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2009年3月31日 (火)

サービスの生産性ってなあに?

なんだかこのネタも本ブログで何回か取り上げたネタだったような気がしますが、社会経済生産性本部が「同一サービス分野における品質水準の違いに関する日米比較調査」という大部の調査結果報告をまとめていますので、二番煎じ的ですがまた取り上げます。

http://activity.jpc-sed.or.jp/detail/01.data/activity000911.html

>1. 多くの分野で日本のサービス品質は米国よりも高いと評価されています(日本人調査では19種類、米国人調査では16種類)。

 特に地下鉄、タクシー、航空旅客のような交通手段関連サービスで、日本の品質は日本人・米国人双方から高い評価を得ています。

2. 反面、多くの分野で日本のサービス価格は米国より高いと評価されています(日本人調査・米国人調査とも、病院を除く17種類)。また、米国人は、日本のサービスは品質に対して割高と感じています(12種類)。

 日本人・米国人とも、病院を除いた17種類のサービスで、日本のサービス価格は米国より高いと感じています。また、日本のサービスについて、米国人は12種類のサービスで、品質に対して割高感があると感じています(日本人は5種類)。日本のサービス産業には品質競争力はあると考えられますが、海外での事業展開に当たっては価格競争力を強化する必要があると言えそうです。

3. 日本のサービスは、多くの分野で必要水準以上の品質を提供していると評価されています(日本人調査ではすべて、米国人調査では18種類)。

 日本のサービス品質に割高感があるのは、消費者が求める水準以上の過剰な品質を提供していることも一因のようです。今後は、適正な品質水準のサービスも検討することが必要と考えられます。

4. 日本のサービスは、消費者が重視する品質評価ポイントに沿った対応をしているという点で、米国のサービスより強みがあります。

 サービス品質の評価で重視するポイントは日米で大きく異なります。日本人は「信頼性」「正確性」を特に重視し、米国人は「設備等の見栄えの良さ」「迅速性」など多様なポイントで評価しています。日本では消費者が重視する評価ポイントに沿ったサービスが提供されており、この特性は、日本のサービス産業が海外展開をはかる際の強みになると考えられます。一方で、対人接触を通じた品質のアピールにやや弱みがあります。

いや、サービスの「品質」という観点から比較すれば、まあだいたいそんなところでしょうね、という感じの納得のいく結果ですが、これを発表しているのが「サービス産業生産性協議会事務局」で、日米サービスの生産性という言葉が入ってくると、とたんにわけわかめになります。上記プレスリリース用の文章には生産性という言葉はないのですが、報告書本体を見ると、

http://activity.jpc-sed.or.jp/detail/01.data/activity000911/attached2.pdf

>サービス産業においては、コストの多くの部分を人件費が占めており、それが価格に反映されている。日本のサービスが高コスト体質であることは、取りも直さず労働集約的であることを示している。高品質のサービスを提供するために、より多くの労働力を投入しているのである。その意味では日本のサービスの労働生産性は米国より低いと言わざるを得ない。

いや、それは物的労働生産性の定義からすればそうですが、低品質のサービスを提供するためにより少ない労働力を投入するマクドナルド方式の方が生産性が高いからいいのかというのはそれはまた別問題で。

いや、過剰サービス問題というのは、それはそれとして議論すべきテーマではありますし、中長期的に減少する労働力をいかに有効に活用していくかという問題意識からすれば、サービスの労働生産性を高め(て品質をある程度我慢す)る必要性も考えるべきだとは思いますが、製造業的感覚で生産性をあんまり不用意にもてあそぶのは如何なものかと思うのですが。

そもそも、価値生産性でいえば、サービス生産に投入される労働者の賃金が高いことがすなわち生産性の高さであるわけで、それを高コストといえば高コストなんでしょうが、言い方を変えれば高級サービスということなわけで。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_b2df.html(労働市場改革専門調査会第2回議事録)(本文ではなく、コメントでの「とま」さんの紹介による生産性論争(らしきもの)をめぐるその後のコメントのやりとりが面白いです)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_01ff.html(生産性加速プログラム)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_aa9e.html(研究開発の生産性ってなあに?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_0d9d.html(第1回介護労働者の確保・定着等に関する研究会)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_cf6d.html(国民の豊かさの国際比較)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-9edd.html(国民の豊かさの国際比較 2008年版)

