フォト
2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月

2009年6月29日 (月)

昔の社会主義者と今の新自由主義的な人たち

狂童日報さんの数日前のエントリから、

http://d.hatena.ne.jp/qushanxin/20090622

>前々から思っていることだけど、昔の社会主義者と今の新自由主義的な人たち(および経済専門家の多く)というのは、どこか似ている。支配そのものを可能な限り廃絶しようとしたりとか、そのくせ最終的には極めて中央集権主義的な手段に訴えるとか、政治における「汚い部分」の存在そのものを認めようとしないとか、そのために「敵」の存在を探し出しては過剰なほどに劇画化して批判したがるとか・・・・。

たぶん、昔の左右対立というのは、左翼が観念論を振り回して、保守派が現実を諄々と説くという感じだったのが、いまでは攻守ところを代えてしまったということでしょうか。

本ブログでも、何回かベーシックインカム論への違和感を表明していますが、狂童さんの

>基礎所得(ベーシックインカム)の考えとか、労働市場から相対的に必要とされていない人は、特に働かなくても単純に国による生活支援をすればいいという考え方が結構ある。社民主義的な人だけではなく、新自由主義的な人にもこの考え方を支持する人がいる。ベーシックインカムの具体的な中身にもよるけど、あまり賛成できない。というのは、普通の人間は「人の役に立っている」と思われたいのが人情だからであり、また税金で生活しているだけの人が世間から敬意の目をもって見られることはないだろうからである。やはり生活保護と失業給付、給料付きの職業訓練(OJT)の拡大で対処すべきであって、直接的で無条件の給付は少々無責任な考え方であるように思われる。働くというのは給料得るというだけではなくて、まさに「人に働きかける」という意味も(特に日本では)あるわけで、そういう現実にきちんと対応した方法が望ましい。

こういうリアルな感覚が失われて、脳髄の中の論理遊びだけで議論を展開しているような人々は、どう考えても社会の現実から出発するという意味における保守派とはいえないでしょう。

そして、こういう地に足のついたものの発想ができない人々の群れ・・・。

>長年経済学を勉強している大の大人が、敵対する人を「利権」というレッテルで批判できてしまえるという幼稚な発想から、どうして抜け出すことができないのだろう。上の話ともつながるが、政治からすっかり利権をなくさければならないと考えるだけではなく、それが簡単にできるかのように吹聴する(それは人類の精神自体が変化するということである)似非理想主義は本当にうんざりする。

社会には様々な利害があり、それを利害関係者(ステークホルダー)の間でどのように公平に利害調整していくかが政治というものの本質のはずですが、自分たちには利害などないようなふりをして、人の利害をおとしめることに熱中する人々が後を絶たないわけです。

2009年6月28日 (日)

グラーツ工科大学年齢差別事件判決

欧州司法裁判所の年齢差別に関する大変興味深い判決です。

http://curia.europa.eu/jurisp/cgi-bin/form.pl?lang=en&newform=newform&Submit=Submit&alljur=alljur&jurcdj=jurcdj&jurtpi=jurtpi&jurtfp=jurtfp&alldocrec=alldocrec&docj=docj&docor=docor&docop=docop&docav=docav&docsom=docsom&docinf=docinf&alldocnorec=alldocnorec&docnoj=docnoj&docnoor=docnoor&radtypeord=on&typeord=ALL&docnodecision=docnodecision&allcommjo=allcommjo&affint=affint&affclose=affclose&numaff=&ddatefs=&mdatefs=&ydatefs=&ddatefe=&mdatefe=&ydatefe=&nomusuel=&domaine=PSOC&mots=&resmax=100

原告は1986年生まれのヒュッターさん。いま23歳ですね。彼は、2001年9月3日から2005年3月2日まで、つまりおよそ15歳から19歳までの4年近く、オーストリアはグラーツ工科大学の徒弟として働き、その後契約公務員として採用されました。いわゆる「技手」ですね。

同じ時期に22ヶ月年上の女性も徒弟として働き、同じく採用されています。

ところが、オーストリアの契約公務員法では、賃金決定基準としての勤続年数に18歳未満の時期をカウントしてはいけないとされています。

そのため、ヒュッターさんと同僚の年上女性は、同じ期間徒弟として働き、採用されたのに、18歳以後の勤続期間が年上女性の方が長いからという理由で、月額23ユーロの格差が生じてしまいました。

これに怒ったヒュッターさんが年齢差別だと訴えたのがこの事件です。

オーストリア政府によると、この18歳未満の勤続年数を切り捨てるという措置は、そうしないと18歳まで中等教育を受ける人が損をしてしまうからだというのです。18歳より前に働き始めた人が有利になってしまうとまずいので、切り捨てるのだと。

しかし、欧州司法裁判所はその主張を退け、原告の年齢差別だという主張を認めました。

>As regards the aim of not treating a general secondary education less favourably than a vocational education, it should be noted that the criterion of the age at which previous experience was acquired applies irrespective of the type of education pursued. It excludes accreditation both of experience acquired before the age of 18 by a person who has pursued a general education and of that acquired by a person with a vocational education. That criterion may therefore lead to a difference in treatment between two persons with a vocational education or between two persons with a general education based solely on the criterion of the age at which they acquired their professional experience. In those circumstances, the criterion of the age at which the vocational experience was acquired does not appear appropriate for achieving the aim of not treating general education less favourably than vocational education. In that regard, it is clear that a criterion based directly on the type of studies pursued without reference to the age of the persons concerned would, so far Directive 2000/78 is concerned, be better suited to achieving the aim of not treating general education less favourably.

一般教育を受けた人同士でも、職業訓練を受けた人同士でも、やっぱりその年齢で差が生じるんだから、一般教育を受けた人を不利に扱わないためという理屈は成り立たないよ、と。

法律論とすると、そういう次元になるわけですが、社会学的に考えると、そもそも一般教育を受ける人を不利に取り扱わないようにという配慮というのはどういう意味なんだろうか、という感想もわいてきます。

いろんな意味で話のネタになる判決です。

2009年6月26日 (金)

金子良事さんの『戦前期、富士瓦斯紡績における労務管理制度の形成過程』

金子良事さんの博士論文『戦前期、富士瓦斯紡績における労務管理制度の形成過程』が下記リンク先からダウンロードできます。鐘紡の武藤山治のライバルとして活躍した富士紡の和田豊治に着目した労務管理史研究の大力作です。

http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/25327/2/%E9%87%91%E5%AD%90%E8%89%AF%E4%BA%8B%E5%8D%9A%E5%A3%AB%E8%AB%96%E6%96%87web%E7%94%A8.pdf

はじめの数ページの目次を眺めただけで、いかに力作かが分かると思います。労務管理、労使関係研究に関心を持つ人は是非じっくり読みましょう。

実は、いま金子さんに私の本業(JILPT)関係のある作業をお手伝いしていただいていまして、その関係で(昼飯を食べながら)この博士論文についてもお聞きしたわけです。

なお金子さんのブログはこちらです。まだ始まったばかりですね。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/

2009年6月25日 (木)

公的扶助とワークフェアの法政策

「労働法の立法学」第19回の標記論文をアップします。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/fujoworkfare.html

生活保護制度というふつうは労働政策の対象外の世界の歴史に、ワークフェア的関心からアプローチしてみました。

私として強調したかった点は、現行生活保護法制定時の小山進次郎名著があまりにも福祉至上主義的に理解されすぎてきたのではないかという点です。

>ここで登場した「自立助長」について、小山は「「人をして人たるに値する存在」たらしめるには単にその最低生活を維持させるというだけでは十分でない。凡そ人はすべてその中に何等かの自主独立の意味において可能性を包蔵している。この内容的可能性を発見し、これを助長育成し、而して、その人をしてその能力に相応しい状態において社会生活に適応させることこそ、真実の意味において生存権を保障する所以である。社会保障の制度であると共に、社会福祉の制度である生活保護制度としては、当然此処迄を目的とすべきであるとする考えに出でるものである。従って、兎角誤解され易いように惰民防止ということは、この制度がその目的に従って最も効果的に運用された結果として起こることであらうが、少なくとも「自立の助長」という表現で第一義的に意図されているところではない。自立の助長を目的に謳った趣旨は、そのような調子の低いものではないのである。」と述べています。この最後の一節は、社会保障研究者が好んで引用するところですが、後ろの方の記述からも判るように、受給者に対する就労の促進という意味でのワークフェア的思想を否定したものではないと考えるべきでしょう*8。

>「惰民養成の防止という意味で法第4条第1項と相応する規定」*9が第60条です。「被保護者は、常に、能力に応じて勤労に励み、支出の節約を図り、その他生活の維持、向上に努めなければならない。」と、明確に「勤労に励」むことを求めています。
 小山は、「生活保護制度の運営について最も注意すべき点の一つは、保護に馴れて能力あるにもかかわらず無為徒食する者、所謂惰民を醸成せず、額に汗して孜々営々として業に励む一般大衆の勤労意欲を低下させないようにすることであるが、これは仲々困難であって、英国救貧法の歴史に徴しても明らかな如く、社会法永遠の宿題というべきものである」と述べ、本法は「単に惰民防止という見地からではなく、自立助長という見地からも権利の享有に対応する義務の履行を身につけさせることが必要である」とその趣旨を説明しています。もっとも、「病者、不具者、老人、児童等の如く、勤労能力のない者、働きたくても就職、就労の口を見出し得ない者又は家庭の事情により就労する時間的余裕のない者にに対してまでも収益を上げる勤労をすることを求めるものではない」とことわっています。
 旧法第2条と比較して、「保護の開始前の問題を捉えて本法の適用の有無を決定するのは、機会均等、無差別平等という生活保護制度の根本趣旨に反し、特に生活保障の立法として努むべきことを始めから放棄して了うことになるので、新法においてはこれまで保護の対象外においた絶対的欠格者をも生活困窮の状況にあるならば、一応先ず保護の対象とし、そこに生じた法律関係を基として種々の措置を講ずるものとした」と述べている点が極めて重要でしょう。労働能力のある者に対しては、先ず生活保護を適用した上で、きちんとワークフェア的な措置をとるべきことが、制定当時から法の大原則であったのです。この点は、小山名著の第1条の最後の部分の記述があたかもワークフェア的思想を「調子の低いもの」と否定したかのように誤って受け取られてきた嫌いがあるのではないかと思われます。

リバタリアンの発想法

某サイバーリバタリアン氏に、某別のリバタリアン氏がかみついているようです。これがおもろい。

http://libertarian.seesaa.net/article/122162336.html(Antitrust is harmful intervention)

>さるサイバーリバタリアン(自称の仮想リバタリアン?)のサイトで、7-11への独禁法介入の問題を肯定的に取り上げている。しかし、これはとんでもない政府の市場介入である。
独禁法は他の経済法と同様に有害きわまりない法律であり、政府の市場介入を認める恐るべき悪法だ。

競争を促進するための、つまり市場機能をより促進するための政府介入も、政府介入である以上、極悪非道であり、許されないという、まことに見上げた市場原理主義であります。

ただ、今回のセブンイレブンの話について言えば、次の一節はそれなりに一理あります。

>フランチャイズというのは、フランチャイザーがいわゆる本社機能を持ち、フランチャイジーに対し商標と情報やノウハウを提供する方法だが、これはいわゆる小売りとメーカーの関係とは異なる。
価格戦略は、フランチャイズの仕組みにおいてきわめて重要な部分であり、ここに規制介入が入るとフランチャイズの仕組みそのものを破壊する危険性がある。

私もまさにある意味で「フランチャイザーが本社」で、「フランチャイジーは店長」であると思っていますので、本社のポリシーに店長が従うのは当然だろうと思うわけです。

当然でないのは、本社の命令通り売れ残りを廃棄処分した損失は、店長の収入からさっ引くぞというやり口であって、それを正当化するために「いやあ、対等の取引関係でございまして」というのであれば、もはや親でもなければ子でもない、本社でもなければ店長でもないわけですから、取引先の自営業者が何をしようが文句を言ってはいけないでしょう、という単純な話なわけですが。

言うことを聞かせたい(指揮命令したい)のであれば使用者としての責任を負うべきだし、使用者責任を負いたくないのであれば、言うことを聞かせるのはあきらめてもらうしかないわけで。

まあ、サイバー系であれ、非サイバー系であれ、リバタリアンの辞書に労働者の権利などという文字ははなからないのでしょうから、「俺の言うとおりにしろ、その代わりその結果生じる損失は全部おまえが負え」というやくざ型ビジネスモデルに問題を感じないのでしょうけど。

(念のため)

サイバーじゃない方のリバタリアン氏が、私の上の文章をどう読み違えたか、

http://libertarian.seesaa.net/article/122305024.html

>どうも私がさるサイバーリバタリアンの主張を少し批判したので、敵の敵は自分の少し味方だと思ったようだ。

などと、いささか奇妙なことを言われていますが、もちろん、お二人まとめて、

>サイバー系であれ、非サイバー系であれ、リバタリアンの辞書に労働者の権利などという文字ははなからないのでしょう

と思っていますので、少しも味方だなぞとは思っておりませんよ、ご安心あれ。

私が「一理ある」と申し上げたのは、フランチャイズシステムをフランチャイザーがフランチャイジーにあれこれ指示できるシステムだという趣旨のところであって、しかしながら、非サイバー系リバタリアン氏は、それゆえに廃棄処分すべき売れ残り分を本社が費用負担すべきだなどとは、夢にも思わないでしょうから(もし思ったら、リバタリアン失格でしょうから)、ある意味では(対等な関係なんだから捨てるのは勝手だろうというそれなりにまっとうな意見の)サイバー系リバタリアン氏よりも遙かに私とは対立する思想の持ち主だということになるはずです。

