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« 日本経団連の意見書「日本版ニューディールの推進を求める」 | トップページ | Europe should grow out of debt »

2009年2月11日 (水)

労働政策審議会意見「地方分権改革に関する意見」

2月5日付で、労働政策審議会が「地方分権改革に関する意見」(「異見」?)を公表しています。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/02/dl/s0205-6a.pdf

>昨年12月8日、地方分権改革推進委員会は「第二次勧告」を公表し、将来的なハローワークの漸次縮小及び全面地方移管、都道府県労働局のブロック機関化及び地方厚生局との統合を行うべき旨を示した。
また、同月16日、地方分権改革推進委員会は決議を行い、ハローワークの全職員の地方移管について政府に具体化に向けた措置を求めることを明らかにした。
以上の点について、関係分科会における審議を踏まえた当審議会の意見は以下のとおりである。

まず、ハローワークの縮小についてですが、

>ハローワークは、憲法第27条に基づく勤労権を保障するため、ナショナルミニマムとしての職業紹介、雇用保険、雇用対策を全国ネットワークにより一体的に実施しており、障害者、母子家庭の母、年長フリーター、中高年齢者などの就職困難な人に対する雇用の最後のセーフティネットである。ハローワークの業務は、以下のような理由から、都道府県に移管することは適当でなく、国が責任をもって直接実施する必要があり、これは先進諸国における国際標準である。

① 都道府県域を超えた労働者の就職への対応や、都道府県域に限定されない企業の人材確保ニーズへの対応を効果的・効率的に実施する必要があること。

② 雇用状況の悪化や大型倒産に対し、迅速・機動的な対応を行い、離職者の再就職を進め、失業率の急激な悪化を防ぐ必要があること。

③ 雇用保険については、雇用失業情勢が時期や地域等により大きく異なるため、保険集団を可能な限り大きくしてリスク分散を図らないと、保険制度として成り立たないこと。

④ 地方移管は我が国の批准するILO第88号条約に明白に違反すること。

したがって、国の様々な雇用対策の基盤であるハローワークは地方移管すべきでなく、引き続き、国による全国ネットワークのサービス推進体制を堅持すべきである。

なお、急速に悪化を続ける雇用情勢の下で、今まさに全国ネットワークのハローワークによる機動的かつ広域的な業務運営を通じた失業者の再就職の実現が強く求められているところであり、ハローワークの縮小や全面的な地方移管を論ずることは極めて不適切である。

まさにここにあるとおりなのですが、その次の記述については、いささか付け加えるべきことがあります。

>一方、地方自治体が独自に地域の実情に応じた雇用対策をこれまで以上に積極的に進めることは望ましいことであり、国と地方自治体が一体となって、その地域における雇用対策を一層強化する必要がある。また、我が国のハローワークは主要先進国と比べても少ない組織・人員により効率的に運営しているところであるが、さらに、ハローワーク自身も雇用状況の変化に応じて、業務内容を適切に見直し、機能の強化や効率的な運営を心がけるべきである。

本ブログでも何回か書いてきたことですが、2000年に地方事務官制が廃止されて労働局になるまでは、都道府県知事の指揮監督下で国費による運営がなされていたのです。そのため、基本的には国費により国の定めた制度運営でやりながら、都道府県費で追加的な雇用対策を国費による業務と組織的に一体的に実施するという芸当がやれていたのですが、それが組織的に分離されてしまったために、口では「国と地方自治体が一体となって」といいながら、それが困難になってしまったという実情にあるように思います。地域の実情に即した雇用対策が必要なのは確かだし、それが孤立した形ではなくハローワークのネットワークと一体的に実施した方がいいことも確かなのです。それがなかなか難しい。

この原因も、本ブログで何回も触れてきたように、「都道府県知事は国の下請けなんかじゃない!」という「地方分権改革の本旨」にあるわけですが、その帰結が望ましいものではないのだとしたら、その「本旨」の正当性自体を改めて考え直してみるいい機会なのではないかと思うのですが。

この点については私は「昔の方が良かった」論者なのです。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_39f9.html(地方分権を疑え)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_942b.html(分権真理教?)

