。その1つが、非正規比率の高さである。・・・

>しかしここに2つ目の問題が存在する。それは正社員と非正規労働者の賃金格差の問題である。・・・

>3つ目の問題は、離職率である。

さて、どうするかはリンク先をご覧ください。

ここで論じられている問題は、まさに拙著第4章の中心テーマでもあります。

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コンビニ加盟店ユニオン

なお、『労働新聞』の同じ号の同じページに、コンビニ加盟店ユニオンが民主党の小沢代表代行にフランチャイズ法の制定を求める要請書を手渡したという記事も載っていて、加盟店が本部に支払うロイヤリティに上限を設けることなどが含まれているようです。

うーむ、労働組合法上の労働者性の議論にまた一つ大変興味深い実例が加わりました。これからユニオンによるセブンイレブンに対する団体交渉申し入れがされ、「お前らは労働者じゃねえ」といって拒否、労働委員会に不当労働行為の申立、救済命令の発出、セブン側の裁判所への提訴、労組法も労基法も労働者の範囲はまったく変わらないという裁判所お約束通りの取消判決・・・・・・という流れが目に浮かびます。

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電機連合が生産技能労務協会にヒアリング

ピョンヤンじゃない方の『労働新聞』8月24日号に、興味深い記事が載っていました。まだHP上にはありませんが、

http://www.rodo.co.jp/periodical/news/

電機連合が今年度中に「電機産業のものづくりにおけるアウトソーシングのあり方についての基礎調査検討委員会」を立ち上げる予定で、そのための準備として、日本生産技能労務協会の事務所を訪ねヒアリングを行ったということです。

当日は、コンプライアンスの徹底に向けた取り組みや人材育成のあり方、不況期の対応などについて意見を求めるとともに、給与水準や社会保険などを含む労働者の処遇がどういった現状にあるのかについてもコメントを求めた、ということで、生産技能労務協会の方がどう答えたかは記事には載っていませんが、何にせよ、今後の動向が大変注目される動きです。

記事によると、「今年10月以降に開催予定の関連シンポジウムの場で、今回のヒアリング結果や今後の方向性などについて議論する予定」だそうです。

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2009年8月20日 (木)

オベリスク備忘録さんの書評

オベリスクさんの拙著への書評です。

http://d.hatena.ne.jp/obelisk2/20090820/1250758999

>濱口桂一郎『新しい労働社会』読了。副題「雇用システムの再構築へ」。日本的雇用の特徴は、「一種の地位設定契約あるいはメンバーシップ契約」と考えることができるという命題から、本書は多くを演繹的に導いてくるという、これはなかなか変った視点からの本である。議論はかなり専門的で、シンプルな解決策が書いてあるわけではない。もちろん、それが直ちに悪いということではないが、改革の実際については枝葉の議論が多く、大もとの原則は現状肯定的にも見えるのは確かだ。先日読んだ上野千鶴子と辻元清美の本で強調された、「同一労働同一賃金」の原則は、日本の現状に合わないとして一蹴されている。これは理想を説く本ではなく、著者もそれを意図していないだろう。

えとですね、上野・辻元本との違いは、時間軸の短期・中長期とリアリズムの感覚の違いなので、実のところ結構共通するところはあるんですよ。

それはじっくり読むとにじみ出るんですが、卒然と読むと違いばかりが浮かび上がるのです。

この辺、実は面白いんですが、なかなか。

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「きょうも歩く」黒川滋さんの拙著紹介&非常勤職員の時間外手当

本ブログでも何回も紹介している黒川滋さんの「きょうも歩く」で、拙著がちょびっと紹介されています。

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2009/08/post-2.html(非常勤職員だからと残業代を払わないことに是正勧告)

エントリのテーマは江戸川区立図書館の非常勤職員に時間外手当を払わなかったと江戸川労基署が是正勧告したというニュースですが、その話のついでに拙著が出てきます。

>濱口桂一郎さん「新しい労働社会」を読む。何度か読む。全編にわたって自治体の臨時・非常勤職員の課題について考える補助線になる本だと感じた。詳細はまたどこかで書きたいと思う。

はい、よろしくお願いします。

で、このエントリの主たる問題なんですが、一般労働問題としては、非正規労働者に時間給で賃金払っておいて残業代ゼロはないだろ、それは端的に賃金不払いだろ、という話ですね。拙著との関連では、むしろ月給制の正社員に残業代払うのはなぜ?という問題。これはやり出すと止まらない話題なので、ここでストップ。

これに公務員労働法制という得体の知れないものがからみつくとますます訳がわからなくなります。よく問題になる非常勤職員の雇い止めというのは地方公務員にも(なぜか)労働契約法制が適用されない(ことになっている)ことから発する問題ですが(ほんとにそうかは後述の通り大問題ですが)、時間外手当の規定は地方公務員にもちゃんと適用されるので、特別職だろうが一般職だろうが、労働基準法上の労働者である限り、労働基準法がそのまま適用さます。

しかも、このケースの場合、特別職だから労働基準監督署の臨検監督が入ったと思われます。一般職の地方公務員の場合、前に県立奈良病院の事件で取り上げたように、官公署及び教育・研究・調査の事業であれば人事委員会が監督署の職権を行使し、それ以外の事業では労基署が職権を行使するわけですが、区立図書館というのは多分教育・研究・調査だと思われるので、監督するはずの区の人事委員会がそれでええんやと言ってしまう恐れはあったわけですが、幸い(?)特別職なので、原則に戻ってすべて労基署の監督対象になるわけですね。

これは総務省がどんな通知を出そうが出すまいが、そんなこととは何の関係もなく、もともと労働基準法のコンメンタールに昔からそう書いてありますし、それ以外の解釈の余地はありません。それにしても、

>都道府県や政令指定都市などで、非常勤職員のうち特別職と分類される職員に、特別職かつ非常勤職員ということを理由に、時間外手当の支給をしていないケースが少なくない。

という記述からすると、特別職の非常勤は労働者ではないと考えていたということでしょうかね。

わたし個人的には、非常勤職員問題の解決は、今から50年以上前に公務員制度調査会が示した

>現行法上国家公務員とされているもののうち、臨時の業務に従事する者は、国家公務員に属しないものとすること。これらの者は、私法上の雇傭関係に立ち、一年以内の期間を限って雇傭される「臨時職員」とし、国家労務職員とおおむね同一の規制をなすものとすること

というのが一番すっきりすると思っています。現在集団的労使関係法制については労働協約締結権をどうするかという検討が進められていますが、個別雇用関係については訳のわからない公法私法二元論の亡霊がいまだにとりついていて、なかなかどうしようもありませんので、とりあえず非常勤のところだけ私法上の雇用契約に持ってきてしまうのが一番わかりやすいでしょう。

本当を言えば、地方公務員にも現に適用されている労働基準法第2章ってのは一体なんなんだ、任用であって雇用じゃないとか訳のわからんこと言ってるけど、「労働契約」だと法律上書いてあるぞ、といいたいところですけど。

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採用内定労働契約成立説の制度的基盤

ちょっと専門っぽいはなしですが、

大日本印刷事件判決以来、採用内定がすなわち労働契約の成立だというのは冒すべからざる金科玉条となっているように見えますが、そして、拙著でもそれを究極の「ジョブなきメンバーシップ」のみの雇用契約として提示していますが、あらためて元の判決に戻って、なんで「たかが」採用内定が労働契約の成立と判断されたのだろうか、を振り返ってみると、実は教科書の記述には出てこないある事情があったことが判ります。

それは、この事件の原告になった学生が大日本印刷に内定した頃の大学生の就職というのは、今のような「就活」なんてのはなくて、大学の推薦で、しかも高校の一社主義まではいきませんが、「二社制限、先決優先主義」をとっていて、制度的に内定した企業以外にはいけない仕組みになっていたということなんですね。

>上告人は、綜合印刷を業とする株式会社であるが、昭和四三年六月頃、滋賀大学に対し、翌昭和四四年三月卒業予定者で上告人に入社を希望する者の推せんを依頼し、募集要領、会社の概要、入社後の労働条件を紹介する文書を送付して、右卒業予定者に対して求人の募集をした。被上告人は、昭和四〇年四月滋賀大学経済学部に入学し、昭和四四年三月卒業予定の学生であつたが、大学の推せんを得て上告人の右求人募集に応じ、昭和四三年七月二日に筆記試験及び適格検査を受け、同日身上調書を提出した。被上告人は、右試験に合格し、上告人の指示により同月五日に面接試験及び身体検査を受け、その結果、同月一三日に上告人から文書で採用内定の通知を受けた。右採用内定通知書には、誓約書(以下「本件誓約書」という。)用紙が同封されていたので、被上告人は、右用紙に所要事項を記入し、上告人が指定した同月一八日までに上告人に送付した。本件誓約書の内容は、
 「この度御選考の結果、
採用内定の御通知を受けましたことについては左記事項を確認の上誓約いたします
   記
 一、本年三月学校卒業の上は間違いなく入社致し自己の都合による取消しはいたしません
 二、左の場合は
採用内定を取消されても何等異存ありません
 「1」 履歴書身上書等提出書類の記載事項に事実と相違した点があつたとき
 「2」 過去に於て共産主義運動及び之に類する運動をし、又は関係した事実が判明したとき
 「3」 本年三月学校を卒業出来なかつたとき
 「4」 入社迄に健康状態が選考日より低下し勤務に堪えないと貴社において認められたとき
 「5」 その他の事由によつて入社後の勤務に不適当と認められたとき」
というものであつた。ところで、滋賀大学では、就職について大学が推せんをするときは、二つの企業に制限し、かつ、そのうちいずれか一方に採用が内定したとき、直ちに未内定の他方の企業に対する推せんを取消し、学生にも先に内定した企業に就職するように指導を徹底するという、「二社制限、先決優先主義」をとつており、上告人においても、昭和四四年度の募集に際し、少なくとも滋賀大学において右の先決優先の指導が行われていたことは知つていた。被上告人は、上告人から前記
採用内定通知を受けた後、大学にその旨報告するとともに、大学からの推せんを受けて求人募集に応募していた訴外ダイキン工業株式会社に対しても、大学を通じて応募を辞退する旨通知し、大学も右推せんを取り消した。その後、上告人は、昭和四三年一一月頃、被上告人に対し、会社の近況報告その他のパンフレツトを送付するとともに、被上告人の近況報告書を提出するよう指示したので、被上告人は、近況報告書を作成して上告人に送付した。ところが、上告人は、昭和四四年二月一二日、突如として、被上告人に対し、採用内定を取り消す旨通知した。この取消通知書には取消の理由は示されていなかつた。被上告人としては、前記のとおり上告人から採用内定通知を受け、上告人に就職できるものと信じ、他企業への応募もしないまま過しており、採用内定取消通知も遅かつた関係から、他の相当な企業への就職も事実上不可能となつたので、大いに驚き、大学を通じて上告人と交渉したが、何らの成果も得られず、他に就職することもなく、同年三月滋賀大学を卒業した。なお、上告人の昭和四四年度大学卒新入社員については、同月初旬に入社式の通知がなされ、同時に健康診断書の提出が求められた。右入社式は、同月三一日に大学新卒の採用者全員を東京に集めて行われたが、式典は一時間余りで、社長の挨拶、先輩の祝辞、新入社員の答辞、役員の紹介、社歌の合唱等がなされた。式典に集つた新入社員は、その日、式典終了後、卒業証明書、最終学年成績証明書、家族調書及び試用者としての誓約書を提出し、東京で約二週間の導入教育を受けたのち、上告人の各事業部へ配置され、若干期間の研修の後それぞれの労務に従事し、上告人の定める二か月の試用期間を過ぎた後の同年六月下旬に、更に本採用者としての誓約書を保証人と連署して提出し、社員としての辞令書の交付を受けた。上告人における大学新規卒業新入社員の本採用社員としての身分取得の方法は、昭和四四年度の前後を通じて、大体右のようなものであつた。

改めて思うのは、労働契約法というのは純粋の私法ではなく、こういった労働をめぐる社会の制度的枠組みを前提として構築されているものだということです。ところが、教科書的に採用内定とはすなわち労働契約の成立なりとお経を読むように覚えてしまうと、このへんの感覚が却って喪われてしまうのではないか、と思います。

学校のメンバーから会社のメンバーへの移行という組織的なメカニズムを前提とした法理は、そういう限定を付けたものとして理解し、使うのでなければ、たまたまあるシチュエーションにふさわしかった法理をそうでない状況に無理に押しつけることにもなりかねないからです。

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趣旨は正しいが表現が政治的に正しくない舛添発言

なんだか相当に非難されているみたいですが、

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009081902000169.html(「怠けている連中に税金使わぬ」 派遣村めぐり舛添厚労相)

>舛添要一厚生労働相は18日午後、横浜市内の街頭演説で、昨年末から今年1月にかけて東京・日比谷公園に設けられた「年越し派遣村」に関し、「(当時)4000人分の求人票を持っていったが誰も応募しない。自民党が他の無責任な野党と違うのは、大事な税金を、働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」と述べた。

おそらく発言の趣旨は、働こうとする人々、働くために教育訓練を受けようとする人々にこそお金を渡すべきで、働こうが働くまいが一律にはした金をばらまくベーシックインカムみたいな発想は認められない、という趣旨だったと思うんですね。近年の先進国共通の政策動向としてのワークフェアを、いささか大衆迎合的な表現でやってしまったというところでしょう。その意味では、趣旨としてはきわめてまっとうな発言であって、これを非難するなら、どういう社会システムを構想するのか、きちんと示す義務があります。とはいえ・・・。

ただ、それを派遣村批判という形で喋ってしまったのは、いささか政治的に正しくなかったといわざるを得ません。まあ、選挙戦というのは、どうしても表現が粗雑になりがちなんでしょうが、これはやはりまずかった。

>これに対し、派遣村実行委員だった関根秀一郎・派遣ユニオン書記長は本紙の取材に「求人として紹介されたのは確かだが、誰も応募しなかったというのは全くのでたらめ。たくさんの人が応募したが、断られたのがほとんどだ。舛添氏の発言は現場の実態が全く分かっておらず、あきれてものが言えない」と批判した。

ここは、労働と福祉の関係をどのようにつなげるべきか、というきわめて重要な政策テーマが顔を出しているわけで、選挙戦の罵倒合戦の材料にしてしまうのはとても惜しいことなのですが。

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デンマークの労働事情とデンマークモデル

日本にはデンマークの労働問題、労使関係の専門家がいません。

先に紹介した厚生労働省の有期労働研究会でも、ほかの諸国はそれぞれの国の労働の専門家が出てきて説明しているわけですが、デンマークだけは大使館の人で、資料はEUのものでしたね。まあ、(経験上)大使館の人でも自分の国の労働事情がきちんと判っている人もいれば判ってない人もいるわけで、なかなかむずかしいところです。

Isbn9784569709475 日本にデンマークの専門家がいないのかと云えばそんなことはなくて、福祉関係ではデンマークというのはそれなりに人気のある国のようなんですが、例えば最近出たばかりのこの本にしても、アンデルセンの童話をモチーフにして、デンマークの福祉と教育がいかに手厚いかを縷々書き連ねてくれるのですが、それらと密接不可分なはずの労働についてはほとんど記述がなくて、とりわけ、今、世界的にデンマークというのはアメリカ並みに首切り自由な国だと宣伝されていて、だから(それ以外のことは全部切り落として)そこだけデンマークの真似をしようという議論がやたらにされているという状況など全然関知しないかの如く、「世界一幸福」なお話しだけで終わってしまうんですね。

こういう知的断絶状況というのはやはり大変問題があるといわざるを得ません。その隙間に、一般の日本人がデンマークの労働事情を知らないのをいいことに好き勝手なことをほざく変なのがうようよ入り込んでくるわけですから。

先日、OECDの『ベイビー&ボス』総合報告書の翻訳を出された熊倉瑞恵さんもデンマークの福祉が専門ですが、その辺のギャップを埋めていただきたいなと思っています。

今のところなかなか日本語で書かれたいいものがないのですが、これなんかはどうでしょうか。ちょっと古いですが、2003年に当時日本労働研究機構欧州事務所にいた林雅彦さんが書かれたレポートです。

http://www.jil.go.jp/mm/kaigai/pdf/20030314.pdf

特に労使関係に関するところは、フレクシキュリティを論ずる上では必読だと思います。

>デンマークの労使関係の歴史は極めて古い。1800 年代後半、すでに強力な労働組合、使用者組織が結成されていたことにより、非常に早くから、全国労使協約による葛藤の少ない労働市場を有する福祉国家の構築に成功したといえよう。

デンマークの労使関係の特質として、①労使及び政府の三者の協力体制が確立していること、②使用者団体及び労働組合が共に強力な組織で構成されていること、③基本的労働基準にかかわる部分まで労使協約により公権力の介入なく決定されるシステムとなっていること、の三点が挙げられる。

①と③の関係について説明を加えれば、労働分野における課題は、労使及び政府の三者の協力により解決されることを原則としつつ、労使が独自に問題を解決できる限りにおいては、基本的に政府は労働条件に関しては法律による規制をしない点にある。むしろ、法律の形で規制が及ぶ分野は、財政支出が絡む問題(職業紹介、職業訓練、失業保険制度等)、及びごく一部の労働基準に係る部分(労働環境分野)に概ね限定されているといえる。ただし、これらの分野についても、労使協定が及ぶことは言うまでもない。

また、法律により労働分野に規制などが及ぶ場合においても、法案の国会審議・採決に先立ち労使両者のヒアリングにかけられ、三者の協力体制を重視する。

労働組合の組織率が際立って高いことも、デンマークの労使関係における一つの特徴といえる。被用者の労働組合組織率は約75%となっており、先進国の中でも際立って高い水準といえる。

前述のとおり、労使協約は、基本的労働条件をはじめ、労働分野の大部分について最低限の水準を定めるものとして特に重要である。政府の介入なしに、労使で賃金、労働時間を始めとするあらゆる労働条件を決定するため、通常労働法に係る分野についても最も重要な「法源」としての役割を担っており、その点他の欧州諸国とは際立った違いを示しているといえる。