この件については、サイバー系リバタリアン氏が普通の市場主義者にすぎない(それゆえ、フランチャイザーとフランチャイジーは対等な取引相手であるという(いささか非現実的な)前提に立てばそれなりにまっとうな意見の持ち主と評しうる)のに対して、非サイバー系リバタリアン氏は、「フランチャイジーは雇用労働者が雇用主に従うのと同じようにフランチャイザーの言うことを聞け。ただし、その結果発生するコストはフランチャイジーが負担せよ」というやくざ的モラルを唱道しておられるわけでありまして、どっちがほんとの敵かは、言うまでもなくあきらかでありましょう。

2009年6月24日 (水)

連合総研イニシアチブ2009ディスカッションペーパー

去る4月22日に開催された連合総研のシンポジウムのディスカッションペーパーが、ようやく連合総研のホームページにアップされました。

http://rengo-soken.or.jp/report_db/pub/detail.php?uid=200

「イニシアチヴ2009―新しい労働ルールの策定に向けて」研究委員会(*主査)

*水町勇一郎(東京大学社会科学研究所准教授)
 大石  玄(北海道大学外国語教育センター非常勤講師)
 飯田  高(成蹊大学法学部准教授)
 太田 聰一(慶應義塾大学経済学部教授)
 神林  龍(一橋大学経済研究所准教授)
 桑村裕美子(東北大学大学院法学研究科准教授)
 櫻庭 涼子(神戸大学大学院法学研究科准教授)
 濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構統括研究員)
 両角 道代(明治学院大学法学部教授)
<アドバイザー>
 荻野 勝彦(トヨタ自動車株式会社人事部担当部長)
 杉山 豊治(情報労連政策局長)

概要とサマリーと本文がPDFファイルで読めますので、是非どうぞ。

何と言っても、真っ先に読むべきは、労務屋さんこと荻野勝彦氏の論考でしょう。賛否はともあれ、議論をかき立てる効果は随一です。

さわりの所をちょっとだけ。

>このところ「長期雇用、職能給といった日本の雇用慣行に根本的な問題がある。職種別労働市場、職務給に改革すべきである」といった言説を多く目にするように感じる。
なるほど、長期雇用や職能給(などの長期雇用に付随するさまざまな人事管理)をすべてやめてしまえば、私がこれまで指摘してきたことはすべて解消するように思えよう。
現状を変革しようとの意図は共通なので当然といえば当然なのかもしれないが、それにしても面白いことに解雇規制撤廃を主張する自由主義の論者からも格差是正・雇用差別禁止を主張する社民主義の論者からも同様な主張が聞こえてくる。
 ただ、これはわが国における従来の労働観、仕事に対する価値観を大きく変えようとしていることには注意が必要だろう。職務給の背景にある価値観は、それが外部労働市場の需給で決まると考えるにせよ国家レベルの中央団体交渉で決まると考えるにせよ、「労働者は所定の職務を実行する装置であって、勤務する企業の業績とは無関係である」というものであろう。極論すれば、仕事に関しては労働者は入れ替え可能な部品みたいなものだ、企業が儲かろうが儲かるまいがそれは経営者と経営幹部の責任であって労働者には関係ない、ということだろう。
 それに対し、わが国では従業員、とりわけ正規雇用については、決して入れ替え可能な部品ではなく「労働者は仕事を通じて成長するものであり、生産性向上や人材育成などを通じて企業業績についてコミットするものだ」という価値観が定着している。長期雇用をやめて職種別労働市場にするということは、こうした価値観を放棄し、職務給の価値観に変更するということでもある。
 私たち人事労務管理に携わる実務家の多くは、長きにわたって現行の価値観を大切にしながら仕事に取り組んできたと思う。だからそれが良いとか正しいとかいう短絡的な議論をするつもりはない。しかし、それをそれこそ根本的に覆すことは、まことに困難極まりないことではあろう。少なくとも表立ってはその理念に異論の少なかった男女雇用機会均等にしても、今日の定着(いまだ不十分としても)を見るまでにはあれだけの長い年月と多くの労力、忍耐を必要としてきたのだ。
 もちろん、実務家の限界を超えたところに進歩がある可能性は否定しないし、その意味で根本にかかわる議論は必要かつ重要だとも思う。ただ、現実を理念に合わせようとすることには慎重であってほしいと願うばかりだ。私たち実務家は、玄田氏が続けて述べているように、働く人々とともに「本当の関係者は、一歩ずつ解決策の積み重ねを、地道に模索している」存在であり続けるしかないのだから。

この話が、今月末発売予定の『POSSE』第4号の「一目でわかる格差論壇MAP」に対するわたしのコメントともつながってくるわけですが。

http://www.npoposse.jp/magazine/no4.html

(なお『POSSE』第4号については、発行されたときに改めて取り上げます。まだ自分の分以外は見てないので。)

ちなみに、労使関係法制については、水町先生の案が労働組合よりも労働者代表に傾いた意見になっているのに対して、アドバイザーの意見が労使とも「やっぱり労働組合」になっているところが興味深いところです。

この点、わたしも「やっぱり労働組合」派なんですね。

フランチャイズ契約と労働法

世間ではセブンイレブンの弁当廃棄問題についていろいろと議論があるようですが、結局支配権限とリスク負担のバランス問題なんですね。

純粋な雇用契約であれば、会社の指示に従って仕事をして損失が出てもそれは会社の負担であって、労働者の給料からさっ引くのは許されない(とはいえ、現実にはそういう事例は山のようにありますけど)し、純粋な対等の商取引であれば、自分の計算で商売やって損失が出ればそれは当然自己負担。自己責任の世界。

フランチャイズ契約というのは、その中間的存在なので、いろいろと問題が出てくるわけです。

公正取引委員会は当然取引の世界で考えるので自分の計算で商売やろうとするのをやらせないのがけしからん、という風に考えるわけですが、逆にいやフランチャイジーなんて労働者に毛が生えたようなもんだ、と考える方向性もあり得るわけで、どっちにせよ、権限とリスク負担のバランスがとれるようにすればいいわけです。

セブン本社がどうしても安売りされたくなくて捨てて欲しいのなら、その原価を負担するのは当然なんでしょう。

フランチャイズ契約については、ヨーロッパではいわゆる従属的自営業者の問題としていろいろと議論がされています。

日本語で読める論文としては、『季刊労働法』211号に、大山盛義さんが「フランチャイズ契約と労働法-『労働者』概念に関する日仏の非核法的考察」という論文を書かれていて、大変ためになります。

2009年6月23日 (火)

日弁連労働法制委員会で講演

本日、日本弁護士連合会の労働法制委員会で、EUの派遣指令についてお話をしてきました。中身は、今月発行された『季刊労働法』225号に載ってる私の論文そのものです。

なんですが、ついでにというか、同じ号に載ってる川田知子先生のドイツの派遣法の均等待遇原則をめぐる話に出てくる、近頃出てきているキリスト教系労組による派遣労働者の低賃金労働協約の話にも言及しました。これは実は、ヨーロッパ流の労使合意は神聖にして犯すべからず的感覚からすると、かなり問題をはらんだ話です。

そもそもドイツは、戦前はキリスト教系労組と社会民主党系労組が分かれていたのが、戦後DGBに統一したのに、いまになって(それも東ドイツから)キリスト教労組が出てくるというのもなんだかうさんくさいわけですね。

ベルギーのように、未だに社会党系労組よりキリスト教労組の方が強大な国もありますが、そこでは一緒になって賃金闘争を繰り広げていて、決して労働力の安売りをしているわけではありませんし。

このあたりの消息をきちんと説明してくれる方がいるといいのですが。

(追記)

当日お聴きになっていた水口洋介さんが、

http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2009/06/post-4ed7.html(日弁連労働法制委員会 濱口桂一郎さんの講演を聞く)

>濱口さんは、講演の前半、EUでの労働法形成のプロセスを、それは楽しそうにお話しをされていました。

ははあ、そうでしたか、主観的には口もとを引き締めてまじめそうな顔でお話ししていたつもりでしたが・・・。

>1998年に濱口さんの「EU労働法の形成」を呼んで、労働弁護団の会報「季刊労働者の権利」に書評(というか、感想文)を掲載したところ、濱口さんの論文をお送りいただいたことを思い出しました

ほかにはなんだかおざなりの義理チョコ書評しかなかっただけに、水口さんの直球の書評はとてもうれしく感じたものです。もう10年以上も昔のことなんですね。

「職業大学」構想

今朝の朝日の記事ですが、

仕事直結の授業中心、「新大学」創設へ 中教審の報告案

http://www.asahi.com/national/update/0623/TKY200906220340.html

>中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)は22日、会議を開き、職業教育に絞った「新しい大学」を創設する方針を打ち出した。教養や研究を重視する今の大学・短大とは別の高等教育機関(新学校種)。実務の知識や経験、資格を持つ教員が職業に直結する教育を担う。実現すれば、高校卒業後の学校制度が大幅に変わることになる。

 これまでの議論では、新大学の名称は「専門大学」「職業大学」などが考えられている。報告案によると、新たな教育課程は、実験や実習など仕事に直結する授業に重点を置き、割合として4~5割を例示している。このほか関連する企業での一定期間のインターンシップを義務づけ、教育課程の編成でも企業などと連携する。修業年限を2~3年または4年以上を考えている。

 中教審での議論は、就職しても早期に仕事をやめる若者が増えていることや、かつてと仕事内容や雇用構造が大きく変わったことから始まった。この過程で、一般(教養)教育や研究に多くの時間を割く、これまでの大学と目的が異なる新たな高等教育機関の設立が具体化してきた。

 今後の議論を踏まえて方針が了承されると、文科省が制度設計の作業に入る。設置基準などの仕組みができれば、新大学への移行を希望する専修学校(専門課程)などが集まるとみられる。

 ただ、現状の専修学校の制度は、私学助成対象とならない代わりに設置基準が緩く、自由な運営や教育ができる。また新大学が、地域の大学や短大などと競合する場合もあり、反発が出る可能性もある。22日の会議でも「現行の大学にも多様性があり、議論は尽くされていない」との反対意見が出た。中教審は今夏をめどに報告をまとめる方針だ。(編集委員・山上浩二郎)

本ブログで繰り返し論じられてきたテーマの一つ、大学教育の職業的レリバンスに関する興味深い動きですね。

実は、これは半世紀前の議論の復活という面もあるんですよ。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/dualsystem.html(デュアルシステムと人材養成の法政策)

>とはいえ、戦後もある時期までは公的人材養成システムを中心におく政策構想が政府や経営者サイドから繰り返し打ち出されていたのです。これは前回お話しした賃金制度論において、同一労働同一賃金に基づく職務給制度が唱道されたのと揆を一にしています。
 1951年、占領中の諸制度の見直しのために設けられた政令諮問委員会は、「教育制度の改革に関する答申」の中で、中学校についても普通教育偏重を避け、職業課程に重点を置くものを設けるとか、中学高校一貫の6年制ないし5年制の職業高校や、高校大学一貫の5年制ないし6年制の専修大学といった構想を打ち出しています。
 1957年には、中央青少年問題審議会の首相への意見具申で、定時制、通信制及び技能者養成施設を母体として、修業年限4年の産業高等学校を制度化し、義務教育修了後の18歳未満の全勤労青少年が就学すべき学校として構想しています。これはまさに1939年のデュアルシステム的な長期義務教育制の復活です。
 日経連も、1952年に実業高校の充実を要望しましたが、1954年の「当面の教育制度改善に関する要望」では、中堅的職業人の養成のため、5年制の職業専門大学や6年制職業教育の高校制を導入することを求めています。

現時点では、中教審のHPにはまだこの報告案は載っていないようですが、

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo10/index.htm

注目していく必要があるでしょう。

2009年6月22日 (月)

EUサミットの「労働者の権利、社会政策等に関する厳粛な宣言」

6月19日の欧州理事会(EUサミット)では、アイルランドの条約批准やら、アフガン、、イラン、北朝鮮等々といろんな宣言が採択されていますが、その中に、「労働者の権利、社会政策等に関する厳粛な宣言」という題名のものがあります。

>SOLEMN DECLARATION ON WORKERS' RIGHTS, SOCIAL POLICY AND OTHER ISSUES

http://www.consilium.europa.eu/uedocs/cms_data/docs/pressdata/en/ec/108622.pdf

このリンク先の21ページから22ページのあたりです。

>The European Council confirms the high importance which the Union attaches to:

• social progress and the protection of workers' rights;

• public services;

• the responsibility of Member States for the delivery of education and health services;

• the essential role and wide discretion of national, regional and local authorities in providing, commissioning and organising services of general economic interest.

労働者の権利、公共サービス、教育と医療サービスを提供する国の責任。

In doing so, it underlines the importance of respecting the overall framework and provisions of the EU Treaties.

