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2009年4月 6日 (月)

小池和男氏の近著についての疑問

314353 日本の労働研究にかつて一時代を画した小池和男氏の近著『日本産業社会の「神話」-経済自虐史観をただす』(日本経済新聞社)は、正直言って複雑な感興をもたらす書物です。

http://www.nikkeibook.com/book_detail/31435/

私はそもそも、社会科学研究とは真実にどれだけ近いか遠いかが唯一の判断基準であるはずで、「自虐」にせよ「他虐」にせよ、特定の主体に感情移入することを価値判断の基準とするようなものの言い方自体、客観的な真実のみを判断基準とするつもりがないという信仰告白のようなものだろうと思いますので、このどこぞのアジビラのような副題に抵抗感を感じるということを申し上げざるを得ません。「神話」の脱神話化はあらゆる領域において必要ですが、それは「自虐」とか「他虐」という言葉遣いとは最も遠いところでなされるものであろうと考えています。

まあ、それはそれとして、中身ですが、内容的に中心になるはずの第3章(年功賃金は日本の社会文化の産物か)で取り上げられているのが、国家公務員のサラリー、戦前の軍人のサラリー、さらには江戸時代の足し高制や大店のサラリーといった典型的なホワイトカラー、それもエグゼンプトの中のエグゼンプトのようなエリートばかりであることに、正直意外というか失望感を感じました。これは、これまでの小池理論をフォローしてきた方々であれば共通して感じることのはずです。だって、小池理論とは(きわめてはしょって言えば)、日本のブルーカラー、工場で働く普通のライン労働者がホワイトカラー型の年功制になっていることの根拠をその熟練形成に求めた理論のはずなんですから。

今日ただいま「経済自虐史観」に対する解毒剤を求めて読む読者には、そんなことどうだっていいのかも知れませんが、労働問題に関心を持って小池氏の新著を読もうとする人には、いささかどうなのかな、という感じです。まあ、この点については、もっと別に批判の筆を振るうべき人がいるようにも思いますので、それ以上言いません。

実は、この本で読んでいて、一番「をいをい」と思ったのは、第4章(日本は長く働くことで競争力を保ってきたか)です。いや、長時間労働と競争力(この言葉自体、よく考えると意味不明ですが)の因果関係がどうとかこうとかという検証不可能な話ではなく、日本の労働者が長時間労働であるかどうかという客観的な事実認識の問題です。

152ページあたりから、「労働省の危ない国際比較」という題で、こういうことを言われています。

>当時日本の労働省は、日本については基本的な毎月勤労統計を積み上げて年間労働時間を算出した。その際、ホワイトカラーも入れた。欧米の多くのホワイトカラーはもともと残業を記録せず、当然に残業手当も払われない、ということを果たしてどれほど知っていたのであろうか。

これを読んだ読者は、日本の労働省の馬鹿な役人は、そんなことも知らずホワイトカラーも含めて国際比較をしていたのだな、ははは馬鹿な奴、と考えるでしょう。

実は、私は1991年から1992年にかけて、労働基準局の労働時間課という部署にいて、その国際比較のデータを計算したりもしていました。

私が前任者からこれだけは忘れるなといって引き継いだのは、ECのデータはホワイトカーは実労働時間ではなく所定労働時間だから、これを入れたのでは比較ができない、実労働時間はブルーカラーだけで比較するしかないのだということです。

実際、当時私が作成したデータには、誤解を招かないように、すべて「製造業生産労働者」と明記してありました。

本書(153ページ)には

>のち、セミナーでの学生指導のために、・・・その根拠を記した日本労働省スタッフの文書を探し出し読んでがっかりした(労働省賃金福祉部企画課[1984])。日本の年間労働時間の計算はともかく、西欧の年間労働時間の計算は考えられないくらい危ないのだ。

とありますので、もしかしたら私の先輩が1984年に計算した時には、ブルーカラーだけではなくホワイトカラーも入れるなどという失敗をやらかしていたのだろうか、と心配になって、そこでリファーされている『労働基準』1984年5月号所載の「労働時間の国際比較について」を確認してみました。

はっきりと、「製造業生産労働者」と明記してありました。ほっ。

実を言えば、いわゆるサービス残業論やホワエグ話の関連で、小池氏の議論には耳を傾けるべき点があります。少なくとも、残業代ゼロ法案けしからんで済ませていた思考停止の向きには有用な情報が含まれています。そもそも、私が戦前のホワイトカラーの月給制に関心を持って、その戦中戦後の変遷をあれこれ調べていったのは、小池氏の記述がインスパイアした面があるのです。その意味では、小池氏は恩人でもあるのですが・・・。

にもかかわらず、こういう典拠に当たればすぐわかるようなウソをついてまで、日本の労働者が長時間労働であるという事実を否定しようとして、何か意味があるのだろうかと、小池氏の意図がつかみかねるのです。私のいた頃、よく言われたのは、日本にはサービス残業が山のようにあるから、労働省の国際比較は信用できないというものでした。「自虐」批判という情緒が客観的な事実認識を曇らせたのでなければ幸いです。

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コメント

先程、野村教授の「日本的雇用慣行」を遅まきながら読み、一応、投稿したついでに、ここでも投稿します。小池教授のある論考について、哲学者・評論家の西尾幹二の『教育と自由』(新潮選書)でデータの扱いに疑問を呈されていたのを覚えています。哲学者に文句を言われる筋合いはないというより、西尾流言えば、”文学や読んでいないから゛肌感覚にどう考えてもおかしいデータが独り歩きするのだ・・・客観的認識はいかにして可能かという哲学を学んでいないから、データの取り扱いさえこれを違えるのだ・・・ということになりましょうか。もう一度、西尾のこの本を本棚から引っ張り出してみたいと思います。
 もちろん、碩学の小池教授のことではないのですが、世の他の三文学者って、社会統計学の名のもとに結構いい加減な”平均値゛を使って世の中を説明したように気になっていますね。

先ほどのコメント、出典を間違っておりました。
大変失礼しました。西尾幹二の新潮選書の書名は、『日本の教育 ドイツの教育』でした。小池和男・渡辺行郎『学歴社会の虚像』において行われた課長輩出率調査方法およびこれに基づいて企業においては学歴主義が崩れつつあるという趣旨の結論を西尾は「伝説を作りがち」として批判しているのでありました。さらに、竹内洋『競争の社会学』を追記の形で参照し、「統計の取り方いかんで結果が逆」ではないかとも批評しています。それにしても、伝説や神話って、いうのは、誰が作るのでしょうね。

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