ただし、協約に署名する当事者たる労使団体がそれぞれすべての使用者及び被用者を組織しているわけではないので、労使協約の内容が未組織者に対してどのように適用させるかが問題となる。そこで、使用者団体に未加入の使用者に対しても原則として「任意の労使協約」を締結し、当該分野における労使協約に準じることが義務として課されている。

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2009年8月19日 (水)

外国人労働者の雇用実態と就業・生活支援に関する調査

JILPTの渡邉博顕さんの標題の報告書がHPにアップされました。

http://www.jil.go.jp/institute/research/2009/061.htm

>身分による在留資格の外国人労働者については、たとえば日系人の多くが間接雇用など不安定な雇用形態・低い労働条件で就労しているなど、いくつかの問題が指摘されています。また、外国人労働者の子女の中には不登校・未就学の者が少なくありません。さらに、外国人の高齢化によって生活保護受給申請が増加しているとの指摘もあります。このように、外国人労働者の階層の固定化の進行、日本人との格差が広がることが懸念されています。

このような状況をふまえ、2007年には雇用対策法が改正され、外国人労働者への雇用管理の改善の施策を講じるとともに、事業主に対しても外国人労働者が本人の責めによらず解雇された場合には再就職を援助する努力義務が定められました。

また、「外国人労働者の雇用管理の改善等に関して事業主が適切に対処するための指針」が策定され、労働保険関係法令や社会保険関係法令の遵守など適切な措置を講じることが定められ、さらに、外国人雇用状況報告制度に代わる外国人労働者の雇用状況の届出制度が導入されています。

こうした法制度の変更の後、企業は外国人労働者に対してどのような雇用管理を行い、改正雇用対策法への対応状況はどうなっているのでしょうか。本調査では、こうした点について企業からの聞き取り調査を実施しました。

ところで、本調査を実施している途中段階で、世界同時不況が発生し、外国人労働者の雇用についても深刻な影響があったのは周知の通りです。外国人労働者の場合はもともと不安定な雇用にあったところに雇用保険への加入率も低く、公的セーフティネットでカバーされた者は限られています。そのため、地方自治体、NPO、教会、支援団体などによる生活支援に依存せざるを得なかった者もいました。

本調査では、決して多くはありませんが、こうした点についても注目して、外国人労働者個人に対するアンケート調査や外国人労働者の就労支援や生活支援の状況についても聞き取り調査を実施しました。

ということなんですが、わたくしが興味深かったのは、第7章、第8章で取り上げている外国人の就労支援としての介護人材育成事業というところで、

>日本にいる外国人労働者で介護分野での就労をめざしているのは興行の資格で来日し、日本人と結婚したフィリピン出身の女性が多いこと、外国人介護人材を育成している企業はヘルパー講座と介護分野への人材派遣を併設しているところが多いこと、フィリピン人女性以外の外国人を介護人材として育成している例は相対的に少ないこと、これは教える側の外国語能力の問題と受講生側の職歴、日本語能力の問題、さらに、他の就労機会とそこでの機会費用が関係していること、受け入れる介護施設の課題として、職場の人間関係の問題、施設利用者、利用者の家族から理解を得るかどうかが大きな課題になっていることがわかった。

>日系人労働者がこれまで介護分野で就労することはなかった。製造業での就労機会に恵まれていたからである。そのため、日系人の介護人材育成の環境はフィリピン人女性に比べて必ずしも整っているとはいえない。

といった興味深い事実を示しています。詳しくはリンク先を。

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熟練の社会的構成

何か誤解があるといけませんので念のため申し上げておきますが、私は理論社会学に意味がないなんて一言も言っていません。むしろ、ビビッドな現実感覚と一見抽象的に見える理論社会学をスパークさせると、実に興味深い視界が開けることがあります。

その一つの例が、おそらく一部からは現実離れした理論と思われているかも知れない社会的構成主義が「熟練」「技能」という概念に対して持ちうる意味です。

ちょうど数日前に、nohalfさんがこういうエントリを上げていたのでそのまま引用させていただきますと、

http://d.hatena.ne.jp/nohalf/20090811/p1(熟練の社会的評価(生産性VS賃金、処遇) )

これは、『日本労働社会学会年報』第6号所載の山下充「熟練概念の再検討」の要約ですが、

>1.小池-野村論争の熟練概念を検討し、両者の主張に、熟練が社会的評価や職業と結びつくドイツとそうではない日本との区別があることを指摘している。両者に共通するのは、「労働者の熟練が生産性に貢献する仕組み」「生産の構成要素としての熟練」(118頁)であると指摘している。

2.こうした文脈から少し離れ、熟練が社会的に構成されるとする労働過程論の議論、ジェンダー論の議論を紹介する。熟練の社会的構成論は、「特定の職業集団が社会的制度(徒弟制、クローズドショップ制など等)を活用して社会的閉鎖性を構築することで、自集団の利益を擁護する課程に注目」(123頁)する。制度的熟練が存在している社会では、誰が熟練労働者かという問題が、常に社会的な取り組みとして解決されていると主張する。

3.要するに熟練に客観的な指標は存在せず、あるとしても特定の利害や目的(コンパラブルワースなど)のために社会的に形成されるのが技能そのものである(付言すれば、『資本論』ではこの種の熟練・不熟練について客観的に決まることの限界への言及がある)。だから、熟練は生産性の面から見てもたんに個人の能力という問題だけに還元することはできない。

>以上の論文の内容を自分なりに敷衍すると、これまでの「熟練」論は、野村にせよ、小池にせよ、生産性の問題からのみ接近をしていた。日本的経営ブームという時代的背景もあるだろう。対照的に、この論文で主張されるのは熟練論の他の要素との結びつきである。特に、処遇関係を中心にする関係(賃金、労働組合)などが重視されている。

これは、欧米における「熟練」の扱いと、日本におけるそれの違いが、労働市場の昇進、昇給、処遇構造の違いとなって表れていることを間接的に示しているように思える。すなわち、欧米社会(特にドイツなど)では、「熟練」が社会的に形成される(マイスター制度など横断的な資格制度の発達)ことで、熟練・不熟練の職種の違いが成立が成立し、そのもとで職種ごとの職務賃金(単一レート/範囲レート)が成立する。いわば、「熟練」を基軸として賃金、処遇システムが確立する。

それに対し、日本では、熟練による労働組合規制の不成立、組合による生活保障給の要求、経営側による能力主義を加味した「年と功」賃金による妥協により、職能給制度が広範に成立した。社会的な熟練は存在せず、企業特殊的な熟練のみが形成された。これを小池は知的熟練により説明し、ベッカーらは企業特殊的熟練から説明した。

2006年の論文では以上の点にほぼ無自覚であった。もちろん、論文では、「熟練」を労使間のパワーバランスとして「論証」したことが成果のひとつであるが、より踏み込んで労働組合の職場規制、職務の価値の決定、賃金の決定までつなげることは意識していなかったといってよいだろう。これから考える賃金論では、職務給か生活保障給かが論点となっているが、込み入っている点は、日本の賃金が年と功賃金であり、生活保障給であるという点である。生活保障給を維持しつつ、職務給をとる方向成果、それとも福祉国家への道を模索するか、いずれにしても方向性は非常に難しいものがある。

きちんとつっこんで文章を書きたいなあ。

元論文で引用されている英文の論文の題名などからすると、結構ソーシャルコンストラクショニズムの労働関係への応用というのが盛んなようですね。

日本でこういう議論がされないのは、個別的にはもちろんそういう制度的熟練が社会的に存在しないからではあるんでしょうが、そもそもとして、抽象理論をやる人は抽象理論に専念し、労働関係などという下世話な話に応用しようとしないという事情もありそうな気がします。

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2009年8月18日 (火)

阿久根民主主義人民共和国の公定経済学

いやもうなにもいいません。

http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20090817(生き苦しさの正体 「金利と中央銀行」)

>政府が破綻するかもしれない。 
政府が誰に借金しているかといえば、元をたどれば中央銀行に対してであって一般国民ではない。中央銀行がお金を作り出すのに必要な経費は紙とインク、あるいはコンピューターに数字を入れる作業程度だ。ほとんど「無」から利息付のお金を作り出して、貸し付けている。
中央銀行が発行するすべてのお金に金利がついているので、政府は金利払いの為にも借金を増やし続けるハメになっている。また、国民は死ぬほど働いても借金を返しきる事はできない。誰かが頑張ってお金を集めれば、他の誰かが金利が払えず破綻する。
職場を確保できた人が働いて生産性を高くすれば失業者が増えてしまう。
他人を幸せにする筈の「はたらき」が社会に不幸を作り出している。原因は「金利と中央銀行」である。「金利と中央銀行」が「経済の発展という脅迫」を社会に強要し、人々を争わせ、環境破壊を限界にまでおしすすめている。
 お金の発行権を政府に取り戻し、利息を廃止し、全国民に人権を守る事ができる程度の給付を保証すれば職場やお金の奪いあいは終わり、人々が支えあう幸せな社会を実現できる。「金利と中央銀行」が不幸の原因である。

こんな「経済学」にもちゃんと原典があるんですね。

>「金融崩壊後の世界」を読んでいただきたい。
(中央銀行が、信用創造による貸付として通貨を発行し、それに金利を課すかぎり、私たちは、ずっとお金の奴隷のままです。そして、社会はどんどん荒廃していきます。)

http://www.amazon.co.jp/%E9%87%91%E8%9E%8D%E5%B4%A9%E5%A3%8A%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%84%B1%E5%8D%B4-%E5%AE%89%E9%83%A8-%E8%8A%B3%E8%A3%95/dp/4286081419/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1250457808&sr=8-1

真に驚くべきは、アマゾンレビューで、多くの人が五つ星をつけているという事実かも知れません。いやはや。

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若年層に対する重点雇用対策(骨子案)

8月13日にとりまとめられた若者雇用対策プロジェクトチームの「」若年層に対する重点雇用対策(骨子案)」が内閣府のHPに載っていました。ちょっと目立たないところにあったので、気がつくのが遅れましたが。

http://www5.cao.go.jp/keizai1/2009/0730jakunenkoyou.html

http://www5.cao.go.jp/keizai1/2009/0302shiryou2.pdf

はじめに現状が1枚書かれて、2枚目からが政策ですが、まず「若者雇用対策の基本的考え方」として、「「構造的な問題」に着目」と明記されています。

>若者雇用問題を考える上でまず重要なのは、これが若者の「意識」というような問題だけではなく「構造的な問題」を有している、という基本認識を持つことである。

若者雇用問題の背景には、まず第一に、「新卒一括採用」という採用・就職慣行がある。この慣行は、新卒者・企業双方にとって有用な面があり、また若年者の失業率を低く抑えるという効果を生んできた一方、一旦就職の機会を失った者(世代)にとっては再挑戦が難しいという構造的な問題を有している。

第二は、若者の能力形成をめぐる問題である。若者にとっては職業能力形成が極めて重要であるが、キャリア形成上重要な時期に学校等での職業教育や企業内OJTの対象から外れた者は、その後の能力形成に重大な支障が生じ、負のスパイラルに陥る傾向が強い。

これらの問題を解決するためには、雇用政策のみならず、文教政策や産業政策の観点からの対応も重要となってくる。

そこで、「雇用政策・文教政策・産業政策の統合運用」ということで、

>このため、若者が自らの希望と能力に応じた雇用機会が得られるよう、政府あげて、産業界等の関係機関の協力を得ながら、若者雇用支援に取り組む必要がある。若者雇用に関する施策や関係機関は多岐にわたっているが、これら施策の深化・徹底に力を注ぐとともに、各施策がこれまで以上に有機的に連携し、地域をベースに政策資源が効果的・効率的に動員されるよう、若者雇用の観点からの雇用政策・文教政策・産業政策の統合運用を目指し、以下の3本柱の重点対策を推進する。

その3本柱とは:

(1)「新卒者緊急支援チーム(Sチーム)」による新卒雇用支援
- 新卒者求人状況の悪化を踏まえ、当PT内に「専門支援チーム」を設置し、
①政府全体で就職支援に全力をつくすとともに、②「多様な人生スタート
を尊重する社会」の創造に向けて取り組む。

(2)「ワンストップ+マンツーマン+シームレス」の雇用支援の推進
- 一人ひとりの若者の雇用と生活を、局面が変わっても一貫してきめ細かく支援するため、①各段階の雇用支援サービスの充実とネットワーク化、
②「雇用支援人材」の養成・活用、③職業能力評価の定着などに取り組む。

(3)成長分野における若者雇用推進
- 将来の成長が期待される分野の人材確保・育成のため、成長分野ごとに若者の雇用を重点的に支援する取組を進める

ということです。

新聞等で報じられていた「マンツーマン」の雇用支援は:

>ニート等の困難を抱える若者については、
・ 原則として、一人ひとりに対して、職業的自立・就職の支援から職場定着に至るまで、同一のカウンセラーが1対1で継続的に支援する、
・ 局面に応じて必要とされるサービスが異なるため、上記のカウンセラーが若者の環境・ニーズに応じたサービスにつなぎ、必要に応じチームを形成し、総合的な支援を実施する。子どもや若者を地域で支援するためのネットワークを整備する子ども・若者支援地域協議会を設置した地方公共団体にあっては、その積極的な活用を図る、
・ こうした支援では、支援対象者の生活の場等に出向く「アウトリーチ」の姿勢を重視する。

と書かれています。

さて、このプロジェクトの配付資料が上のHPに載っていますが、8月3日の2回目会合に出てきた面々は、

大久保 幸夫 株式会社リクルートワークス研究所所長
勝間 和代 経済評論家
川本 裕康 日本経済団体連合会 常務理事
北脇 保之 東京外国語大学多言語・多文化教育研究センター長
古賀 伸明 日本労働組合総連合会事務局長
小杉 礼子 独立行政法人労働政策研究・研修機構統括研究員
笹 のぶえ 東京都立大学付属高等学校副校長
山田 久 株式会社日本総合研究所調査部ビジネス戦略研究センター所長・主任研究員

という、お一人を除いて毎度おなじみの皆様方ですが、私にとって、一番新鮮で興味深かったのは、このお一人、都立大附属高校副校長の笹のぶえさんのレジュメでした。

レジュメだけですが、現場の感覚がじわりと伝わってくる感じです。

http://www5.cao.go.jp/keizai1/2009/sasashi.pdf

>1.自己紹介
昭和56年4月 東京都立高等学校(全日制・普通科)に勤務
全日制・商業科 定時制・総合学科 全日制・進学校 を経験
平成 5年頃~ 全国高等学校進路指導研究協議会 教材開発委員会に所属
『高校生の進路ノート』『キャリアノート』等
進路学習教材の開発を手掛ける

2.高校生の就職状況、就職指導・進路指導、キャリア教育

(1) 商業高校の経験(昭和63年~平成11年)

①90%の生徒が就職 5%の生徒が指定校推薦で大学進学 5%の生徒が専門学校進学
「経済社会の下支えをする生徒を育てる」
②入社試験に合格させる指導
・企業情報の収集 ・一般教養 ・適性検査 ・履歴書 ・面接
職業人としての生活を全うさせる指導
・自己理解と職業適性 ・将来設計

(2) 総合学科高校の経験(平成12年~平成19年)

①70%の生徒が、小・中学校時代に不登校を経験
「生徒を将来の納税者に育てる」
②基礎基本の学力の育成とコミュニケーション能力の育成
キャリア教育=職業生活を通して自己実現できる生徒の育成
自己理解と職業理解を経て勤労観・職業観を育てる
ワークキャリアとライフキャリア
・科目「産業社会と人間」 ・キャリア教育のための学校設定科目
・ロータリークラブによるインターンシップ ・「私のしごと館」への研修旅行
・ハローワークのジョブサポーター ・NPOのキャリア教育コーディネーター

(3) 進学校の経験(平成20年~平成21年)

①100%の生徒が大学進学
「第一志望の進路実現を果たせる生徒を育てる」
②受験指導
学ぶ意欲を引き出す指導
・大学の授業聴講 ・職業人講話 ・オープンキャンパス ・卒業生との懇談会

(4) 課題

①教員がキャリア教育に専念できるゆとりの確保を
・教員の力量で、外部の教育力が活用できる
・有能な教員がその能力を発揮できる環境つくり
・教員へのキャリア教育推進の研修
②普通科高校、特に進学校におけるキャリア教育への意識変革を
・「国公立○人合格」の壁
③新たな産業・雇用の創出を
・発達障害を含む障害のある生徒の雇用

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平易だが高邁で、途中で投げ出したくなる本

夏目孝吉さんの「就職情報研究所Blog」で、拙著が取り上げられています。「採用担当者読書ガイド(本年前半分)」だそうです。

http://bcpsjk.exblog.jp/12150876/(夏の終わりには、混迷する雇用情勢と新卒採用のあり方を考えるために読書をしよう)

取り上げられているのは、まず小林良暢さんの『なぜ雇用格差はなくならないのか』、次に門倉貴史さんの『大失業時代』。最後が山田久さんの『雇用再生』で、その前に

>マクロ的に最近の雇用問題を根本から考えたいという人には、『新しい労働社会』濱口桂一郎(岩波新書)がある。

ということで拙著が紹介されています。

>いかにも岩波新書らしい平易だが、高邁な本で、途中で投げ出したくなる本だが、労働法制の問題点を知るのには、有益だった。

途中で投げ出されては困りますが、「平易で高邁」とはいうのは、まさにわたくしが狙った線でした。

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「マージナル」とはちょっと違う

金子良事さんの

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-56.html(マージナルなものに目を向けることの強みと限界)

>現代では、労働問題にせよ、社会福祉にせよ、いわゆる社会的弱者に対する問題関心からスタートしたことによる、思考の縛りがどこかしらにあるのではないのか、と考えることがある。

なるほどというところもあるけど、ちょっと違うと思う。

>たとえば、労働問題はもともとブルーカラーを対象にしていた。19世紀末日本の職工はまだまだ社会的弱者であり、彼らには生活面においてもしばしば救済が必要であった。時は流れて、戦後、ブルーカラーとホワイトカラーの身分差が撤廃されたにもかかわらず、労働問題研究や労使関係研究の中で扱われるのは、相変わらずブルーカラーであることが多かった。こうした現象は技術革新の大部分を外生変数としてきたこと、および内生変数と捉えても、QCサークル活動がやたらと強調されてきたことと無関係ではない。それによって見逃されたことも多いのではないか?ホワイトカラーの研究が少しずつ始まったのはここ20年くらいのことに過ぎない。