To underline this, it recalls that the Treaties as modified by the Treaty of Lisbon:

• establish an internal market and aim at working for the sustainable development of Europe based on balanced economic growth and price stability, a highly competitive social market economy, aiming at full employment and social progress, and a high level of protection and improvement of the quality of the environment;

• give expression to the Union's values;

• recognise the rights, freedoms and principles set out in the Charter of Fundamental Rights of the European Union in accordance with Article 6 of the Treaty on European Union;

• aim to combat social exclusion and discrimination, and to promote social justice and protection, equality between women and men, solidarity between generations and protection of the rights of the child;

• oblige the Union, when defining and implementing its policies and activities, to take into account requirements linked to the promotion of a high level of employment, the guarantee of adequate social protection, the fight against social exclusion, and a high level of education, training and protection of human health;

• include, as a shared value of the Union, the essential role and the wide discretion of national, regional and local authorities in providing, commissioning and organising services of general economic interest as closely as possible to the needs of the users;

• do not affect in any way the competence of Member States to provide, commission and organise non-economic services of general interest;

• provide that the Council, when acting in the area of common commercial policy, must act unanimously when negotiating and concluding international agreements in the field of trade in social, education and health services, where those agreements risk seriously disturbing the national organisation of such services and prejudicing the responsibility of Member States to deliver them; and

これがたぶん重要で、通商政策で国際協定を結ぶ際には、社会、教育、健康サービスを提供する国の責任を妨げないようにせよと、非経済的公共サービスを強調しているんですね。

• provide that the Union recognises and promotes the role of the social partners at the level of the European Union, and facilitates dialogue between them, taking account of the diversity of national systems and respecting the autonomy of social partners.

そして、社会的パートナー、つまり労使団体の意見を聞けと。

2009年6月21日 (日)

非正規労働と産業民主主義

本日、国内某所で、某産別の政策討論集会に出席、基調講演と分科会討論で若干のコメント。

テーマは標題の通り。世間的には、労働組合は既得権の代表で、非正規の希望は企業の外側でアピール活動をする何とかユニオンだけみたいな話がまかり通っていますが、やはり職場に根ざした労働組合に非正規労働者を包摂していくことが、産業民主主義の本流だ(大意)というような趣旨だったつもりなんですが、さて。

社会の安全と不安全

Huanzen_2 これは、題名からはなんだか「セコムしてますか?」みたいな本という感じを受けますが、いやいや、まさに社会保障の根本的な議論なんですよ。

>社会の安全と不安全
――保護されるとはどういうことか――

<同志社大学ヒューマン・セキュリティ研究叢書>

ロベール・カステル著/庭田茂吉/アンヌ・ゴノン/岩﨑陽子訳

http://www3.kcn.ne.jp/~kizasu-s/pages/kikanzenbu/kikansorezore/huanzen.html

>国家による保護システムの弱体化が世界的規模で顕現する今日,その再編成に向けて,「社会的所有」あるいは「集団的保護」の観点から,現実的かつ具体的に問題の所在を解明。フランスで理論・実践の両側面で注目される社会学者の本邦初訳。

ロベール・カステルって、なんだかフランスの労働社会問題の議論によく出てくる名前ですが、邦訳されるのはこれが初めてでしょう。

原題は、

L'Insécurité sociale : qu'est-ce qu'être protégé ?

セキュリテ・ソシアル(社会保障)に否定の接頭辞をつけてアンセキュリテ・ソシアル(社会不保障?)というのは、多分造語なんでしょうね。

こういうひねった題名が好きな方らしく、他の著書も、

Le Psychanalysme, 1973

L'Ordre psychiatrique, 1977

La Gestion des risques, Minuit, 1981

La Société psychiatrique avancée, 1979

Les Métamorphoses de la question sociale, une chronique du salariat, Fayard, 1995

Propriété privée, propriété sociale, propriété de soi (avec Claudine Haroche), 2001

L'Insécurité sociale : qu'est-ce qu'être protégé ?, Éd. du Seuil, 2003

La discrimination négative, 2007

La montée des incertitudes : Travail, protections, statut de l'individu, Ed. du Seuil, 2009

といった感じです。

この「社会問題の変容」は、水町勇一郎先生がよく引用されている本ですね。是非どなたか翻訳していただけるとありがたいです。

2009年6月20日 (土)

日本生産技能労務協会

一昨日、日本生産技能労務協会の皆さんにお話をする機会がありました。

この団体は、製造請負・派遣業界団体と製造アウトソーシング団体がこの6月1日に統合してできた団体とのことです。

https://www.js-gino.org/index.php

まさに、先日の日本労働法学会のミニシンポでお話しする予定だった論点の対象領域の人々でして、まさにその学会用に用意したメモを使って、1時間半あまりお話ししたり、質疑を受けたりしました。

そのメモはこちら。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/gakkaihoukoku.html

ちなみに、学会サイトの方では、一件もコメントが寄せられなかったとのことで、大変寂しい思いをしています。そんなにトリビアな話でもないと思うんですけど。

(追記)

ちなみに、この協会の方々が私の話を聞きたいと言って来られたのは、山田久氏から「この問題の法律論については濱口に聞け」と薦められたからだそうです。

2009年6月19日 (金)

EU労使団体が育児休業協約の改正に合意

ひさびさのEUねた。

http://www.etuc.org/a/6279

昨日、EUの労使団体(ビジネスヨーロッパ、UEAPME、CEEP、ETUC)が、1995年に締結され指令として各国法になっている育児休業協約の改正に合意しました。

>On 18 June 2009, in the presence of Vladimir Špidla, European Commissioner for Employment, Social Affairs and Equal Opportunities, the European Social Partners, have formally adopted an agreement revising their 1995 Framework Agreement on Parental Leave.

合意文書はこちら。

http://www.etuc.org/IMG/pdf_Framework_agreement_parental_leave_revised__18062009.pdf

これにより、パート指令、有期指令以来、久しぶりに産業横断的労使協約が指令として法律化することになります。.

来月発売の岩波新書

岩波書店のホームページに来月発売の岩波新書の予告がアップされましたので、こちらでも予告というか宣伝しておきます。

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/

●2009年7月の岩波新書は、7点刊行いたします
 
     
★上野千鶴子さん・辻元清美さんの『世代間連帯』
 「おひとりさまの老後」のシナリオは、ロスジェネ世代には通用しない? とかく対立があおられる世代の違いを超え、ほんとうに安心できる社会を求めて、社会学者と政治家が語り尽くします。

★濱口桂一郎さんの『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ』
 正規、非正規の別をこえ、合意形成の礎をいかに築き直すか。混迷する雇用論議に一石を投じる書

★西川一誠さんの『「ふるさと」の発想―地方の力を活かす』
 地方は再生できるか―。「ふるさと納税」などの政策提案で注目される福井県知事が、自らの実践をもとに、理念と戦略を語ります。

★岩田規久男さんの『国際金融入門 新版』
 経済を読み解く鍵は国際金融にあります。コンパクトな好著として定評ある旧版をアップデートしました。必須の基礎知識が、この一冊で得られます。

★山田登世子さんの『贅沢の条件』
 あなたにとって贅沢とは何ですか? 豊かさ、幸福、生きがい? 歴史を繙き、豊富な実例を読み解いていきます。

★渡部泰明さんの『和歌とは何か』
 たった三十一文字の中に、枕詞はなぜ必要なのか? 1300年も受け継がれてきた和歌の謎に真っ向から取り組みます。

★小沢昭一さんの『道楽三昧―遊びつづけて八十年』
 虫捕り、ベイゴマから寄席、俳句。のめりこみ続けた小沢昭一道楽一代記です。俳優業も道楽だったのか?

7月22日発売です。

乞うご期待。

2009年6月18日 (木)

宮里邦雄『不当労働行為と救済』

Monrou12 日本労働弁護団会長の宮里邦雄先生から、近著『問題解決労働法12 不当労働行為と救済-労使関係のルール』(旬報社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/537

宮里先生は、

弁護士・日本労働弁護団会長。1963年東京大学法学部卒。2004年4月~07年3月、東京大学法科大学院客員教授(労働法)。これまで数多くの不当労働事件に労働者・労働組合の代理人として携わる。主な著書に、『労働委員会-審査・命令をめぐる諸問題』(労働教育センター、1990年)、『労働組合のための労働法』(労働教育センター、2008年)、共著に、『労働基準法入門』(労働大学出版センター、2004年)、『問題解決 労働法6 女性労働・非正規雇用』(旬報社、2008年)など。
連絡先:東京共同法律事務所(TEL03‐3341‐3133)

ちょうどわたくしが東大に客員教授としてお世話になっていたころ、東大の労働判例研究会に、労働弁護団の宮里先生、経営法曹会議の中山慈夫先生という両巨頭(!?)がいらして、毎週金曜日の労判の時間が待ち遠しかったものです(現在はそれぞれ徳住堅治先生、中町誠先生というやはり両巨頭ですが)。

本書は、昨今あんまりはやらない集団的労使関係法の実務書ですが、お送りいただいた書状に曰く、

>不当労働行為の申し立て件数も少なくなり、「不当労働行為の時代は終わった」という意見もありますが、反組合的風土がなくなったとは思えません。

>最近の雇用をめぐる問題などをみても、今こそ「労働組合の出番」ではないかという思いもあります。

という「思い」で書かれた本です。

目次は下の通りですが、実はおもしろいのはこの目次に載っていない「コラム」です。

第1章 不当労働行為制度の意義と内容
1 不当労働行為制度
2 労働委員会
3 行政救済と司法救済
4 不当労働行為の類型
5 不当労働行為制度の適用対象
第2章 不当労働行為の成立要件
1 不利益取扱いについて
2 団体交渉拒否
3 支配介入の成立要件
4 7条各号の相互関係
第3章 不当労働行為における使用者
1 不当労働行為の主体としての使用者
2 管理職の行為は「使用者」の行為といえるか
3 法人の下部組織を「使用者」として救済申立ができるか
4 7条各号と使用者性の関係
第4章 複数組合の併存と不当労働行為
1 複数組合併存時の使用者の中立保持義務
2 中立義務違反の不当労働行為の類型
3 賃金・昇格・昇進等の組合間差別と大量観察方法による立証
第5章 労働委員会による不当労働行為審査手続
1 手続の特徴―民事訴訟との比較
2 初審の手続き
3 再審査の手続き
4 命令の効力と履行
5 和解
6 不当労働行為審査の迅速化
第6章 不当労働行為の類型と救済命令
1 労働委員会の救済裁量と救済の原則
2 救済命令の内容
3 非典型的な救済命令について
4 救済利益
5 救済命令の主文例
第7章 労働委員会命令の司法審査
1 取消訴訟の提起と当事者
2 命令の取消事由と司法審査
3 新証拠の提出制限
4 違法性判断の基準時と判決の効力
5 緊急命令
6 取消訴訟の確定と制裁
第8章 不当労働行為の司法救済
1 不利益取扱いについて
2 団体交渉拒否について
3 支配介入につ
いて

コラムは、こんな中身です。

大正時代の不当労働行為制定論議

科罰主義の不当労働行為制度

労働組合の不当労働行為

性悪説と不当労働行為

和解のメリット・デメリット-覆水盆に返す

ポスト・ノーティスの変遷-「労働者諸君」

不当労働行為制度とILO条約

不当労働行為制度の改革課題

2009年6月17日 (水)

私に関する批評

かなりの数の方がそこから本ブログに来られているリンク元に、私に関する次のような批評が書かれておりました。

http://watashinim.exblog.jp/9872836/(日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 5  「戦後社会」の擁護)

>もうお分かりだと思うが、私が、日本の右傾化を進めており、支持している中心的な層として考えているのは、こうした、戦後日本社会を「平和国家」および「平等社会」としての一つの達成として擁護する、「ウヨク」または「サヨク」である(従来型の右派勢力を軽視しているわけではない。これについては後述する)。特にマスコミ関係者はほとんど全員これだ、と私は思っている。もちろん、日本政府は一貫してこの立場であり、外務省官僚たる佐藤優も、このラインからは基本的に外れていない。自らが「ソーシャルなウヨク」であることを否定しないであろう、厚生労働省官僚の濱口桂一郎が、『世界』その他の左派系メディアで活躍したり「連合」と関係を持っていたりすることも、なかなか示唆的である。

この方の用語法では、「戦後日本社会を平和国家および平等社会としての一つの達成として擁護する」のは「ウヨク」または「サヨク」であるということなので、その用語法からすれば、仰るとおりであろうと思われます。

それが「右傾化を進め、支持している中心的な層」であるというのも、「右傾化」という言葉をそのように定義すれば、その通りであろうと思います。

そのような用語法を用いる理由はなんだろうか、とおもって先を読んでみると、

>「ウヨク」も「サヨク」も、「日本国憲法の精神」を尊重し、「平和国家」として日本を位置づけるという点では一致しており

>現在の日本の右傾化の基盤は、こうした「戦後レジーム」または「戦後社会」の擁護という認識によって支えられている。もちろんこれは、一つの開き直りであり、かつて左右が「生活保守主義」とか「「金、物欲、私益」優先主義」とか、さんざん批判した大衆像そのものである。

という叙述からすると、戦後レジームを否定すべきであるというお立場からの発言のようです。

それはそれで一貫した考え方なのでしょうね。

当面の最優先課題

昨日の経済財政諮問会議で、「経済財政改革の基本方針 2009~安心・活力・責任~」の原案が提示されておりますが、

http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2009/0616/item1.pdf

こっちはなかなか膨大なので、超エグゼクティブサマリーの2枚紙「当面の「最優先課題」(府省に広くまたがる横断的課題)」の方を見てみましょう。

http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2009/0616/item2.pdf

>以下を当面の「最優先課題」とし、関係府省は、予算・人材両面において最大限の重点対応を行う。さらに、内閣主導で、府省横断的なプロジェクト・チームを設置する等により迅速かつ総合的な取組みを図る。

「内閣主導で、府省横断的なプロジェクトチーム」ですか。

具体的には、

>① 経済危機克服
ⅰ) 経済と社会の安定のため「扇の要」に位置する雇用については、雇用維持のための緊急取組みに加え、「次世代の日本を担う若年層」に対して職業能力向上と再挑戦の機会拡大のための支援を強化する。その際、企業・自治体と連携しながら「縦割り」を超えた政府横断的取組みを図る。

