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2008年11月15日 (土)

社会全体への労働教育?

労務屋さんが大内先生の本をネタにして、労働教育について持論を語っておられます。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20081114大内伸哉『君たちが働き始める前に知っておいてほしいこと』

>ただ、この内容だけでよいのかといえば、もとより十分は期することが難しいわけではあるが、不満も残らないではない。その最たるものは「企業内での解決」という観点が欠落していることで、実はこれは最初に紹介した「今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方に関する研究会」でもそうした傾向がみられる。

>さらに言えば、「今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方」という観点からは、労働者の権利の拡大が経済や労使関係の発展段階に応じてどのように実現されてきたのか、ということの理解をはかることが大切ではないかと思う。もちろん、不屈の労働運動によって権利の獲得が進んでいった時代もあるが、国家経済の発展、労使関係の安定・成熟にともなって、政労使の三者による話し合いで問題の解決や権利の拡大がはかられたり、労使協調による生産性向上の成果を労働条件の向上を通じて権利の拡大に結び付けていくという枠組みも整えられてきた。わが国でもほんの20年前にはまだ週休1日、法定週48時間労働が一般的だったが、現在では週休2日、法定週40時間が広く定着している。こうした大きな成果が実現できたのは、国の政策的支援もさることながら、個別労使が生産性向上と労働時間短縮にそれぞれ努力したことの積み上げに他なるまい。権利の実現をはかるということは、実は労使がよい職場、よい会社を作るために努力することに他らないということは、しかし現実の職場、会社においてでしか教育できないことなのだろうか。だとすれば、今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方におけるOJTの意義と労使の役割はまことに大きい。

現在の労働教育論議が個別労働者の権利という視角に局限され、企業内における好ましい労使関係の枠組みという観点が抜け落ちているのではないかという疑問は、確かにある意味で的を射ている面があります。私自身、労使関係の個別化ということばかりを強調して、集団的労使関係を忘れたような風潮には疑問を持っています。

とはいえ、現に労働者がその権利を損なわれているような状況下で、まずは枠組み作りからというのは正論ではあっても、臨床的政策論としては迂遠といわざるを得ないのでしょう。この厚労省の研究会の立ち上げに若干関わった立場からは、とりあえずそういうことではないかと。

そして、労務屋さんの言われる企業内の枠組みということについて言えば、個別労働者にはいかんともしがたいマクロな流れの中で、そういう集団主義的なあり方がここ十数年、否定され続けてきたということがもっとも大きな問題で、それは労働者側の問題と言うよりも、使用者側の問題であったように思われます。

実を言うと、終戦直後から1950年代にかけての頃も労働教育というのが政策課題であったのですが、そのころの最大の課題は労働組合に対する教育、つまり、やたらに闘争するよりも協力的な労使関係を作っていくことが結果的にメリットがあるということを教育していくという点にありました。その効果があってかどうか、日本の労働組合運動は良好な労使関係の意義をよく認識するようになったわけですが・・・。

90年代以来の流れの中で、どうも使用者側にそういう良好な労使関係のメリットの理解が乏しくなってきたのかなという感じもします。もちろん、使用者個人の問題と言うよりは、株主主権論によるコーポレートガバナンス論がはびこり、労働者を大事にするようなけしからん会社の格付けは下げてやるんだこの野郎、みたいな風潮が、マスコミも巻き込んで吹き荒れたことが背景にあるのでしょうが、何にせよ、使用者側が「なんで労働者の権利なんか守ってやる必要なんかあるんだ、コストだけかかって無駄じゃねえか、使い捨てでいいじゃねえか、それでどこが悪いんだ」という風に考えざるを得ないような流れがあったことは確かで、それはマクロ的に長い目で見たらそうではないんだ、ということこそが本当の労働教育ではないか、というのはまさにその通りだろうと思うのですね。

今、労働者の側に「良好な労使関係の構築こそがマクロ的、長期的に労使双方にメリットがあるのだ」ということを教えていって、目の前の問題がすぐに解決するかといえば、そういう訳のものでもないので、現時点の労働教育としては権利教育という形にならざるを得ないと思うのですが、もちろんそれだけで話がすむわけではありません。

その先に、主としては使用者や使用者となろうとする人々に対して、そして国民全体に対して、そういう枠組みの重要さをきちんと教えていくという意味の「労働教育」という課題が待っているのだろうと思います。

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コメント

> その先に、主としては使用者や使用者となろうとする人々に対して、そして国民全体に対して、そういう枠組みの重要さをきちんと教えていくという意味の「労働教育」という課題が待っているのだろうと思います。

以前労委事務局におりまして、おっしゃることの重要性は日々痛感していたものの、これはデマケとしてどの機関が担当するべきなのか判然としません。本来は憲法27条関係が国、28条関係が都道府県という制度設計かと思いますので、やはり都道府県なんでしょうか。

ただ、集団的労使関係紛争処理機関である労働委員会は、個別的労働関係紛争のシェア争いに参入してから数年が経過した現在も、労働委員会の喫緊の課題として個別紛争処理の周知広報を掲げているようです。

私の在籍時は個別労働関係紛争をどこが処理するかという議論の真っ最中でしたが、集団的労使関係紛争に持ち込まない限り労働委員会を利用できないということが組織化のインセンティブの少なからぬ要因となっていたはずで、労働委員会自らがそのタガをゆるめ続けているということも組織化が進まない一因かと。

県の労政所管部署もチホーブンケンの名の下で雇用対策にリソースを割かれていて、集団的労使関係を所管する人員もノウハウもほとんど残っていません。さらに当の労働組合が、チホーブンケン推進の立場で自治体のそういう動きを支持しているという状態ですし。