(参考)上記エントリのコメント欄に書いたことを再掲しておきます。

>とまさんという方から上のコメントで紹介のあったリンク先の生産性をめぐる「論争」(みたいなもの)を読むと、皆さん生産性という概念をどのように理解しているのかなあ?という疑問が湧きます。労働実務家の立場からすると、生産性って言葉にはいろんな意味があって、一番ポピュラーで多分このリンク先の論争でも意識されているであろう労働生産性にしたって、物的生産性を議論しているのか、価値生産性を議論しているのかで、全然違ってくるわけです。ていうか、多分皆さん、ケーザイ学の教科書的に、貨幣ヴェール説で、どっちでも同じだと思っているのかも知れないけれど。

もともと製造業をモデルに物的生産性で考えていたわけだけど、ロットで計ってたんでは自動車と電機の比較もできないし、技術進歩でたくさん作れるようになったというだけじゃなくて性能が上がったというのも計りたいから、結局値段で計ることになったわけですね。価値生産性という奴です。

価値生産性というのは値段で計るわけだから、値段が上がれば生産性が上がったことになるわけです。売れなきゃいつまでも高い値段を付けていられないから、まあ生産性を計るのにおおむね間違いではない、と製造業であればいえるでしょう。だけど、サービス業というのは労働供給即商品で加工過程はないわけだから、床屋さんでもメイドさんでもいいけど、労働市場で調達可能な給料を賄うためにサービス価格が上がれば生産性が上がったことになるわけですよ。日本国内で生身でサービスを提供する労働者の限界生産性は、途上国で同じサービスを提供する人のそれより高いということになるわけです。

どうもここんところが誤解されているような気がします。日本と途上国で同じ水準のサービスをしているんであれば、同じ生産性だという物的生産性概念で議論しているから混乱しているんではないのでしょうか。

>ていうか、そもそもサービス業の物的生産性って何で計るの?という大問題があるわけですよ。
価値生産性で考えればそこはスルーできるけど、逆に高い金出して買う客がいる限り生産性は高いと言わざるを得ない。
生身のカラダが必要なサービス業である限り、そもそも場所的なサービス提供者調達可能性抜きに生産性を議論できないはずです。
ここが、例えばインドのソフトウェア技術者にネットで仕事をやらせるというようなアタマの中味だけ持ってくれば済むサービス業と違うところでしょう。それはむしろ製造業に近いと思います。
そういうサービス業については生産性向上という議論は意味があると思うけれども、生身のカラダのサービス業にどれくらい意味があるかってことです(もっとも、技術進歩で、生身のカラダを持って行かなくてもそういうサービスが可能になることがないとは言えませんけど)。

>いやいや、製造業だろうが何だろうが、労働は生身の人間がやってるわけです。しかし、労働の結果はモノとして労働力とは切り離して売買されるから、単一のマーケットでついた値段で価値生産性を計れば、それが物的生産性の大体の指標になりうるわけでしょう。インドのソフトウェアサービスもそうですね。
しかし、生身のカラダ抜きにやれないサービスの場合、生身のサービス提供者がいるところでついた値段しか拠り所がないでしょうということを言いたいわけで。カラダをおいといてサービスの結果だけ持っていけないでしょう。
いくらフィクションといったって、フィリピン人の看護婦がフィリピンにいるままで日本の患者の面倒を見られない以上、場所の入れ替えに意味があるとは思えません。ただ、サービス業がより知的精神的なものになればなるほど、こういう場所的制約は薄れては行くでしょうね。医者の診断なんてのは、そうなっていく可能性はあるかも知れません。そのことは否定していませんよ。

>フィリピン人のウェイトレスさんを日本に連れてきてサービスして貰うためには、(合法的な外国人労働としてという前提での話ですが)日本の家に住み、日本の食事を食べ、日本の生活費をかけて労働力を再生産しなければならないのですから、フィリピンでかかる費用ではすまないですよ。パスポートを取り上げてタコ部屋に押し込めて働かせることを前提にしてはいけません。
もちろん、際限なくフィリピンの若い女性が悉く日本にやってくるまで行けば、長期的にはウェイトレスのサービス価格がフィリピンと同じまで行くかも知れないけれど、それはウェイトレスの価値生産性が下がったというしかないわけです。以前と同じことをしていてもね。しかしそれはあまりに非現実的な想定でしょう。