まずは、若者の雇用がその対象です。

>② 安心社会実現
ⅰ) 社会保障の「ほころび」の修復なしに政府への信頼回復はない。税制抜本改革を通じた安定財源の裏打ちを制度的に確保しつつ、社会保障の機能強化について、効率化を図りつつも、緊急措置として前倒しで「先行実施」を図る。また、少子化対策や子育て世代への支援を総合的に強化する。
ⅱ) 安心社会実現のための具体的な道筋について合意を図るため政府与党一体で検討を行うとともに、安心社会の基盤となる情報インフラ、行政体制、人材の傾斜配置などへの取組みを政府横断的に進める。

そして、子育て支援と。

ダニエル・コーエン『迷走する資本主義』

Htbookcoverimage 副題は「ポスト産業社会についての3つのレッスン」。

この副題の源流は、レイモン・アロンの『産業社会についての18のレッスン』であり、その本歌取りがエスピン・アンデルセンの『』福祉国家についての3つのレッスン』というわけで、まあ、いかにもフランス風のグランドな現代社会論です。

http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=998434875X

>情報技術(IT)革命、金融改革、雇用・労働形態の変革、グローバリゼーション…、規制緩和、自由化のもとに推し進められた凄まじい大変動がもたらした社会的連帯の崩壊、格差拡大、そしてその先に発生した世界的な金融危機。気鋭のフランス人経済学者が、ヨーロッパの社会思想史の源流にさかのぼり、資本主義システムの病理の背景を平易に解説し、新たな社会モデルを考察する

「ル・モンド」紙論説委員を務める気鋭の経済学者が、金融革命、労働の変革、貧富の格差拡大、グローバル化といった脱産業化社会の背景を解説し、オルタナティブな社会の未来像を提示する。西欧の社会思想史の源流から辿る斬新な分析は、日本の読者に多大な示唆を与える内容である。

目次は、

序章 ポスト産業社会とは何か
   社会的連帯の終焉/サービス社会/情報化社会/ポスト産業「社会」

レッスン1 急変の時代
   社会条件の凄まじい大変動/情報技術(IT)革命/社会革命/労働に要求される新たな原則/フォーディズムの矛盾/1969年5月/金融革命/むすび

レッスン2 新たな経済と世界ーグローバリゼーション
   国際貿易と貧困国/第一次グローバリゼーション/国際分業体制への回帰/ニュー・エコノミーと世界/グローバル化というイメージがグローバル化する/世界の争点となる問題とは/むすび

レッスン3 新たな社会モデルの模索
   新たな社会保障モデルと連帯の模索/ヨーロッパの混迷(1)/ニュー・エコノミーの矛盾/無料と有料/米国の大学の競争力/ヨーロッパの混迷(2)/福祉モデルの相違/折衷案/社会的連帯についての異なる立場/都市部郊外での暴動/むすび


終章 社会の自由主義化
   新たな社会問題/選択的組み合わせ/「社会」と「経済」の分離/放置された社会

一気に読めて、大変わくわくする知的刺激いっぱいの本です。おすすめ。

2009年6月16日 (火)

拝金主義は偉大である

いやもちろん反語ですが、それが反語にとどまらないのは、こういう落とし穴があるからなんですね。

黒川滋さんの「きょうも歩く」から、

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2009/06/68-0e83.html(ニューパブリックの行き着くところがヤマギシズムもどき)

>同僚の報告から。主体的な働き方を提唱する運動のもとで働いている人からの相談を受けたらしく、職場の会議でみんなでキャンドルサービスしながら「染みついた(受け身の)労働者根性」を批判しあうというキョーレツな光景を語ってくれた。

あわわ。ヤマギシズムみたいだなぁ。
で、そんなことされて、自己主張しにくくされて、人件費けちられているんだろう。
政治的だなぁ。

お金をかけないで高いサービスをやたらめったら欲求したバランスの悪い市民主義はニューパブリックに活路を見いだしたが、そのいきつく果てがこういう情景なら、自由からの逃避である。中国の大躍進政策や人民裁判を笑えない。
昭和初期の「新しき村」での同様のトラブル以来、こういうことは近代につきものなのだろうか。

>拝金主義というのが偉大だとわかる

なまじ、賃金奴隷からの脱却などという高邁な理想を掲げる集団ほど、こういう落とし穴に陥りがちなんでしょう。

本ブログでも、ちょっと違う視角から、こんなことを書いてきましたが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_c79d.html(労働者協同組合について)

>この事業に関わるみんなが、社会を良くすることを目的に熱っぽく活動しているという前提であれば、それで構わないのですが、この枠組みを悪用しようとする悪い奴がいると、なかなかモラルハザードを防ぎきれないという面もあるということです。

いや、うちは労働者協同組合でして、みんな働いているのは労働者ではありませんので、といういいわけで、低劣な労働条件を認めてしまう危険性がないとは言えない仕組みだということも、念頭においておく必要はあろうということです。

それこそ最近の医師や教師の労働条件をめぐる問題を考えると、どんな立派な仕事か知らんが、労働者としての権利をどないしてくれるンやというところを没却してしまいかねない議論には、少しばかり冷ややかに見る訓練も必要なのではないか、というきがしているものですから

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-d8ca.html(ボランティアといえば労働じゃなくなる?)

>もちろん、ボランティア活動はたいへん崇高なものではありますが、とはいえ親分が「おめえらはボランテアなんだぞ、わかってんだろうな」とじろりと一睨みして、子分がすくみ上がって「も、もちろんあっしは労働者なんぞじゃありやせん」と言えば、最低賃金も何も適用がなくなるという法制度はいかがなものか、と

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_dcd5.html(天工銭を空しうする勿れ、時に判例なきにしもあらず)

>彼らは我が組合の組合員ですから工場法の適用はないんですよというやり口はだめだよ、と戦前の大審院は明確に言ってました

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_bd6d.html(松尾匡「はだかの王様の経済学」)

>そのご立派なアソシエーションがまさに疎外が生み出すはだかの王様にならない保障はどこにあるんだろう、と。

職場でも労働組合でも“厄介者”

ダイヤモンドオンラインに載っている吉田典史さんの「私が負け組社員になった理由」は、読み物として大変おもしろいものですが、最新の記事「職場でも労働組合でも“厄介者”に。正義の味方を演じる「口先だけ営業マン」――自分の非を認めず、転職を繰り返す井谷氏のケース」は、とりわけいろんな意味で興味深いものがあります。

http://diamond.jp/series/yoshida/10026/

>今回は、「組織の考えと僕の考えは違う!」と主張し、会社はもちろんのこと、労働組合までも敵に回してしまった若手社員を紹介しよう。

あなたの職場にも、このようなタイプの社員はいないだろうか?

この井谷氏、

>井谷は大学を卒業後、5年間に3つの会社を辞めた。初めての会社では総務、次の会社では営業、その次は営業をサポートする事務の仕事をして来た。

 いずれも退職理由は、「自分の考えと会社の考えが合わない」というものだった。転職するにあたり、明確な戦略もなければ今後の人生についてのビジョンもない。ただ、「◯◯は僕とは考え方が違う」を口癖のようにくり返すだけだった。

 4つ目となる今の会社でも、こうした言動は変わらない。どこの職場でも“厄介者”扱いを受けた。

 井谷は、この紆余曲折で覚えたことがある。

 まず会社の“あら”を見つけ出し、それを◯◯ユニオンなどのような労働組合や労働基準監督署などに訴え、そこから会社に抗議をさせる。そのうえで“条件退職”として、一定の和解金を会社から受け取り、辞めることである。

 仕事をすることなく、次々と上司や同僚を敵に回し、孤立して行く自分の本当の姿を覆い隠そうとしたのである。会社の問題を労働組合などに訴えることで、“正義の味方”を装った。

 周囲にはこう話していた。

「あの会社は問題だらけ。だから僕が闘って、それらを正した」

「僕があの会社の不当性を告発した」

 常に「自分は正しい。悪い会社だから自分は闘って辞めた」という“論理”を展開して来たのだ。

 ところが、自分の考えが受け入れられなくなると、今度は一転して「労働組合が悪い!」などと言い始める。

井谷のいまの敵は、◯◯ユニオンである。自分が要求したとおりに、組合加入通知書を会社に送ろうとしなかった書記長を恨んでいる。そして、そのユニオンのホームページに、ときおり抗議のメールを送っている。

「組合員の要求を無視するのか?」

 書記長は苦笑いをしながら話す。

「彼はうちの組合員ではないんだけど……」

いやあ、確かに世の中に(少ないけれども必ず)いるタイプですね。

ひたすら敵を作り続けて、自分の「正当性」を信じ続けているこういうタイプが。

吉田氏の「教訓」

>1) 大前提として「組織のありがたみ」を理解していない

2)TPOをわきまえない言動で、自らの首を絞めている

3)「組織の論理」を心得ず、自己主張ばかりしている

4)周囲を欺き現実から逃げている

 1)~4)までを考え併せると、井谷は「自分の生身の姿」を直視することから逃げている。これだけ色々な組織と対立するのは、自分の考え方が組織のそれとは全く異なるからである。

 今後組織に頼って生きて行くつもりなら、自分の考え方を大きく変えるべき時期なのだ。自分の考え方に自信があるならば、組織に頼らずにひとりで生きて行けばよい。

 井谷は、年齢的にも自分の意識を変えることができる“ラストチャンス”を迎えている。

 このまま沈んで行くか、それとも浮上するか――。今まさに分岐点に立たされているのだ。

 井谷は、その意味をわかっているのだろうか?

いや、まあラーメン屋をやろうというなら、別に何も言いませんが。

安心と活力の日本へ

昨日、安心社会実現会議の最終報告がとりまとめられました。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ansin_jitugen/kaisai/dai05/05siryou1-1.pdf

ほんの3年前には、首相直属の会議がこういう内容の政策提言を出すなんて考えられなかったことを考えれば、この3年間の間に世の中の流れが大きく変わったことが、今更ながらよくわかります。

読んでいくと、ほとんど宮本太郎先生の論文じゃないかとすら思われる記述が頻出するのも、感慨深いものです。

何より、同じ昨日公表された連合の政策制度要求と、ほとんど同じ認識と価値判断に立っているのですね。

具体的な政策については新聞にも項目が載っていますので、まずは総論部分。

>こうした中で私たちが目指す安心社会は、まず第一に、「働くことが報われる公正で活力ある社会」である。国民が活き活きと働く機会が保障されることが、社会の活力の根本であり、活力のない社会から安心は生まれない。働くことは、人として生きる誇り、喜びであり、また、多くの国民がこの誇り、喜びを享受することで社会には力が満ち溢れる。安心社会は、決して「いたれり、つくせり」で受け身の安心を誘う社会ではない。国民一人ひとりの、能動的な参加を支える社会である。

またそれは第二に、「家族や地域で豊かなつながりが育まれる社会」である。人は人とのつながりのなかで安心を感じ、モラルを高め、成長することができる。助け合い、いたわり合い、支え合うコミュニティを持続させていく支援が要る。

国民が安心して働き、生活していくためには、教育・訓練、医療、保育、介護、住宅などの基本的な支えが不可欠である。国民の必要に沿った、質の高い支えをつくりだす上で、国、自治体、民間企業、NPOの連携が求められる。したがって「安心社会」は、第三に「働き、生活することを共に支え合う社会」である

こういう発想が大嫌いな人々によっては、政府の中枢でこういう「ソーシャル」な思想が大手を振ってまかり通りつつあることに、苦虫をかみつぶしているのかもしれません。

2009年6月15日 (月)

連合の政策制度要求

恒例の連合の政策制度要求ですが、本日、2010~2011年度政策制度要求が公表されました。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/kurashi/seisaku/yokyu_teigen2009.pdf

膨大かつ詳細なものですので、ここでは冒頭の「基軸」というところをみておきましょう。

ここも、「世界を混乱に陥れた金融危機」から、「新自由主義の政策がもたらした負の遺産」から、「格差問題に対する政府の姿勢」と、現状と課題がるる書かれていますが、それはリンク先を読んでいただくとして、5つの基軸という形で提示しているところが、中身は目新しいわけではありませんが、興味を引きます。

>第1は、「連帯」である。社会は国家と個人、企業と個人という二極で成り立っているわけではない。家族、地域共同体、労働組合、NPO、各種団体、政党などさまざまな中間組織が市民社会、健全な民主政治を支えている。これまでの市場原理主義指向の中で、企業においても、個人の価値や能力も市場価値で測定するという風潮が広まった。雇用関係、労働関係の個別化、個人化も進んだ。英国の著名な社会学者であるロナルド・ドーア教授は、これを「市場個人主義」と呼んでいる。「市場個人主義」とは、自己の経済的利益のために働くという論理のことで、「自立自助」「自己責任」「依存排除」「選択の自由」といったフレーズに共通する思想である。しかし、市場個人主義からは、ぬくもりのある社会は生まれない。「お互いさま」という、協力原理を社会の中心に据えることが重要である。

第2は、「公正」である。市場原理主義が生み出したのは、格差の資本主義であった。今、転換すべきは、公正な資本主義である。健全な市民社会は、層の厚い中間層で成り立っている。この中間層が、雇用社会を支え、社会保障を支え、消費の主役であった。格差の拡大は、富める人と貧しい人を作るだけでなく、社会を支える人と社会から支えられる人を固定化し、二極化社会を作ることになる。もう一度日本を、厚みのある中間層の国にしなければならない。そのためには、税・社会保障を通じた「公正」な所得再分配の強化、労働分配率の向上、教育の機会均等保障、さらに「公正」で透明な企業間取引などが不可欠である。