北海道労委の道幸先生は労働教育のNPOを立ち上げているそうで、そういう経路しか残されていないようにも思われますが。

マシナリさんの指摘はあまりにも本質に迫っていて、なかなか軽く応答するのが難しいのですが、まあ厚生労働省自体にも集団的労使関係政策がないわけですよ。それも最近の話ではない。実は労組法をどうするかというような法政策が問題になったのは1952年が最後。それ以来、労政局が頭を悩ましてきたのはもっぱら公共部門の労働基本権問題であって、民間の労使関係のあり方をどうすべきかというようなことは、政策論としては存在してこなかったのです。

その意味では、長らく労政行政は労働組合が事実として存在して活動しているという実態の上に何とか成り立ってきたわけですが、90年代以来それがついにほころびてきて、個別労使関係が大事だという大合唱となり、個別紛争処理制度や労働審判制度ができてきたわけですが、それはそれとして、集団的労使関係のあり方如何という問題意識はますます希薄化したということです。

正直言うと、労働委員会が今更個別紛争に頭をつっこもうとするよりも、新たな観点から集団的労使関係の枠組みをどう構築していくかというような議論を提起していってほしいものだと思うのですが。

丁寧なコメントありがとうございます。

1952年というのは、昭和27年の新労組法以来不当労法理に一切変更がないということですね。行政委員会自体が高度に分権的な組織ですし、組合も任意設立主義を取っている以上、国が口出しできないシステムになっているわけで、厚労省に集団的労使関係政策がないのも当然かもしれません。

> 正直言うと、労働委員会が今更個別紛争に頭をつっこもうとするよりも、新たな観点から集団的労使関係の枠組みをどう構築していくかというような議論を提起していってほしいものだと思うのですが。

ここはちょっと意外でした。季刊労働法第222号の鼎談で、確か大内伸哉先生の「団結できないほうが悪い」というような見解を引いて、濱口先生は「それすらできない労働者をいかに救うかが問題だ」というような見解を述べられていたと思いましたが、それは労働委員会のデマケではないということですね。そうであれば私も全面的に同意します。というかそれが本来の姿ですし。

ただ、結局労働教育がどこのデマケになるかという問題はそのままですし、1952年以来手つかずの労組法7条が使用者側に片務的な不当労法理となっている限り、状況が動くことはないように思います。労組も労働委員会も何か大事なものを忘れてきたのかもしれませんね。

大内先生は、自発的結社としての労働組合のみが唯一の集団的枠組みであるという立場から「団結できないほうが悪い」といわれているわけですが、それはあまりにも「強い個人」を前提にした議論で、そこに組合があれば入るけれど、ないのにわざわざ汗かいて作ろうとまでは思わないようなフツーの労働者はおいてけぼりになってしまうのではないか、と思うわけです。
実のところ、現在の組合のかなりの部分は、終戦直後に占領軍の命令で雨後の竹の子のように作られた組合の遺産で食っているわけで、さらにそのもとをたどれば戦争中の産業報国会に行き着きます。上から作られた組合なんてろくなものではないという、一見まことにもっともな建前を現実社会を抜きに振り回すと、多くの労働者が労働組合という保護膜すら得られないという状況になります。それであわてて、個別だ、個別だと騒ぎまくっているのが現状ではないか、というのが正直な感想で、むしろ、上から強制的に集団的な枠組みを作っていくという契機が求められているのではないかと思っているのですが、いうまでもなく、こんな考え方は圧倒的少数派ですがね。
日本では、組合法は憲法28条、基準法は憲法27条と峻別して、従業員代表制は後者の世界だと割り切ってしまい、集団的労使関係の問題としてとらえる視角が希薄です。そこをどうにかできないかと思っているのですが。

こういう考えをまとめたことがありますので、ご一読いただければ幸いです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sankachap5.html

また、この論文の載った連合総研の『労使コミュニケーションの新地平』の巻末座談会で、かなり思い切ったことを喋っていますので、そちらもどうぞ。本ブログで以前一部紹介しています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_6707.html

再び丁寧なコメントとご教示いただきありがとうございます。ご紹介いただいた記事も拝読いたしました。

消化し切れていないかもしれませんが、今の労働組合がいわゆるポツダム労働組合とその基盤となった産業報国会に端を発すること、その後の労働組合活動の思想的な傾向が現在に至る集団的労使関係を規定してしまっているという理解でよろしいでしょうか(日本の労働組合が官公労を中心に動いているのもそういう事情があるのかなと)。

> それであわてて、個別だ、個別だと騒ぎまくっているのが現状ではないか、というのが正直な感想で、むしろ、上から強制的に集団的な枠組みを作っていくという契機が求められているのではないかと思っているのですが、いうまでもなく、こんな考え方は圧倒的少数派ですがね。

前段は実感として賛同します。後段もそれ以外に実効性のある方策はないように思いますが、そうなると労働教育どころではなくなりますね。あと、高度経済成長期以降の不当労事件のほとんどが少数組合に絡む「労労問題」であったことからすると、修正シングル・チャンネル方式を許容する不当労法理が不可欠という点もそのとおりだと思いますが、半世紀以上変更されなかったものを労側が認めるかどうか甚だ疑問ではあります。

> 日本では、組合法は憲法28条、基準法は憲法27条と峻別して、従業員代表制は後者の世界だと割り切ってしまい、集団的労使関係の問題としてとらえる視角が希薄です。

36協定を巡る遵法闘争とか実務上は切り分けが難しいんですよね。そこで形成された不当労法理もかなりいびつなものですし、労働教育といっても何を学んでいいのやらということになりかねないような・・・

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