労働問題研究のあり方の議論としては、ほとんど賛成なのですが、ブルーカラーを「マージナル」っていうのはだいぶ違和感がある。

話はまったく逆で、労働問題がブルーカラー中心だったり、社会政策が貧民中心だったりしたのは、それが数量的少数者という意味での「マージナル」ではなく、社会の中のパワー構造では弱者の側ではあるけれども、数量的にはむしろマジョリティであって、近代社会の民主主義的建前上無視することができない存在だったからではないか、と。古めかしい言い方をすれば「多数派にすべての権力を」てな感じでしょう。

そうじゃなく、数量的にも「マージナル」でしかない存在に目を付けてそのアイデンティティポリティクスを強調するようになるのは、まさに「1968」以後の「1970年パラダイム」じゃないかという気がする。

ちょうど先日稲葉さんが紹介してくれた下田平裕身氏の回想録みたいなものを読むと、

https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10091/656/1/KJ00004357390.pdf(<書き散らかされたもの>が描く軌跡 : <個>と<社会>をつなぐ不確かな環を求めて : <調査>という営みにこだわって)

下田平氏はちょうどその1970パラダイムに見事にぶち当たってしまった世代だったんだなあ、と思うわけですが、その中の例えば、

>私は、少数派労働組合運動の体験、イギリスでの<異質なるもの>が併存する社会での生活体験、さらに韓国語の学習をきっかけとしたアジアにおける民族と文化の多様な存在についての認識を総合しながら、80年代初めにおける自分の社会認識のパースペクティブを再構築しようとしている。<社会>において<少数派>である存在の意味をもう一度、より広い視野で捉えなおしたいと思ったからであった。

>私は、高度成長の時代を、明治以来、日本社会のオブセッションだった<貧困>から脱出するための激しい生存競争の時代と表現している。全般的な生活水準が上昇するとともに、目に見える<貧困>は減少し、モノが満ち溢れる。ゆたかな<大衆消費社会>が到来した。すべての人が<人並みの生活>、さらには<ヨーロッパ並みの生活>を求めて競い合うエネルギーは、<経済成長>そのものをも創り出したといえる。一体的な生活競争の過程で、そこから脱落する存在、あるいは離脱する存在が生まれた。日雇労働者、派遣労働者などの不安定就労者、中小零細企業の労働者、不況産業の労働者、ブルー系、ホワイト系を問わず技術や熟練の変化に伴って労働市場からはじき出された労働者、過疎地帯の住民、失業者、農民、さまざまな傷病や心身の障害を負う人々、都市のホームレスの住民、日本に永住する少数民族、日本に出稼ぎに来ている外国人、労働災害や公害・薬害の犠牲者、高齢者、中高年者、家庭・職場における女性、子供・・・・・。私は、こうした多様な存在に、一体的な生活競争が解体し、はじき出していった、さまざまな生活の<個性>を見ていた。

というような辺りを読むと、これは少なくともそれまでの労働問題や社会政策への関心の持ち方とは相当に違うと感じざるを得ません。

それまでの多数派たる弱者だったメインストリームの労働者たちが多数派たる強者になってしまった。もうそんな奴らには興味はない。そこからこぼれ落ちた本当のマイノリティ、本当の「マージナル」にこそ、追究すべき真実はある・・・。

言葉の正確な意味における「マージナル」志向ってのは、やはりこの辺りから発しているんじゃなかろうか、と。とはいえ、何が何でも「マージナル」なほど正しいという思想を徹底していくと、しまいには訳のわからないゲテモノ風になっていくわけで。

それをいささかグロテスクなまでに演じて見せたのが、竹原阿久根市長も崇拝していたかの太田龍氏を初めとするゲバリスタな方々であったんだろうと思いますが、まあそれはともかくとして。

そのことと、ホワイトがどんどん増えていっているのに、いつまでもブルー中心の枠組みで研究し続けたことの問題云々というのはちょっと次元が違うと思う。

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hamachanの労働法政策教室の模様替え

わたくしのあちこちに書いた文章や講演メモなどを載っけているホームページ「hamachanの労働法政策教室」を最近若干模様替えしました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/index.html

特に、やたらに数が増えて、自分でも手に負えなくなりつつあった雑誌論文の掲載雑誌別インデックスを、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/zasshi.html

労働法専門誌
『季刊労働法』掲載論文
『日本労働法学会誌』掲載論文
『労働法律旬報』掲載論文
『労働法学研究会報』掲載論文
『季刊労働者の権利』掲載論文
『経営法曹』掲載論文

労働関係専門誌
『日本労働研究雑誌』掲載論文
『大原社会問題研究雑誌』掲載論文

労働関係一般誌
『ビジネス・レーバー・トレンド』掲載論文
『海外労働時報』掲載論文
『世界の労働』掲載論文
『労働の科学』掲載論文
『DIO』(連合総研)掲載論文(リンク)
『生活経済政策』掲載論文
『経営民主主義』掲載論文
『Labour Research Library』(旧『勤労者福祉』)掲載論文
『Women & Work』掲載論文
『中央労働時報』掲載論文
『日労研資料』掲載論文
『エルダー』掲載論文
『POSSE』掲載論文
『労働調査』掲載論文
『ひろばユニオン』掲載論文

労働組合機関誌
『月刊連合』掲載論文
『IMFJC』掲載論文
『電機連合NAVI』掲載論文
『情報労連REPORT』掲載論文
『月刊自治研』掲載論文

労働関係実務誌
『Works』掲載論文
『賃金事情』掲載論文
『人事実務』掲載論文
『労基旬報』掲載論文
『月刊グローバル経営』掲載論文
『地方公務員月報』掲載論文

法律専門誌
『ジュリスト』掲載論文
『法律時報』掲載論文
『NBL』掲載論文
『時の法令』掲載論文

社会保障専門誌
『海外社会保障研究』掲載論文
『総合社会保障』掲載論文
『週刊社会保障』掲載論文
『社会福祉研究』掲載論文

総合・経済誌
『世界』掲載論文
『エコノミスト』掲載論文
『現代の理論』掲載論文
『ESP』掲載論文

その他の論文

書籍・刊行物掲載論文

という風に分類して、見つけやすくしました。

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2009年8月17日 (月)

プロ野球審判員は請負契約か?

連合ニュースで知りましたが、日本野球機構はプロ野球選手だけではなく、プロ野球審判員も雇用労働者ではなく請負の自営業者だと主張しているんですね。

http://www.rengo-news.co.jp/news/kiji/090811.htm

プロ野球選手については、実際のところ労働基準法をどうやって適用するんだ、という難しい問題もこれあり、労働者性が問題になること自体は当たり前だろうと思ってきましたが、審判員も労働者性が問題になっているというのは不勉強にして知りませんでした。

>プロ野球審判員の労働組合と、使用者である日本野球機構(NPB)との団体交渉がこう着状態となっている。これまで通り厚生年金への継続加入を求める組合に対し、NPB側が「審判員は請負契約だ」として、厚生年金からの脱退を主張し続けているためだ。組合は「百パーセントの雇用労働者とはいえないかもしれないが、時間的拘束性や指揮監督の強さから、実態は限りなく雇用労働者」と主張。不当な不利益変更を阻止するため、スト権確立で交渉強化をはかる考えだ。
 審判員らは、サービス・流通連合(JSD)の連帯労組プロ野球審判支部の組合員である。
 NPBの組織再編に伴う契約見直しを話し合うなかで、四月以降、厚生年金の継続問題が労使交渉の大きな焦点として浮上した。
 NPB側は「審判員は請負契約である」として、雇用労働者を対象とした同年金の加入継続は困難との主張を繰り返している。
 一方、組合は「審判員の実態は限りなく雇用労働者に近い」として、加入継続を求めている。管轄の社会保険事務所は「源泉徴収の開始や勤務時間などの明文化、雇用保険加入、シーズンオフ業務の取り扱いに関して契約書内容を修正すれば、継続可能」という趣旨の見解を明らかにしている。組合は、社会保険事務所の見解を踏まえた契約書づくりを要求しているが、NPB側が拒否している。
 今後も不誠実な交渉姿勢が続くのであれば、「組合に付与された権利を行使することもありうる」(連帯労組の岡本昌也委員長)。八月二十一日には臨時大会を開き、スト権を確立することにしている。

雇用労働者か請負労働者かを区別する場合、出勤や退社などの時間的拘束、業務に関して使用者の指揮監督を受けるか、といった点が焦点になる。
 契約書などの形式ではなく、実態として、自営業的な裁量があるか、それとも使用従属関係にあるかを判断する必要がある。
 プロ野球審判員のケースでは、出場すべき試合や出張日程はNPBが指定。審判割当表に基づいて、試合会場への到着時間も決められている。遅刻すれば制裁金が科される。現在の野球協約によれば「審判員は所属連盟会長の管理統制に服し、かつ、その指示にしたがわなければならない」。
 このほか、兼業禁止(職務専念義務)、服務規律の適用、懲戒事由の存在など厳しい管理規定がある。海外旅行などの際には届出が必要で、冠婚葬祭を含め「私用での休み」は認められないという。雇用労働者の場合より使用従属関係が強いとみることもできる。

ふむ、なるほどね。いままで労働者として扱って厚生年金に入れていたのを、いまさら自営業者だといって外そうというのはちょっといかがなものかという気もしますがね。

それにしても、いままでスポーツ審判員の労働者性について論じたものって、何かありましたでしょうか。多分ないんじゃないかな。

一方で、以前の相撲力士のときもそうですが、覚醒剤やってた酒井法子氏は解雇だとか、遙かに労働者性に問題のある芸能人には解「雇」と、雇用契約であることを前提にしたものの言い方に疑問を示さないのも不思議といえば不思議ではありますが。

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「市場主義に不可欠な公共心」に不可欠な身内集団原理

拙著の紹介が載っている『東洋経済』最新号に、大竹文雄先生が「市場主義に不可欠な公共心」というエッセイを書かれています。

http://www.toyokeizai.net/shop/magazine/toyo/detail/BI/f7a367fe62e35fc8af3c641822a0bc5d/

>不正に社会保障給付を受け取ることへの罪悪感が小さい社会では、失業保険が充実せず、解雇規制が強い。・・・

>つまり伝統的経済学が念頭に置いてきた極端に利己的な人々を前提とすれば、労働市場の規制が強くなると言う皮肉な結果が得られるのだ。

>市場原理主義が公共心を一掃してしまったという批判があるが、本当の問題点はそこにあるのではない。公共心が低下し、不正な政府サービスの利用が広まると、政府による規制が強化され、逆に市場が機能しなくなることが問題なのである。一方、ウソをついて不正な受給をすべきではないという価値観が広まっている場合にこそ、失業給付の充実と同時に規制の少ない競争的な市場が達成できるのである。少ない雇用保護と充実した失業給付・再就職支援という北欧で進められているフレクシキュリティ政策の背後には、不正な政府サービスの受給をしてはならないという高い公共心がある。

ここで言われていることは、それ自体としては間違いではありません。ある意味で実にもっともなことです。しかし、問題を「高い公共心」という形而上的倫理道徳問題に放り投げて、それを成り立たせている経済社会的下部構造に論及しないならば、それは問題のすり替えになってしまう危険性すらあります。

この問題は、実は本ブログでも何回も論じてきたところですし、拙著197頁の「フレクシキュリティの表と裏」でやや皮肉な口調で論じたところでもあります。

>ただ、デンマークモデルを考えるに当たっては、同国が他の北欧諸国と同様、労働組合の組織率が極めて高く、全国レベルの労使交渉によりものごとを決めている社会であるという点を無視することはできません。特に、失業保険がゲント・システム、すなわち労働組合の共済活動に国の補助が行われるという形で行われていることや、労使関係の枠組みがほとんど全て中央レベルの労使団体間の労働協約によって決定され、実行されている国であり、議会制定法は最小限にとどめられていることは重要です。このようにマクロな労使関係を中心に国の政治が構築されている社会のあり方をコーポラティズムと呼びますが、そのような文化の希薄な社会に外形だけデンマークモデルを移植しようとしてもうまくいかないであろうと、EUも警告しています。
 やや誇張した言い方をすれば、デンマーク社会全体が一つのグループ企業のようなもので、その労使間でルールを定め、みんなで守っていくという仕組みだと言ってもいいかもしれません。そうすると、解雇自由といってもそれはある子会社から配転することが自由だという意味に過ぎませんし、失業給付もグループ内のある子会社から他の子会社に配転される間の休業補償のようなものですから、その間教育訓練を受けて早く新たな子会社に赴任しようとするのも不思議ではないわけです。
 だとすると、OECDのいうデンマークの「ゴールデン・トライアングル」は、コーポラティズムという最も重要な要素を意図的に抜きにして、解雇が自由で失業給付が手厚く労働市場政策に熱心という現象面のみを取り出したものであり、やや詐欺商法的な匂いがつきまといます。

組織率9割を超えるような労働組合やゲントシステム型の失業保険基金といった、具体的に個々の労働者たちを公共心ある存在たらしめるような実定的な制度を抜きにして、利己的な個人が相争う市場という土俵に放り込まれた孤独な個人たちにただ「公共心を持て!」と呼ばわることに、何ほどの意味がありうるものか、という問題です。公共心とは、つまるところ「仲間を裏切ってはいけない」という倫理なのではないのか、守るべき「仲間」を破壊しつつ、公共心を説くことはそもそも矛盾しているのではないか、という問題です。

415wfqp24al 最近読んだ松尾匡さんの『商人道ノススメ』への最大の違和感もそこにあります。公共心とは、ある種の身内集団原理と別物ではないのではないかと私は思います。

批判されるべきは、どこまでを同じ仲間として扱うべきかという問題に対して、現実にそぐわない区別=差別を無理に維持し続けることなのであって、「信頼」と「公共心」の源泉である仲間意識それ自体ではない、と私には思われるのです。

(念のため)

いうまでもなく、こういう仲間意識に立脚した「公共心」は、その仲間に入ろうとしない「他者」には厳しいものでありえます。そのことを原理的に批判する立場も十分あり得ます。私もそういう立場をそれとして尊重するつもりはあります。ただし、そういう「絶対的他者ともまったく同様につきあうべき」という原理的な立場に立つのであれば、自分たちのルールに従わない「異物」には一転して大変厳しい顔を見せる「北欧の公共心溢れる市場主義」を褒め称えるのは差し控えるべきでしょう。

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2009年8月16日 (日)

「浜辺のねじまき鳥」さんの書評

「浜辺のねじまき鳥」さんのブログで、拙著を取り上げていただいています。

http://tutuimemo.at.webry.info/200908/article_3.html

>著者は官僚から研究者へと活動の場を移しながら冷静に労働問題を議論する土壌を模索している。企業で労働問題にかかわっている人にとって本書は、現代日本の雇用問題の変遷と、現在直面している雇用の危機がどのような構造的問題を孕んでいるかを整理するのに役立つと思われる。その上で、“労働”のあり方を、中長期の観点から根気強く考えることが必要だ。

拙著をお読みいただいた方々が、おおむねわたくしの労働問題を考えるスタンスを的確に捉え、積極的に評価していただいていることに、勇気づけられます。

リアルな現実を見ないまま空疎なイデオロギーを振り回して罵倒するような低レベルの「書評」がもう少し出てくるかと思っていましたが、改めて日本の草の根の読者層の質の高さを感じさせられる思いです。

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岩波らしい地味な1冊(笑)

「いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」」さんの書評。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/0b243421d822955bac4e6c1611f5b3f4

>新書ブームに乗って「軽い1冊」が矢鱈と増えた昨今ですが、岩波らしい地味な1冊(笑)に仕上がっており、かつての輝きを失った岩波の新書ならではの硬派な出来映えではないだろうか。

はあ、「岩波らしい地味な1冊(笑)」ですか。でも、最近特に労働関係では「新書ブームに乗った「軽い1冊」」がやたらに多いだけに、そういうのとは一線も二線も画した「硬派な出来映え」という評はうれしく感じます。

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2009年8月15日 (土)

「生活給」の興亡

拙著の書評と言うよりも、拙著もネタの一つとして生活給について論じた「紙魚の目」さんのブログ記事。

http://pink.ap.teacup.com/furuya-y/481.html(「生活給」の興亡)

電産型賃金体系から話を始めて、

>戦後の財界で労使関係を扱った日経連などは、当初「生活給」を批判し、職務給への移行を様々に画策して「電産型賃金」の残像を払拭しようと試みました。

 しかし、皮肉にも高度経済成長の結果生じた「労働力不足」や、労働者の会社への忠誠心を養う上で、「生活給」的方法を有効に用いたのは経営者のほうでした。

 電産労組は滅びましたが、その遺産は現在にいたるまで生き延びているといえましょう。しかし、はたして今は亡き電産労組が「成仏」できたのかどうかは、大いに疑問です。

と論じて、拙著の生活給の話を引用していただいています。

>現在、「生活給」によって守られた正社員と、そこから排除された非正規雇用者やワーキングプアの対比が語られるとき、生きるか死ぬかの生活を守る戦いを戦った電産労組はとても「成仏」はできないと思わざるを得ません。

どうやって電産型賃金体系を「成仏」させようというのか、興味を持たれた方はリンク先をどうぞ。

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千田孝之氏の書評

昨日付の千田孝之氏の拙著に対する書評がアップされています。

http://www51.tok2.com/home/sendatakayuki/etc5/syohyou217.html

どうも、千田氏には私の立ち位置が大変分かりにくいものと映っているようです。

確かに、書評の最初に並んでいる4冊の「これらの問題の本質を新自由主義による企業側の労働規制緩和要求ととらえ、それに反対して労働規制強化の昔に戻そうという図式」からすれば、拙著は「どっちに立っているんだ、ネオリベに賛成なのか反対なのかはっきりしろ!」という風に見えるのかも知れません。

>もっと立場を明確にして、すっきりした論点を示したほうがわかりやすいのではないか。先進国欧州の労働事情が正しい路を歩んでいるわけでもなく、日本の労働事情だけが混迷を続けているわけではない