次は都道府県労働局のブロック機関化について、

>都道府県労働局では、雇用均等業務、個別労使紛争の調整、労働者派遣事業等への指導監督、助成金の審査、労働保険の適用・徴収、雇用対策に関する都道府県との調整、最低賃金の決定等の業務を自ら行っている。

雇用均等業務や個別労使紛争の調整、労働者派遣事業等の指導監督、助成金の審査、労働保険の適用・徴収等の業務においては、個々の労働者や事業主が直接労働局に相談に訪れたり、労働局から事業所を訪問して必要な調査や指導監督を行っており、労働局がブロック機関化されれば、労働者や事業主の利便性が大きく損なわれる、労働者の権利救済に甚大な影響を及ぼす、事業所の実態を踏まえた機動的な指導監督ができなくなる、行政運営が著しく非効率化するなどのおそれがある。

また、雇用対策の推進や最低賃金の決定等に当たっては、都道府県や都道府県単位で組織される労使団体と緊密な連携を図っているところ、労働局がブロック機関化されれば都道府県や労使団体との関係が疎遠になり、地域の実情を踏まえた実効ある雇用対策の推進や地域別最低賃金額の決定が困難になるおそれがある。

さらに、これらの業務を労働基準監督署又はハローワークに行わせることは、業務の性格の相違、司法警察権限の行使との関係、求人確保に与える影響、都道府県等との連携・協力を効果的に行う機能等を考えれば、なじまないと考える。

都道府県労働局のブロック機関化については、以上の問題点を十分踏まえ、労働者や事業主の利便性、労働者保護の実効性、機動的かつ効率的な行政運営を損なうことのないよう、慎重に検討すべきである。

雇用均等部門については、すでに分科会の意見が出されています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-3314.html(地方分権改革推進委員会第2次勧告に関する見解)

私が気になっているのは、とくに「個別労使紛争の調整、労働者派遣事業等の指導監督」といったあたりです。チホー分権の真理の前には、こういう各論的問題は吹き飛ばされがちですが、そういう各論の欠如した総論絶対主義の帰結が今の日本の惨状の一つの原因であるという冷静な認識もそろそろ必要な時期だと思うのですが。

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コメント

ぶらり庵は、明日、都内某所で、「ワークライフバランス、ワークシェアリング、フレクシキュリティ」の三つのお題相互の関係含めて、デンマークとオランダ、および英仏独のお話、などという、とってもアバウトなお話をする予定なのですが、下調べの過程で、なるほどなあと思ったことが二つ。
一つは、デンマークが最高の失業率に直面したときに(1993年の9.6%)とったのが、積極的労働市場政策の大幅拡充だったこと、もう一つは、最近EUも政策として言っているフレクシキュリティ、フランスもサルコジ大統領が推進しようとしているのだと思いますが(CGTは疑問視しているのでは?)、年来課題となっていて、そして、今回の金融危機対策の中でもとりあげられているのが、公共職業紹介と職業訓練の一体的運営、ということ、でした。

あと、地方分権との関係で言えば、デンマークやオランダは、ハロワの運営や職業訓練、就職支援など、地域の政労使で論議・運営、というのではなかったでしょうか。

>地方分権との関係で言えば、デンマークやオランダは、ハロワの運営や職業訓練、就職支援など、地域の政労使で論議・運営、というのではなかったでしょうか。

それを「地方分権の関係で」言うのがおかしいので、「三者構成原則との関係で」語るべきところでしょう。

オランダやデンマークのような「フレクシキュリティ」な国は、労働政策自体が高度に労使が関与する形で構築されていますから、その三者構成システムをナショナルレベルだけでなく地方レベルに分権化しても、労働問題に何の関心もないけれども中央政府に対して「地方分権」の旗を振ることには大きな関心を有する地方の首長の手に委ねるのとは訳が違うというべきではないでしょうか。