第3は、「規律」である。倫理無き、欲望の追求が未曾有の金融危機を招き、世界経済を混乱に陥れた。新自由主義思想は社会にとって必要な規律までをも脇に押しやってしまった。法的規制だけではなく、社会、市民による監視機能、企業や組織の倫理的行動を呼びさます必要がある。今回の金融危機を教訓として、こうした根本的な混乱を再び起こすことのないよう、緩和ではなく、必要な規律を政策体系に組み込むべきである。適切なワークルールの設定、従業員を含むすべてのステークホルダーとの信頼関係の構築による倫理的な企業行動の追求、規制逃れの防止、コンプライアンス(法令遵守)の徹底を促す仕組みづくりが求められる。

第4は、「育成」である。日本を、金融主導のマネー経済ではなく、ものづくりと産業技術力を重視した経済にしなければならない。公正な処遇と人材育成という視点を欠いたまま雇用形態の多様化を先行させたことが格差社会の大きな要因にもなっている。のみならず、それが、労働者の不満を高め、職場を分断化し、個別労働紛争を増加させている。これまでの企業行動は、雇用削減、総額人件費抑制のバイアスがかかり、人材育成という理念、戦略が軽視されてきた。労働の価値を置き去りにした低価格志向社会への暴走も人材軽視に拍車をかけてきた。競争を通じて、安くて、良い商品やサービスを提供することは市場経済システムのプラスの側面である。しかし、不当な安値競争は、そこに働く労働の価値そのものを損なうことになりかねない。市場競争においても、労働の価値を適切に評価し、不当な価格ではなく、労働の価値が正当に評価されねばならない。

第5は、「包摂(インクルージョン)」である。失業、低所得、健康の悪化、家族の崩壊などの問題は、根本的原因まで遡らなければ真の解決にならない。すべての人が、ディーセントワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を求める権利を有している。社会参加にあたりハンディのある人には社会的支援が必要である。また、あらゆる面で再挑戦の機会が与えられなければならない。職業を必要としている人々には訓練の機会と、その間の生活保障を、そしてより質の高い雇用機会を提供する等、雇用と生活、健康、安心、安全のためのセーフティネットが張り巡らされた社会的、地域的サービスが提供されなければならない。社会的に様々なハンディのある人々が孤立し、排除されるのではなく、すべての人々を社会的に支え合い・包み込み、ともに活きる社会を実現する社会的「包摂」の政策理念を追求すべきである。

併せて、2010年度の重点政策も公表されています。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/kurashi/seisaku/jyutenseisaku2010.pdf

8分野の「重点政策」はいろいろと書いてありますが、「最重点運動課題」はこの3つだけということです。

>(1)労働者保護の視点での労働者派遣法改正の実現、非正規労働者の就労支援・能力開発の強化、雇用安定と均等処遇の確保

(2)労働者の雇用安定・能力開発、連合の「180万人雇用創出プラン」実現や「ふるさと雇用再生特別交付金」等の活用を通じた雇用創出

(3)長時間労働の抑制などによる働き方の見直し、子育て基金(仮称)の創設等による包括的な次世代育成支援の拡充を通じたワーク・ライフ・バランス社会の実現

やはり、連合は労働団体なのですから、「エコ」もいいけど、やはりそういうもんでしょう。

2009年6月14日 (日)

ポスト構造改革の経済思想

9784794807991_2 石水喜夫氏といえば、過去3年間の「労働経済白書」を執筆し、今年もまた2009年版労働経済白書を今まさに書きあげつつある日本の代表的労働エコノミストですが、一方で彼は、「現代雇用政策の論理」、「市場中心主義への挑戦」など、主流派経済学に敢然と挑戦する意欲的な著作を著してきた異端派経済学者でもあります。

本書は、その石水氏が久しぶりに「石水節」を全面展開したもので、ある種思想書という雰囲気をも漂わせています。

http://www.shinhyoron.co.jp/cgi-db/s_db/kensakutan.cgi?j1=978-4-7948-0799-1

>経済学には歴史性があり、思想性がある。

 構造改革の時代には、アダム・スミスの流れをくむ新古典派経済学が強い勢力を築き、経済運営や政策検討など様々な場面でその思想性を遺憾なく発揮してきた。18世紀後半、『国富論』を著したスミスは、人口が増加し植民地が拡大するイギリスに生き、あり余る投資機会を前に人々の覇気に満ちた行動によって市場経済のフロンティアを切り開いていくことに確信を持った。それが「神の見えざる手」の経済思想であった。

 一方、『一般理論』を著したケインズは、20世紀の前半に生き、投資機会が飽和し完全雇用を実現することができない社会を目の当たりにした。そして、投資を社会化し、国際的な協調行動をとらなくては、経済の安定を図ることはできないと考えた。

 日本経済の基礎的条件を冷静に観察すれば、現代は、スミスの時代から180度転換している。ところが、現代経済学主流派は、市場メカニズムに高い信認を置く新古典派経済学に占められ、1990年代半ばから今日まで構造改革の時代を主導してきた。勢いを増す「市場経済学」によって政策適用のねじれ現象が生み出され、その決定的な誤りによって人々の生活から生きがい、働きがいが奪われている。

 本書は、こうした閉塞的状況を打ち破ることを企図し、三部構成で議論を展開する。

 第Ⅰ部「転換期の日本社会」では、情報化、グローバル化、人口減少などの視点から、日本経済の基礎的条件を歴史的に研究し、政策適用のねじれ現象を引き起こした「市場経済学」を俎上に載せる。第Ⅱ部「経済学と経済思想」では、経済学の持つ歴史性と思想性について論じ、第Ⅲ部「経済思想の変革と創造」では、生きがい、働きがいを取り戻すため、「神の見えざる手」から人の命を奪い返すことを訴える。

 人は自らの命の力によって、それぞれ多様な価値を生み出すことができる。こうした多様性の上に、互いに認め合うことのできるより大きな社会的価値を創造していくことを目指し、ポスト構造改革の時代を切り開く「政治経済学」に焦点を当てる。

正直いって、スミスやケインズを論じたところは、原典を読んでいない私には評価する資格がありませんし、むしろ経済学の素養のある読者の方々がそれぞれにその価値を判断していただくべきと思います。

私にとって興味深かったのは、例の「格差論争」をめぐって、橘木氏の問題提起には著しい欠陥があったが、それを批判した大竹氏の議論が統計的・計量的視点に偏ったものになってしまい、「労働経済学の限界を露呈」したと批判するところです。

>明治以来の日本の労働問題研究は、もともとは社会政策論や人口論として展開されたが、昭和30年頃に労働経済学に分化した。政治的な主張も含み対立の激しかった社会政策の論争から離れ、労働経済学は、研究対象を検証可能な統計的・計量的なものへと絞り込み、検証方法の精緻化を推進した。格差論争は、労働経済学のこの検証スタイルを一気に完成の域にまで押し上げた。そのこと自体は、労働経済学の発展といえばいえたが、しかし、同時に労働経済学の限界を露呈させるものでもあった。すなわち、労働経済学の論争はきわめて統計的・計量的なものであり、現代日本社会に現に存在する格差とその社会的な課題を明らかにするという点では、ほとんど何らの貢献はなかった。

>社会の総合的分析へと向かうべき格差論争が、「格差社会の幻想」という副題を持つ書物によって結末を迎えたことは、経済面の世論形成にも大きな影響を与えた。・・・日本の経済論壇は、この論を一方的に称揚したのである。・・・さらに、日本の大方のエコノミストが格差社会幻想論を称揚したことは、この説により大きな推進力を与え、ついに内閣府の経済的判断として採択されることにもなった。

>日本社会に格差が存在することも、また非正規雇用者の増加、あるいは業績・成果主義的な賃金制度の導入によって賃金格差が拡大していることも事実である。そして、子弟の教育に悩む親世代に教育費負担がのしかかる中で、社会階層の固定化の危険も高まっているように見える。

しかし、格差を巡る経済学の論争は終結をみた。その結論とは、要するに、格差の拡大は、社会的にみてたいした問題ではないということであった。人々が肌身に感じる格差の拡大傾向は、ジニ係数という格差指標にすり替わった。そして、確かに格差指標は大きくなっているが、そのほとんどは人口構造の高齢化によって説明されるとの説明を受け、多くの人は矛を収めてしまった。

いや、石水氏は累次の「労働経済白書」ではまさに「検証可能な統計的・計量的」な分析に専念し、その中から現代雇用社会における格差拡大の傾向を見事に摘出してきたわけでして、そういうことのできない横町のご隠居が文句を垂れているのとは言葉の値打ちが違います。

次の台詞も、それだけ取り出してみるとどこぞのアンチ経済学みたいに見えるかも知れませんが、過去3年間の「労働経済白書」を読みながら、それらを書いた人が語っている台詞だと思って読むと、またじわりとくるものがあります。

>労働市場論には大きな限界がある。労働経済学の理論は、新古典派経済学のおかげで美しく体系化されているが、その理論の現実への応用にはきわめて慎重でなくてはならなかった。しかし、日本の労働問題研究が社会政策論の伝統から労働経済学へと大きく横滑りを起こして以来、すでにかなりの時間が経過した。初期の労働経済学は自らの歴史性や限界性を認識していたかも知れないが、現代においてはそのような認識は残されていないように見える。労働経済学の世代交代が進み、市場経済学の原理的な理解によって学界の自己再生が行われた結果、労働経済学から、人間や社会の問題を扱うという現実感が薄れ、自らが作り出した抽象世界を現実として信じ込むような研究者を生み出している。

労働経済学は、現実との緊張関係を失い、その内部的な世界に閉じこもり保守化し、排他的な性格を持つようになってきている。労働経済学が、今後も、このような態度をとり続けるならば、学問としての生命力が失われることは間違いないであろう。

私には彼が力を込めて書いているケインズ理論の意義など経済学自体に関わる論点にはコメントする力はありませんが、労働問題研究に現実感覚を取り戻すためにも、まずは少なくとも「労使関係論をどげんかせんといかん」とは感じています。

池田信夫氏の熱烈ファンによる3法則の実証 スウェーデンの解雇法制編

>私の尊敬する、池田信夫上武大学大学院教授の出演されたテレビ番組、桜プロジェクト「派遣切りという弱者を生んだもの、第2弾」のテキスト起こしです。

と、3法則氏への尊敬を隠そうともしない奇特な御仁が、わざわざ池田信夫氏がいかにインチキを喋っているかを、その発言を正確に再現するという見事なまでに忠実な行為によって、満天下に晒すという結果的に大変世のためになる貢献をしていただいております。

http://teinengurashi.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/2-ea0e.html

>池田信夫

「いいやアメリカのシステムじゃないんですよ。それは。例えばね、これは僕の言っているのに一番似ているのはスウェーデンなんですよ。スウェーデンてのは基本的に解雇自由なんです。ね、いつでも首切れるんです、正社員が。その代わりスウェーデンはやめた労働者に対しては再訓練のそのー、システムは非常に行き届いている訳ですよ。だからスウェーデンの労働者は全然、そのー失業を恐れない訳ですよ。」

なお、本ブログの読者には今更ながら、スウェーデンの解雇規制については、このエントリおよびそのリンク先をどうぞ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-26ec.html(これがスウェーデンの解雇規制法です)

>純然たる事実問題について、その主張の誤りを指摘されても、事実問題には一切口をつぐんだまま、誹謗と中傷を投げ散らかして唯我独尊に酔いしれるという御仁に何を言っても詮無いことですが、事実問題に何らかの関心をお持ちであろう読者の皆様のために、スウェーデンの解雇規制法のスウェーデン政府による英訳を引用しておきます

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-ffc2.html(スウェーデンの労働法制は全部ここで読めます)

>さて、某一知半解無知蒙昧氏の「北欧は解雇自由」とかいう馬鹿げた虚言はともかく、解雇規制に限らず北欧の労働法制はどうなっているのか興味を持たれた方もいるかもしれません。

また、スウェーデン以外の北欧諸国については、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-1311.html(これがノルウェーの解雇規制法です)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-c511.html(デンマークの解雇規制はこうなっています)

>誹謗中傷の後始末もしないまま、平然とフレクシキュリティとか知ったかぶったかしているようですが、念のためデンマークの解雇規制についてもEUの資料を引用しておきます。

なお、池田信夫氏の所業については、本ブログにおいてもっともよく読まれ、多くのブログ等に引用されたこのエントリをどうぞ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/3_a7ad.html(池田信夫氏の3法則)

池田信夫氏の第1法則:池田信夫氏が自信たっぷり断言していることは、何の根拠もない虚構である蓋然性が高い。

池田信夫氏の第2法則:池田信夫氏がもっともらしく引用する高名な学者の著書は、確かに存在するが、その中には池田氏の議論を根拠づけるような記述は存在しない蓋然性が高い。

池田信夫氏の第3法則:池田信夫氏が議論の相手の属性(学歴等)や所属(組織等)に言及するときは、議論の中身自体では勝てないと判断しているからである蓋然性が高い

(追記)

というわけで、議論の中身で絶対に勝てないときには、「これは意味論的な問題にすぎない」となにやら哲学的めいた台詞を口にして去っていくと、いかにも偉そうに見えるので、皆さんも是非見習いましょう。

ここでいう「意味論的問題にすぎない」というのが現代哲学とは何の関係もない、単なる「事実への軽侮」のユーフェミズムにすぎないことは、本ブログの読者には疾うにご了解されているところではありますが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_a9de.html(池田信夫症候群-事実への軽侮)