という批評からすると、もっとネオリベによる雇用破壊反対、元に戻せ!といえばわかりやすいのに、EUだの何だの持ち出すから訳が分からない・・・というのが、拙著に対するいらだちなのでしょう。

しかし、そういう単純な話にしてしまうから、労働問題はまともな解決への道が全然見えないまま規制緩和論対規制強化論の不毛な空中戦だけに終わってしまうというのが拙著の一番に言いたいところなので、

>著者は欧州並の多様な労働社会を提案したいのか、多様な労働状況は文化的に好ましいのか、経営側の利益にかなっているのか、労働者側は辛抱しろといっているのだろうか、どうも著者の本音が不明である。このことが本書の理解を困難にしている

と言われるとなかなかつらいところがあります。そこを、そういうふうに、どっちつかずだというふうにではなく、その議論の次元から目を少し上に上げて、そこから物事を考えてみようよ、といっているんだという風に、読んでいただければ、と切に思うところです。

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2009年8月14日 (金)

『東洋経済』の紹介

20080911000085771 『東洋経済』8月15/22号の「新刊新書サミング・アップ」で、拙著が紹介されています。

>労働社会は一つの「雇用システム」をなし、部分部分の改善は、全体像を意識しながら行われなければならない。

たとえば正社員のワークライフバランスの回復と非正規労働者の低い労賃・労働条件の改善とは、男性正社員の過重な拘束をいかに見直していくかという問題の盾の両面でもある。その将来像として、いままでの女性正社員の働き方を男女労働者共通のデフォルトルールとし、本人が希望して初めてそこから個別にオプトアウト(適用除外)できる仕組みとすることで、非正規労働者との均等待遇問題に新たな視野が開けてくる。

歴史的な視点やEUとの比較を随所に用いながら、ベテラン研究員が現実的で漸進的な改革の方向を示す

だそうであります。

いままでのネット上の書評は、どちらかというと序章のジョブとメンバーシップという雇用システムの認識か、第4章の集団的労使関係といういささか玄人好みのテーマに関が集まり、今日的政策課題である第1章から第3章までの話題にはあまり触れられてこなかった感じですが、ようやく政策論の一つの重要なトピックを正面から取り上げていただいたことになります。

政治家の皆様方はこれからますますお忙しくて、とても拙著をゆっくりとお読み頂いている暇など無いのかも知れませんが、できればざっとでも目を走らせていただければ、いままで横行していたトンデモな議論のためにわけわかめ状態にある頭の中が少しは整理されるのではないかと愚考しておるのですが。

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1970年パラダイム

1968_ue 1968_ge いや、上下併せて2000頁を超えるような大著を読み始めるだけの余裕はあまりないもので、とりあえず最後の「結論」というところだけをざっと走り読みしただけなんですが、

http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/1968.htm

結局のところ、結論でいうところの「1970年パラダイム」なるものがなにゆえに生み出されたのか、という問題意識から、その原点である1968年を探求しようと書かれたものではないか、と。

そして、その「1970年パラダイム」とは、本ブログで「リベサヨ」とペジョラティブに呼んできた「サヨク」なものの考え方の謂いであるといってほぼ間違いではなさそうです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_c3f3.html(赤木智弘氏の新著)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

>赤木さんにとっては、左派というのはいまの社民党みたいなものなのでしょうね。福島瑞穂さんみたいなのが「左派」の典型なのでしょうね。それは、年齢から考えれば、生きてきた時代状況の中ではまさにそうだったのですから、やむを得ないところがあります。

しかし、それは高度成長期以後のここ30年くらいのことに過ぎません。

それまでの「左派」というのは、「固有性に対する差別」を問題にするのはブルジョア的であり、まさに「努力しても報われない弱者」働いても働いても貧しさから逃れられない労働者たちの権利を強化することこそが重要だと考えるような人々であったのです。リベラルじゃないオールド左翼ってのはそういうものだったのです。赤木さんとおそらくもっとも波長があったであろうその人々は、かつては社会党のメイン勢力でもあったはずなのですが、気がつくと土井チルドレンたちが、赤木さんの言う「「固有性に対する差別」とたたかうことを強調するあまりに、「固有性でない差別」に対する理解が浅くなってい」る人々、私のいうリベサヨさんたちが左派の代表みたいな顔をするようになっていたわけです。この歴史認識がまず重要。

リベじゃないオールド左翼にとっては、「経済の強弱に於いて社会責任を付与」することは当然でした。当時の状況下では、これは、「女房子供の生活費まで含めて会社に賃金を要求する」こととニアリー・イコールでした。終戦直後に作られた電産型賃金体系が一気に日本中に広まったのは、そのためです。

しかし、やがてそういうオールド左翼のおっさんたちが、保守オヤジとして指弾されるようになっていきます。彼らに「固有性に対する差別」に対する感性が乏しく、「左翼は女性差別的」と思われるようになったからです。

ここまでの歴史が、おそらく赤木さんの認識の中には入っていません。その後の、オールド左翼が消えていき、社民党とはリベリベなフェミニズム政党であるとみんなが思うようになるのは、せいぜい80年代末以降です。そして、その後の彼らに対する認識は、赤木さんの言うとおりです。

リベサヨとネオリベが紙一重であるということは、実はこのブログでも何回も繰り返して述べてきたことです。そこを「左派」という言葉で括ってしまうと、せっかくの赤木さんの的確な認識が全然生きなくなります。むしろトンデモな言葉に聞こえてしまうのです。

>彼は、自分が「いわゆる左派」だったというのですが、その「左派」ってのは何かって言うと、最初に出てくるのが、オウム真理教バッシングに対する批判なんですね。

それが左派かよ!そういうのはプチブル急進主義って言うんだぜ!

と、昔風の左翼オヤジはいうでしょう。

オウムだの幸福の科学だの、そういう大衆をだまくらかすアヘン売人どもに同情している暇があったら、その被害者のことを考えろ!

と、ゴリゴリ左翼はいうでしょう。

でも赤木さんにとっては、そういうリベリベな思想こそが「左派」だったんですね。このボタンの掛け違いが、この本の最後までずっと尾を引いていきます

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高齢者の働きかた

32291509 小川浩さんより、清家篤編著『高齢者の働きかた』ミネルヴァ書房をお送りいただきました。ありがとうございます。

本書は、ミネルヴァから続々出ている「叢書・働くということ」の第8巻で、

http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32291509

>働く意志と仕事能力がある高齢者がその能力をしっかりと発揮できるような「生涯現役社会」の実現のためにはなにが必要なのか。本書は、マクロ・ミクロの観点、そして政策論から、高齢者の労働に関する全体像を俯瞰する試みである。

第1部 高齢化と労働市場

人口高齢化と高齢者の所得・消費・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小川直宏

人口減少・高齢社会の進展と労働市場・・・・・・・・・・・・・・・・・阿部正浩

高齢者の所得保障—国際比較からみたわが国の特徴・・・・・山田篤裕

第2部 高齢者の雇用と就業

高齢者の労働供給・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小川浩

高齢者の労働需要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥西好夫

退職金と企業年金・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森戸英幸

高年齢者の多様な働きかた—短時間勤務によるワークシェアリングへの展望・高木朋代

第3部 高齢者の雇用・就業に関する政策・制度

高齢者雇用の国際比較・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・八木公代

高齢者雇用法制・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・関ふさ子

高齢者の雇用・就業促進に向けた政策・・・・・・・・・・・・・・・・・清家篤

「高齢者の働きかた」のまとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清家篤

と、執筆者はいずれもおなじみの方々です。

2124 ちなみに、八木公代さんは現在中労委に勤務していますが、かつてOECDに出向し、そのときに執筆した「高齢化と雇用政策 日本編」が、明石書店から『高齢社会日本の雇用政策』という標題で出版されています。清家篤監訳、山田篤裕・金明中訳です。

http://www.akashi.co.jp/menue/books/2124/main.htm

2325 そのついでに、自己宣伝しておきますと、この日本編も含めた各国編の総集編を、わたくしの翻訳でやはり明石書店から『世界の高齢化と雇用政策』という標題で出版しております。併せてどうぞ。

http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-2325-X

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人を活かす!

昨日のエントリのおまけとして、

135119aef6ee3e5672f973d6e332953744b 高度成長期に八幡製鐵(現新日本製鐵)の「労務屋」さんとして、職務給導入を初めとする人事制度改革を担当された福岡道生氏(後の日経連専務理事)が、岡崎哲二、佐藤博樹、菅山真次、都留康というよだれの出そうな面々を相手にこの時代の「現場からの経営労務史」を存分に語った『人を活かす!』(日経連出版部)を読むと、まさに半世紀前に、「技能が陳腐化してきた」組長さん、伍長さんたちを徹底的に教育訓練して作業長を養成し、「青空の見える」人事制度を作り上げていったことが語られています。

この本は2002年に出た本ですが、もう書店で見かけることもほとんどなくなりました。

労務屋さんの書評がありますので参考までに、

http://www.roumuya.net/shohyo/fukuoka.html

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2009年8月13日 (木)

リバタリアンには女性参政権が諸悪の根源

サイバーなリバタリアン氏をすら批判する真正リバタリアン氏が、「Freedonomics」(「フリードマン経済学」)を引用して、標記のような説を唱えています。

http://libertarian.seesaa.net/article/125628596.html(Democracy and Suffrage)

>この点、蔵さんの要約してくれているFreedonomicsに選挙システムの考察がかかれているところがあって大変興味深い。
これによれば、女性参政権を作ったことが社会に対して決定的な(破壊的な)意味があったということになる。
若干長いが、この部分をそのまま引用する。

>>女性参政権と政府の膨張

 19世紀にGDPの2-3%に過ぎなかった政府支出が、20世紀に急速に増えた理由は多くの人にとって謎だった。ルーズベルトによるニューディールがその原因であるといわれているが、政府支出は1920年代には急速に増大しており、ルーズベルトはその傾向を加速させたにすぎない。本当の理由は女性の参政権獲得にある。

 世論調査によれば、女性は男性とは異なった意見を持っている。

1980-2000年においては最大22%にもなる民主・共和党の支持格差がある。女性が投票しなかったとすれば、1968-2004年までのすべての大統領は共和党になったはずだ。・・・

>>女性参政権が政治の世界を大きく変えたのは、政府のサイズと税制だけではない。女性はより抑制的であるため、中流階層の女性によって、各種の規制法が作られることになったのだ。アメリカでの女性の政治的な活躍は1960年代からだとされているが、実は、それ以前からはるかに大きな影響を与えてきたのだ

>もし、リバタリアン社会が未来に生まれても、それが普通選挙で女性投票権をそのまま認めればまた社会民主主義的な大きな社会に舞い戻ってしまうことになる。もとよりリバタリアン社会に政府がなければ選挙もないのかもしれないが。

特にコメントの必要はないでしょう。

なるほど、リバタリアンの思想を素直にそのまま民主主義に適用すれば、自ずからこういうロジックになるのだろうな、と思われます。

おんなごときに参政権を与えたから、政府は無駄に大きくなり、税金は高くなり、規制は増えていく一方だ、というわけで、(価値判断を抜きにしていうと)ある面で真実を描き出しているのかも知れません。

(追記)

真正リバタリアン氏は、事実認識としてそうかも知れないと肯定していることと、価値判断としてそうあるべきだと主張していることの区別がつかないようです。蔵研也さん、同じリバタリアン同士のよしみで教えてあげた方がいいですよ。デアルとベキダは違うんだよ、と。

それとも、真正リバタリアン氏は、自分と同じ価値観、すなわち政府は何が何でも小さい方が(できれば無い方が)よく、税金は何が何でも低い方が(できれば無い方が)良く、規制は何が何でも少ない方が(できれば無い方が)良い、という価値観以外の価値観から、(仮に当該事実認識が正しいと仮定した場合における判断が)全く逆の判断がなされるかも知れないという想像力を働かすということもしないのでしょうか。

こんなことを、現代国語のアンチョコ本のように絵解きするのは、あまりにもつまらない所業なので気が進まないのですが、もちろんいうまでもなく、上の私の一節は、「おんなごときに参政権を与えた」おかげで、世の中がより福祉国家の方向に(すなわちリバタリアン氏が嫌うような方向に)進んで良かったね、という主旨なんですが、どこをどう「誤読」していただいたら下のような異形の台詞が湧いてくるものやら。

http://libertarian.seesaa.net/article/125715106.html

>私の誤読でなければ、どうもhamachanはこの部分に賛成らしい。(笑

それならhamachanもいっそうのこと、Labour系リバタリアンを自称してはどうか?
Libertarian(リバタリアン)ならぬLabourtarian(レバタリアン)というのもキャッチーかもしれない。w

一緒に女性参政権の廃絶に向けて共闘しようではないか。www

いやはや・・・・・・・・・・・・・・・・絶句

(再追記)

真正リバタリアン氏のいいわけがまったく意味不明なので、どなたか理解できる人がいれば説明してほしいところ。

>追記:その後書かれたhamachanの弁解によると、これは「デアルとベキダ」の違いなのだそうだ。

これは、つまり次のようなことだ。
デアル→ hamachan is shameless.
ベキダ→hamachan ought to know a shame.
私の記憶では蔵さんは、デアルの事実を客観的に見つめるべきだと書いているのであって、事実を無視してどうこうあるベキダという建前を押しつけるのは間違いだと書いていたように思う。
私もこれには賛成だ。やはり hamachan is shamelessというデアルを事実として冷徹に認め、hyamachan ought to know a shame とは言わないようにしよう。w
しかし、ベキダ派のhamachanは自らのあるベキ姿にむけて努力するベキダ。。とも言わないようにしよう

畢竟するところ、真正リバタリアン氏は、女性参政権ゆえに政府や規制が大きくなったのがけしからんから、女性から参政権を剥奪してリバタリアンな社会にす「ベキダ」といってるわけだし、わたしは、(仮に)女性参政権ゆえに政府や規制が大きくなった(のだとしたら)大変結構なことだから、世の中をリバタリアンな社会にしないためにも女性参政権を断固守る「ベキダ」、といっているわけで、訳の分からない例文でごまかせると思っているならば、真正リバタリアン氏こそが言葉の真正な意味で「shameless」というべきでしょう。

なにしろ、「一緒に女性参政権の廃絶に向けて共闘しようではないか」とまで、見当違いのshamelessな共闘申し入れをされてしまったものでね。そんなのと一緒にされては困りますから。

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従業員の能力は陳腐化・・・してますよ、半世紀前から

日経BizPlusの丸尾拓養氏の連載、今回は「従業員の能力は陳腐化しないのか」というのですが、

http://bizplus.nikkei.co.jp/genre/jinji/rensai/maruo2.cfm?p=1

>勤続年数を経るに応じて経験を積み、その経験は仕事に活かされます。しかし、これは、経験が「物を言う」仕事であり、かつ経験に基づく能力が陳腐化しないことを前提としています。事業における技術変革や職場におけるIT化にもかかわらず、従業員が積み上げてきた能力は評価されなければならないものなのでしょうか。

それは、もう半世紀前から議論されてきている日本労務管理史上古典的テーマなんですが。

>高価なパソコンを独占しているにもかかわらずワープロソフトすら使いこなせない管理職を見て、若年労働者は疑問を抱き始めます。「この部長は本当に能力があるのだろうか」「パソコンも使いこなせない課長よりも自分の方が仕事ができるのではないか」と、毎日のように悩みます。社内のイントラネットやインターネットなどの技術が進み、電子メールで情報が流通するようになると、むしろ若年労働者の方が「情報強者」となります。 

 ここに勤続年数が長い者が能力も高いという「幻想」は、簡単に崩れていきます。社内に知り合いが多いとか、昔の取引先とのつながりで仕事をとってくるといった「能力」は、その正体を露呈し、かつ評価されなくなります。「オープン」「透明」「公正」さらには「コンプライアンス」といった標語の下で、能力についても客観的に評定され、それが処遇に結びつくようになります。

半世紀前に「職務給」が日本の労務屋さんと組合屋さんの最大の争点として議論されていたのも、まさに(当時はITじゃないですが)技術革新の中で、とりわけ若年労働者から年功賃金に疑問が提起されてきたからであって。

今からほぼ半世紀前に書かれた昭和同人会『我が国賃金構造の史的考察』の序論に曰く、

>技術革新が進行するにつれて、企業側が需要する労働力の質的内容は従来のものとはだいぶ違ったものになってきている。すなわち、従来の永年勤続者の習熟型技能が陳腐化し、むしろ新しい学校卒業者の知識と適応力が需要されてきた。しかも若年層の労働市場が逼迫してくるにつれ、その賃金水準も漸次高めざるを得なくなってきている。また若年層の労働者意識が高まってきており、その面からも、従前のような低賃金で雇用されて年齢、勤続の増加に伴って高賃金へ移行していく年功序列的な賃金体系に不満を抱くようになってきたといわれる。要するに年功序列型あるいは生活給的賃金体系の基盤をなしていた旧来の年功的技能秩序は、技術革新の進行につれて漸次崩壊せざるを得なくなってきており、その解決策の一環として職務給の問題へと志向するようになったものといえる。

こうして、1960年代は政府と経営側が同一労働同一賃金原則に基づく職務給を掲げ、労働側が中高年の賃下げにつながるとそれに反発するという構図が続いていたのですが、実はその背後で企業の人事労務の現場から職務給への反発が吹き出していき、それが「職能給」という形をとったあと、石油ショック後はむしろ日本型雇用慣行が全面的に正当性を受容されるようになっていくというのがこの間の経緯ですから、丸尾氏のお話は、すごいデジャビュの世界でもあるわけです。

その辺のいきさつをごく簡明に伝えるというのも、拙著の一つの目的ではあります。

(ついでに)

金子良事さんの言うように、拙著序章は既存の議論のまとめに過ぎないのですが、できれば、同じく既存の議論のまとめ的な晴山さんの本とかじゃなくて、原典である昭和同人会の上の本とか、孫田良平さんの本とかを示して、「お前の言っていることは、労働省の大先輩が言ってることを要約しているに過ぎない」といって欲しかったですね。