そこのところが、日本の場合地域レベルの労働組合の存在感が極端に希薄になってしまっていますので、同日に語りにくいところですね。

そうですね、日本の場合、「地方分権」を言っているのが、地方の首長とかであって、地方の有権者ではないんですよね。ですから、職業紹介や職業訓練について、地方の労使が「地方分権」を主張する、ということはなくて、単に、国と地方のそれぞれの行政担当者の間での管轄(と金の)争いにしかならなくなってしまっているように思います。で、三者構成という「政労使」ですが、この「政」って日本の人の感覚だと、行政担当者が仲介とか調整に入るような感じを持っているのではないかと思いますが、おそらく、デンマーク、オランダなどでの地域レベルでは、「政労使」とはほとんど「地域の事業者団体、地域の労組、地域の他の市民団体」という感じではないでしょうかね。

ただ、ぶらり庵はお金について納税者として考えますと、市民生活に直接結びつくシステムについての費用は、デンマークのように、地域に大幅に配分して、そして、具体的に地域でその配分の成果が目に見えるようなのが望ましいと思っています。なお、デンマークでは、地域間の調整もしていますね。で、お金は、日本の場合のように、長いルートを通って中央に吸い上げられ、集中され、配分される、そういう複雑な過程を通していると、そもそもそのシステムそのものに費用がかかるし(定額給付金出すのに、出すシステムを作る費用がかかる、というように)、また行政システムが透明でないと、途中で消える(あるいはテキトーに使われる)率がとても高いと思えます。
デンマークの徴税システムについては知らないので、勝手な推測なんですが、徴収して配分する、そのルートが身近でかつ、短ければ、消えたり、納税者の納得できないテキトーな使われ方をする確率がとても少なくなると思います。北欧で財政の透明度が高いというのをきいたことがありますが、それは、そういう分権構造になっているからではないのでしょうか。自分の出した金の行き先が手近に見えて判断できる、そういう行財政を、市民が作り上げたのだと思います。

北欧人とか、オランダ人って、とても合理的ですしね。堅実で、不要なお金を使わない、という感じを受けます。オランダなんて、なにせ、going Dutchの言葉を生んだ国ですから。
で、ついでにですが、不要な時間もあんまり使わないようですね。デンマークで、オフィスは個室が多いのに、てきぱき仕事をしてさっさと帰るのに感心しました。だから、「解雇自由」って言っても、別に雇い主がしじゅう監視監督しているわけでもないし、早く帰るからと言って仕事をしていない、とみなして解雇する、とかいうどこかの国のようなことはないんですよね。日本では時間も支払いの条件になっている介護、デンマークの訪問介護などでは、必要な処置だけ、数十秒や数分で訪問終了というのも多いのに、しばしば日本からの見学者が「驚いた」という訪問記を書いていますね。話がそれましたので、これくらいで。

一つだけ気になったので追加説明します。
「早く帰るからと言って仕事をしていない、とみなして解雇する」ってずいぶん極端な例だと思われるのではないかと気になったので。実はぶらり庵の念頭にあるのは、ぶらり庵のような、子持ちの労働者です。子どもがいるから早く帰るし(規則に則った「定時」でも「早い」し、ましてや短時間勤務とれる人なんて一種の「特権階級」ですね)、子どもがいるからしょっちゅう休む、そして、上司の視線だけでなく、周囲の視線も厳しくなって、だんだんいづらくなる、という。
このブログの読者の方って、圧倒的に男性が多いのではないかと思いますが、ぶらり庵はいつも自分の視点から考えますので、イメージが異なっていることもあるかと、蛇足かもしれませんが、付け加えました。

いえ、まさにそこのところが問題なのだと思います。「早く帰る」どころか、残業を拒否するとか、配転を拒否するとかでも解雇が濫用でなく正当となるのが日本の判例法理であるわけで。
そのあたりについて、かつて書いたものですが:

>恒常的時間外労働と整理解雇法理
 前節で引用したように、労働基準法研究会報告は時間外労働に上限設定しない理由付けとして、「時間外・休日労働の弾力的運用が我が国の労使慣行の下で雇用維持の機能を果たしている」(1985年報告)とか、「我が国の労働慣行の実情に合うような上限設定が可能かどうか定かでない」(1992年報告)と述べていました。裏返して言えば、企業経営が傾いたときに労働者の雇用を維持するためには、通常の経営状態の時にかなりの時間外労働が行われていること甘受する必要があるということです。恒常的に時間外労働を行っていてはじめて、いざというときに時間外労働を減らすことができます。需要の低下に応じて生産水準を引き下げざるを得なくなっても、恒常的時間外労働というバッファーがあれば、それを削減することによって、労働者数を減らすことなく投入労働時間を減らすことができます。
 もちろん、恒常的時間外労働が行われていなくても、所定労働時間を削減して同様の効果を得ることはできますし、これが本来の意味での企業内ワークシェアリングなのですが、それには自ずから限界があります。恒常的時間外労働が多ければ多いほど、いざというときに減らせるバッファー部分が分厚くなるので、労働時間削減では背負いきれなくなって雇用削減に手を付けざるを得ない状況に立ち至る可能性が少なくなります。もし労働者側に恒常的時間外労働をすることへの抵抗感が少なく、解雇されることへの抵抗感がきわめて強いとすれば、恒常的時間外労働はできるだけ分厚くしておくのが合理的ということになるでしょう。日本の労使はまさにその方向を選択してきたわけです。
 そしてこの選択は、石油ショック後に確立した整理解雇法理の中で明確に規範化されました。そこでは、人員削減の必要性、解雇回避努力義務、被解雇者選定の相当性、労働組合や労働者との協議義務の4要件(または4要素)が求められ、この解雇回避努力義務の一つとして時間外労働の削減が盛り込まれています。もちろん、整理解雇法理が恒常的時間外労働を企業に義務づけているわけではありませんが、いざというときに実施できる解雇回避措置は日頃から準備しておいた方が無難です。つまり、ワークライフバランスに配慮しすぎることは解雇回避に努力しないことになってしまいます。
 このパラドックスが戯画的に示されたのが、時間外労働義務に関する最高裁の判例(日立製作所武蔵工場事件)です。上司の命じた残業を拒否した労働者に対して懲戒解雇をしたこの事件について、最高裁判所は解雇権の濫用には当たらず解雇を有効と認めました。時間外労働義務はあるにしても、それに従わないことを理由にした解雇を認めるということは、一体解雇規制は何のためにあるのだろう?という疑問をいだかせます。

遠距離配転と整理解雇法理
 ワークライフバランスの観点からみた整理解雇法理のもう一つの問題点は、解雇回避努力義務の一つとして配転・出向の実施を挙げていることです。もちろん、整理解雇法理が恒常的な配転・出向を義務づけているわけではありませんが、いざというときに配転・出向を円滑に実施するためには、日頃から恒常的に配転・出向を行っている方が便利です。配転・出向、とりわけ住所の移転を伴う遠距離配転は労働者の家庭生活に深刻な影響を与えるものですが、いざというときに解雇回避に努力できるように、労働者の方もワークライフバランスを我慢しろと(暗黙に)求めているといえるでしょう。
 これについても、高齢の母と保育士の妻と二歳児を抱えた労働者に遠距離配転を命じ、拒否したことを理由に懲戒解雇した事件について、権利の濫用に当たらないと認めた最高裁の判例(東亜ペイント事件)があります。自分自身頻繁な転勤を繰り返す裁判官にとって業務命令で単身赴任は当たり前、「家庭生活上の不利益は、転勤に伴い通常甘受すべき程度のものというべき」なのでしょう。しかし、本当にそれでいいのでしょうか。一体解雇規制は何のためにあるのでしょうか。

ああ、なるほど、ってわかっても嬉しくないですが、実は、ぶらり庵が先日、おたずねを受けてお話したフレクシキュリティ、そのときにも、「今はこういう雇用状況だから、ワークライフバランスなんて言ってる場合じゃないと思うけど、解雇自由、転職容易というフレクシキュリティはぜひとも参考にしたい、という『本音』は、労使を問わずお持ちの方が多いのではないでしょうか。」という前ふりで、おおむね次のようなお話をしました。結論だけ言いますと、