要するに、生産性という概念は比較活用できる概念としては価値生産性、つまり最終的についた値段で判断するしかないでしょう、ということであって。

>いやいや、労働生産性としての物的生産性の話なのですから、労働者(正確には組織体としての労働者集団ですが)の生産性ですよ。企業の資本生産性の話ではなかったはず。
製造業やそれに類する産業の場合、労務サービスと生産された商品は切り離されて取引されますから、国際的にその品質に応じて値段が付いて、それに基づいて価値生産性を測れば、それが物的生産性の指標になるわけでしょう。
ところが、労務サービス即商品である場合、当該労務サービスを提供する人とそれを消費する人が同じ空間にいなければならないので、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の高い人やその関係者であってサービスに高い値段を付けられるならば、当該労務サービスの価値生産性は高くなり、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の低い人やその関係者であってサービスに高い価格をつけられないならば、当該労務サービスの価値生産性は低くなると言うことです。
そして、労務サービスの場合、この価値生産性以外に、ナマの(貨幣価値を抜きにした)物的生産性をあれこれ論ずる意味はないのです。おなじ行為をしているじゃないかというのは、その行為を消費する人が同じである可能性がない限り意味がない。
そういう話を不用意な設定で議論しようとするから、某開発経済実務家の方も、某テレビ局出身情報経済専門家の方も、へんちくりんな方向に迷走していくんだと思うのですよ。

>まあ、製造業の高い物的生産性が国内で提供されるサービスにも均霑して高い価値生産性を示すという点は正しいわけですから。
問題は、それを、誰がどうやって計ればいいのか分からない、単位も不明なサービスの物的生産性という「本質」をまず設定して、それは本当は低いんだけれども、製造業の高い物的生産性と「平均」されて、本当の水準よりも高く「現象」するんだというような説明をしなければならない理由が明らかでないということですから。
それに、サービスの価値生産性が高いのは、製造業の物的生産性が高い国だけじゃなくって、石油がドバドバ噴き出て、寝そべっていてもカネが流れ込んでくる国もそうなわけで、その場合、原油が噴き出すという「高い生産性」と平均されるという説明になるのでしょうかね。
いずれにしても、サービスの生産性を高めるのはそれがどの国で提供されるかということであって、誰が提供するかではありません。フィリピン人メイドがフィリピンで提供するサービスは生産性が低く、ヨーロッパやアラブ産油国で提供するサービスは生産性が高いわけです。そこも、何となく誤解されている点のような気がします。

>大体、もともと「生産性」という言葉は、工場の中で生産性向上運動というような極めてミクロなレベルで使われていた言葉です。そういうミクロなレベルでは大変有意味な言葉ではあった。
だけど、それをマクロな国民経済に不用意に持ち込むと、今回の山形さんや池田さんのようなお馬鹿な騒ぎを引き起こす原因になる。マクロ経済において意味を持つ「生産性」とは値段で計った価値生産性以外にはあり得ない。
とすれば、その価値生産性とは財やサービスを売って得られた所得水準そのものなので、ほとんどトートロジーの世界になるわけです。というか、トートロジーとしてのみ意味がある。そこに個々のサービスの(値段とは切り離された本質的な)物的生産性が高いだの低いだのという無意味な議論を持ち込むと、見ての通りの空騒ぎしか残らない。

>いや、実質所得に意味があるのは、モノで考えているからでしょう。モノであれば、時間空間を超えて流通しますから、特定の時空間における値段のむこうに実質価値を想定しうるし、それとの比較で単なる値段の上昇という概念も意味がある。
逆に言えば、サービスの値段が上がったときに、それが「サービスの物的生産性が向上したからそれにともなって値段が上がった」と考えるのか、「サービス自体はなんら変わっていないのに、ただ値段が上昇した」と考えるのか、最終的な決め手はないのではないでしょうか。
このあたり、例の生産性上昇率格差インフレの議論の根っこにある議論ですよね。

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コメント

>低品質のサービスを提供するためにより少ない労働力を投入するマクドナルド方式の方が生産性が高いからいいのか

いずれにしても平均以上の知性を持つ日本人は、週に何回もクーポン持ってマクドナルドへ行かないですよ(笑)
どうしてヴィドフランスで手を打たないのか?とマックの前を通るたびにいつも思う。
日本マクドナルドの「客一人当たり平均消費金額」が450円程度だったと思うから、他の店を選べないわけじゃなかろうに。

「お客様は神様」だと、無償の奉仕になって従業員を消耗させてしまう。
第3次産業比率の高まりからすると無視できないのでは。
ヨーロッパの「お客様は王様」のように、お金をたくさん払った人だけが、特別なサービスを受けられるというほうが、生産性がいい。
そもそも日本の人間関係は力による上下関係があり「服従と保護」だったのが、民主化でそれぞれが相手に求めるだけになってきているのが現在のところでしょうか?

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