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2009年8月 7日 (金)

charis氏の拙著批判への若干のコメント

charis氏の拙著に対する3回シリーズの批判が終わったようですので、若干のコメントを述べておきたいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/charis/20090804

http://d.hatena.ne.jp/charis/20090805

http://d.hatena.ne.jp/charis/20090806

まずはじめに申し上げておきますと、charisさんはいささかわたくしを急進的な改革論者という風に認識されすぎておられるのではないかと感じました。わたくしのモットーは、認識論的にはラディカル(根底的に考えるということ)に、実践論的にはリアリストであれ、というところにありますので、

>長期雇用・年功賃金制という屋台骨を破壊しなければならないほどの積極的な理由を、私は濱口氏の叙述の中には読み取れなかった。

などという急進的な主張をした覚えはないのですが。むしろ、短期的にはそんなことは不可能だし無理にやったら社会全体にとんでもない影響を及ぼすから、短期的な対策としては非正規の初任給を正規に合わせて勤続に応じて上げていくしかなかろうというまことに保守的な提案をしています。

また、まさに今までの日本では圧倒的に

>しかし私のような素人から見ると、日本の長期雇用、年功賃金制度というのは、労働者にとってはメリットの方が大きく、使用者や政府にとっても悪くない制度のように思われる。多くの正社員やその家族は、残業があっても収入が多い方がよいと考えるだろうから、長時間労働も簡単にはなくならないのではないか。

ということを述べているわけで、日本の労働者やその家族がこれまでと変わらずにそれを求め続けるのであれば、それでよいわけです。ただし、それなら長時間労働に文句を言ってはいけないし、転勤に文句を言ってはいけないし、シングルマザーや就職氷河期の諸君には可哀想だが我慢してもらいましょう、というだけの話であって、そこの価値判断を押しつけるつもりもありません。

ただ、マクロ社会的にそれでサステナブルか、という問いに対しては、そうとはいえないでしょうと私は認識しているということであって、であるとすれば中長期的にはある程度の改革-ほどほどのジョブ性とほどほどのメンバーシップ性-という方向に向かうことになるのではなかろうか、とすると、社会システムはお互いに補完性を有していますから、社会保障制度や教育制度も変わっていかざるを得ないでしょうね、という筋道です。

ここのところについては、異なる認識に立って議論を展開することは十分可能ですし、charisさんがそのような立論をされることは大いに大歓迎です。ただし、ここが私にとってはきわめて重要ですが、いかなる立場をとるにせよ、その立場をとることの論理的帰結は、いかにそれが醜悪に見えようとも、きちんと引き受ける必要があります。世の多くの議論が「駄目」なのは、そこのところがいい加減で、あっちの土俵ではああいい、こっちの土俵ではこういう、といういいとこ取りを平気でやる人が多いからです(とわたくしは考えています)。

日本型雇用システムに整合的に形成された教育制度を変える必要がない、という立論を(自分の職業的利害とは別立てに)論ずるのであれば、そのことの論理的帰結としての無制限の長時間労働や女性のキャリア形成の困難さや就職氷河期の若者やらについても、メリットのあるシステムを維持するためのコストとしてやむを得ないものであるから我慢せよと明確に主張しなければなりません。charisさんはほぼそのように主張されているように思われますので、わたくしからすると尊敬すべき態度であると見えます。

以上は主として雇用システムのあり方についての議論ですが、おそらくcharisさんがこの批判をされた大きな動因は、職業レリバンス論への違和感であったようです。

この点についてはじめに誤解を解いておきますと、ここでいう「職業レリバンス」とは本田由紀先生が『若者と仕事』で提起された概念で、ジョブに密接につながるものです。ですから、以下の記述はおそらく拙著の誤読によるものと思われます

>濱口氏の言われる「職業的レリバンス」は、あまりにも狭く性急すぎるように感じられる。そして、本書で氏が力説されるテーゼ、すなわち、日本の雇用慣行には「職務(ジョブ)」概念が希薄であるという根本事実とも矛盾するのではないかと思われる。日本の企業はあくまで「人」を採用するのであり、同じ「人」をさまざまな「職務」に配置転換し、さまざまな「職務」を経験させるのが、日本の企業の労働形態である。中途採用は別として、少なくとも新卒を採用する段階では、企業は汎用性のある能力をもつ「人」を求めているのであり、ある「職務」だけをこなす職人を求めているのではない。とすれば、大学教育において求められる「職業的レリバンス」は、特定の「職務」を指向した職人的なものではなく、汎用性のある基礎学力のようなものではないだろうか。

まさにそのとおりで、今までの日本の雇用システムでは、ジョブ型の職業レリバンスなどは不要であったわけです。「人間力」を求めていたわけです。そういうのを「職業レリバンス」とは呼びません。いや、オレはどうしてもそう呼びたいというのを無理に止めませんが、そうするとまったく正反対のジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性を同じ言葉で呼ぶことになってしまい、思考の混乱をもたらすでしょう。このへん、charisさんは哲学者であるはずなのに、わたくしの雇用システムの認識論と、これからの社会のあり方についてのべき論とをいささか混交して読まれているようです。