>池田氏やイナゴさんたちの書き込みを読んでいると、彼らには共通して「事実への軽侮」という特徴があるように思われます。

労働問題であれ、何であれ、およそ社会に生起する現象について論じようとするときに、最も重要なことはそれが事実に立脚しているという点であるはずです。

事実に立脚しない、つまりそれが事実ではないのではないかと指摘されても何ら反論できないような虚構の上に百万言を費やして壮大な理論を構築しても、それはテツガク作品としては意味を持つこともないとは言えませんが、少なくとも社会を対象とする学問としては無価値であるといわざるを得ないでしょう。

今回の池田氏の行動は、自分から、私の論文中の独自の意見にわたるところではなく、労働問題を知っている人間にとっては常識に類する程度の前提的な部分にのみ噛み付いて、罵倒した挙げ句、間違いを指摘されると何ら反論もせずに人格攻撃のみを繰り返している点に、最大の問題があるわけです

どんなトピックを取り上げても、同じパターンを繰り返すところが、池田信夫氏流というものなのでしょうが。

(再追記)

なんでもいいけど、ある具体的な国の法制について、その国の政府の英語サイトを証拠に引いて、おまえのいってることは嘘つきだといわれているときに、極東某国の誰も知らない「人事コンサルタント」氏の文章を葵の印籠よろしく自慢げに突き出すその神経が、およそ社会現象を実証的に研究する人間にはおよそあり得ないと、まともな研究者の目に映るということがわからないのですねえ。

外国法をめぐって熱っぽく論戦を戦わせている学会でそういうことをやったらそのとたんに学者生命は終わりでしょう。(現に終わってるじゃない、とまぜっかえさないように)

スウェーデンが労働者にとって解雇されてもあんまり痛くない社会であるということと、スウェーデンの労働法制が解雇自由とか解雇が容易だとかいうこととは論理的に全く別のことです。世界的に見て、法律の条文上は大変解雇規制が厳格なスウェーデンが、解雇がそれほど(日本みたいに)大きな問題にならない社会であることが理解できないんですね。

逆に言えば、日本も解雇規制がどうであれ、今のように解雇されることが大変きつい社会であることも、解雇されても大して痛くない社会であることも、どちらも可能です。それは法律上の解雇規制の厳格さではなく、解雇されたときのセーフティネットがどのようになっているかという問題ですから、

そういうものの筋道がわからずに、ただひたすら解雇自由を唯一の「最終解決手段」としてあがめ奉る異常な神経が批判されているということがわからないところが、池田信夫氏の池田信夫氏らしいところであるわけですが。

2009年6月13日 (土)

労働者供給事業の歩みと課題・展望

労働者供給事業関連労働組合協議会(労供労組協)のホームページに、去る5月24日に行われた社会政策学会のテーマ別分科会の資料がアップされています。

http://www.union-net.or.jp/roukyo/top.html

こちらは、日本労働法学会と違って、ちゃんと実施されたんですねえ。

これはスペシャル版で、第5分科会では総論編として、労供労組協議長としての伊藤彰信氏と、連合非正規労働センターの龍井葉二氏が、労働組合の労働者供給事業全体について論じ、続く第9分科会では全日本港湾労働組合中央執行委員長としての伊藤彰信氏と、企業組合スタッフフォーラム代表執行役の齊藤壽氏が、それぞれ事業を行う立場から報告しています。

龍井さんの資料はレジュメですが、他の3つはそのまま読める文章形式ですので、これだけで労働組合の労働者供給事業についてかなりの知識を得ることができるでしょう。

伊藤氏の総論は労供事業の歴史が主ですが、最後のところで「労働者供給事業法(仮称)の構想」を提起しています。

http://www.union-net.or.jp/roukyo/syakaiseisaku_gakkai/ayumi_kadai_tenbou.pdf

>労供労組協は、2009 年3 月に開催した第26 回総会において、労働者供給事業法(仮称)の制定運動をすすめる方針を確認した。労働者供給事業法(仮称)といってもその内容はまったく決まっていない。

派遣労働が大きな社会問題になっているとき、労組労供こそが問題の解決方法でなければならないという信念だけである。登録型派遣を禁止する、あるいは労働者派遣法を廃止することによって、派遣労働者381 万人は正規労働者になれるのだろうか。むしろ、非正規労働者の権利を確立し、その団結を促すことが必要である。米国のオバマ大統領が議会に提出している従業員自由選択法(カードチェックによって過半数の支持を集めれば、労働組合が結成でき、交渉権を獲得する)をはじめとする労働政策をみると、1930 年代のニューディール政策のように労働組合を育成することが社会の底支えとなり、個人消費を拡大することになり経済回復に寄与するという政策のように思える。労組労供は、封建的な身分制度を打破して、労働者の団結により自主的、民主的な就労体制を望んだものである。そもそも、職安法44 条で禁止されていたもの(労働者供給、労働者派遣、在籍出向)は、労働組合にしかできない。

労働組合がおこなう労働者供給事業に関する労働者供給事業法を制定して、労働者保護を図ることが必要である。

>労働者派遣法を廃止するとともに労働者供給事業法(仮称)を制定して、派遣労働者の団結を促すことが、派遣労働者の労働条件を改善し、福祉の向上に寄与すると考え、きわめて乱暴ではあるが問題提起した次第である。労組労供に多くの方が関心を持っていただき、労組労供の発展に協力していただくことを願うものである。

ちなみに、この中で私の本ブログにおける

>登録型派遣と労組労供と臨時日雇型紹介はビジネスモデルとしては同じものだから、無理に派遣元がフルに使用者だからいいんだという派遣に押し込めたり、無理に派遣先がフルに使用者だからいいんだという紹介に押し込めたりするより、全部素直に労供事業であるという原点に戻って、それにふさわしい規制のあり方を考えていくべきではないか。

という記述を引用していただいています。

龍井さんのは簡単なレジュメなので、どういう風にお話しされたのかはわかりませんが、次のチャート式に示された認識は適切だと思います。

http://www.union-net.or.jp/roukyo/syakaiseisaku_gakkai/comment.pdf

>(1)労働市場と労働組合
・渡り職人が主流 職種別組合
(←ギルドの不在)
子飼い社員の育成 企業別組合

臨時工の誕生 企業別組合の対象外

(2)正規と非正規
・正社員「長期雇用を前提にした処遇を受ける者」(昇給、賞与、退職金など)
非正規「それ以外の者」(パート労働法通達)
・非正規の増大+正規の非正規化

新たな組織と運動論
・労働市場への影響力 → 労組労供事業の可能性
・技能の形成 (職種限定・職種拡大)

(3)「居場所」としての労働組合
・「労働条件の維持・向上」→相互承認できる場の必要性
労働の対価から労働そのものの価値へ
→企業雇用に限定されない労働の場

伊藤氏の全港湾の方は、もちろん港湾労働が主ですが、私にとって興味深かったのは、介護家政職の供給事業の話です。

http://www.union-net.or.jp/roukyo/syakaiseisaku_gakkai/zenkouwan_roukyo.pdf

>全港湾がなぜ介護家政職の労働者を組織しているか、不思議に思う人がいるので、そのいきさつを述べてみたい。現在の全港湾介護家政職支部の中心組織である田園調布分会の前身は、田園調布派出看護婦家政婦労働組合であり、結成は1949 年である。47 名の看護婦、家政婦が労働組合を結成し、病院や家庭で働いていた。

当時の状況を石谷閑子組合長(故人)に聞いたことがある。田園調布に看護婦家政婦派出婦会があって約500 人ほどが働いていた。業界一の規模であった。寄宿舎は50 人ほど寝泊りができるようになっていた。労働ボスがいて、賃金の2~3割をピンはねしていた。ある日、内務省の役人とGHQ が寄宿舎に来て「職安法という法律ができ人を働かせて搾取することは許されなくなった。仕事の紹介は役所がタダでやる」と説明した。しかし、仕事の依頼はボスのところに来るので、大森の職安までいって紹介書類をつくって依頼先にいく。ピンはねはなくなったが、職安の委託をうけたボスの寄宿舎に寝泊りしていた。1 泊300 円以上取ることは禁止されていたが、ボスは1 泊600 円も取っていたので廃業させられた。労働組合をつくって自分達で労働者供給事業を行うことにした。許可申請をしたが、職安は有料職業紹介の許可を取るようにといって許可しない。国会議員に働きかけて、1950 年にやっと許可がおりた。

はじめは一般同盟に加盟していたんですが、同盟が派遣法に賛成したので全港湾に移ったということのようです。

いずれにしても、まさにボス的労供であったものが戦後手数料規制のある有料職業紹介事業と、組合費でまかなう労組労供という形になったということですね。

最後のスタッフフォーラムは、労供労組が出資してスタッフフォーラムという企業組合を作り、そこが派遣法による派遣事業を行うという仕組みです。

http://www.union-net.or.jp/roukyo/syakaiseisaku_gakkai/staff-forum.pdf

労働組合が派遣事業を行うというのはどういうことか、というと。

>① 派遣契約内容の開示
非営利については労働者供給事業から受け継ぐ精神を強調したものであり、実際に非営利で行うということではないが、勤労者の労働の対価である賃金から中間的に経費を抜取る行為は中間搾取に至り易いことから、これを開示することはある意味当然であるといえる。このことからマージン率を含め契約内容はすべて派遣先企業と派遣スタッフに開示することとし、そして実践することを掲げる。
また、必要最小限の経費での運営により賃金率の最大限化や社会労働保険の付保を完全に履行することとする。

② 健全な発展への寄与
冒頭のような悪質とも言える人材派遣事業者が蔓延ることを創設当時に危惧していたことは既に述べたが、労働者派遣事業そのものが側面に労働を商品にしてしまう要素を孕んでいる事業であるため、殊に健全性には配慮を持つべきである。
スタッフフォーラムは、適正な賃金・労働条件の形成において、一つの理想的な姿を身を以って実践しようとするものであり、これを普及させることが延いては労働者派遣事業の健全な発展に寄与するものと確信する。

このほかにも興味深い指摘がいろいろとなされており、ぜひリンク先を読まれるようおすすめします。

固定的な労働組合像だけにとらわれずに物事を考える必要性が感じられることとでしょう。

2009年6月12日 (金)

季刊労働法225号

Tm_i0eyspzamji1jyy_2 というわけで、『季刊労働法』の225号が出ました。

http://www.roudou-kk.co.jp/quarterly/archives/003966.html

第1の特集は、先日お伝えしたとおり、障害者雇用です。

>障害者権利条約が国連で採択され、日本でも批准のための法整備について検討が始まっています。障害者雇用の現状、現行法はどのようになっているのか、批准に向けて、日本はどのような法制度を検討すべきなのでしょうか。
また、この不況で「授産施設に不況直撃」などといった見出しの記事も散見できます。
福祉の視点からは批准に向けて何が必要と考えられているのでしょうか。
特集「障害者雇用の方向性を探る」では、こうした論点について考えます。

障害者雇用の現状と法制度
 高齢・障害者雇用支援機構 国立職業リハビリテーションセンター次長 田口晶子

障害者雇用の法理
 その基礎理論的課題
 中央大学法科大学院教授 山田省三

障害者雇用の今後のあり方をめぐって
 福祉と雇用の分立から融合へ
 法政大学教授 松井亮輔

差別禁止法における「障害」(disability)の定義
 障害を持つアメリカ人法(ADA)の2008年改正を参考に
 成蹊大学法学部講師 長谷川珠子

イギリス障害者差別禁止法の差別概念の特徴
 中央学院大学講師 長谷川 聡

フランスの障害者雇用政策
 東京大学大学院GCOE特任研究員 永野仁美

日本における障害者雇用にかかる裁判例の検討
 明治大学准教授 小西啓文

知ってる人は知ってるように、現在厚生労働省に「労働・雇用分野における障害者権利条約への対応の在り方に関する研究会」が設置され、昨年4月からずっと審議を続けてきています。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/04/s0414-6.html

また、去る5月29日、連合は「連合の「雇用における障害差別禁止法」(仮称)制定について」を中央執行委員会で確認しています。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/seido/shougaisya_koyou/data/20090521.pdf

いま、障害者雇用問題はこの差別禁止というインパクトを受けつつ、さらに福祉就労している障害者の労働者性というビミョーな問題もからんで、なかなか面白い局面にさしかかりつつあります。

障害者はいままで、労働研究者にとってどうしても縁の薄い領域でしたが、是非この機会にじっくり読んでみるといいと思います。

さて、第2特集は派遣労働です。

>世界的な不況の影響で「派遣切り」が大きく報じられました。今後の派遣制度の見直しが議論される中、正社員との均等待遇がキーであるといわれています。
第2特集では、大陸ヨーロッパの派遣制度から、日本の派遣制度が学ぶべき点は何かについて検討します。

第2特集 ヨーロッパにおける派遣労働の動向

EU派遣労働指令の成立過程とEU諸国の派遣法制
 労働政策研究・研修機構統括研究員 濱口桂一郎

ドイツにおける派遣労働の特徴と請負・派遣区分に関する基準
 連邦雇用機構の派遣法施行指示を中心にして
 大阪経済大学教授 大橋範雄

ドイツ労働者派遣法における均等待遇原則の機能と限界
 亜細亜大学准教授 川田知子

フランス派遣労働法制における均等待遇原則
 その沿革と現状
 沖縄国際大学 大山盛義

その他の論文は以下の通りです。

■集中連載■

比較法研究・中小企業における労働法規制の適用除外

中小企業に対する労働法規制の適用除外―ドイツ―
 三重短期大学准教授 山川和義

中小企業に対する労働法規制の適用除外―フランス―
 神戸大学准教授 関根由紀

■連載■

労使が読み解く労働判例(連載第2回)
「パワー・ハラスメント」とは何か、それが労基法学上提起する課題
―国・静岡労基署長(日研化学)事件(東京地判平19・10・15労判950号5頁)を素材として―
 獨協大学教授 石井保雄

