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2009年4月29日 (水)

春の叙勲労働編

本日発表された春の叙勲者から、労働関係の方々を。まあ、叙勲制度自体についてはいろいろご意見のあるところですが、とりあえず、日本国が「えらい」と認めたという程度に考えておいて。

 

まず、旭日大綬賞に、元連合会長の鷲尾悦也氏。早速こういう発言が記事に。

 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090429-00000018-jij-pol

 

>「地道に組合運動をやってきた人たちの代表としてちょうだいしたと思う」-。元連合会長の鷲尾悦也さんは、旭日大綬章について「労働界代表の受章」と喜びを表した。
 1970年に新日鉄労組の書記長に就任。90年に鉄鋼労連委員長、97年から4年間は連合会長と、30年以上も労組活動一筋。「ことごとく政府の方針に注文を付けてきた人も名誉ある勲章がちょうだいできる。いいことだ」と笑った。
 新日鉄では、定年延長や週休2日制を実現させ、「制度としてはわたしがやった」と胸を張る。一方、「連合会長時代は2大政党実現のために努力したが、思ったようにはいってない」と不満を漏らし、支援してきた民主党に対し「(政策決定などに当たり)いろんな意見を出してもいいが、まとまれば全会一致でいかないと政策はできない」と結束強化を求める。
 

 

鷲尾氏の解説記事として、おそらく一番いいのは、『正論』のこの記事でしょう。

 

http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2003/0310/myphoto.html

 

>モットーは、明るく楽しく。よく働き、よく遊ぶ。時におちゃらけすぎと言われるが気にしない。私のこうした陽気さは、東京・下町の風土が培ってくれたものかもしれない。実家は本所区(現墨田区)で鋼材問屋を営んでいた。母は優しくも、厳しい一面があって、私は幼稚園の頃から「男の子がうじうじしていては世の中は渡れない」と言われて育った。幼稚園から帰ってくると店員さんやお手伝いさんの前で、その日に習った歌を毎日のように歌わせられたのを今でも思い出す(そのせいで大人になってからカラオケ好きになった?)。

 

 小学校に入る前年、家作に入っていた方の縁で山梨・富里村に疎開した。親類もない、都会からやってきた半ズボン姿の少年は「変なヤツ」としていじめにあった。一九四五年三月の東京大空襲で実家が焼けたので五年生までそこにいたが、楽しみといえば部屋に引きこもっての読書だった。昼は山の斜面にある畑での農作業、夜は読書という日々で、徴用されて東京に残っていた父が、講談社の「少年少女文学全集」を“土産”にやってきてくれたときは本当に嬉しかった。

 

 東京に戻ってからもわが家は貧乏暮らしだったが、高校に進学させてくれた両親のためにも懸命に勉強した。両国高校から東大をめざして……ところが、夏休みに微熱が出て、近所の医者から「結核の疑い」と診断された。「ガリ勉で若死にしてはばかばかしい」と試験を受けずに寝ていたら、専門病院での精密検査の結果は、単なる疲労だった。少年ながら死と向き合ったことは、人生の価値観の転機になった。

 

 田舎でいじめられ、空襲で家が焼かれたこともあって、反体制的な革命思想や反アメリカ帝国主義といった考えに傾斜した。学校で放送部の結成や演劇部の手伝いをするうちに、リーダーの資質が養われたような気もするが、東大受験は敢えなく失敗。それも二度である(談)。

 

>二浪して東大に入ったのは一九五九年。安保闘争の時代だったが、私の左翼思想は急速にしぼんでいった。左翼の連中の権謀術数、自治会選挙で投票用紙の改竄までする不正に嫌気がさした。“無知蒙昧な大衆を導く前衛”という特権意識から一般学生をばかにした彼らの態度も腹立たしく、人間に対する根本的な愛情が欠けているように思えた。

 

 就職は六三年。高度経済成長の初期で、鉄鋼や石油化学といった産業が花形だった。祖父や父が鋼材問屋をやっていたことも決断に影響したのだろう。八幡製鉄に入社した。役所のような会社かと思ったら、社長の稲山嘉寛さんに「鷲尾さん」とさん付けで呼ばれ、“稲山更正法”と言われた協調路線を説かれて感嘆した。上下の隔たりがなかった。資本家対労働者という激烈な対立構造は日本にはない。そう思える経験はほかにもあった。

 

 自ら望んで労働運動に関わったわけではない。最初は押し付けられての組合代議員で、初めて出席した大会は、執行部の政治問題への対応が共産党系グループに批判されて紛糾し、本題に入れなかった。思わず私は、「平和や政治の問題も大事だろうが、生活に直接関わる重要議案が控えている」と議事進行の動議を出した。生来の“下町っ子”感覚が生活の実際から乖離した彼らにノーと言わせたのである。これで反共産党系の組合員として会社からも目を付けられた。

 

 専従になったのは七〇年九月、新日本製鉄労組の書記長になってからだ。爾来こんなにも長く労組活動一筋に歩むことになるとは……。

 