ただし、実はここで日本型雇用システムが要請する職業レリバンスなき大学教育は、charisさんが希望するようなリベラルアーツ型のものでは必ずしもありません。ここは、本ブログでも何回か書いたところですが、企業がなぜ法学部卒や経済学部卒を好んで採用し、文学部卒はあまり好まないのか、教育の中身が職業レリバンスがないという点では何ら変わりはないはずなのに、そのような「差別」があるというのは、法学部、経済学部卒の方が、まさにジョブなき会社メンバーとして無制限のタスクを遂行する精神的な用意があると見なされているからでしょう。逆にリベラルアーツで世俗に批判的な「知の力」なんぞをなまじつけられてはかえって使いにくいということでしょう。まあ、とはいえこれは大学教育がそれだけの効果を持っているというやや非現実的な前提に立った議論ですので、実際はどっちみちたいした違いはないという方が現実に近いようにも思われます。

それにしても、ここで、charisさんの希望する「人間力」と企業が期待する「人間力」に段差が生じていることになります。日本型雇用システムは、(本来職業レリバンスがあるべきであるにもかかわらず)職業レリバンスなき法学部教育や経済学部教育とは論理的な関係にありますが、もともと職業レリバンスがないリベラルアーツとは直接的な論理的因果関係はありません。

では、高度成長期に法学部や経済学部だけでなく文学部も大量に作られ膨張したのはなぜか、というと、これはcharisさんにはいささか辛辣なものの言い方になるかも知れませんが、企業への男性正社員就職としてはハンディキャップになりうる点が、男女異なる労務管理がデフォルトルールであった時代には、むしろ一生会社勤めしようなどと馬鹿げたことを考えたりせず、さっさと結婚退職して、子どもが手がかからなくなったらパートで戻るという女性専用職業コースをたどりますという暗黙のメッセージになっていたからでしょう。あるいは、結婚という「永久就職」市場における女性側の提示するメリットとして、法学部や経済学部なんぞでこ難しい理屈をこねるようになったかわいくない女性ではなく、シェークスピアや源氏物語をお勉強してきたかわいい女性です、というメッセージという面もあったでしょう。

そういう男女の社会的分業体制まで含めて日本型雇用システムと呼ぶならば、もともと職業レリバンスのない文学部の膨張もまた、日本型雇用システムの論理的帰結ということができます。なによりも、そのような大学生活のコスト及び機会費用をその親が負担することが前提である以上、ちょうど子どもが大学に進む年代の親の賃金水準がそれを賄える程度のものであることが必要なのですから、その意味でもまさにシステムの論理的帰結です。

このようなリベラルアーツの「社会的レリバンス」(トータルの社会システムがそれに与えている社会的意味)が、当該リベラルアーツを教えておられる立場の方にとっては、必ずしも愉快なものではないことは想像できます。しかし、社会の認識は愉快不愉快によって左右されるべきものではありません。

かつて、このあたりについて次のように論じたことがありますが、考え方はまったく同じです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

>上で申し上げたように、私は「人間力」を養うことにはそれなりの意義があるとは考えていますが、そのためにあえて大学で哲学や文学を専攻しようとしている人がいれば、そんな馬鹿なことは止めろと言いますよ。好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

>歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。

このほかのレリバンス論シリーズとして、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

なお、最近のものとして、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/vs_3880.html(爆問学問 本田由紀 vs 太田光)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-28b3.html(一度しか来ない列車)

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コメント

御著作を拝見して、意外と?まともな内容なので驚きました。
某氏との無意味な感情的対立のせいで、ネット上では、濱田さんは「感情的で粘着質、かつ幼児性の強い性格」の持ち主だと思われていますよ。(はてななんかみると)これは残念なことです。
ネット上の醜悪な振る舞いが、リアルの世界での言説の色眼鏡の原因になりかねないのでご注意を。

ごらんのとおり、私はネット上で、まともな方とはこのように穏やかな論争をしております。

もし「感情的で粘着質、かつ幼児性の強い性格」だと思われているとしたら、そのように思われてしまうような相手にうかつに間違いを指摘するなどという愚行をしてしまったわたくしの不徳の致すゆえんと反省しなければならないのでしょうね。

たしかに、リアル世界で「hamachanはなぜあんな相手にわざわざちょっかいをかけるのか」と叱られることも少なからずあります。危うきに近寄らない君子の道をわきまえない小人の悲しさというべきでしょうか。

hamachan先生は、別に某氏と「無意味な感情的対立」をしているわけではないでしょう。
専門的知識のない人が根拠のない独断的発言をしているのに対して、その誤りを親切に教えてあげたら、相手が逆切れしたので、降りかかる火の粉を払っただけだと思います。
ご著書は読了しましたが、基本的にはこのブログに書いてあることと同じでしょう。
ただ、一冊にまとめてあるので、hamachan先生の考え方の全体像が捉えやすいのが大きなメリットだと思います。
世の中の多くの人があの岩波新書を読んで、地に足のついた、かつ前向きな議論をするようになるといいですね。

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