ついでに言うと、金子美雄、孫田良平といった官庁賃金屋の議論とともに、田中博秀さんの日本的雇用論が私の議論のベースです。それは読む人が読めばすぐ判ることですが。

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有期労働契約研究会資料

7月31日に開かれた厚生労働省の有期労働契約研究会で、諸外国の法制および実態として、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、デンマーク、韓国の各国の報告がされたようで、その資料がアップされています。

http://www.mhlw.go.jp/za/0812/a02/a02.html

ドイツ、フランス、イギリスは毎度おなじみですので(橋本先生、奥田先生、有田先生、ゴメンなさい)、普通有期労働の国際比較で出てこない残りの3カ国に注目したいのですが、

最近人気急上昇(?)のデンマークですが、デンマーク大使館の参事官が説明したようですが、資料は欧州委員会の職員作業文書がもとのようです。

http://www.mhlw.go.jp/za/0812/a02/a02-11.pdf

アメリカは、JILPTの池添研究員が報告ですが、なにしろ解雇自由のアメリカで、直用有期はその間解雇できにくくなるという保護の手厚い契約なものですから、問題意識がまったくなく、データもほとんど無い。

http://www.mhlw.go.jp/za/0812/a02/a02-10.pdf

>・就労形態別 On-call workers 1.8%(245万4千人)
(必要に応じ随時呼び出されて数日ないし数週働く労働者)
Temporary help agency workers 0.9%(121万7千人)
(派遣会社の労働者)
※この場合、期間の定めのない派遣労働者も含まれてしまう?
Workers provided by Contract Firms 0.6%(81万3千人)
(業務請負会社の労働者)
※この場合、期間の定めのない労働者も含まれてしまう。

という実態のようで、池添さんの私見では、

>・随意雇用原則employment at-will ruleの下、解雇が自由であることから、その反面で、契約期間中の雇用保障を形成しかねない有期契約は、企業にとって用いるメリットがないのではないか。
・また、雇用関係上の責任が受け入れ企業に発生しない側面を有する他のcontingent and alternative employmentが相対的に発達していると考えられるところ、企業としてはこちらを活用する方にメリットを見出しているのではないか。

ということのようです。

最後の韓国は、やはりJILPT研究員の呉学殊さんですが、膨大な資料を出しています。

http://www.mhlw.go.jp/za/0812/a02/a02-34.pdf

韓国は、ほかのさまざまな分野でもそういう傾向がありますが、とりわけ労働分野では、日本と似た状況の中で、日本と似た議論が行われ、日本ではなかなか踏み出せなかった法政策をえいやっとやってしまうという傾向があるようで、この有期労働でも、2年を過ぎると期間の定めのない契約と見なすという法律を2年前に作って、その期限がこの7月1日に到来し、大きな騒ぎになっているようです。詳しくはリンク先をどうぞ。社会政策学会誌の校正原稿が読めます。

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2009年8月12日 (水)

権丈節を求めて紀伊国屋へ

9784778311834 http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-14e2.html

でコピペした権丈節あふれる「政策技術学としての経済学を求めて――分配、再分配問題を扱う研究者が見てきた世界」ですが、なかなか近くの本屋では手に入らなくて、新宿紀伊国屋まで買いに行きました。

権丈先生以外にも、こういうラインナップなんですが、

http://www.ohtabooks.com/publish/2009/08/04125337.html

・資本主義の「不都合な真実」/岩井克人
・ケインズの予言と利子率革命/水野和夫
・100年に一度や二度は起きても不思議はない普通の「危機」についての、ひどく常識的な結論/稲葉振一郎
・政策技術学としての経済学を求めて/権丈善一
・我は如何にして活動家となりし乎/湯浅誠
・反資本主義のエナルゲイア/白石嘉治

まあでも、「権丈善一先生に尽きる」という稲葉振一郎氏の評に同感。

上のエントリでコピペした以外の部分で、引用する値打ちのある部分を、以下に再現します。

>経済学、特に人々の生活に影響を与える、「政策」領域と密着する経済学分野を学ぶということは、経済学のテキストを読んで、計量経済学を学び、そしてデータをコンピュータにダウンロードして加工して、「はい、論文ができました」というものでは決してない。経済研究というものは、経済現象にまつわる事実と制度を正確に調べ、そこで何が起こっているのかこれからどのように変化していくのかに想像をめぐらせ、それらの現象と関連のある複数の価値の間の優先順位をつける判断の連続、しかもその時代時代における利害の対立、権力の分布を詳しく知り、その力の分布図をアダム・スミスが『道徳感情論』でいう公平無私な第三者の立場から俯瞰的に眺めた上で、リアリズムのある問い、分析と総合、判断の連続という作業から成り立っている。

そうであるはずなのに、最近社会保障の研究領域に参入してきた、すぐに「経済学的には」という経済学の門外漢にはそれが責任逃れの前口上にしか聞こえない言葉を口癖とする、自称「経済学者」は、不思議と制度を知らない、歴史を知らない、さらにいえば、面白いほどに政治も分かっていない。ゆえに、問いもトンチンカンならば答えもトンチンカン。その上彼らには、制度の細部も知らないままに政策提言するという傾向もある。政策論というのは細部への知識と洞察が生命線なのであり、制度の細部への知識と洞察が、思考の碇となって思想のブレを抑える働きもするわけである。しかしながら、そうしたことが、今日の経済学教育の中ではあまりにも軽視されている

まさに、権丈先生が社会保障分野で日夜感じておられることを、わたくしは労働分野で日夜感じておるわけです。

制度を知らない、歴史を知らない、政治も分かっていない、トンチンカンを絵で描いたような方々が、知ったかぶりして労働を論じるというこの日本の惨状を、何とかしてくださいよ。

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2009年8月11日 (火)

残業代ゼロでも問題はない・・・けれども

経済産業研究所のディスカッションペーパーとして、黒田祥子さんと山本勲さんの「ホワイトカラー・エクゼンプションと労働者の働き方:労働時間規制が労働時間や賃金に与える影響」 が、先週金曜日付でアップされています。

http://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/09080002.html

>近年、一定の要件を満たすホワイトカラーの労働時間規制を緩和する「ホワイトカラー・エクゼンプション制度」の是非が議論されており、労働時間規制の適用除外によって労働者の働き方がどのように変わるかが論点となっている。そこで、本稿では、管理職や年俸制適用の労働者など、すでに労働時間規制の適用除外となっている労働者(ホワイトカラー・エグゼンプションが適用されている労働者)をトリートメント・グループ、それ以外の労働者をコントロール・グループとし、両グループで労働者の働き方が大きく異なるかどうかを検証した。検証の結果、ホワイトカラー・エグゼンプションが労働時間に与える影響は、どの労働者に対しても等しいものではなく、属性によって異なることがわかった。具体的には、ホワイトカラー・エグゼンプションが適用されている場合、(1)年収の低い労働者や卸小売・飲食・宿泊業で働く労働者、大卒以外の学歴の労働者などでは、ホワイトカラー・エグゼンプションによって労働時間が長くなる傾向がある一方で、(2)年収の高い労働者や大卒労働者については、逆に労働時間が短くなる傾向がある。このうち、(1)の労働者については、fixed-jobモデルが成立しており、平均的にみれば、ホワイトカラー・エグゼンプションの適用で労働時間が長時間化した分は、基本給の上昇によって補償されている可能性が示唆された。また、(2)の労働者については、労働時間が長くなることによって昇進確率が有意に高まるトーナメント・モデルが当てはまり、昇進に至るまでの出世競争が労働時間を長時間化させている可能性が示された。

詳しい実証は、PDFファイルの方をご覧ください。その的確性については私はコメントする能力がありません。

ここでは政策的インプリケーションについて。本文ではそんなことは言っていませんが、あえて徹底して卑俗に翻訳すると:

低賃金やサービス業などの、まあとても「ホワイトカラーエグゼンプション」などと恥ずかしくて言えないような人々のサービス残業は、実は長時間労働する分賃金が高くなっている。残業代をピンハネしている訳じゃない。

いかにも「ホワイトカラーエグゼンプション」にふさわしそうな高学歴の人々の場合、要するに出世するために若い頃に長時間労働していて、その分はめでたく出世したあとに高給として返ってくる。いわば若い頃の残業代を会社に預けて出世してから払い戻してもらっているわけだ。

というわけで、ホワイトカラーエグゼンプションけしからん、サービス残業けしからん、残業代ゼロだ、ピンハネだ、と口を極めて非難していたけれど、それほど非難されるような悪いことじゃない、というインプリケーションになりそうです。

残業代だけが問題ならば。

しかし、前者の人は(仮にその分賃金が高くなっているとしても)長時間労働で失っているものはあるでしょう。

後者は、まさに本ブログをご覧の多くのホワイトカラーの皆さんにはひしひしと切実な思いをかき立てるところだと思いますが、(将来ほんとに返ってくるかどうかも判らないばくちのために)若い頃の貴重な時間を賭け金として差し出しているわけで、それで出世できなかったら「オレの青春を返せ」というところでしょう。

まあ、そういうコンテクストでこの問題を議論するようになかなかならなかったところに、実は最大の問題があるわけですが。

拙著をお読みの皆様にはおわかりのように、これは拙著第1章のメインテーマです。

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2009年8月10日 (月)

「不動の動」さんの書評

書きながら心の内でかくあるべしと思っていた自分の思いが、活字のみを通じたコミュニケーションで読者にきちんと伝わっていることを知ることはこの上ない喜びです。

http://blog.goo.ne.jp/giventokyo/e/27e81f1b154f3f27667dddf00bc9b673

ご自身「非正規労働をしている」「30代」である「不動の動」さんのこの書評は、何よりも心にしみわたりました。ありがとうございます。

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「企業法務マンサバイバル」さんの書評

「企業法務マンサバイバル」さんのブログで書評いただきました。

http://blog.livedoor.jp/businesslaw/archives/51871925.html

わたしが拙著の「はじめに」で書いた

>わたしは、労働問題に限らず広く社会問題を論ずる際に、その全体としての現実適合性を担保してくれるものは、国際比較の観点と歴史的パースペクティブであると考えています。

を、真正面から受け止めていただいた書評です。嬉しい限りです。

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単純な構図化とプロパガンダ

金子良事さんの拙著への批判点として、

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/

>この本全編にたしかに、濱口さん一流の現場感覚は埋め込まれていると思うが、正直に言うと、相当に背景に隠されていて、私の感覚ではそれを読み取るのは相当に難しいだろうと思う。たとえば、昔からこのクラシカルな議論は大企業モデルで、中小企業には当て嵌まらないではないか、という批判があった。濱口さんもそのことは承知しているから、きちんとエクスキューズを書いている。そして、中小企業が重要でないとは思っていない。ただし、大企業における過労死の問題、非正規問題など、論点を絞って政策を提言する分には、たとえ中小企業の問題を捨象したとしても、それはそれで有効なフレームワークなのだ。したがって、「日本は~」と書いてあるからと言って、日本全体のことを説明しているなどと早合点してはいけない。極めてピンポイントを狙い済ました叙述なのである。

>政策は設計する段階では、いろいろと複雑な事情をそれこそ十重二重に考える必要があるが、訴える段になったら、単純でなければならない。その意味で本来、政策提言はその内容を問うまでもなく、少なからずプロパガンダ的性格を持たざるを得ないのである。まず、政策提言を読むときには、こうした性格を知る必要があるだろう。

この指摘は全面的に正しいのです。まあ、「プロパガンダ」だといわれてあまり愉快ではないというような情緒的な話は別にして、およそ無限に複雑な社会現象をわかりやすく解説し、一定の政策方向に読者を引っ張っていこうとするならば、一定の抽象すなわち一定の捨象は不可避なので、それを「単純な構図化とプロパガンダ」と呼ぶならば、私が『新しい労働社会』でやったことはまさにそれに該当するでしょう。

結局これは土俵設定をどれくらいの広がりで考えるかということの従属変数であって、その土俵設定との関係でどれくらい有用な「単純な構図化」になっているか、という問題と、その土俵設定自体がそもそもの問題意識との関係でどれくらいレリバントであるのか、という問題と、二段階で評価されるべきであろうと思います。

そして、実は上の引用で金子さんが「きちんとエクスキューズを書いている」と述べているように、序章の最後のところに、労働問題がある程度判っている人ならにやりとすることをさらりと書いてあります。その「さらり」が、普通の読者にはあまり強い印象を残さない程度でしかないのは、それに続く本論で主として論じていることが、「単純な構図化」がより当てはまる大企業における正社員と非正規労働者の矛盾とその社会政策的含意にあるからです。

一方、最近本ブログの読者の方々にも強い印象を残したであろう解雇規制問題の文脈でいうと、メンバーシップに基づき整理解雇は難しいが逆にロイヤルティに欠ける奴の解雇は認められやすいという本書の「単純な構図化」はまさに大企業バイアスそのものであって、中小零細企業になればなるほど、そもそもなんであれクビは切りやすいという解雇自由な世界に近づいていきます。しかしながら、それを不用意に本書の議論の文脈に持ち込むと、ただでさえ混乱している読者の頭がますます混乱してしまいます。「おいおい、日本は首切り易いのか、首切りにくいのか、どっちなんだ、はっきりしろ」と、テレビの討論番組なら罵倒されて、終わりです。少なくとも、私はそう考えて、本書の土俵をそのように設定し、その旨を序章の最後に明記しておいたわけです。

それを「プロパガンダ」というか、というのはなかなか難しいところですが、少なくとも政策科学的志向を持った社会問題の研究としては十分あり得るやり方であると考えています。おそらくその点が、「政策提言をフィールドにしていない」歴史的実証主義に立つ金子さんとスタイルとして一致し得ないところなのかも知れません。

逆に、このように「単純な構図化」が問題になること自体、私が純粋理論派ではなく、生々しい現実から(一定の抽象過程を経て)議論を組み立てていく立場であることを示しているとも言えるでしょう。このあたりは両棲類たるわたしの存在構造それ自体であると考えています。

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2009年8月 9日 (日)

日欧の大学と職業―高等教育と職業に関する12ヵ国比較調査結果―

議論が老社会学者氏の「正論」のような糸の切れた凧にならないようにするためには、やはり実証研究の成果をきちんと使う必要があります。ここ数日charisさんとの間でやりとりされている教育と仕事の関係、なかんずく高等教育と仕事の関係についても、まさに「職業レリバンス」という問題意識に基づいて行われた調査研究が踏まえられる必要があると思います。

JILPTは前身のJIL時代からこの問題領域について繰り返し研究を行い報告書をまとめてきていますが、とりあえず一番まとまったものとしては、2001年3月に発表された「日欧の大学と職業―高等教育と職業に関する12ヵ国比較調査結果―」が有用です。

http://db.jil.go.jp/cgi-bin/jsk012?smode=dtldsp&detail=E2001090016&displayflg=1

>日本労働研究機構では、平成10年度より「大卒者の職業への移行国際比較研究会」を設置し、欧州側研究組織と共同で、日欧の大卒者の職業への移行とキャリアについての調査研究を実施してきた。
 本書は、この共同研究として行われてきた「高等教育と職業に関する国際比較調査」の結果を基に、大学教育と職業の接続のあり方を日本側研究者の視点から検討・分析し、国際比較の観点より考察したものである

このうち第4章「大学教育と職業の関係」が、ここでの議論にもっともレリバントです。

http://db.jil.go.jp/cgi-bin/jsk012?smode=zendsp&detail=E2001090016&displayflg=1&pos=138718&num=12224

いくつかの記述を引っ張っておきますと、まず「問題と背景」として、

>日本で大学教育と職業の関連がさかんに論議されるようになった背景について簡単に触れておこう。1992年から始まる18歳人口の急減によって日本の大学は21世紀初頭にもユニバーサル段階に突入することが必至となり、大学教育の質の維持が「問題」として取り上げられるようになった。この問題を議論する過程で従来の大学教育の目的と内容が再検討に付され、大学教育の職業的レリバンスの問題も浮かび上がってきたのである。ヨーロッパの多くの国には、「大学」のみならず、職業人養成を目的とする「非大学型高等教育機関」も高等教育の重要な一角を占めている。したがって、高等教育段階における職業教育のあり方をめぐる議論は、「非大学型高等教育機関」と「大学」との制度的な役割区分を前提にしておこなわれてきた。それに対して戦後日本の高等教育には、「大学」に比肩しうる有力な「非大学型高等教育機関」は存在しない。このため、日本の大学は、急激に規模を拡大して多数の大卒人材を社会に送り出してきたという厳然たる「事実」があるにもかかわらず、その根強いアカデミックな研究志向のゆえに、職業教育の問題を大学教育の目的と関わらせて論議する雰囲気は、医学部や教員養成学部のような専門職業人養成を本来的な目的とする学部を除き、なかなか顕在化しなかった。その雰囲気が、18歳人口の急減とユニバーサル化への趨勢という現実に直面して一変したのである。また、1990年代に入ってからの財政事情の悪化によって、大学投資へのアカウンタビリィ圧力が高まり、大学が社会に大量に送り出している卒業生は、投資に見合うだけの知識と能力を備えた人材として育成されているのか、という社会から大学への問いかけも、大学教育の職業的レリバンスという問題の浮上に一層の拍車をかけた。
 しかし、このような背景の下で1990年代に急速に進行した大学改革が大学教育の目的、とくに学士教育段階での教育のあり方に関する議論の混乱を生み出したことは否定できない。大学設定基準の大綱化によって学士教育段階での「一般教育」と「専門教育」の区分がとりはらわれ、「一般教育」のカテゴリーの中に占めてきた教養教育の位置づけが曖昧になった。また、これをきっかけに国立大学で急速に進行した教養部の廃止によって、教養教育を担う責任主体の組織は弱体化・不安定化した。その結果、学士教育段階において肥大化した専門教育は、その目的を、教養教育との関連よりも、社会的・職業的ニーズとの関連の中に求めるようになった。こうした経緯もあって、大多数の大学は異口同音に「職業人養成」や「職業に直結する専門教育」を唱えるようになった。しかし、この目的に沿って養成したはずの卒業生が、大学で学んだことを十分に活用できる仕事に就くことができる制度的保障はない。日本の大学教育の職業的レリバンスの問題について議論するにあたっては、以上のような背景を念頭に置く必要がある