個別労働関係紛争「あっせんファイル」(連載第7回)
あっせん制度の手続
―法制と実務との乖離―
 九州大学教授 野田 進

■研究論文■

施設における障害者訓練と労働者性判断に関する一考察
 関西学院大学教授 柳屋孝安

イギリス労働法における雇用契約の推定
 ―推定作業における契約意思の探求
 九州大学法学府博士課程/日本学術振興会特別研究員 新屋敷恵美子

ドイツにおけるリストラクチャリングの際の従業員代表の役割
 東京大学大学院博士課程 成田史子

■神戸労働法研究会■

「使用者が雇用する労働者」の退職と団交応諾命令の拘束力
 ―国・中労委(ネスレ日本島田工場・団交)事件を中心に―
 神戸大学大学院 本庄敦志

■北海道大学労働判例研究会■

Aラーメン事件
 仙台地判平成20.3.18労判968-32、仙台高判平成20.7.25労判968-29
 弁護士 開本英幸

■筑波大学労働判例研究会■

他社への長期出張中に発症したうつ病について、会社および出張先会社への損害賠償請求が認められた例
 トヨタ自動車ほか事件 名古屋地判平20.10.30労経速2024号3頁
 筑波大学労働判例研究会 小田倉秀二

なお、今回は、私は派遣労働の方で原稿を執筆したため、「労働法の立法学」はお休みです。

UIゼンセン二宮誠氏の派遣論

200906 『人材ビジネス』6月号で、UIゼンセン同盟東京都支部長の二宮誠氏が「非正規社員は「物」ではない 正規の無関心が招いた「派遣切り」」というインタビュー記事に登場しています。

http://www.jinzai-business.net/gjb_details200906.html

私の考えと大変近いので、引用しておきます。

>現在、製造業派遣や登録型派遣を禁止し、専門的業務の派遣に限定すべきだという意見があります。しかし、賃金や雇用保険などのセーフティネットさえきちんと整備しておけば、製造業務だろうと登録型だろうと。どんな働き方でも問題はないと私は思っています。

日雇い派遣も同じで、企業と労働者の双方にニーズがあるのです。・・・・・・

>専門的業務についてですが、政令26業務の中にはOA機器操作やファイリングなど、専門技術が必要とはいえない業務もあります。ですから、専門的とそうでない業務に分けて考えるのはナンセンスです。・・・

>連合は登録型と製造派遣の禁止を主張しています。マスコミや世論に押されてしまった部分もあるのでしょう。労働運動というのは、本来、世論を作る立場であるはずが、どこで間違ったのか、世論に動かされてしまっている。

連合自体が大企業の正規社員で構成されているので、どうしても正規社員の発想になってしまう。・・・

日本のサラリーマンは「就職」するのではなく「就社」するといった方が近いと思います。これがもし「就職」であれば、同じ職業の者同士で守り合うこともできますが「就社」ですから、会社での縦社会に組合がどっぷりつかってしまっている。

その中で、自分たちの権益を守ろうとしますから、労働者の二重構造、三重構造を作り上げ、正規社員だけ守ろうとすることにつながります。・・・

ですから、派遣切りのような問題が起きても、親身になって何とかしてやろうとしない。自分の会社に派遣スタッフが何人来ているか、派遣なのか請負なのかすら知らない組合員も多い。だから「派遣反対」などと簡単に言えるのでしょう。

労働組合には本来、そこで働いている人はみんな仲間であり、助け合わなければならないという考え方があります。それなのに、大手の企業別組合にはその発想がありません。

そうして、韓国を例に引きながら、遂にはここまで言います。

>私は日本もいっそのこと、企業別組合をなくしてしまった方がよいと考えています。そうすれば無茶な働き方や利益追求主義もなくなるでしょうし、労働者保護にもつながると思います

私はさすがにそこまでは言いませんが。ただ、「企業別」ということが「会社が違えば無関心」という発想のもとになっていることを考えると、もういっぺん、「職場」に根ざした組合という発想に戻ってみる必要はあるのだろうと考えています。

2009年6月10日 (水)

奈良病院「当直」という名の時間外労働裁判の判決

4月23日のエントリで紹介した奈良県立奈良病院の事件の判決文がアップされています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-0100.html(医師の当直勤務は「時間外労働」)

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090610094728.pdf

判決文のうち、重要な部分は以下の通りです。

>労働基準法は労働条件(勤務条件)の最低基準を定めることを目的とするものであり(同法1条2項),同法が適用される限りにおいて,地方公務員の勤務条件はこれを条例で定める場合においても労働基準法で定められた基準以上のものでなければならない。原告らは,一般職の地方公務員であり(地方公務員法3条),一部の規定を除き労働基準法が適用され(同法58条),同法37条,41条の適用をも受ける。したがって,原告らが地方公務員であって勤務条件条例主義の適用を受けるとしても,それは同法37条,41条で定める基準以上のものでなければならないと解される。

時間外又は休日労働の割増賃金支払義務に関する労働基準法37条の規定は,監視又は断続的労働に従事する者で,使用者が労働基準監督署長の許可を受けた者については,適用しないこととされているが(同法41条3号),同法41条3号にいわゆる「断続的労働」に該当する宿日直勤務とは,正規の勤務時間外又は休日における勤務の一態様であり,本来業務を処理するためのものではなく,構内巡視,文書・電話の収受又は非常事態に備えて待機するもの等であって,常態としてほとんど労働する必要がない勤務をいうものと解される(平成14年3月19日厚生労働省労働基準局長通達基発第0319007号,甲13)。そして,同法41条3号にいう行政官庁たる労働基準監督署長は,①常態としてほとんど労働する必要がない勤務のみであること(原則として通常の労働の継続は認められないが,救急医療等を行うことがまれにあっても一般的にみて睡眠が十分とりうるものであること),②相当の睡眠設備が設置され,睡眠時間が確保されていること,③宿直勤務は週1回,日直勤務は月1回を限度とすること,④宿日直勤務手当は,その勤務につく労働者の賃金の一人一日平均額の3分の1を下らないこと,という許可基準をみたす場合に,医師等の宿日直勤務を許可するものとされている(前記通達(甲13)の別紙「労働基準法第41条に定める宿日直勤務について」)。

ところで,勤務時間条例9条1項は,職員に断続的な勤務を命じることができるとし,勤務時間規則7条1項3号 は,県立病院の入院患者の病状の急変等に対処するための医師又は歯科医師の当直勤務が断続的な勤務に当たると規定する。しかし,前記認定のとおり,原告らは,産婦人科という特質上,宿日直時間に分娩への対応という本来業務も行っているが,分娩の性質上,宿日直時間内にこれが行われることは当然に予想され,現に,その回数は少なくないこと,分娩の中には帝王切開術の実施を含む異常分娩も含まれ,分娩・新生児・異常分娩治療も行っているほか,救急医療を行うこともまれとはいえず,また,これらの業務はすべて1名の宿日直医師が行わなければならないこと,その結果,宿日直勤務時間中の約4分の1の時間は外来救急患者への処置全般及び入院患者にかかる手術室を利用しての緊急手術等の通常業務に従事していたと推認されること,これらの実態からすれば,原告らのした宿日直勤務が常態としてほとんど労働する必要がない勤務であったということはできない。

以上のような実情に鑑みると,本件においては,原告らの宿日直勤務について,これを断続的な勤務とした勤務時間規則7条1項3号 に該当するものとすることは,労働基準法41条3号の予定する労働時間等に関する規定の適用除外の範囲を超えるものというべきである

>被告は,原告らの宿日直勤務における救急外来受診患者数及び異常分娩件数は多くなく,正常分娩において医師が実際に診療を行う時間も多くないから,労働基準法41条3号の断続的勤務にあたると主張する。しかし,前記で認定した,奈良病院産婦人科における宿日直勤務の実情に照らすと,宿日直勤務において行わなければならない本来業務(通常業務)の発生率が低く,一般的に見て睡眠が十分とりえ,労働基準法37条に定める割増賃金(過重な労働に対する補償)を支払う必要がない勤務であるとは到底いえな
い。

また,被告は,奈良県人事委員会が医師の当直勤務を断続的な勤務ととらえることを許可しているのだから,労働基準法41条3号に反しないと主張する。しかし,労働条件の最低基準を定めるという同法の目的に照らせば,行政官庁の許可も同法37条,41条の趣旨を没却するようなものであってはならず,そのために上記通達等(甲13)が発せられ医師等の宿日直勤務の許可基準が定められているのである。そうすると,奈良県人事委員会の許可も上記許可基準と区別する理由はなく,上記許可基準を満たすものに対して行われなければならないと解されるから,被告の主張は採用できない。

実体的な中身については今まで本ブログでも繰り返し書いてきたことなので、今更繰り返しませんが、法学的見地からみて興味深いのはこれが公務員事案であって、奈良県立病院の医師の「当直」を同じ奈良県人事委員会が許可するという「お手盛り」の仕組みであったという点ですね。

これは、そもそも民間と同じ労働基準法が適用されていながら、その監督システムが違うことの正当性という議論にもつながる論点です。

障害者雇用ブーム

ここのところ、障害者雇用がちょっとしたブームのようです。『法律時報』4月号が障害者権利条約を特集していたかとおもうと、

http://www.nippyo.co.jp/magazine/5015.html

■特集=障害者権利条約と日本の課題

障害者権利条約の概要――実体規定を中心に/川島 聡
障害者権利条約における差別禁止と差別の三類型/東 俊裕
障害者権利条約と労働/松井亮輔
障害者権利条約と教育――障害者主体のインクルーシブ教育と盲・ろう・盲ろう教育/長瀬 修
障害者権利条約と自立生活/藤井克徳
障害者権利条約と実施措置/山崎公士
〈資料〉障害者の権利に関する条約〔日本政府仮訳文〕

『労働法律旬報』5月下旬号が「障害者の権利条約と障害者雇用」という特集。

http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/536?osCsid=71be8647970d4ea3fba71667342bc262

〈特集〉障害者の権利条約と障害者雇用
 *障害者権利条約とわが国の障害者の一般雇用施策関係法の問題点と課題[山田耕造]―6
 *ドイツの障害者雇用の現状と検討課題―日本法への示唆[小西啓文]―22
 *アメリカの障害者雇用[永野秀雄]―32
 *EU均等法と障害のある人・家族・支援者の雇用―英国コールマン事件を契機とする均等待遇保障の新展開[引馬知子]―43
 *裁判に見る日本の障害者雇用の現状[清水建夫]―53

そして、来週初めに発行される『季刊労働法』も、障害者雇用特集です。

特集 障害者雇用の方向性を考える

障害者雇用の現状と法制度 田口晶子
障害者雇用の法理 山田省三
障害者雇用の今後のあり方をめぐって 松井亮輔
差別禁止法における「障害」(disability)の定義 長谷川珠子
イギリス障害者差別禁止法の差別概念の特徴 長谷川 聡
フランスの障害者雇用政策 永野仁美
日本における障害者雇用にかかる裁判例の検討 小西啓文 他

これだけまとめて読むと、大変勉強になると思います。

基本方針2009素案

昨日の経済財政諮問会議ですが、今朝の新聞では消費税12%に焦点が当たっていますが、ここでは基本方針2009素案の記述から、

http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2009/0609/item3.pdf

第2章が「成長力の強化」で経済産業政策、第3章が「安心社会の実現」で雇用社会政策、第4章が「今後の財政運営のあり方」ということですが、第1章の総論「危機克服の道筋」での、こういう記述に、政策運営のスタンスがにじみ出していますね。

>「経済の危機」と「社会の危機」への対応は、相互に補完・補強し合う関係にある。若者世代の能力発揮や少子化対策の強化により、将来の成長力が底上げされる。経済の過度のマイナス成長を防ぎつつ、「未来市場」に関わる質の高い雇用を創出することは、日本型安心社会の基軸となる「雇用の安心」をもたらす。老後や介護への安心を確保することにより、高齢者の金融資産をいかした内需主導成長が動き始める。

経済と社会、どちらの危機への対応を優先するかという視点を超えて、双方の危機に同時、かつ一体的に取り組まなければならない。安心と活力を高める上で不可欠な支出については、政策にかかる費用とそのための安定的な財源を具体的に明示し、検討を早急に進める。残された時間は短い。2010年代前半から半ばにかけて、団塊世代が高齢世代入りし、就職氷河期の若年世代は社会の中核を担うべき年齢に到達しはじめることになる。

こういうさりげない語り口の中に、社会問題などは経済が回復すれば解決するのだからマクロ経済だけ考えればいいので社会政策など下らぬことはするな、などと言いつのりたがる下劣な輩とか、経済全体のことには関心のないまま目の前の「かわいそう」にばかり熱中しがちなある種の性向の人々に対する痛烈な批判が隠れているわけですが。

2009年6月 9日 (火)

都内某所で・・・

本日、都内某所で某会議。

本日のエントリでほとんどそのまま引用させていただいた田中萬年先生とも同席。ペコリ

さらに先日慶應の商学部長になられた樋口美雄先生、久本憲夫先生、駒村康平先生、児美川孝一郎先生、本田由紀先生、矢野眞和先生、親委員会から広田照幸先生もご出席でした。

さて、これは何の会議でしょう?

