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2008年10月11日 (土)

ノーベル賞は理科系に限る

久しぶりに日本人and/or日系人のノーベル賞受賞で世間が湧いています。

やっぱり、ノーベル賞は理科系に限りますね。素直に受賞した先生方の偉業を賞賛できて。

これで文学賞とか平和賞とかとってたら、裏にどんな政治的思惑が・・・と言う話になりそうで。

で、そうなると久しぶりに権丈先生のお言葉が聞きたくなるところで、ご自身、4年前に書かれた昔の勿凝学問第20番をアップされています。

そもそもノーベルの意志に反して40年前に作られたスウェーデン中央銀行賞について、例によって痛烈な権丈節が炸裂しています。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare20.htm

>ここ数年来、「ノーベル経済学賞とは、経済学者に食い扶持を与えた数で決まる賞にすぎない」とわたくしは言いつづけており、かなり多くの人から、そうかもしれないとの賛同のお言葉を頂いてもいる

>ノーベル経済学賞は、お神輿需要の強さが決めるのであり、自然、その考え方で何人が飯を食ってきたかを示すことにはなるが、必ずしもノーベルが遺言した「人類の福祉のために最大の貢献をした人たちに賞として授け」られる賞ではない

>ノーベルが遺言に記した賞は、物理学賞、化学賞、医学生理学賞、文学賞、平和賞の5部門であり、ノーベルは、経済学賞を設けるなど考えてもいなかった様子である。

>「人類の福祉のために最大の貢献をした人たち」に賞を与えることを考えていたノーベルの視野には、経済学は入っていなかった。

>経済学に物理学や化学と同種の普遍性とか科学性というようなあまり無理なことを期待してはいけない。経済学とは、そういうものなのであるし、だからと言って経済学の価値が下がるわけでもなんでもない。数年前に講義を終えた時、ひとりの学生が訪ねてきて、「先生はものの考え方とか方法論を重視されているように思えますが、経済学の方法論について何か良い本はないでしょうか?」と問われたとき、とっさに「日蓮や親鸞の伝記でも読んでおきな」と答えて帰ってきてしまった。それは正直な回答だったのである。先に、「aさんが捻出した考え方Aをお勉強した信者グループαがあるとする」という譬え話をしているが、一流派の経済学の誕生、成長のプロセスではたす教祖と信者の関係、およびそこで生まれてくるお神輿需要のはたす役割などを知るには、本当に宗教家の成功物語とそのライバル達の失敗物語を知れば済む話なのであるし、そっちのお勉強の方が経済学方法論の堅苦しい本――その多くは大天才の考えを凡人たちが矮小化したつまらない本――を読むよりも、よほど面白い。こうした考えをいだきはじめて既に10年以上も経ったいま思うことは、社会科学の有り様というものは、あくまでも、そしてどこまでも宗教の有り様に似ているということである。質問をしてきた学生に対して良いアドバイスをしたと自分では思っているのであるが、その学生は、どれほど分かってくれたことか――ほんの少しではあるけど心配していたりもする。

>人として最も崇高な知的行為である価値判断を経済学に支配されないように注意するようにとか、経済学を自分の思いに従属させることができるように自分の意識や心を磨く訓練を経済学学習と並行するようにとかを、わたくしが言いつづけているのも、それなりに理由があるのである・・・誰も分かっちゃいないだろうけど。

なお、参考までに過去の本ブログの記事から関連ある話題を(以下は権丈先生の「勿凝学問」とは別の話です、念のため。)、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_54bc.html大瀧雅之氏の金融立国論批判

>特に、近頃ブログ界に流行るインチキ連中への痛罵とも言うべき次の一節が拳々服膺すべき内容を含んでいるように思われました。

>・・・そうした中、まことに単純で杜撰な想定に基づく計算から導出された証券価格やリスク評価を盲信し金融経営の中心に据えることは、経営の怠慢に他ならず、背筋に寒いものを感じる。筆者が文科系学生の数学・理科教育が何にもまして重要と考えるのは、こうしたプリミティブな「数学信仰」そして同じコインの裏側であるファナティシズム・ショーヴィニズムを抑止し、広く穏やかな視野で論理的な思考を涵養せねばならないと考えるからである。彼らが数理科学の「免許皆伝」となることは残念ながらまったく期待できないが、組織・企業の要として活躍するには、そうした合理精神が今ほど強く要求されているときはない。

>筆者の理想とする銀行員像は、物理・化学を初めとした理科に造詣が深く、企業の技術屋さんとも膝を交えて楽しく仕事の話ができる活力溢れた若人である。新技術の真価を理解するためには、大学初年級程度の理科知識は最低限必要と考えるからである。そうした金融機関の構成員一人一人の誠実な努力こそが、日本の将来の知的ポテンシャルを高め、技術・ノウハウでの知識立国を可能にすると、筆者は信じている。

付け加えるべきことはありません。エセ科学を的確に判別できる合理精神は、分かってないくせに高等数学を駆使したケーザイ理論(と称するもの)を振り回して人を罵る神経(極めて高い確率でファナティシズムと共生)とは対極にあるわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_8368.html(理科が大事!)

>大学入試の仕組みのために、いわゆるヘタレ文科系インテリに一番欠けているのは理科の教養なんですね。理科の大事なところは、理屈が通っていることと、経験的事実に即していることの両方が絶対に大事だというところで、事実に即さない屁理屈をこねくり回すだけでは理科にならないし、理論抜きに個別の事実をもてあそぶだけでも理科にならない。多分、その辺がヘタレ文科系って奴の最大の弱点なんじゃないかと思うわけです。エセ科学にころりとやられる。

(追記)

いやあ、スウェーデン銀行賞は実に「政治的」ですねえ。この時代の空気にジャストミートというか・・・。

突如として以下のエントリーが読まれ出したようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_887a.html(ソーシャルなクルーグマン)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_ce3c.html(ソーシャルなクルーグマン2)

(追記の追記)

というわけで、権丈先生も、素直に(!)クルーグマンのスウェーデン銀行賞受賞を喜んでおられます。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare184.pdf

>これで、わたくしが学生によく紹介する、3人の経済学者、アマーティア・セン、スティグリッツ、そしてクルーグマンは、皆そろって、ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞の受賞者になったわけである。

すばらしいではないかぃ。

センは1998年、スティグリッツは2001年、クルーグマンは2008年に受賞している。彼らが受賞した年の前年、すなわち1997年にヘッジファンドの破綻を機にしたアジア通貨危機が発生し、2000年にネットバブルがはじけ、2007年にはサブプライム問題が露見しその影響で2008年10月、大恐慌を超えると言われる危機的な経済状況の中で受賞が発表されている。そうした事実が、わたくしがお薦めする経済学者の受賞となにか関係があるのだろうかなどと言わずに、素直に言祝いでおこうと思う。

実に、素直な言祝ぎで・・・。

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コメント

理系も学界内部の政治動向を強く反映しますよ。食い扶持のお話も含めて。外部の政治動向を反映することはあんまりない、と思いますが

>人類の福祉のために最大の貢献をした

今回の物理学賞の研究内容は、何かの役に立ってるんかな?
本人に聞くのは怖いので、止めておきますが

理系にもトレンドがあるにしても、ノーベル詐欺学賞・・・じゃなかった経済学賞はいらんな。

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