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2009年6月14日 (日)

ポスト構造改革の経済思想

9784794807991_2 石水喜夫氏といえば、過去3年間の「労働経済白書」を執筆し、今年もまた2009年版労働経済白書を今まさに書きあげつつある日本の代表的労働エコノミストですが、一方で彼は、「現代雇用政策の論理」、「市場中心主義への挑戦」など、主流派経済学に敢然と挑戦する意欲的な著作を著してきた異端派経済学者でもあります。

本書は、その石水氏が久しぶりに「石水節」を全面展開したもので、ある種思想書という雰囲気をも漂わせています。

http://www.shinhyoron.co.jp/cgi-db/s_db/kensakutan.cgi?j1=978-4-7948-0799-1

>経済学には歴史性があり、思想性がある。

 構造改革の時代には、アダム・スミスの流れをくむ新古典派経済学が強い勢力を築き、経済運営や政策検討など様々な場面でその思想性を遺憾なく発揮してきた。18世紀後半、『国富論』を著したスミスは、人口が増加し植民地が拡大するイギリスに生き、あり余る投資機会を前に人々の覇気に満ちた行動によって市場経済のフロンティアを切り開いていくことに確信を持った。それが「神の見えざる手」の経済思想であった。

 一方、『一般理論』を著したケインズは、20世紀の前半に生き、投資機会が飽和し完全雇用を実現することができない社会を目の当たりにした。そして、投資を社会化し、国際的な協調行動をとらなくては、経済の安定を図ることはできないと考えた。

 日本経済の基礎的条件を冷静に観察すれば、現代は、スミスの時代から180度転換している。ところが、現代経済学主流派は、市場メカニズムに高い信認を置く新古典派経済学に占められ、1990年代半ばから今日まで構造改革の時代を主導してきた。勢いを増す「市場経済学」によって政策適用のねじれ現象が生み出され、その決定的な誤りによって人々の生活から生きがい、働きがいが奪われている。

 本書は、こうした閉塞的状況を打ち破ることを企図し、三部構成で議論を展開する。

 第Ⅰ部「転換期の日本社会」では、情報化、グローバル化、人口減少などの視点から、日本経済の基礎的条件を歴史的に研究し、政策適用のねじれ現象を引き起こした「市場経済学」を俎上に載せる。第Ⅱ部「経済学と経済思想」では、経済学の持つ歴史性と思想性について論じ、第Ⅲ部「経済思想の変革と創造」では、生きがい、働きがいを取り戻すため、「神の見えざる手」から人の命を奪い返すことを訴える。

 人は自らの命の力によって、それぞれ多様な価値を生み出すことができる。こうした多様性の上に、互いに認め合うことのできるより大きな社会的価値を創造していくことを目指し、ポスト構造改革の時代を切り開く「政治経済学」に焦点を当てる。

正直いって、スミスやケインズを論じたところは、原典を読んでいない私には評価する資格がありませんし、むしろ経済学の素養のある読者の方々がそれぞれにその価値を判断していただくべきと思います。

私にとって興味深かったのは、例の「格差論争」をめぐって、橘木氏の問題提起には著しい欠陥があったが、それを批判した大竹氏の議論が統計的・計量的視点に偏ったものになってしまい、「労働経済学の限界を露呈」したと批判するところです。

>明治以来の日本の労働問題研究は、もともとは社会政策論や人口論として展開されたが、昭和30年頃に労働経済学に分化した。政治的な主張も含み対立の激しかった社会政策の論争から離れ、労働経済学は、研究対象を検証可能な統計的・計量的なものへと絞り込み、検証方法の精緻化を推進した。格差論争は、労働経済学のこの検証スタイルを一気に完成の域にまで押し上げた。そのこと自体は、労働経済学の発展といえばいえたが、しかし、同時に労働経済学の限界を露呈させるものでもあった。すなわち、労働経済学の論争はきわめて統計的・計量的なものであり、現代日本社会に現に存在する格差とその社会的な課題を明らかにするという点では、ほとんど何らの貢献はなかった。

>社会の総合的分析へと向かうべき格差論争が、「格差社会の幻想」という副題を持つ書物によって結末を迎えたことは、経済面の世論形成にも大きな影響を与えた。・・・日本の経済論壇は、この論を一方的に称揚したのである。・・・さらに、日本の大方のエコノミストが格差社会幻想論を称揚したことは、この説により大きな推進力を与え、ついに内閣府の経済的判断として採択されることにもなった。

>日本社会に格差が存在することも、また非正規雇用者の増加、あるいは業績・成果主義的な賃金制度の導入によって賃金格差が拡大していることも事実である。そして、子弟の教育に悩む親世代に教育費負担がのしかかる中で、社会階層の固定化の危険も高まっているように見える。

しかし、格差を巡る経済学の論争は終結をみた。その結論とは、要するに、格差の拡大は、社会的にみてたいした問題ではないということであった。人々が肌身に感じる格差の拡大傾向は、ジニ係数という格差指標にすり替わった。そして、確かに格差指標は大きくなっているが、そのほとんどは人口構造の高齢化によって説明されるとの説明を受け、多くの人は矛を収めてしまった。

いや、石水氏は累次の「労働経済白書」ではまさに「検証可能な統計的・計量的」な分析に専念し、その中から現代雇用社会における格差拡大の傾向を見事に摘出してきたわけでして、そういうことのできない横町のご隠居が文句を垂れているのとは言葉の値打ちが違います。

次の台詞も、それだけ取り出してみるとどこぞのアンチ経済学みたいに見えるかも知れませんが、過去3年間の「労働経済白書」を読みながら、それらを書いた人が語っている台詞だと思って読むと、またじわりとくるものがあります。

>労働市場論には大きな限界がある。労働経済学の理論は、新古典派経済学のおかげで美しく体系化されているが、その理論の現実への応用にはきわめて慎重でなくてはならなかった。しかし、日本の労働問題研究が社会政策論の伝統から労働経済学へと大きく横滑りを起こして以来、すでにかなりの時間が経過した。初期の労働経済学は自らの歴史性や限界性を認識していたかも知れないが、現代においてはそのような認識は残されていないように見える。労働経済学の世代交代が進み、市場経済学の原理的な理解によって学界の自己再生が行われた結果、労働経済学から、人間や社会の問題を扱うという現実感が薄れ、自らが作り出した抽象世界を現実として信じ込むような研究者を生み出している。

労働経済学は、現実との緊張関係を失い、その内部的な世界に閉じこもり保守化し、排他的な性格を持つようになってきている。労働経済学が、今後も、このような態度をとり続けるならば、学問としての生命力が失われることは間違いないであろう。

私には彼が力を込めて書いているケインズ理論の意義など経済学自体に関わる論点にはコメントする力はありませんが、労働問題研究に現実感覚を取り戻すためにも、まずは少なくとも「労使関係論をどげんかせんといかん」とは感じています。

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コメント

日本の高齢者は金持ちであることと、あたかも経済力格差が存在しない幻影であるかのような2つの誤った主張で日本社会を混乱に陥れた大竹文雄がやっと否定される日が来たようです。玄田有史に勝るとも劣らない罪責を犯したことを大竹はどう弁明するのでしょうか。

読みました。
蒙を啓かれるところ多々あり、清々しい読後感を得ることができました。(変な表現ですが)

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