「労組の原点はヒューマニズムと連帯。弱い層を支え、公正、公平、平等、参加の理念にある」と一生懸命駆け続けてきたが、果たしてどこまで“働く人々”のお役に立てただろう。まだまだ歩を止めるわけにはいかない(談)。

 

ちょうどわたしがEU代表部に勤務していた時期に、はじめは連合事務局長、あとは連合会長として、毎年2回以上国際自由労連(ICFTU)の会議に参加するためブリュッセルにこられていました。

 

現在は全労済協会の会長として、先日私も呼ばれた「希望の持てる社会づくり研究会」など、いろいろな研究活動の支援もされています。

 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/5-823b.html

 

瑞宝重光章の兵藤釗先生は、労働研究業界以外ではあまり有名ではないかもしれません。

 

労使関係史研究の金字塔『日本における労資関係の展開』や、やや一般向けの名著『労働の戦後史』は、いまでも基本枠組みでしょう。むしろ、それをいかにひっくり返すかがその下の世代の課題だったというべきか。

 

その学問的位置づけなどについては、その弟子世代の稲葉振一郎氏の「労使関係論とは何だったのか」シリーズなどを参照のこと。

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090205/p2

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090213/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090214/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090218/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090219/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090220/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090303/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090304/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090310/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090319/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090324/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090327/p1

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090329/p2

 

>労使関係論のサーベイは帰国すれば文献が手元に揃うので本格的に始めます。

 

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090329/p1

 

とのことなので、刮目して待ちましょう。

 

わたしは、法学部時代に「社会政策」の授業を受けたこと、帰国後埼玉県勤務時代に小笠原浩一先生のお声掛かりで、埼玉大学でシンポに出させていただき(連合総研の鈴木さん、日経連の讃井さんとご一緒に)、そのあとの懇親でご一緒させていただいたことがあります。

 

3人目は瑞宝中綬章の小野旭先生です。小野先生については、Wiki情報がよくまとまっているのでそのまま引用しますと、

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%97%AD

 

>小野 旭(おの あきら、1934年1月2日 - )は経済学者。専門は労働経済学。一橋大学名誉教授、労働政策研究・研修機構理事長。1981年から1984年まで日本経済学会常任理事。2000年紫綬褒章。1973年日経・経済図書文化賞受賞、1982年エコノミスト賞受賞、1989年日経・経済図書文化賞受賞、1991年東京海上各務記念財団賞受賞。

 

東京都文京区生まれ。1946年文京区立誠之小学校卒業、1949年京華中学校卒業、1952年東京都立九段高等学校卒業、1957年一橋大学商学部卒業、1962年同大大学院経済学研究科博士課程単位修得退学。1964年経済学博士(一橋大学)。

 

1962年神奈川大学経済学部講師、1966年中央大学経済学部助教授、1970年成蹊大学経済学部助教授、1972年同教授、1979年一橋大学経済学部教授、1989年同大経済学部長。1997年一橋大を定年退官し同大名誉教授。1997年から2004年まで東京経済大学経済学部教授。2001年から2003年まで日本労働研究機構研究所所長、2003年から2007年まで独立行政法人労働政策研究・研修機構初代理事長。1996年からは中央労働委員会公益委員も務める。雇用審議会委員等も歴任。

 

私が今いるJILPTの初代理事長というのは別にしても、穏当な労働経済学者として多くの人々から慕われている方です。

 

本ブログの読者には、例の3法則の池田信夫氏が、小野先生の本に書いてもいないことを、さもかいてあるかのようにねつ造した事件が印象的かもしれません。

 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_c013.html(一知半解ではなく無知蒙昧)

 

池田氏曰く:戦前の雇用形態について問題を取り違え、「臨時工」は昔からかわいそうな存在だったと信じている。そんな事実がないことは、たとえば小野旭『日本的雇用慣行と労働市場』のような基本的な文献にも書いてあります。

 

>尊敬する小野旭先生が『日本的雇用慣行と労働市場』のどこで、昭和初期に臨時工は何ら社会問題でなかったなどと馬鹿げたことをいっているのか、池田氏は小野先生の名誉を傷つけて平気のようです

 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/3_a7ad.html(池田信夫氏の3法則)

 

>ましてや、小野旭先生の立派な本にホントにそんなことが書いてあるのかという問いは無視。そして彼のブログは、もっぱら役人や労働組合に対する罵倒で埋め尽くされる。

 

ここから、池田信夫氏の議論の仕方について、3つの法則を導き出すことができるように思われます。

 

池田信夫氏の第2法則:池田信夫氏がもっともらしく引用する高名な学者の著書は、確かに存在するが、その中には池田氏の議論を根拠づけるような記述は存在しない蓋然性が高い。

 

もしそういう記述があるのであれば、何頁にあるとすぐに答えればいいことですからね

 

おかげさまで、ネット界では「3法則」で通用するようになったようです。

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