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2008年12月30日 (火)

ナショナリズムは国家を民衆のものにするか

『POSSE』第2号の萱野・高橋対談の続きです。

>その意味でも『蟹工船』のラストは重要ですね。ストライキをやっている蟹工船に軍隊が来て、労働者たちは自分たちを虐げている経営者を捕まえに来てくれたと思うのですが、実は自分たちを取り締まりに来た、というところです。国家は自分たちのためのものだと思ったら違ったわけですね。・・・国家の論理は民衆の論理とは違う。それを何とか一致させようとしたのがナショナリズムです。

戦前の労働運動史を読めば、官憲が経営者の味方をして労働者を弾圧する繰り返しです。それが初めてそうでなくなった時代-官憲が労働運動の味方をしてむしろ経営者を締め付けるようになった時代というのが、まさに大日本帝国がナショナリズムを振りかざして中国に侵略していった時代であるということの深刻さをまじめに考えたことがない人間だけが、脳天気に「自由も平等もnationがベースではないのは自明。《人は皆同じ》というコスモポリタン的平等主義こそ掲げるべき理念だろうに」なんて言えるんでしょうね。ネーションをベースにしないで、「人は皆同じ」をどのように実効あらしめることが可能であり得るのか、まじめに考えたことがあるのでしょうか。『蟹工船』のラストをハッピーエンドに変えたのは日中戦争、まさに「希望は戦争」であったわけで。

本ブログで何回も取り上げてきたテーマです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_a88b.html(超リベサヨなブッシュ大統領)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_642c.html(昭和8年の三菱航空機名古屋製作所争議)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/12_f1d9.html(昭和12年の愛知時計電機争議)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_f86f.html(日中戦争下の日本)

もちろん、その希望の戦争の果てに待っていたのは死屍累々の焼け野が原であったわけですが。

そして、それをすでに知っている我々は、戦争を希望としない、もっといいナショナリズムのあらわし方を知っていなければならないはずなのです。

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コメント

はてブまで目を通しているとは・・・(笑)。ま、脳天気とまで言われたのでコメントさせていただきます。

繰り返しになりますが、自由や平等を考える立脚点は、まずもって「同胞」ではなくて「人」でなくてはならないと私は思います。本来言うまでもないことですが。それは今に至るまでNationがさんざんやってきている暴虐からもそう思います。

もちろん、Stateから離れることはできません。しかしだからといって、「人」ではなく「同胞」に基盤を置こうというのは、それこそ懲りずにNationに過度の楽観を抱いている脳天気にしか、どうしても私には思えないんですよ。

だいたい、Nationから独立した内心の自由すら未だに確立できないこの国にいながら、Nationに期待するということ自体、歴史どころか現在も把握できていないのではかなろうかと思わずにはいられませんが。

なお、引用する場合、なんであれ出典の明記はやはり望ましいかと(笑)

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/poss-f74c.html

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-9819.html

> 「人は皆同じ」をどのように実効あらしめる

どのみち「無理な話」かと…。

コメント有り難うございます。
私は別に「懲りずにNationに過度の楽観を抱いている」つもりはなく、「自分の経験」からも「他人の経験」からも、ネーションは劇薬であることは重々承知しているつもりです。
しかし、この劇薬は、危ない危ないと言っていればそこから逃れられるものではなく、インターナショナリズムを掲げた共産主義運動がまさに最悪の形のナショナリズムの泥沼に陥ったごとく、自分は逃れていると思っている人間が一番その危険に近いところにいるという逆説をもたらすということも、我々が歴史的経験から学んだところでしょう。

実を言えば、我々が自分以外のものに何らかの同情(シンパシー)の念を感じるのは、その自分ではないものに自分と通じる何物か共通性を感じるからであり、その自我包絡をどの範囲までに及ぼし、どの範囲には及ぼさないかは、必ずしも一義的に決まるものではありません。かつては親族などの血のつながりがその範囲を決定していたわけですし、現在でもそれが重要な要素であることには変わりはないでしょう。ネーションというのはそういう自我包絡のきわめて近代的な一形態であり、リアルなシンパシーを通常感じないような人々にまでそれを及ぼすための心理的な装置であることも、ご承知の通りです。
そんなものに何の意味があるのか?自分の親戚でもなければ縁者でもない人々になんで同情なんて及ぼすの?たとえば、日比谷公園に勝手に集まってきた失業した派遣労働者を何とかしなければいけないなどと、なぜ感じるの?ということですね。
仮に、「何を馬鹿なことを言っているのだ。世界の貧しい人々のことを考えろ。日本の派遣切りなんて天国みたいなものだ」と、国際政治学的には適切なことを言われたら、「いやあ、もっともだ」と納得するだろうか、ということでもあります。「同胞」と同胞でないただの「人」に差別をつけないということは、つまり「同胞」であってもその「人」並みにしか扱わないということなわけで。

そういう言葉の上では限りなく美しく、現実の行為においては冷酷でしかあり得ないコスモポリタニズムに対し、「つまり俺たちを仲間として扱わないということだな」という反発がどういう形態をとるであろうかと考えると、(まさに歴史の実例が語るように)「同胞」ではない「人」を「敵」として描き出し、その敵への敵愾心を煽り立てることによって、その対照物である「同胞」を仲間として手厚く扱えと主張する、悪い意味におけるナショナリズム(あるいはむしろショービニズム)が噴出し、瀰漫することになるでしょう。
いや、最近の右翼雑誌などを見ていると、まさにそういうメカニズムが働いているように思われます。

リベサヨがソシウヨをもたらすというのは、そういうことを言っているつもりです。

ま、理念としてはナショナリズム反対であっても、その理念故に
状況によってはナショナリズムを利用することを是とする、という
ことは当然ある訳で。リバタリアンは当面そうせざるを得ない、と
思うけど。

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