改めて日本型システムを問い直す年
「あらたにす」で、中央大学の森信茂樹氏が「欧米反面教師に新モデル構築を」というエッセイを書かれています。
http://allatanys.jp/B001/UGC020004820081222COK00195.html
森信氏はご承知の通り、大蔵官僚出身ですが、もちろん奇矯な「脱藩官僚」などではなく、実務家的センスとアカデミックな知性を併せ持った方です。本ブログで紹介した阿部彩さんらと「給付付き税額控除」を出されています。
後述のように、単純に共感すると言うには、私にはいささか思うところもありますが、大きな話の筋として共感するところの多い文章です。
>さて来年は、「改めて日本型システムを問い直す年」ではないかと考えている。戦後の高度成長期に形成された日本型システム(経済・生産システム)は、その後、外圧をテコとした構造改革と称するものによって、我が国で消化できる範囲で、しかし確実に変質を遂げてきた。
とりわけバブル経済崩壊後の失われた10年を経て、「改革なくして成長なし」というキャッチフレーズのもとで行われた小泉内閣の「構造改革」は、各種の規制緩和策とともに、会社法の制定に代表されるように我が国の会社法制を、英米アングロサクソン型にむけて大きく変革するものであった。年功序列、終身雇用、企業別組合という3種の神器が、過剰雇用、過剰資本、過剰設備のもと機能不全を起こす中で、成果型報酬・米国流コーポレートガバナンス、時価会計等々を取り入れる構造改革が進み、日本型システムは大きく変質していったのである。
このことについて、今になって否定的な見解が多くなっているが、私は当時の我が国のおかれた経済状況の下では、向かわざるを得ない基本路線であったと思っている。これまでの慣性のついたものを正していくには、反対側に大きく曲げていくエネルギーが必要で、中途半端な対応では不十分だからである。必要なことは、変転する経済社会情勢の下、常にシステムを問い直すことで、現下の全く新たな経済社会情勢に応じてあらためてシステムを見直す勇気が求められている。
>金融危機で本質があらわになった強欲資本主義の米国、適正通貨圏でないにもかかわらず作り上げた共通通貨をもてあまし始めた欧州にくらべ、我が国には根本的な問題は多くはない。つまり、アングロ型資本主義・新自由主義や欧州型通貨統合が根本から問い直される今後の世界において、我が国に、自信を持って日本型システムを構築していく絶好のチャンスが訪れたといえるのである。
これまでのような受け身の日本型システムの構造改革という呪縛から解き放たれて、アジア諸国をはじめとする世界へ発信できる前向きなモデルとして日本型システムの構築と実践が要請されているのだ。欧米システムを反面教師としながら、地に足のついた改革として、モデルを再構築することは、ある意味で爽快感でもある。
その場合のヒントは、今日の資本主義社会で価値を生み出しているのは、人間の知識だという認識である。今日の正規・非正規雇用の問題も、根源をたどっていくと、この問題に行き着く。日本型ものづくり、終身雇用といった語りつくされてきた概念を、勤労者の知識の価値を高めるという見地から再構築していくことではなかろうか。その意味でも、これらを実践する自動車産業をはじめとするリーディング企業に、短期的な業績悪化を乗り越える力を期待したい。
>私の専門分野である税・社会保障の分野で考えると、市場メカニズムに基づく競争を前提としつつも、政府が教育・医療・雇用政策を中心とした公共サービスを責任をもって提供することにより、個人の勤労インセンティブを引き出しつつ教育を通じて生活能力を高めていくという政策が日本型モデルになるべきだろう。
ヒントとなるのは、英国ブレア政権の政策で、単に弱者の生活を保障する「セーフティー・ネット」を張り巡らせるという大きな政府の政策ではなくて、弱者を再び勤労に戻していくための人的資本価値向上に向けての支援を行うという意味で、「トランポリン」あるいは「スプリング・ボード」と呼ばれる政策である。これにより、個人の市場における競争力を高め、経済の底上げを行なうことにより、失業問題や貧困問題、さらには少子化への対応を図るというものである。「勤労を通じて経済的に自立し貧困から脱出する」ワークフェア思想、「教育により個人の市場対応力を高め、機会の平等を確保する」という考え方・政策は、日本型雇用・社会保障政策として受け入れられる素地があるのではなかろうか。
問題はそのような政策を遂行していく我が国の意思決定メカニズムであるが、その点も、日本型システムの問い直しというポジティブな動きと連動させて考えていくことが重要で、そういう意味で来年は、決定的に重要な年だといえよう。
森信氏とはおそらく若干違った意味でですが、私もまた90年代の日本型システムの見直しは不可避であったと考えています。問題はそれが、アメリカモデルを頭ごなしに押しつける形で行われてしまったことでしょう。
私が様々な機会を使って繰り返し紹介してきたように、そのとき(90年代後半)にはすでに欧州ではここで森信氏が「日本型雇用・社会保障政策」と呼びたがっている新たな欧州モデル(私は10年前から、それが日本型モデルと共通する面が多いと述べてきたのですが)を志向する動きが始まっていたにもかかわらず、それから目を背けてきたのがこの「失われた10年」であったのです。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/imply.html(EUの労働・社会政策と日本へのインプリケーション)
>以上述べてきたように、ヨーロッパ社会はいま、これまでの保護と福祉に彩られた社会から、仕事を中心に据えた社会に向けて大きく舵を切ろうとしている。しかしながら、それは単なる否定ではない。根っこにある哲学をしっかりと維持しつつ、その現れ方については抜本的な改革をしようとしているのである。
変わらないものは連帯の理念である。社会というものを単に個人が競い合うゲームの場としてのみ捉えるのではなく、協同の精神に基づいて成員が協力し合うべき共同社会と捉える視点はあくまでも貫かれている。しかしながら、その連帯のあり方については抜本的な改革をしようとしている。資源の配分に基づく連帯から、機会の配分に基づく連帯へ、消極的連帯から積極的連帯へ、一言でいえば、福祉から仕事へ、連帯のあり方を大きく変えようとしているのである。
>しかしながら、ヨーロッパ社会はあくまでも連帯の理念を堅持しようとする。連帯を解消し、全てを市場に委ねることで事態の解決を図るというアングロ・サクソン流の処方箋はきっぱりと拒否する。新たな連帯の処方箋は、いってみれば、生産の場に福祉の機能を再統合しようとするものと言えるであろう。社会のいかなる成員も、生産の場に何らかの形で参加することを通じて、成員たるにふさわしい公正な所得を獲得できるような社会を目指すことによって、二重社会という福祉国家の病理を解消し、公平で活力のある社会を実現しようとするものである。
>それは、(もとより全面的にではないにしても)ある面ではこれまでの日本社会が無意識のうちに形成してきた社会のあり方に近い面がある。今、日本社会が真に「アングロ・アメリカン・モデルでもヨーロピアン・モデルでもない、日本独自の第3の道」を構築しようとするのであれば、まさにそういうヨーロッパが学ぼうとしている日本社会のあり方をしっかりと踏まえた上で、何が足りなかったのかをじっくり考える必要があろう。おそらく日本社会の欠落は、機会均等の精神と社会的排除への無関心にあるのではなかろうか。インサイダーにのみ仕事を通じた参加と公平な所得を確保していても、そこからこぼれ落ちるアウトサイダーが増大していけば、社会全体の不均衡は拡大する。人権感覚に裏打ちされたマクロ社会政策の観点こそが、今日の日本にもっとも求められているものであろう。
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