学費 払えない
読売の記事から、
http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_08110704.cfm
>景気の後退で、学費や生活費に窮する学生が増えている。大学の中には、新たに奨学金を設けるなど支援の動きも出始めた。
「父親がリストラされそうで、とても学費は払えない。それでも何とか卒業したい」。平均株価がバブル後最安値を更新した10月27日。明治学院大(東京・港区)が「金融危機に対する緊急奨学金」の募集を始めると、1人の男子学生が窓口にそう訴えてきた。
学生の父親は東海地方の自動車関連会社に勤務しているが、仕事が急激に減って、収入の見通しが立たないという説明だった。
この奨学金は上限50万円で返済不要。これまでに30人近くが相談に訪れた。父親が米国の企業で働いているため、「間違いなく解雇されてしまう」と不安がる学生もいた。
「切迫しているのは1人や2人じゃない」。川上和久副学長は「想像以上に困っている学生は多い。この状態が続けば、相談はもっと増えるのではないか」と表情を曇らせた。
まあ、母子家庭の私立高校生ですら自己責任なのですから、ましてや大学生であればすべて自己責任というのが筋ではあります。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-2a1a.html(自己責任の人倫的基礎と社会的帰結)
とはいえ、現代日本社会において、大学卒業が良好な雇用機会を得る上での一つの条件となっているということもまた事実であることを考えれば、そう割り切ってしまうのもなかなか難しいところでもあります。
ただ、この問題をつっこんで考えると、一昨年に本ブログで何回か取り上げた大学教育の職業的レリバンスの問題を抜きに語れない面もあります。つまり、良好な雇用機会を得るための条件である大学教育が、当該良好な雇用機会に対して有している意義はいったい何なのか?当該大学において受けた教育内容が当該良好な雇用機会において遂行されるべき労働内容に対して不可欠の意義を有しているのか、それとも単に一般的に成績優秀で能力があるというシグナリングに過ぎないのか、という問題です。もしシグナリングに過ぎないのであれば、そのために社会的に資源の移転をあえてする必要があるのか、資源の移転は、もっと直接的に労働内容に有用な教育訓練に対して行われるべきではないのか、という議論があってしかるべきでしょう。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)
とはいえ、この問題の解決がそうたやすくないのは、
http://www.keizai-shimon.go.jp/special/work/15/work-s.pdf(経済財政諮問会議労働市場改革専門調査会「年齢の壁について」)
>民間の「年齢の壁」が徐々になくなっていくとすると、これまで年功制が担っていた生活保障機能、つまりある時期まで年齢とともに増加する生計費を公的にどう賄うかという問題に対応する必要が出てくる。
1 つ目は、子どもの養育・教育コストについてである。少子化対策の関係で、非常に幼い、ヤングチャイルドの問題については結構最近議論されてきているが、それを超えたところに大きい問題がある。特に日本は世界的に見ると、中等・高等教育コストは私立学校が大幅に担っており、そのコストも実は私的に負担している部分が非常に多い。なぜそのようなことが可能かというと、私学に通う子どもたちの親が、それなりに年功的に上がっていく給料をもらっていたから成立していたという面がある。つまり、社会的な前提を変えるとなるとこの部分を当然何とかしなければいけない。
先述の入口の話とつながってくるが、親が年功制で高い給料をもらっているから余裕があって、中等・高等教育に支出できるということは、実は子どもの将来の職業人生に対する投資というよりも、一種の消費財的な性格が強くなってしまう。
それゆえに、先ほど言った職業的なレリバンスがだんだんなくなって、大学で学んだことを全部忘れて、これから会社の中で一から覚えなさいというような、ある種の制度的補完性が成り立っていたのだろう。
そうすると、そういったところまで含めて変えるとなると、これは大変大きな社会的影響があると思う。
具体的に言うと、職業的レリバンスの乏しい学問分野の先生方の労働市場に対して、かなり壊滅的な影響を与える可能性があるわけです。
>それでは、夫婦が共働きをすれば子ども2人を十分養えて、それなりの広さの家に住んで、子どもをある程度高等教育まで出させて、なおかつその高等教育は非常に実務的で役に立つもので、それを基に子どもが労働市場に入っていくことができるというすばらしい世界が形成されるかというと、そこに何らかのもうワンプッシュが必要だと思う。
私の印象では、むしろ先ほど樋口委員が指摘されたように、やはり親と子の年齢差が開いてきていることで、中等教育から特に高等教育レベルのところの費用負担が非常に大きくなっていることが一番大きいだろうなという感じがする。親のすねをかじるのではないと口で言っても仕方がないとなると、やはりそこは実学系に対して一定の公的なコスト負担をするという方向に誘導していくことしか、実際にfeasible (実行可能)な道はないのではないかと思っている。
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威勢良き「自己責任」。気持ちいいですね、その対極の側にいる人にとっての脳の報酬系にビンビン響き渡ります。
通常多用する日経ではなく、最近忌み嫌われている朝日の天声人語(2016.9.11)と本エントリに相関性を感じ、またそのラグに日本社会の「今」が少なくともエントリ時期のものでもある時間がゆがんだ病巣性を感じましてちょっと。
前政権時に参与?として政府にパラサイトし、財源およびその執行の現実を初めて知り、遅くも目覚めた(笑)湯浅誠さんが2016.1.30琉球新報が報じた沖縄子ども調査での記事「小1で大学断念 進学への親錦調査」とそれに対する行政・NPO・企業がそれぞれ連携し取り組みを進めている様子を紹介しておられます。
また上記した天声人語では川上肇「貧乏物語」初版100年にあたり、わたくしが先述した時間のゆがみを指摘していることにも、日本社会の病巣を見て取れり様です。
今年、その書籍が現代語訳として講談社新書より、「現代語訳 貧乏物語」川上肇・佐藤優訳としてたいへん読みやすく出版されております。訳者の後記(解説)は別物としても、本エントリとの時間のゆがみをを感じる参考物として読まれたらいかがかと思いコメントいたしました。
広義に捉えるとそれは「資本」の定義にもつながるものといえると思いますし、それぞれの地域共同社会と国家の関係を再考するうえでの緒ともなるものと思います。
稚拙で借り物他力に依った似非自文化中心思考発言を振り回すことに比べ、よほどの生産性高き「資本」をもたらす可能性を秘めていると考えます。
つまり「資本=〇〇的資本」の今の定義を疑い建設的にしかも方法論は実証で再考し、あるいはそれに依拠して学びなおしてはいかがかと考えております。
投稿: kohchan | 2016年9月11日 (日) 08時14分
あれ?河上肇を川上さんにしておりました。やな予感がして見直しまして(笑)。
また琉球新報「小1で大学断念 進学への親”錦”調査」の””内はご想像通り”意識”でございます。
その他もありますが、これは毎度のことで問題ないようですのでいつもながら失礼こきます。
せっかくですので、以前こうしたエントリで、強制加入である「年金”保険”制度」で最近喧しい例のクジラ問題の財源の社会的な活用法として、その一部を時間を今にゆがめ前倒しして将来給付対象者となる若者への奨学金財源として(当然給付時期に返していただくような世代互恵関係ですが)はどうかとおっしゃる宮武先生のお話を紹介した記憶がございます。
そのためには本ブログ主要課題である労働(就業から労働人生終了まで)のあり方を近視眼ではなく、必ず日本社会に付帯しているこうしたものも絡めて俯瞰する姿勢は必須であろうことを、誤字脱字ありを前お知らせの上で追加させていただきました。
はまちゃん先生、何回もごめんね。
投稿: kohchan | 2016年9月11日 (日) 10時12分