しごとは卑しく、文化は高貴である

田中萬年氏が、同氏のホームページの「VT雑感」(VTとはヴォケーショナルトレーニングですもちろん)で、「ようやく出た『わたしのしごと館』の”意義”」というエッセイを書かれています。

http://www.geocities.jp/t11943nen/VTzakkan.html

満身の意を込めて同感ですので、そのまま引用しますね。

>「無駄」の象徴のようにマスコミからもたたかれた、「私のしごと館」の意義について、 2009年5月25日『京都新聞』が次のように紹介している。

 ご周知のように、「私のしごと館」の廃止は既に決定しているが、その「私のしごと館」の活用策を探る市民フォーラムが24日に地元で開催されたという。

 そのなかで、木津川市の元中学校長井上総さんは次のように発言したという。

 「職業教育の必要性が高まる中、廃止は時代に逆行している。職業体験の機能を残すべき」。

 「私のしごと館」の問題の全てを擁護する立場ではないが、少し冷静に考えれば長井さんのような意見はすぐ出るはずである。若者の利用も少なくなかったようだ。このような正論を出せない雰囲気が、「行政改革」のキャッチフレーズにかき消されていたのである。

 そのような状況の後に出た補正予算案では、漫画好きの首相の故か、117億円の“アニメ殿堂”を建設するという。これには何故か批判の声は強くない。

 全ての若者に重要な「人間育成」の課題である職業体験、職業探索が、一部の産業振興のための殿堂建設よりも意義が低いとはどのように考えても言えないはずである。

 このことは、わが国の通念が、「職業」や「労働」ということばに関する施策が“文化的におい”のする施策に比べ、低位に位置付いていることにある。「職業に貴賤なし」の課題より深い層にある「貴賤」である。

 極論すると「私のしごと館」と「博物館」・「美術館」のどちらが意義が低いのだろう。それを議論した「ムダ」という言葉で比較すればどうだろうか。

 いずれも公金であるが、「私のしごと館」は「雇用保険金」(それは事業主支出分である。)である。それを使うのがムダとされた。博物館・美術館は国民の税金である。「私のしごと館」を民間化せよ、いや不要と、された。

 美術館、博物館も民間立があるが、税金にて運営されている国公立はムダではないのだろうか。

 そもそも、公営、公立は民営が困難だから公金で運営するのであろう。それは社会が必要なためにつくられるはずである。

 これらのことを真剣に考えねば、日本の再生は不可能なのではなかろうか。

しごとは卑しく、文化は高貴である、と。

2009年6月 7日 (日)

DIO6月号

連合総研の機関誌「DIO」6月号が、「労働法改革を考える」という特集を組んでいます。

http://rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio239.pdf

先日行われた(私は出席できませんでしたが)イニシアチブ2009のシンポジウム「労働法改革のグランドデザイン」における水町先生の基調報告がメインですが、その前に、梶川敦子さんの「労働時間法制の課題」、柳沢武さんの「雇用における年齢差別の撤廃」という短めの論文が載っています。

梶川さんの論文は、シンポジウムのディスカッションペーパーに載せた私の論文と方向性は似ていますが、そこは私みたいなむくつけでわざと人を怒らせるような言い方ではなく、まっとうな学者らしい慎重な言い回しで書かれていますね。若い方々はこちらを真似するように。まあ、労働時間法制については、水町先生も含め、ものごとをきちんと考える人々は、割増賃金よりも時間外の規制、さらには休息時間の保障へ、と、だいたいこういう方向に向かってきていることは明かですね。

柳沢さんの論文のテーマの年齢差別は、むしろ研究会の中でも意見がまとまっていませんし、労働法学者の間でも様々な意見のあるコントロバーシャルなテーマです。この論文の中でも、森戸先生の「いつでもクビ切り社会」を引いて、

>森戸氏の主張には共感できる部分も多々ある。ただし、年齢差別の禁止が「クビ切り」に結びつくという見解だけは、にわかに賛同することができない。

> とはいえ、森戸氏のスタンス(解雇規制の緩和)に同意される人事担当者も少なくないであろう。実際、年齢差別を禁止するならば50代で解雇されざるを得ない人が多く出てくるとの意見が、大手製造業の人事部長から示されている(「イニシアチヴ2009」ディスカッション・ペーパー163頁)。

労務屋さん、またまたお呼びですよ。

柳沢さんは、年齢差別禁止政策についておそらくもっとも積極的な立場の研究者の一人ですから、

>様々な場面で年齢に固執する日本社会において、その実現には時間がかかるかもしれない。それでもなお、年齢のみを基準とする一律的な取扱いを「考え直す」企業(そして労働組合も!)が増えるよう、年齢差別という概念自体への積極的な理解が求められる。

と訴えています。

なお、その後ろに雇用ニューディール研究会における駒村康平先生と宮本太郎先生の報告と討議の概要が載っています。いずれも興味深い論点が示されています。

2009年6月 5日 (金)

生産性新聞「今後の雇用政策のあり方」

日本生産性本部の機関紙「生産性新聞」の6月5日号が「今後の雇用政策のあり方」というタイトルで、わたくしとみずほ総研の堀江奈保子さんのエッセイを載せています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/seisansei0605.html

短いものですので、全文をここにのっけておきます。

>現在、日本の雇用政策は何回目かの転換の時期にある。1990年代後半からの「市場主義の時代」からの転換である。しかし、転換した先にどういう時代に向かうのかは、未だに明確なイメージが確立されているとはいいがたい。まず、これまでの日本の雇用政策をおおむね20年ごとに時代区分してみよう。

 疾風怒濤の時期を過ぎ、春闘と生産性運動で幕を開けた1950年代半ばから1970年代半ばまでの20年間は、すでに忘れている人も多いかも知れないが、職種と職業能力を基盤とする西欧型の近代的労働市場の確立が目指された時代であった。当時、同一労働同一賃金を掲げていたのは経営側であり、労働側は職務給に否定的であった。政府は企業横断型労働市場の確立を目指して、公的職業訓練や技能検定制度、広域労働移動の促進とそのための住宅整備などに取り組んだ。臨時工や社外工といった不安定雇用問題が大きな関心の対象となった。

 ところが1970年代半ばから1990年代半ばまでの20年間は、企業や政府も日本的雇用慣行を高く評価するようになり、雇用維持や企業内訓練への助成金が政策の中心となった。男女平等政策の裏側で、非正規労働者への政策的関心は顕著に失われた。やがて1990年代半ばから新自由主義的な思想が席巻し、政策の基調は規制緩和と労働の流動化におかれたが、非正規労働の柔軟化ばかりが進み、正規労働の柔軟化は遅れた。このアンバランスが噴出したのが2000年代半ばであり、ここ数年非正規労働者の悲惨な実態が報じられるにつれ、労働再規制の傾向が強まっている。

 ここで考えるべきことは、市場主義からの転換の先にいかなるシステムを構想するかである。80年代型の企業主義に戻るのか、60年代型の近代主義に戻るのか。これは雇用政策だけではなく、社会保障政策や教育政策、住宅政策など広範な政策領域に大きな影響を与える。企業主義ならば、労働者の生活保障の大部分は企業に依存することになるが、近代主義ならば企業よりも国の責任が重くなる。転換点直前の1974年の労働白書(田中博秀編)は、年齢に応じて増加する生計費を年功給ではなく社会的に支える仕組みを提起していた。

 今日政策課題として目の前にある非正規労働者や社会的セーフティネットの問題は、このシステム構想の一環である。非正規の正規化といったときにどういう正規労働モデルを念頭に置いているのかが問われなければならない。問題の焦点はそこにある。

 企業中心社会への反発が過度な市場志向をもたらす原因でもあったことを考えれば、また労働者の利害の個別化や、差別問題への感覚の鋭敏化といった社会の流れは逆転するどころかますます進行するであろうと考えられることからすれば、単純な内部労働市場志向政策が適切であるとは思われない。一方、職務給や職種別労働市場の形成といった半世紀前の理想がなぜ現実化しなかったのかという問題に正面から取り組むことなく、漫然と外部労働市場中心の社会を掲げてみても、実現への道筋が見えてくるわけではない。

 いまこそ次代を作る具体的な構想力が求められている。

2009年6月 3日 (水)

勤務間インターバル制度

「労働新聞」といっても、ジョンイルさんのとこの広報誌じゃなくって、日本の労働業界紙です。

http://www.rodo.co.jp/periodical/news/5182729.php

その5月25日号と6月1日号に、情報労連が今春闘で勤務間インターバル制度の導入を経営側と妥結したというニュースが載っています。まず5月25日号、

>勤務間インターバル制を導入――情報労連9単組

情報労連(加藤友康中央執行委員長)に加盟する9単組が今春闘において、「勤務間インターバル制度」の導入を経営側と妥結したことが分かった。残業実施後、次の勤務開始までに10時間のインターバル制度を設けるのが2単組、同8時間が7単組で、ワーク・ライフ・バランスの観点から妥結に至った。EU(欧州委員会)が連続11時間の休息期間規制を設けているのを参考に要求したもので、1日における労働時間の絶対的な上限が定まるため健康確保面の効果は大きい(杉山豊治政策局長)としている。

私がこの間主張し続けてきた休息期間規制が、ついに実現への一歩を踏み出しました、・・・とよろこんでいいですよね。

紙の記事では、このあとこう書かれています。

>情報通信業界は今、通信時業者間の熾烈な競争の煽りを受ける形で労働時間が長時間化する傾向にあり、就業意欲の向上や、人材確保戦略の上で時短の取り組みが欠かせない状況にある。産別による「ソフトワーカーの労働実態調査」の最新版でも、勤務間インターバル規制を「法律で」「業界で」「企業で」設けるべきとする声が全体で40%を超えており、業界の魅力アップにつながる対策として有効との見方が半数に迫っている。

>情報労連に考えに影響を与えた・・・(形容詞省略)濱口桂一郎教授は、EUの労働時間政策の理念が安全衛生に置かれている点を強調する。勤務と勤務の間のインターバルを一定時間以上開けるよう規制すれば、物理的に労働時間の上限が決まり、過重労働による健康障害を防ぐことにつながるからだ。

>情報労連の杉山豊治政策局長は、「1日における労働時間の絶対的な上限を定めることにつながり、根源的な意味で働く人の健康を守ることになる。今後の労働時間議論に一石を投じたのではないか」としている

続いて、6月1日号では、福本晃士記者による「今週の視点」というコラムでこの話題を追いかけています。

>インターバルの間隔が長いほど労働時間の総枠が短くなるわけで、言葉ばかりがふわふわと一人歩きしがちな「ワーク・ライフ・バランス」の理念を現実場面に一気に引き寄せたものといえる。

>参考にしたのは、1日11時間の休息時間規制を設けるEUの労働時間指令だ。その筋の第一人者である・・・濱口桂一郎統括研究員もいうように、安全衛生面の大きな成果と捉えたい。仮に、同様の制度が日本で広がれば、膨大な数の”自殺”に歯止めがかかるかも知れないからだ。

>今回の休息時間は36協定でも踏み込めないいわば聖域で”青天井”との批判が絶えない日本の労働時間規制を覆す可能性もあるといったら言い過ぎか。

EUの労働時間指令が安全衛生のための規制なのに対し、日本ではマスコミの取り上げ方も影響して「時間外手当」といった”ゼニカネ”話に傾きがちだと濱口氏は指摘する。そんな警告にも似た同氏の言葉を、自戒を込め、真摯に受け止めるべきだろう。

いや、私は「その筋」の人ではありませんよ。EU労働法はやる人がいなくて、第二人者も第三人者もいないので、わたしがいつまでも第一人者やってるだけですので、「その筋」でも「あの筋」でもありません。

ま、それはともかく、メジャーなマスコミは全然注目しませんが、こういう動きが着実に起きつつあるということは、もっと知られていいことだと思います。

ちなみに、情報労連の杉山豊治氏は、連合総研のイニシアチブ2009研究会に、労務屋さんこと荻野勝彦氏とともに、アドバイザーとして参加されていました。

http://rengo-soken.or.jp/kenkyu/2009/04/2009.html

派遣の労災 隠ぺい横行

月・火と大阪に出張していたので、気づくのが遅れましたが、昨日の読売新聞に、標記の記事が大きく載っています。

http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kyousei/security/20090602-OYT8T00305.htm

その中に、私のコメントも載っています。

>労働者軽視ともいえる深刻な事態が後を絶たないのは、そもそも、安全と補償をめぐる派遣先、派遣会社の法的な責任があいまいなことが背景にある。

 プレス機械の場合なら、手をはさまない安全装置をつける責任は派遣先の企業にある反面、作業上の注意などの安全教育は派遣会社だ。労災保険の加入対象は、実際に労働者を使う派遣先ではなく、雇用主の派遣会社。派遣先は重大な過失から労災を起こしても、労災保険では事実上、あらゆる負担を課せられない。

 なぜ法的な規制が放置されてきたのか。

 「もともと派遣は専門性の高い業務という考え方が念頭にあり、労災が続発することなど想定すらしていなかった」と打ち明ける厚労省関係者もいる。

 法的な課題に加え、関根書記長は「本来、労働者を保護すべき派遣会社が派遣先の下請け会社のようになり、深刻さを助長している」と指摘する。

 首都圏の派遣会社では「仕事をくれる派遣先は神様。私たちの仕事は、派遣先の要望に沿って人をそろえること。工場の現場など見たこともないくせに、『軽作業』と広告して人集めしている」と打ち明ける。

 建設現場の請負事業では責任があいまいにならないよう、雇用関係はなくても、元請け会社が補償の責任を負っている。この点を参考に、労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員(社会政策)は「派遣事業でも、労働者を活用して、利益を上げている派遣先の労災補償の責任を強化すべきだ」と提言。派遣先が、労災保険の保険料の一部を含めた派遣料金を派遣会社に支払う仕組みを作る――などの案を示している

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »