一度しか来ない列車
本日送られてきた『学士会会報』に、本田由紀先生の「一度しか来ない列車でいいのか」という短文が載っています。
内容は、新規学卒一括採用がいかに大きな問題があるかを論じたもので、その中では、
>日本を代表する某製造大企業の人事担当者は、「結局、採用は”官能的”なものですから」とネット上で公然と発言している。
という一節もあったりして、なかなか一興です。
本ブログの熱心な読者にはおわかりのように、これは労務屋さんの次の発言を指していますが、それを批判した本田先生ご自身のブログはすでに閉鎖されて久しく、引用できないのが残念です。
http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20060201#p1(新卒採用の基準)
>しかも、長期雇用ということは採用してから時間をかけて育てようということですから、どうしても今現在なにができるから、ということよりは、この人はこれからこの会社で伸びていけるだろうか、この会社の仕事の進め方や雰囲気にマッチするだろうか、といったいたって官能的な要素が重視されざるを得ません。さらに、ある程度まとまった人数を採用する企業であれば、画一的な人材を並べるよりは多様な人材を揃えたいと考えるでしょうから、ますます「基準」を示すことは難しくなります。極論すれば、「この人はとてもいいんだけれど、このタイプはすでに何人か内定を出しちゃってるからなぁ」といったことで不合格、ということもありえます。もちろん逆もあるわけで、「この人はかなり物足りないけれど、これまで内定を出した人たちを見ると、こういうタイプも一人はいないとね」ということで合格することだってありうるでしょう。現状の採用活動の期間は比較的短期間に集中していますが、それでも多くの企業は少数であれそれなりに長期にわたって採用活動をしているわけですから、タイミングの問題というのも当然あります。
ですから、企業としてみれば代表的な例として「こんな人は歓迎です」という大雑把な目安を示すことはできても、それ以上に詳細な「基準」を示すことはできないに決まっています。
私は就職と結婚のアナロジーはあまり好きではない(というか、解雇と離婚のアナロジーが嫌いな)のですが、あえて使えば、結婚相手や恋愛の相手について、なんらかの「基準」を決めて、この基準に一致すれば(必ず)結婚します、恋愛しますなんて言い切れますか。これと似たようなものだ、といえば感覚をつかんでいただけるでしょうか。
この、就職と結婚のアナロジーから窺えるように、「官能性」重視の根源にあるのは、ジョブ型かメンバーシップ型かという雇用システムのあり方であるわけで、新卒一括採用というのはその一つの現れに過ぎません。
それはさらに、本田先生が繰り返し指摘されるように、雇用システムだけでなく、メンバーシップ型雇用システムと相補的な職業レリバンスの希薄な教育システムとも対応しているわけです。「官能性」だけを目の敵にして済むものではありません。
そこのところで、本田先生がどこまで「職業レリバンス」の厳しさというか、もっというなら冷酷さに直面するつもりがあるのかという問いかけを、本ブログでかつて繰り返し書いたことがあります。最近本ブログにおいでになった方々にはいささか新鮮かとも思いますので、いかにリンクしておきます。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)
>職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)
>哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)
>就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)
>これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)
>いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。
そして、昨年の爆笑問題とのからみですが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/vs_3880.html(爆問学問 本田由紀 vs 太田光)
>太田光に、田中が弁当恵んでくれていたからあんたは恵まれていた、と言ってみたって仕方がないんで、「そんな日大ゲージツ学部なんて逝ってる段階であんたは人生捨ててるの!私が相手にしてるのは、まともに就職できると思っておベンキョしてたのに、不景気で就職できなかった人たちなの。」と冷ややかに言わなくちゃいけないんですけどね。
ややまじめにいいますとね。本田先生のいうレリバンス論とは、高度成長期までの日経連が繰り返し説いていたところなんです。当時のサヨクな方々は、そういう産学協同だの、崇高な教育を資本の論理に屈服させるのはけしからんと言っていたわけです。「官能性」は、その帰結でもあるということを、どこまできちんと認識して社会システムのあり方を考えることができるのか、がこの問題を歴史的にとらえる上で重要だと思います。
(追記)
この最後の所を本ブログで上記労務屋・本田由紀論争(?)のときに簡単に説明したのがこれです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_384b.html(職業能力ってなあに?)
>小心な私がこの論争に割って入ろうなどというつもりは全くありませんが、この問題を考えるには、その歴史的経緯を知っておいた方がいいのではないかと(そんなのばっかりですが)いう思いから、若干のコメントをしておきたいと思います。
これは、人材養成を基本的には企業外の仕組み(多くの場合は教育システム)が担い、企業はその専門性を認めて採用し、それを基礎としてさらに養成していくという仕組みを基本と考えるか、人材養成は基本的に企業が行うから、教育制度は余計なことをせずいい素材だけ提供してくれればいいという考え方に立つかの対立です。
荻野・本田論争を見ると、企業が後者の立場に立つのが当たり前にように思われるかも知れませんが、実は必ずしもそうではありません。
むしろ終戦直後から高度成長期に至るまで、企業側、具体的には企業全体の利益を代表する立場の日経連は、もっぱら職業教育中心の公的人材養成システムの拡充を求め続けていたのです。普通科ばっかりつくってんじゃねえよ、俺たちに役立つ職業高校を作ってくれ、下らん文科系大学ばっかりこさえてどうすんだ、職業専門大学作れよ、って感じです。
これに対して一貫して冷ややかだったのが教育界、実業なんていう不純物で神聖な教育をけがされたくないという感じ、特にこれが強かったのが日教組で、職業教育なんて高校卒業後にやってくれみたいな感じ。
こういう冷たい教育界に対して、企業側が、それならしょうがないから俺たちが一からやるというのが、日本型雇用慣行の特徴とされる企業内人材養成システムです。企業が一からやるんだから、学校で何を学んできたかなどは関係なくなる、職業高校卒というのは、そういう専門を勉強してきた奴というラベルではなく、中卒時に普通科に行けず、職業高校しか行けなかった奴というレッテルになります。
大学も同じね。これはよくおわかりでしょう。
専門性で人間を測るのではなく、俺たちが一から教えるのにふさわしい奴かどうかを見るのですから、そりゃあ「官能的」になるでしょう。
企業側が、職業を蔑視する教育界の我が儘に適応した結果が、この本田先生の言う「職業レリバンスの欠如」なのですから、この因果関係自体について今さら企業を責めてみても始まりません。教育界の自業自得であり、ツケが回ったのです。
問題はここから先をどうするか、です。企業実務家の立場からすれば、高度成長期以来確立してきた人材養成システムをそう一朝一夕に変えられるものではないし、そもそもじゃあ変えたら明日から学校はそういう人材をちゃんと耳をそろえて持ってきてくれるというのか、ということになります。文部科学省もさすがに近ごろ「キャリア教育」とか称していろいろ実験しているようですが、企業から見ればたぶんちゃんちゃらおかしいというレベルなんでしょう。
これに対して、本田先生は「職業レリバンスの回復」という理想を掲げて戦っていらっしゃるわけです。それは現段階では理想に過ぎず、現実の教育界の姿を前提にすれば無理なことを言っているのはわかった上で、あえてそういう理想を掲げて前進すべきではないかと仰っておられるわけで、そういう戦いの過程において「採用は官能的」などという発言を見過ごしにできないとお感じになられるのは、これはこれでまたよく理解できるところでもあります。
さらに、それを若干詳しくフォローしたのが、『季刊労働法』に書いた「デュアルシステムと人材養成の法政策」 です。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/dualsystem.html
関係部分を引用しておきます。
>5 公的人材養成システム中心の構想
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