オランダは1980年代前半のワークシェアリング導入、デンマークは1990年代前半の積極的労働市場政策の大幅拡大が現在のフレクシキュリティにつながっているが、これはいずれの国も未曾有の高失業率に直面し、福祉だけではやっていけない、としての「構造改革」であった。注意すべきは、その時点で、福祉国家としては両国とも充実したものであり(オランダでは「オランダ病」と言われるほどであった)、かつ、デンマークは、他の北欧諸国と共にすでにワークライフバランス(政策としては、公的保育と労働時間)が実現していたことである。オランダでは保育は北欧ほど整備されていないが、ワークシェアリング合意後の労働時間制度の整備がワークライフバランスに寄与することとなった。
つまり、ワークライフバランスは、これらの国ではフレクシキュリティ以前、ないし、それと同時に達成されている。英仏独などの大国も視野に入れて、戦後のヨーロッパ社会政策の「積み上げ」をみると、まず、戦後直ちに、イギリスでのベヴァリッジ、フランスでのラロックなどのプランによって、ヨーロッパ型の福祉国家の基礎が築かれた。今は社会政策で遅れをとっているイギリスも、当時は「ゆりかごから墓場まで」と言われた福祉のモデル国家であった。その後、特に北欧での女性労働力の進出、就学前教育(保育)を含めた教育制度の整備に伴って、ワークライフバランス、更に成人教育のための諸制度が整備された。これを基礎に、産業面での技術革新やグローバリゼーション、生活面での少子高齢化に対応可能な雇用創出・労働形態を支援するのがフレクシキュリティであり、このようにして、将来へ向けてサステイナブルな社会を構築する雇用政策がフレクシキュリティである。
なお、デンマークでは、単に解雇・転職が自由という労働市場の流動性が高いだけでなく、そもそも、雇用の創出・喪失など産業市場の流動性も高い。また、高齢化の進展は、生活面でのさまざまなリスクも増大させる。こうした流動的でリスクの多い生活環境にありながら、自分の自由な選択による安定した生活を享受するために「一生、教育を受けられる環境で考え、政策選択してゆく」のがオランダ、デンマークなどの国である。これらの国では、女性、高齢者、若年層が労働市場に動員されるに従い、結果的に多様な働き方が実現したが、それは、個々の労働者の要求する働き方を全体として支援したものが結果的に「多様化」となったものであり、経営側視点からの多様な賃金・労働時間の要求を満たすための「多様化」ではない。
このように、政策としては、福祉国家 → ワークライフバランス → フレクシキュリティ、と積み上げられているのであり、それぞれの段階に達するにはそれぞれの条件整備が必要となる。イギリス・ドイツは、現在ワークライフバランス段階の達成をめざしていると言える。大国では例外的に保育が充実していることでワークライフバランスを達成し、生活については「自由な選択」を強調するフランス市民が、雇用の有期化(柔軟化)には大々的なデモで反対するのは、フレクシキュリティに移行する条件が整備されていないことによる。ひるがえって、日本では、この政策的進化の段階でみると、福祉国家の先の段階に進めずにいる。
ただし、日本が北欧と近い点は、公教育が整備されていること、大国の中では比較的(まだまだ)平等であることである(北欧の教育・賃金はきわめて平等性が高い)。これを活かして、「考える、論議できる」国民を作り、育て、維持できることのできる教育と、今後の社会の要求に見合うだけでなく、教育的効果をも持つ雇用(教育研究、福祉、医療、農業など、要するに、「考えないとできない仕事」)にシフト・支援してゆくこと、そのような支援が可能な行財政を作ってゆくことが必要であろう。

長い結論ですが、こういったものでした。なお、このお話をするときに参考にしたのは、結果的にヨーロッパの文献でした。
・Thomas Bredgaard & Flemming Larsen,Comparing Flexicurity in Denmark and Japan, 2007 < http://www.jil.go.jp/profile/documents/Denmark_final.pdf >
・European Foundation for the Improvement of Living and Working Conditions, Flexicurity and industrial relations, 2008 <http://www.eurofound.europa.eu/eiro/studies/tn0803038s/tn0803038s_3.htm>
・Hudson, J. and Kuhner, S. Towards productive welfare? A comparative analysis of 23 OECD countries, Journal of European Social Policy 19(1):2009
これと、社会政策の類型や積み上げを考えるには、OECDのSocial Expenditure Databaseでみられる(1980年からですのでそれ以前がありませんが)社会支出の経年変化、ですね。
また、上記は概要ですが、お話の際には、最後の行財政のところで、「地方分権」の話を入れました。

 きわめて大雑把なものですが、その認識は違うのでは、というところはぜひご指摘下さい。

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