最初に「日本の大卒労働市場の特性」について、

>日本の大卒労働市場が、医師など特定の専門職を除き、職業別に編成されていないことは周知の事実である。このことは、本調査のデータからも確認することができる。図4-1は、日本およびヨーロッパ諸国における高等教育卒業者の従事している職業(卒後3年時点)について、大学での専攻分野別に、その構成比を示したものである。ヨーロッパの多くの国では、どの専攻分野の出身であっても、専門職と準専門職が高等教育卒業者の就く主要な職業になっている。それに対して、日本では専門職に就く者の比率は相対的に低く、一般事務職、サービス職・販売職従事者の比率が極めて高くなっている。とくに、社会科学、経営、法律を専攻した卒業生の従事している職業分野の構成は極めて類似しており、ほとんど区別がつかないほどである。また、理学系、工学系の出身者も、専門職従事者の比率はヨーロッパとほぼ同じ水準であるが、これ以外の者が準専門職に就く割合は低く、むしろ、一般事務職、サービス職・販売職に従事する者のほうが多い。
 専門職や準専門職は、入職に際して特定の「資格」を必要とするか否かの問題は別にしても、おもに学校のスクーリングを通じて一定程度の体系的な専門的知識を習得していることが前提とされる職業である。この点で日本とヨーロッパの諸国に違いはない。日本の大卒者が卒業後の比較的早い時点で専門職に就いている者が少ないということは、大学で学んだことがなかなか仕事に直結しないことを意味する。つまり、「専攻分野の教育内容が適切であるかどうか」を論じる以前に、そもそも「大学で学んだ知識を活かす場」がすぐには得られない制度的仕組みになっているのである。

ここの3つのグラフ、はじめの人文科学、社会科学、経営系、

E2001090016zu090_2

次の法学、自然科学、工学系、

E2001090016zu091_2

最後の保健系

E2001090016zu092_2

の各国の姿を見比べただけで、日本の社会科学系、経営系、法学系の特異さが際だちます。

その最大の原因は、

>日本では、大学が学部段階において特定の職業に就くことを想定して専攻分野の教育をおこなうために不可欠の前提条件が、労働市場側に整っていないともいえる。

であり、これを別の言い方をすれば、ジョブではなく「ヒト」でのみ労働市場が成り立っていると言うことです。

特に二つめのグラフを見れば分かるように、理科系では日本でもヨーロッパ諸国と同様に専門職に就職しています。上の法学系だけ、ヨーロッパ諸国では大部分専門職に就職しているのに対し、日本では大部分が事務職とサービス・販売職に入っていっているのです。それをほったらかしにして、「ロースクールで専門職養成」などと騒いでいることに、日本の法学教育界はあまり問題意識がないのですねえ。

次に、「大学における専攻分野と仕事との関連性」について、

>このことは、自分の受けた大学での教育が、現在の仕事の内容とどの程度の関連性をもっているかを卒業生に尋ねた質問への回答結果からも裏付けられる。日本の大学卒業生の13.8%は、「大学での勉強は現在の仕事と全く無関係だ」と答えており、「大学で何を専攻したかはそれほど重要でない」と答えている者も27.2%にのぼり、ヨーロッパ諸国に比べて非常に高い数字を示している(図4-2(A))。しかし、専門職に就いている者だけを取り出してみれば、やや高めではあるものの、日本の数字がそれほど突出しているわけではない(図4-2(B))。ヨーロッパ諸国の高等教育卒業者にはあまり縁のない一般事務職、サービス職・販売職に従事する大卒者が日本には大量に存在し、かれらの回答傾向が大卒者全体の数字を引き上げているのである(図4-2(D))。

まさしく、高校普通科就職組と同じ事態がこうした文化系非専門職就職組に起こっているわけですね。

「結論と今後の展望」の中のとりわけ次の言葉は、もう少しかみしめられるべき必要があるように思います。

>日本では今日、たとえば、高度な経営管理能力を備えた人材や法曹実務家への需要の高まりにみられるように、専門職業人養成の担い手として大学院レベルの教育に目が向けられている。しかし、現在の学部教育と大学院教育との制度的接続の関係に手をつけないままに、この方向での制度化が進行していけば、学部教育の一部分は、専門大学院への進学準備教育としての連続性や一貫性を謳わない限り、その専門性や独自性を主張することは難しくなる。これを主張しうる法学系、経営学系の学部を持つ大学は限られているので、それ以外の大学の既存の法学部、経営学部は、どのようにしてその存在理由を示すことができるのであろうか。この問題は、学部編成の再編につながる重要な問題を孕んでいることは確かである。

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2009年8月 8日 (土)

荒木尚志『労働法』

L14407 荒木尚志先生から大著『労働法』(有斐閣)をお送りいただきました。

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641144071

>労働契約法等の労働立法の展開と労働関係の特質を踏まえた新体系による待望の書。最先端の学説状況と裁判例の的確な分析に基づき安定した解釈論を提示するとともに,今後の労働法政策をも展望。体系の骨格部分と展開的議論の2段階叙述とし,幅広い読者に応える

構成上の特徴は、下の目次にあるように、個別的労働関係法を労働保護法と労働契約法に二分していることです。また、最近の菅野名著や水町先生の本のように紛争処理を第4分野としてあえて立てることなく、個別紛争処理は労働契約法に、労働争議と不当労働行為は集団的労働関係法に入れている点も、私にはむしろ適切と思われました。

第1部 労働法総論
  第1章 労働法の形成と展開
  第2章 労働関係の特色・労働法の体系・労働条件規制システム
第2部 個別的労働関係法
  第3章 個別的労働関係法総論
 第1編 労働保護法
  第4章 労働者の人権保障(労働憲章)
  第5章 雇用平等,ワーク・ライフ・バランス法制
  第6章 賃 金
  第7章 労働時間
  第8章 年次有給休暇
  第9章 安全衛生・労働災害
 第2編 労働契約法
  第10章 労働契約の基本原理
  第11章 雇用保障(労働契約終了の法規制)と雇用システム
  第12章 労働関係の成立・開始
  第13章 就業規則と労働条件設定・変更
  第14章 人 事
  第15章 企業組織変動と労働関係
  第16章 懲 戒
  第17章 非典型雇用
  第18章 個別的労働紛争処理システム
第3部 集団的労働関係法
  第19章 労働組合
  第20章 団体交渉
  第21章 労働協約
  第22章 団体行動
  第23章 不当労働行為
第4部 労働市場法
  第24章 労働市場法総論
  第25章 労働市場法各論
  第26章 雇用システムの変化と雇用・労働政策の課題

全体としてまさに大家の風格を漂わせる筆致で論述が進んでいきますが、一カ所、荒木先生の素顔がちらりと顔を出しているところがあります。「第7章 労働時間」の「第5節 労働時間の概念と算定」の「Ⅲ 労基法上の労働時間概念」です。荒木先生の上品な記述をあえて下品に翻訳すると、

>コラァ、最高裁判例の指揮命令下一元説はまちがっとるぞ、俺の相補的二要件説をもういっぺん勉強し直せ!

という気分がにじみ出る記述になっております。詳しくは本書162頁から165頁をどうぞ。

ちなみに、指揮命令一元説の矛盾は、先日来本ブログで取り上げている奈良病院事件の「宅直」の労働時間性の問題でいよいよ露呈してきたと私は考えています。

荒木先生の雇用システム論は、第11章(雇用終了法制)の冒頭と、第14章(人事)の冒頭、第17章(非典型雇用)の冒頭で少しずつ論じられたあと、最後の第26章でやや突っ込んだ議論がされています。その最後の節「多様化した労働者と雇用システム」の最後のパラグラフを紹介しておきます。

>労働者の多様化に対応して労働法規制の在り方も多様化していくこととなる。しかし、これが法規制の単なる複雑化をもたらすのでは問題である。労働者が労働の現場で自己の権利を明確に認識し、その履行を確認でき、実効性が確保される、そのような仕組みの再構築が要請されている。そしてどのような雇用モデルを選択してもそれがディーセント・ワークであり、公正さの確保された働き方であることを労働法は保障しなければならない。伝統的な手法が不要になったのではなく、伝統的手法だけでは多様化し複雑化した労働関係の全般についてディーセント・ワークを確保できなくなっていることに対処する必要がある。しかし、この問題に正面から取り組もうとすると、事態は使用者と労働者の利害の対立といった単純な図式でとらえきれるものではなく、株主と使用者(経営者)の対立、正規従業員と非正規従業員の対立、労働者の性別や世代間の対立、そして国境を超えた企業間、労働者間の利害対立など、きわめて多様かつ輻輳した関係者の利害調整問題をはらんだ困難な作業を必要とするものである。その意味で、労働法の任務は、かつてよりはるかに広範に、複雑に、そしてまた困難になっている。しかし、こうした困難な課題に新時代の労働法は取り組まざるを得ないし、これと真摯に向き合うことによって初めて、働くことに人々が幸せを実感時間できる社会を実現することも可能となろう

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Amazonランキング

現時点で、Amazonでは「労働問題の中で最も人気がある商品」のようです。

http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/505404/ref=pd_ts_b_nav

ちなみに、2位は風間直樹さんの『雇用融解―これが新しい「日本型雇用」なのか』、3位は城繁幸氏の『たった1%の賃下げが99%を幸せにする』です。以下、新井千暁氏の『職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理』、門倉貴史氏の『ワーキングプア いくら働いても報われない時代が来る』、山田久氏の『雇用再生―戦後最悪の危機からどう脱出するか』、小林良暢さんの『なぜ雇用格差はなくならないのか―正規・非正規の壁をなくす労働市場改革』と続きます。

まあ、Amazonでの売り上げはブログをみてアマゾンに飛んでクリックというのが結構効きますから、現実の書店での売り上げを必ずしも反映していないとも思われますが、なんにせよ、それなりに世間の人々に読まれているとということはうれしいことです。

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高校普通科

charisさんとの議論の中心にある論点を、哲学や美学といった個々の学問分野の意味や価値をどう考えるかという個別領域ごとにそれぞれ思い入れやら何やらがあり得る論点を捨象して(私自身の思い入れは最後のところに付記します)、ある意味で本質的なところだけを純粋抽出すると、職業教育ではないという消極的な定義しかできない「高校普通科」をどう考えるかという問題に至ります。

たまたま、児美川孝一郎さんのブログ「Under my thumb」の標題のエントリが載っていましたので、一つのヒントとして。

http://blogs.dion.ne.jp/career/archives/8637771.html

>昨日は,神奈川県高校教育会館主催の教育講座の講師として,「権利としてのキャリア教育」について話をしてきた。

なかなか感度の高い先生がたと議論できたのは,面白かったし,今どきの学校現場がどれほど“押し込められて”きているのかが(表現は悪いけど),ひしひしと伝わってきた感じ。

最後の討論の際に,議論になった論点の一つは,生徒数ベースで約72%が普通科に通うという日本の学校制度をどう見るかという点。

僕などは,これに対してかなりネガティブな見方をしていることを提示したわけだけど,高校の先生たちの感覚としては,そう単純ではないところがある。

圧倒的な普通科体制というのは,かつての政策としての高校多様化に対置して,運動の側もそれを求めてきたという経緯もあるし,高校が職業科中心になった場合,中学生段階でもアイデンティティ分化を求めることになるわけだけど,日本の家庭や子どもたちの実態としては,それには無理があるという現場感覚・・・

他方で,日本的な普通科体制を支えてきた企業内教育の側が,いまや相当に縮小しているという現実もあり,高校卒業後の公的職業訓練機関がきわめて貧弱だという日本の現実を考えれば・・・

ていねいに,かつ慎重に議論しなくてはいけない論点ではあることは確かなんだけどね。

たしかに、「ていねいに,かつ慎重に議論しなくてはいけない論点」なんですね。

児美川さんは、私も参加している日本学術会議の大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会 大学と職業との接続検討分科会において、本田由紀さんとともに幹事をされていて、考え方としてもまさに「職業レリバンス」派なんですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-edd3.html(大学と職業との接続検討分科会)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ba51.html(日本型雇用システムにおける人材養成と学校から仕事への移行)

職業レリバンスなき教育を受けたまま労働市場に投げ出されてひどい目にあっている若者達に、せめて身を守る「鎧」として職業能力を・・・というワークの側からの問題意識と、そんなこと言ったって現実の子供達は・・・というスクールの側からの現実認識を「トゥ」でつなげることができるものかどうか、大変悩ましいところです。

児美川さんのエントリのコメント欄のギャルソンさんのこの言葉もなかなかに深いものがあります。

>関連があるかいまひとつ自信がないのですが、アカデミックな教科のほうが職業教育教科の内容よりも格が高いというか、あるいはありがたい?というかそういう傾向とかあると思うのですが(ないかもしれませんが)その理由は何故なんでしょうか。自分自身はそういう風に思ってしまう傾向があるような気がします。その一方で、僕の周りの子どもたちに関しては、普通科高校に進学した子どもたちよりも高専や専門高校に進学した子どもたちの活躍ぶりのほうをよく聴くような気もします。

関連があるか」どころか、ある意味でそれが問題の中核でしょう。

これもまた、本ブログでむかし論じあったテーマですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)

>これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。

およそ具体的な職能については企業内訓練に優るものはないのですが、とは言え、企業行動自体が徐々にシフトしてきつつあることも確かであって、とりわけ初期教育訓練コストを今までのように全面的に企業が負担するというこれまでのやり方は、全面的に維持されるとは必ずしも言い難いでしょう。大学院が研究者及び研究者になれないフリーター・ニート製造所であるだけでなく、実務的職業人養成機能を積極的に持とうとし始めているのも、この企業行動の変化と対応していると言えましょう。

本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます

このときのコメント欄でのやりとりが、非常におもしろいので、ぜひリンク先をお読みいただきたいと思います。

(付記)

ちなみに、私自身の哲学への個人的な思い入れは、

>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

ということに尽きます。

一番おぞましいのは、”日本型雇用システムの中でいかなる長時間労働にも耐えて24時間がんばれる「人間力」を養うための「人間テツガク」を”、というような、「テツガクの職業的レリバンス」です。日本でテツガクの職業的レリバンスとかをまじめに議論し出すとほぼ間違いなくそういう話にしかなりません。私はそういうのは断固としてイヤです。

これは個人的趣味のレベルの話ですので、無視していただければと思います。

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迷跡目録さんの書評

迷跡目録さんの拙著への書評です。トラックバックを頂きました。

http://blog.livedoor.jp/akiotsuchida/archives/51698093.html

「納得の労働論」という評価を頂いております。ありがとうございます。

>そもそもこの著者の論がしっくりくる理由というのも、実定法の規定に沿った、私法の一般原則を踏まえた、手堅い論理構築が好きという自分の趣味に合致するからなんだろうと気づいた次第です。
第3章までに展開される日本の雇用体系の現状と課題の分析、そして解決の方向性の提示は、歴史的かつ比較法的な考察が過不足なく盛り込まれ、非常に説得力に富んでいます。

というお褒めの次に、さらに、このような的確な指摘を頂いています。

>ただよくわからなかったのは、一方で、

 まず、あるべき労働者代表組織は純粋な自発的組織であってはいけません。(186頁)

とあり、他方で、

 ここまで述べてきたように、まさにこの点を改革して、正社員と非正規労働者を包括する公正な労働者代表組織として企業別組合を再構築することが、現実に可能な唯一の道であるように思われます。(203頁)

とあるところ。

ご指摘の通り、ここはわざとあえて矛盾する議論を展開しています。

すでに金子良事さんによる批判への回答で述べたように、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-21c8.html

>実は、第4章での私の議論は本質的に矛盾を抱えています。「186ページの挑発」というのは、詰まるところ、「労働者代表組織は労働組合であってはならないが、労働組合でなければならない」ということなんですね。この論理的矛盾を論理的に解決するのは簡単で、どっちかに身を寄せてしまえばいいのです。

それをあえてしないで、労働組合を労働組合のままで包括的労働者代表組織にしてしまおうという論理的矛盾をわざと晒しているのが第4章なので、だからこそ、(世間で流行っている労働の議論からすると「地味」に見えますが)これほどコントロバーシャルで炎上しやすい議論もないはずだと、私は思っているわけです。論理的に二律背反のはずなのにあえてそういう議論を提示しているところに、わたしのリアリズム観があると考えていただければ。

理屈としての整合性だけを考えるのであれば、

1 自発的結社としての労働組合が大事だ

 (1) 誰でも労働組合を作れるのに作らんような奴は知らん

 (2) 労働組合の自主的な組織化努力を見守ろう

2 労働組合とは別に公的強制設立機関としての包括的労働者代表制を

 (1) 結社としての労働組合は産別中心化して生き残れ

 (2) 労働組合はなくなっても仕方がない

という風な考え方がありえます。どれもそれぞれに理屈としてはもっともな理屈は立ちますが、1(2)と2(1)は現実可能性に疑問符が付き、1(1)と2(2)は現実にそうなる可能性が強いだけに「そんなことでいいのですか?」という疑問に答えきれないのではないかと思えます。

この問題はどこか他の国にモデルを求めて答えが出るような問題ではありません。欧州諸国は、産業レベルに自発的結社としての労働組合がきちんと存在していることを前提に、その事実上の影響力のもとに、企業・事業所レベルに公的な強制設立の包括的労働者代表システムを設けているわけです。自発的結社としての労働組合の存立根拠がほとんどすべて企業レベルにしか存在しない日本において、それと同じレベルに別の労働者代表制を作ってしまうと、機能がもろにバッティングしてしまい、2(2)の結末に至る可能性が高まってしまいます。

そこで、「出羽の守」としては、日本も欧州のように産別中心化すべきといいたくなるところでしょうが、そこがなまじリアリストの「出羽の介」としては、そんな無理なことを言ったって・・・となるわけで、あえて本質的に矛盾を抱えた議論を提示しているのです。

そこのところを見事に指摘していただいた迷跡目録さんに感謝いたします。

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2009年8月 7日 (金)

charis氏の拙著批判への若干のコメント

charis氏の拙著に対する3回シリーズの批判が終わったようですので、若干のコメントを述べておきたいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/charis/20090804

http://d.hatena.ne.jp/charis/20090805

http://d.hatena.ne.jp/charis/20090806

まずはじめに申し上げておきますと、charisさんはいささかわたくしを急進的な改革論者という風に認識されすぎておられるのではないかと感じました。わたくしのモットーは、認識論的にはラディカル(根底的に考えるということ)に、実践論的にはリアリストであれ、というところにありますので、

>長期雇用・年功賃金制という屋台骨を破壊しなければならないほどの積極的な理由を、私は濱口氏の叙述の中には読み取れなかった。

などという急進的な主張をした覚えはないのですが。むしろ、短期的にはそんなことは不可能だし無理にやったら社会全体にとんでもない影響を及ぼすから、短期的な対策としては非正規の初任給を正規に合わせて勤続に応じて上げていくしかなかろうというまことに保守的な提案をしています。

また、まさに今までの日本では圧倒的に

>しかし私のような素人から見ると、日本の長期雇用、年功賃金制度というのは、労働者にとってはメリットの方が大きく、使用者や政府にとっても悪くない制度のように思われる。多くの正社員やその家族は、残業があっても収入が多い方がよいと考えるだろうから、長時間労働も簡単にはなくならないのではないか。

ということを述べているわけで、日本の労働者やその家族がこれまでと変わらずにそれを求め続けるのであれば、それでよいわけです。ただし、それなら長時間労働に文句を言ってはいけないし、転勤に文句を言ってはいけないし、シングルマザーや就職氷河期の諸君には可哀想だが我慢してもらいましょう、というだけの話であって、そこの価値判断を押しつけるつもりもありません。

ただ、マクロ社会的にそれでサステナブルか、という問いに対しては、そうとはいえないでしょうと私は認識しているということであって、であるとすれば中長期的にはある程度の改革-ほどほどのジョブ性とほどほどのメンバーシップ性-という方向に向かうことになるのではなかろうか、とすると、社会システムはお互いに補完性を有していますから、社会保障制度や教育制度も変わっていかざるを得ないでしょうね、という筋道です。

ここのところについては、異なる認識に立って議論を展開することは十分可能ですし、charisさんがそのような立論をされることは大いに大歓迎です。ただし、ここが私にとってはきわめて重要ですが、いかなる立場をとるにせよ、その立場をとることの論理的帰結は、いかにそれが醜悪に見えようとも、きちんと引き受ける必要があります。世の多くの議論が「駄目」なのは、そこのところがいい加減で、あっちの土俵ではああいい、こっちの土俵ではこういう、といういいとこ取りを平気でやる人が多いからです(とわたくしは考えています)。

日本型雇用システムに整合的に形成された教育制度を変える必要がない、という立論を(自分の職業的利害とは別立てに)論ずるのであれば、そのことの論理的帰結としての無制限の長時間労働や女性のキャリア形成の困難さや就職氷河期の若者やらについても、メリットのあるシステムを維持するためのコストとしてやむを得ないものであるから我慢せよと明確に主張しなければなりません。charisさんはほぼそのように主張されているように思われますので、わたくしからすると尊敬すべき態度であると見えます。

以上は主として雇用システムのあり方についての議論ですが、おそらくcharisさんがこの批判をされた大きな動因は、職業レリバンス論への違和感であったようです。

この点についてはじめに誤解を解いておきますと、ここでいう「職業レリバンス」とは本田由紀先生が『若者と仕事』で提起された概念で、ジョブに密接につながるものです。ですから、以下の記述はおそらく拙著の誤読によるものと思われます

>濱口氏の言われる「職業的レリバンス」は、あまりにも狭く性急すぎるように感じられる。そして、本書で氏が力説されるテーゼ、すなわち、日本の雇用慣行には「職務(ジョブ)」概念が希薄であるという根本事実とも矛盾するのではないかと思われる。日本の企業はあくまで「人」を採用するのであり、同じ「人」をさまざまな「職務」に配置転換し、さまざまな「職務」を経験させるのが、日本の企業の労働形態である。中途採用は別として、少なくとも新卒を採用する段階では、企業は汎用性のある能力をもつ「人」を求めているのであり、ある「職務」だけをこなす職人を求めているのではない。とすれば、大学教育において求められる「職業的レリバンス」は、特定の「職務」を指向した職人的なものではなく、汎用性のある基礎学力のようなものではないだろうか。

まさにそのとおりで、今までの日本の雇用システムでは、ジョブ型の職業レリバンスなどは不要であったわけです。「人間力」を求めていたわけです。そういうのを「職業レリバンス」とは呼びません。いや、オレはどうしてもそう呼びたいというのを無理に止めませんが、そうするとまったく正反対のジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性を同じ言葉で呼ぶことになってしまい、思考の混乱をもたらすでしょう。このへん、charisさんは哲学者であるはずなのに、わたくしの雇用システムの認識論と、これからの社会のあり方についてのべき論とをいささか混交して読まれているようです。

ただし、実はここで日本型雇用システムが要請する職業レリバンスなき大学教育は、charisさんが希望するようなリベラルアーツ型のものでは必ずしもありません。ここは、本ブログでも何回か書いたところですが、企業がなぜ法学部卒や経済学部卒を好んで採用し、文学部卒はあまり好まないのか、教育の中身が職業レリバンスがないという点では何ら変わりはないはずなのに、そのような「差別」があるというのは、法学部、経済学部卒の方が、まさにジョブなき会社メンバーとして無制限のタスクを遂行する精神的な用意があると見なされているからでしょう。逆にリベラルアーツで世俗に批判的な「知の力」なんぞをなまじつけられてはかえって使いにくいということでしょう。まあ、とはいえこれは大学教育がそれだけの効果を持っているというやや非現実的な前提に立った議論ですので、実際はどっちみちたいした違いはないという方が現実に近いようにも思われます。

それにしても、ここで、charisさんの希望する「人間力」と企業が期待する「人間力」に段差が生じていることになります。日本型雇用システムは、(本来職業レリバンスがあるべきであるにもかかわらず)職業レリバンスなき法学部教育や経済学部教育とは論理的な関係にありますが、もともと職業レリバンスがないリベラルアーツとは直接的な論理的因果関係はありません。

では、高度成長期に法学部や経済学部だけでなく文学部も大量に作られ膨張したのはなぜか、というと、これはcharisさんにはいささか辛辣なものの言い方になるかも知れませんが、企業への男性正社員就職としてはハンディキャップになりうる点が、男女異なる労務管理がデフォルトルールであった時代には、むしろ一生会社勤めしようなどと馬鹿げたことを考えたりせず、さっさと結婚退職して、子どもが手がかからなくなったらパートで戻るという女性専用職業コースをたどりますという暗黙のメッセージになっていたからでしょう。あるいは、結婚という「永久就職」市場における女性側の提示するメリットとして、法学部や経済学部なんぞでこ難しい理屈をこねるようになったかわいくない女性ではなく、シェークスピアや源氏物語をお勉強してきたかわいい女性です、というメッセージという面もあったでしょう。

そういう男女の社会的分業体制まで含めて日本型雇用システムと呼ぶならば、もともと職業レリバンスのない文学部の膨張もまた、日本型雇用システムの論理的帰結ということができます。なによりも、そのような大学生活のコスト及び機会費用をその親が負担することが前提である以上、ちょうど子どもが大学に進む年代の親の賃金水準がそれを賄える程度のものであることが必要なのですから、その意味でもまさにシステムの論理的帰結です。

このようなリベラルアーツの「社会的レリバンス」(トータルの社会システムがそれに与えている社会的意味)が、当該リベラルアーツを教えておられる立場の方にとっては、必ずしも愉快なものではないことは想像できます。しかし、社会の認識は愉快不愉快によって左右されるべきものではありません。

かつて、このあたりについて次のように論じたことがありますが、考え方はまったく同じです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

>上で申し上げたように、私は「人間力」を養うことにはそれなりの意義があるとは考えていますが、そのためにあえて大学で哲学や文学を専攻しようとしている人がいれば、そんな馬鹿なことは止めろと言いますよ。好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

>歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。

このほかのレリバンス論シリーズとして、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

なお、最近のものとして、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/vs_3880.html(爆問学問 本田由紀 vs 太田光)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-28b3.html(一度しか来ない列車)

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2009年8月 6日 (木)

阿久根民主主義人民共和国刑法第247条第2項第3項

労働と関係のない雑件を引きずって申し訳ありませんが、これはもうあまりにも素晴らしき世界で。

http://www5.diary.ne.jp/user/521727/

>公務員が背任行為を行った場合の刑罰は非常に厳しい。
国民に財産上の損害を加えた場合には、終身刑又は無期懲役である。

刑法247条(背任)

2項 他人のためにその事務を処理する公務員が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたときは、十五年以下の懲役又は五百万円以下の罰金に処する。

3項 他人のためにその事務を処理する公務員が、自己若しくは第三者の利益を図り又は国民に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、国民に財産上の損害を加えたときは、終身刑又は無期懲役に処する。

ちなみに、法学部の学生は六法全書を引かなくても、日本国刑法第247条は、

>(背任)
第247条 他人のためにその事務を処理する者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたときは、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

だけであって、第2項も第3項もないという事は判ってなくてはいけませんよ。

さて、阿久根民主主義人民共和国刑法ですが、法律フリークの方々は「公務員にとって「他人」とは誰か?」とか、2項の「本人」と3項の「国民」の意義如何といった解釈論に熱中してしまうかも知れませんが、ここはやはり、一般国民であれば「5年以下の懲役又は50万円以下の罰金」であるものが、犯罪主体が公務員になると「終身刑又は無期懲役」になるという刑罰の格差に注目したいと思います。

その格差を維持して、一般国民でも刑罰が「死刑又は無期禁固」であるような重罪について公務員に適用すると、どんな厳格な刑罰を適用しなければならなくなるか、想像するだけでも興味深いところですが、例えば、これなんかどうでしょう。

>(内乱)
第77条 国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
1.首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。
2.謀議に参与し、又は群衆を指揮した者は無期又は3年以上の禁錮に処し、その他諸般の職務に従事した者は1年以上10年以下の禁錮に処する。
3.付和随行し、その他単に暴動に参加した者は、3年以下の禁錮に処する。
2 前項の罪の未遂は、罰する。ただし、同項第3号に規定する者については、この限りでない。

公務員であるところの竹原阿久根市長の

>自治労事務所問題で公務員仲間の裁判官に判断させれば結論は明らか。
市民の税金を使って、公務員の舞台で踊るようなマネはできません。

というお言葉は、「日本国の領土において国権を排除して権力を行使しその他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的と」しているように読めなくはないんですが。

いうまでもなく、日本国政府は阿久根民主主義人民共和国を承認していませんし、阿久根市という地方公共団体の区域内において日本国の国権を排除する権力の存在を認めたことはないはずです(私の知る限り)。内乱罪の「首謀者は死刑又は無期禁固に処する」んですけど。未遂であってもね。

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こういう「社会学者」はいらない

私は社会学という学問には敬意を持っていますし、多くの尊敬すべき社会学者を知っていますし、労働問題という自分の土俵を科学的に分析する上で、社会学の知見は大変役に立つとも思っていますし、いやとにかく、私は社会学という学問分野それ自体に対してどうこう言おうとしているのではないと言うことを、ごてごてと言い訳しているのです、あらかじめ。

なんでそんな持って回った事をしているのかというと、「社会学者」という肩書きを載っけた有名な評論家氏が、某全国紙の「正論」という欄で、ものごとを知らない横町のご隠居が聞きかじったことどもだけで知った風な口をきけばこういう風になるのかなあ、という風な評論をしているのを見て、思わず標題のような感想を抱いたもので。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090806/plc0908060356000-n1.htm

>【正論】社会学者・加藤秀俊 外国人に「働いてもらう」不思議

中身はコピペする気も起こらないので、リンク先を読んでください。まあ、そういう「いかにも」なカラッポ評論家が我が日本国においては昔から「社会学者」としてもてはやされるんですよね。実証分析なんて言葉は多分冥王星よりも遙か彼方にあるんでしょうね。加藤秀俊氏はもうかなりのご老体ですが、似たような立ち位置で「社会学者」という看板を掲げて狗肉を売り歩いている中年の方や若手の方々もおられるようで。

(追記)

私も相当に見くびられたと見るべきか、

http://kitsunekonkon.blog38.fc2.com/blog-entry-2248.html

>おそらくhamachanさんは、加藤氏をやたらと「最近の若い者は」と言っているインチキ右翼やインチキ保守と同じ人種だと思っているのでしょう。

もしほんとにそう思っていたら、そもそも本ブログでわざわざエントリ一つ立てようなんて思わなかったと思いますよ。

2年前にも、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_2a69.html(ある老社会学者のエッセイ)

>相当のご高齢である加藤さんご自身の無知を咎め立てするつもりはあまりありません

とわざわざコメントしているのも、私が若い頃結構その著書や訳書を読ませてもらった加藤秀俊氏であるからこそ、耄碌したとはいえそのあまりのレベルの低さに愕然としたからなのですが、私の筆力のつたなさ故なのでしょうが、そういう思いはなかなか伝わらないようです。

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2009年8月 5日 (水)

教会は魔女による利用を認めなければならないか

昨年7月に提案されたEUの雇用労働分野以外における一般均等指令案に対して、カトリック教会が批判的な意見を明らかにしています。

これはEUobserver紙の記事で知ったのですが、

http://euobserver.com/22/28522(Catholics alarmed by EU equal rights law)

>Atheists could attack galleries for showing religious art and witches could claim the right to use church halls under a draft EU equal rights law, the Roman Catholic church has warned.

The EU bill aims to curtail discrimination on grounds of religion, disability, age or sexual preference in social situations not covered by existing labour law, such as renting properties.

無神論者は宗教画を展示する美術館を攻撃し、魔女たちは教会を利用する権利を主張できるかも知れない、EUの均等法案のもとで・・・。

ご承知の通り、EUは雇用労働分野については男女差別、人種・民族差別、宗教・信条・年齢、障害、性的指向による差別についてすでに差別を禁止する指令が成立施行されていますし、雇用労働以外の分野についても、男女差別、人種・民族差別についてはすでに指令が成立施行されています。

残っているのは宗教・信条・年齢・障害・性的指向にもとづく雇用労働以外の差別で、これを対象とする指令案が昨年7月に提案されていることは本ブログでも紹介しています。

しかし、残った分野というのはやはり残るだけの理由があって残っているわけで、なかなか難しい問題があるわけです。

とりわけ、日本人にはなかなか理解しにくいというか、理解はしてもひしひしとは感じられないテーマが宗教に基づく差別という問題でしょう。正直言って、わたしもこの記事を読むまでそんな論点があり得るということ自体、思いもつきいませんでした。

宗教と性的指向の交錯する分野では、

>Homosexual groups ...may declare themselves offended by the presentation of the Catholic Church's moral teaching on homosexual acts; Catholics may declare themselves offended by a 'Gay Pride' march; an atheist may be offended by religious pictures in an art gallery."

ホモセクシュアルのグループは、カトリック教会によるホモセクシュアル行為に対する道徳的説教によって権利を侵害されたと主張するかも知れない、カトリック教徒は「ゲイのプライド」の行進によって権利を侵害されたと主張するかも知れない。無神論者は美術館における宗教画によって権利を侵害されたと主張するかも知れない。

本エントリのタイトルにもなっている魔法使いの権利の話は:

>It is not clear whether [the bill] would apply to the activities of a Catholic priest, if, as recently occurred, he were to refuse to take a booking for a Church Hall from a group of witches,"

最近起こったように、カトリックの司祭が魔女のグループからの教会のホールを利用したいという要請を拒絶した場合に、彼の行動に対してまでこの指令案が適用されるかどうかも明かではないのだ。

そこまで考えるか、というのは日本人的感覚であって、やはり宗教というのはなかなか難しいというのがヨーロッパのデフォルトですか。

ちなみに、このカトリック司教団の手紙は以下にあります。

http://www.catholic-ew.org.uk/ccb/content/download/5461/37635/file/CBCEW_SCBC_UK_consultation_Euro_Commission_Equal_Treatment_Directive.pdf

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権丈先生の痛烈な一撃

またまた例によって例のごとく、権丈善一先生のコピペですが、

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/

ご自身で、『atプラス』に書かれた「政策技術学としての経済学を求めて――分配、再分配問題を扱う研究者が見てきた世界」の序論と結論の一部をアップされていますので、これ幸いとそのままこちらにコピペさせていただきます。

一言一言がいちいち痛烈な一撃になっておりまして、これぞ権丈節の醍醐味、心ゆくまでご堪能あれ、というところです。

>序論
・・・・・・
 最近の、つまりマルクス経済学が衰退して後に、社会保障研究に参入してきた経済学者への評価はおおよそ次のように相場が決まっている。――制度を知らない歴史を知らない市場、市場と連呼してはそれが国民生活にいかなる影響を与えるのかについての想像力が欠けている選択の自由は望ましいというただそれだけの思いこみで政策提言をするときには制度設計者たちの意図を大きく曲解させる推計をしては議論を無意味な大混乱におとしめる等々、およそプラスの評価は見られない。されど彼らの知名度は不思議なことに高く、政策形成に影響を与える結構重要な地位を与えられることがある。なぜ、こういうことが起こるのか? ここではそういう問を立ててみようと思う。
 なお、最初に断っておきたいことは、経済学以外の世界から眺めれば、経済学というあたかもひとつの考え方があるように見えるかもしれないが、経済学の中には、他の世界と同様に、実はいくつもの流派がある。経済が危機に瀕し国民生活の底が抜けてしまっている今、経済学をひとくくりにしてこれを全否定したくなる反経済学の感情が起こるのは分かる。しかし、昔から、まともな経済学というものは確実にあり、それを論じる人もたしかに存在してきたのである。ただそうした真っ当な流派が主流派たり得なかったということが真相であり、その原因は、今日的な経済学教育や経済学を学ぶ人に問題があるということを分かってもらうのが、本論の主なねらいである。

結論
・・・・・・
 「隠れ」経済学ファンである私の思考は、相当部分、経済学に負っており、経済学の切れ味はなかなか鋭いものがあると思っている。しかしながら、この切れ味鋭い経済学を是非判断の分別ない者が手にするということは、「小児が利刀を弄ぶ」のと同じことになるのである。小児が利刀を弄んで今日の惨状をもたらしたことが、今の反経済学の流れを生んでいる――少なくとも社会保障という分配、再分配の世界ではそうだろうと、私は考えている。

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竹中平蔵氏の「日本版オランダ革命」

いや、もちろん、竹中平蔵氏のような立派な方が、オランダの雇用法制も知らずにこんなことをおっしゃっているはずがありません。

http://policywatch.jp/agendas/5(日本が成長を続けるための雇用体系とは?)

>終身雇用、年功序列という雇用形態への偏重から訣別し、同一労働同一賃金の原則の確立("日本版オランダ革命")に取り組むべき

世の中には、スウェーデンの雇用法制も知らないまま、「スウェーデンのように解雇自由にすべし」などと叫んで恥をかいた方もおられますが(下記参照)、いうまでもなく5年にわたって日本の経済財政政策の中枢にあり、経済財政白書の主務大臣として海外情勢についても詳細に知りうる立場にあった竹中平蔵氏が、そういう愚かな真似をするはずがありません。

まさしく、オランダの雇用法制、雇用政策を知り尽くした上で、このように発言されているのであろうと思います。

その意味では、今さら言うまでもないことですが、本ブログの読者のために、念のため、オランダの解雇法制について、私の2年前の文章の一部を引っ張ってきておきます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roubenflexicurity.html(解雇規制とフレクシキュリティ)

>(12) オランダ
 解雇には職業所得センターの許可又は裁判所の決定が必要である。労働者を解雇しようとする使用者は職業所得センターの地域事務所に解雇の理由と状況を記載した書面で申請しなければならない。労使双方で構成される解雇委員会が正当な理由があるかどうかを審査する。労働者の能力不足又は非行、経済的理由又は労働関係の長期的障害があれば通常認められる。許可を得て初めて使用者は解雇予告を行える。予告期間は勤続に応じて1ヶ月~4ヶ月である。許可なき解雇は無効である。ただし、公務員、教師、家事使用人及び会社役員は除く。また、試用期間中の者、即時解雇、有期契約の場合も許可は不要である。
 整理解雇に関する職業所得センターの許可基準は、最後に就職した者から最初に解雇される、労働市場で弱い立場の者より強い立場の者が先に解雇される、社内年齢構成を維持する、といったものである。
 職業所得センターの許可の代わりに裁判所に重大な理由による雇用契約の解除を請求することもできる。この場合予告期間はないので、裁判所はいつ雇用が終了するかを決定する。解雇手当の額は、勤続期間、賃金月額及び帰責事由に基づき判例基準で定められている。
 解雇が無効の場合、労働者は復職を求めることができるが、使用者は補償額を上積みすることによりこれを拒むことができる。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-6bab.html(池田信夫氏の熱烈ファンによる3法則の実証 スウェーデンの解雇法制編)

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アマゾンレビュー

拙著のアマゾンレビューが一件載っています。「お気に召すまま」さんです。

http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E2%80%95%E9%9B%87%E7%94%A8%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%86%8D%E6%A7%8B%E7%AF%89%E3%81%B8-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-%EF%BC%91%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%94-%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4004311942

>根本から問題を捉え返す力作

と五つ星をいただきました。

ちなみに、アマゾンではもう在庫切れのようで、「通常2~5週間以内に発送します」ということは「配送センターに在庫がなく、出版社やメーカーから商品を取り寄せる場合」という状態のようです。

また、すでに中古商品2点出品されているようですね(笑)。

(追記)

このアマゾンレビューを書かれた「お気に召すまま」さんが、下の書評を書かれているcharisさんであることに、今頃気がつきました。申し訳ございません。

なお、charisさんの書評は現在なお継続中ですので、いったんまとめられたところで、いただいたご意見に対する考え方をお示ししたいと存じます。

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2009年8月 4日 (火)

「charisの美学日誌」さんの書評

「charisの美学日誌」さんに書評を頂きました。

http://d.hatena.ne.jp/charis/20090804

charisさんにもわたくしの意のあるところを的確に整理ご紹介いただいており、感謝に堪えません。

これは「その(1)」だそうで、「次回は、各論をもう少し具体的にみていきたい。(続く)」とされております。まな板の上で期待しております。

(やや先回り的に)

charisさんから

>さまざまな論点のうち、「大学はアカデミズムに偏向しており、もっと職業学校化すべし」という著者の主張は、形而上学が専門の哲学教師である私には頭の痛い問題であるが、この点も最後に考えてみたい

と予告されている点につきまして、

これは、わたくしがあえてヒール役を演じているわけでして、なぜそんなことをするのかというと、職業レリバンス論の論理的帰結は、妙にベビーフェイスぶるのではなく、きちんと示すべきだと思っているからです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

ちなみに、私自身はこうも思っています。

>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

もう3年以上も前のエントリですが。

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machineryさんの書評

「machineryの日々」さんに、小池和男先生の『仕事の経済学』と並べてご紹介いただきました。

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-329.html(歴史と制度と雇用慣行)

マシナリさんとは”チホー分権のいかがわしさ”みたいな話題で意気投合(!)しているという印象をお持ちと思いますが、実は労働問題でも私の意のあるところをかなり的確に捉えて批評していただいております。

「労働」カテゴリに書かれたエントリをお読みいただくと、とりわけ、解雇規制と集団的労使関係についてのマシナリさんのエントリは、ややもすれば今風に「ウケる」議論に受け取られかねない私の議論の微妙なところを非常にうまく書かれていて、とてもありがたいと思っております。

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-category-8.html

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「きょうの日記」さんの書評

「きょうの日記」さんのブログで拙著を取り上げていただきました。

http://taka0329.cocolog-nifty.com/diary/2009/08/post-aea7.html

>よい本だった。

とのご感想、ありがとうございます。

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雇用保険見直し開始?

厚労省のHPに、去る7月30日に開かれた労政審雇用保険部会の資料がアップされています。

http://www.mhlw.go.jp/za/0803/d18/d18.html

資料1 雇用保険制度の概要(PDF:40KB) 
資料2 雇用保険制度の主要指標(PDF:220KB) 
資料3 財政運営関係資料(PDF:82KB) 
資料4 最近の雇用保険制度の変遷(PDF:390KB) 
資料5 雇用保険制度に係る主な検討課題(PDF:16KB) 
参考資料1 雇用保険制度の概要(詳細)(PDF:389KB) 
参考資料2 諸外国の失業保険制度等(PDF:66KB) 
参考資料3 経済危機対策における主な取組(「雇用対策」関連)(PDF:121KB) 

このうち資料5の「検討課題」というのを覗いてみると、

適用範囲として、「カバーする非正規労働者の範囲」「マルチジョブホルダーへの対応」「65歳以降への対処」という項目が、

給付内容として、「基本手当の水準(上限下限額、給付率、給付日数)」「高齢者雇用継続給付のあり方」「教育訓練給付のあり方」という項目が、

さらに財政運営として、失業等給付と二事業(保険料率等)などが並んでおり、本格的な法改正に向けた検討を始めるようですね。

カバーする非正規の範囲については今年の通常国会で一応の改正はされましたが、なおカバーされない非正規が多数に上ることから、モラルハザードをもたらさないような適用拡大が問題になっているところですし、それ以外の項目も数年来の懸案事項です。特に、労災保険では一定の対応がなされたマルチジョブホルダーの問題は重要でしょう。65歳以上の問題と継続給付の問題は、そもそも高齢者雇用政策としてどのような哲学に立つのかという問い直しがそろそろ必要なのでしょう。一方、NOVAを儲けさせた教育訓練給付はいい加減やめたらと思いますが。あれは一時流行ったフリードマン流の教育バウチャー論のなれの果てですから。

今後実質審議は総選挙後ということになりますが、政治状況がどういう影響を与えるかも含め、注目していきたいと思います。

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2009年8月 3日 (月)

finalvent氏の書評

finalvent氏の「極東ブログ」で書評頂きました。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/08/post-6cf4.html

ほぼ、私が意図したことを的確に理解いただき、解説していただいております。部分的に引用するより、finalvent氏の文章をそのまま読んでいただきたいと思いますので、是非このリンク先をお読みください。

finalventさんも含め、今のところいい読者の方に恵まれていると思っております。まあ、そのうちとんでもなく見当はずれの批難攻撃を受けそうな予感もありますが。

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「空気」の研究

というと、今は亡き山本七平氏になりますが、そもそもこういう日本社会批判のスタイル自体、丸山真男氏のスタイルであったことは、このリンク先の森田朗氏の示すとおりです。

http://pari.u-tokyo.ac.jp/column/column17.html

以前、中島勧氏の「医師を増やせば医療崩壊は止まる?」(下記参照)を紹介した東大政策ビジョン研究センターのコラムですが、今回は森田センター長による「「空気」の研究」です。

>言論の自由が保障されている現代、誰でも他人の名誉や権利を侵害しない限りは自由にものをいうことができるはずである。しかし、実際の社会での会話や議論では、誰もが感じていながら、あるいは全員がそうであると認識していながら、それを口に出してはいけないこと、まして否定することなどは許されないことがある。そこにある見えない呪縛が、ここでいう「空気」である。

それに触れることはタブーであり、あえて触れると、批判され軽蔑され、最悪の場合には仲間はずれにされる。そのようなみえない呪縛を理解できず、口にしてはいけないことを口にすると「KY」として批判されるのである。・・・

>今学期、私は、法学部のゼミで、学生諸君と、新聞や雑誌の記事を素材として、現在のわが国の議論にみられる「空気」の分析を試みている。政権交代の話や地方分権、公務員批判、年金制度、防衛のあり方を巡る議論を分析してみると、確かに議論の基底には、暗黙の前提とされている考え方──「空気」──が存在しており、それを正面から問い直すことを、世論を代表しているというメディアはしようとはしないし、それと異なるものの見方が存在することも、読者に知らせようとしていないようである。

ときにそうした「空気」の存在を示し、問題点を指摘するような見解も掲載されるが、そのような山本七平氏のいう「水を差す」発言は、格好の批判の対象として、むしろその場の「空気」を強化するために使われることが多いといってよいだろう。山本氏は、こうした空気に反する発言をした者は「抗空気罪」によって断罪されると述べているが、実際には、メディアも読者も、そうした糾弾を恐れ、その場の空気によって呪縛されてしまうのである。

しかし、多くの人たちがこのような空気に支配された思考を免れることができず、それに呪縛されたまま意志決定を行うと、それこそ誰もが回避したいと思った戦争に皆が賛成し突入していった愚を繰り返すことになりかねない。

とまあ、ここまでは「総論」でして、総論としては「いや、まさにそうですなあ、空気に支配されてはいけませんなあ」「かつての過ちを繰り返してはいけませんなあ」てなことを、それこそ空気に従っていくらでも言えるわけですが、問題がこと具体的な各論になりますと、いままで「KYなどというのはけしからん」とかいってた人に限って、まさにその空気の奴隷になってしまうわけです。しかも、多くの場合、自分が空気の奴隷になっているなんて全然思わずに、自分はKYなことを言っているように思いこみながらね。

>現在の日本では、「日本の諸悪の根源は官僚であり、公務員は悪い人である」、「北朝鮮は人権を無視した悪い国である」、あるいは「地方へ権限も税源も多く移譲すればするほど、日本は繁栄する」という主張に対しては、反対意見を述べにくい。それはここでいう「空気」の支配によるものである。官僚の弁護や北朝鮮の弁護を少しでもしようものなら、また地方分権を批判するならば、厳しい糾弾を受けかねないのである。

各論が大事なゆえんは、まさにここにあります。総論人間は、「官僚は悪である」「北朝鮮は悪である」「地方分権は善である」「空気に支配されてはいけない」という総論をただ並べて話は終わりですから。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-8a42.html(医師を増やせば医療崩壊は止まる?)

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2009年8月 2日 (日)

総論ばかりの大言壮語居士

権丈先生の痛烈なお言葉。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/

>ちなみに、8月創刊の「atプラス」に書いている「政策技術学としての経済学を求めて」の中に、「政策論というのは、細部への知識と洞察が生命線なのであり、制度への細部への知識と洞察が、思考の碇となって思想のブレを抑える働きもするわけである」という文章を書いている。大きい声では言えないけど、総論ばかりの大言壮語居士の話ってのは、耳を傾けてあげるだけ社会的ロスなんだよね

いるいる。いっぱい。まっとうな各論ができない分、居丈高な総論をぶつ奴。

そういうケーザイ学者もどきとか、コンサルタントまがいに引っかかるのが未だに後を絶たないのが現代日本の最大の病理。

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高校生の進路と親の年収の関連について

Tky200907300476 東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策研究センターが、7月31日付で標記の調査結果を公表しています。同日の朝日新聞にも報じられて、左のグラフはそちらからコピーしたものですが、原資料はここにあります。

http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/crump/resource/crump090731.pdf

>図表1、図表2では、両親の年収によって明らかに大学進学率の差があることがわかります。たとえば、年収400万円以下の家庭では4年制大学進学率が31.4%にとどまるのに対して、1000万円を超える家庭では62.4%に達しています。また、図表3では、男女差、都市部と地方の間の差が大きいこともわかります。
図表4では、国公立大学への進学率は、所得による違いが小さく、高等教育の機会均等を果たすために国公立大学が果たしている役割が大きいことがわかります。
図表5では、現在よりも経済的ゆとりがあるとすれば、子どものために何をさせてあげたいかを尋ねたところ(複数回答)、「とくに現在の希望を変更することはない」という回答が最も多いいっぽう、年収が低いほど「就職よりも進学」「短大・専門学校よりも4年制大学」という回答が多くなっています。進学をしたくてもできない子どもを支援する政策の必要性を示唆しています

朝日の記事にあるように、

http://www.asahi.com/edu/news/TKY200907300473.html

>センター長の金子元久教授(高等教育論)は「このままでは大学教育を受けられる人が所得の階層で固定化してしまう。進学したくてもできない人を支援するセーフティーネットの政策をつくる必要がある」と指摘している

というのがまず普通の反応なのでしょうが、そしてそのこと自体には私は共感しますが、なぜそうなのかというところをきちんと整理しておく必要があるようにも思います。

なぜなら、もし大学というのが職業人生とは関係のない趣味としての教養をお勉強するための場所であるならば、お金がないからその「趣味」ができない貧しい子供にすべて国民の税金で支援してあげなければならない理由は必ずしも説明できないからです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-1a8d.html

大学で学ぶことに「職業的有用性」があるのであれば、貧しい子供に大学教育を受けさせることは、いわばマクロな職業能力向上政策としての意味を持ちますから、公的資金を投入する正当性があります。

この点は、拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』の中でもちらりと書いております。147ページからの「教育は消費か投資か?」というコラムをお読みください。

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2009年8月 1日 (土)

日経経済教室の「解雇規制を考える」

7月30日、31日と、日経新聞の「経済教室」で「解雇規制を考える」という2回シリーズがありました。日経で「解雇規制」というと、どこぞのインチキさんみたいな「クビ斬り自由で世の中全部はっぴい」という「お花畑」な論説かと思うかも知れませんが、とんでもない、太田聰一、神林龍という優れた労働経済学者による問題の本質を的確に示す論説です。

太田さん、神林さんのお二人とも、この2年間私も参加していた連合総研の「イニシアチブ2009」のメンバーです。

http://rengo-soken.or.jp/report_db/pub/detail.php?uid=200

木曜日の太田さんの論説は、まず

>確かに、解雇に一定の規制を設けることは、労働者が理不尽な扱いを受けないようにするために必要である。上司と仲違いしただけで解雇されるような世界は、誰も求めていない。ただし、企業の業績が悪化したときの解雇にどの程度の規制を行うべきかについては、議論が分かれうる。

と、「お花畑」な議論を排した上で、

>日本の司法は、不況期には正社員を守るために非正社員を犠牲にすることを認めてしまっている。これでは雇い止めなどをする企業を責めることはできないだろう。

と述べ、非正社員の中身が大きく変わったことを指摘して、

>日本の解雇規制は、「新卒の男性のほとんどが正社員として採用され、彼らが一家の大黒柱として家計を支えており、主婦パートがそれを補助する」という旧来型の労働市場にマッチした制度だった。

が、

>現代のように、新卒で正社員につけなかったために非正社員の仕事を転々とし、しかも不況がくると真っ先に「雇い止め」の憂き目にあうような人々の存在を織り込んではいない。

とその問題点を指摘し、

>今後の基本的な方針としては、解雇リスクの負担について、正社員と非正社員のバランスをただす必要があろう。たとえば、国が4要件に関しガイドラインを作成する中で、バランスを是正することなどが考えられる。

と提案しています。

後述するように、私はここでバランスを是正するのは国のガイドラインのように「上から」なのか、それとも職場からの集団的意思決定メカニズムによる「下から」なのかという問題があると思っています。

一方、金曜日の神林さんは、整理解雇法理自体の判例分析(これは本になっています)をふまえて、

>整理解雇法理が「事実上整理解雇ができない」ほど禁止的に高い解雇費用を使用者に課しているとは言えないかもしれない

と述べ、さらに、

若年へのしわ寄せも一定の合理性を持つ可能性がある

とも述べています。ただし、

>かつてはそれでも良かったかも知れないがいまや若年や中高年とて一枚岩ではない。いま必要なのは複雑な利害調整のメカニズムであり、労働市場や職場での規範形成原理、つまり当事者の範囲と合意原則を再び考える必要もあるだろう

と、やや曖昧な言い方ですが、集団的意思決定の重要性に論及しています。

先週刊行された拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』(岩波新書)をお読みいただいたみなさんには、これこそがまさに拙著の第4章で論じている問題であることがご理解いただけるでしょう。

一般的な解雇規制が労使間の権力バランスの是正という問題であるのに対し、厳密な意味での整理解雇規制は、労働者間での不利益分配の民主的決定問題という観点が重要です。

拙著を読まれた方は、労働問題の本なのに最後のところで妙に政治的意思決定の議論に傾いているんじゃないかと疑問に感じられた方もいるかも知れませんが、わたしはそういうミクロな利益分配、不利益分配の問題こそが政治という現象そのものだと考えているのです。

なお、お二人の議論も、拙著の議論も、話を解雇権濫用法理や整理解雇法理がそれなりに通用している大企業を中心とした世界を前提にしていて、世の中には「そんなんどこの国の話やねん」という結構野放図な世界が広範に広がっているという事実もまた、認識しておく必要もあります。こちらは現在研究に取りかかったところであり、年度末にはある程度の成果をとりまとめることができるのではないかと思っています。

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