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2008年9月30日 (火)

日本教職員組合の憲法的基礎

世間は中山発言で騒いでいるようですが、私は、これに対する日教組の声明に唖然としました。

http://www.jtu-net.or.jp/viewnews2/1/08/09/29n1.html

>中山前国土交通大臣は、「失言3連発」で批判を浴びたにも関わらず、問題発言に対する謝罪をするどころか、「日教組をぶっ壊す」「日本の教育のガン」など、日教組に対する暴言を繰り返した。憲法で保障された「集会・結社・表現の自由」に抵触し、日教組に対する誤った偏見に基づく誹謗・中傷発言は、断じて容認できない

私は、日本教職員組合とは、学校教育に従事する教育労働者が主体となって自主的に労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的として組織した団体であって、その憲法上の根拠は

第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。

にあるとばかり思ってきたのですが、そうではないのでしょうか。

会社の営繕部長が自分の所管ではないとはいえ、研修部の職員の組合を解体するとかぶっ壊すとかいえば、当然不当労働行為になるはずですが、そういう話ではないのでしょうか(公務員には労働組合法は適用されませんが、ものの考え方は同じはずです)。

もし、日本教職員組合の憲法上の基礎が

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

なのだと自ら考えているのだとすれば、

確かに「主として政治運動又は社会運動を目的とするもの」は労働組合ではありませんから、政治結社同士の泥仕合ということになってしまいますね。

そういうのはよろしくないのではないかと思いますが。

(追記)

あれあれ、連合まで「結社の自由」ですか。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/kenkai/2008/20080930_1222757471.html

>「集会・結社・表現の自由」にまで抵触する誹謗中傷を繰り返した。

>憲法が保障する「結社の自由」を公然と否定し、

日本の労働者を代表する組織がこんな認識ではどうしましょう。

と思って、さらに読んでいくと、

>連合は、合法的に存在している労働組合を現職閣僚が否定し、解体する等の発言と行為を断じて容認しない。

労働組合のナショナルセンターなんだから、そこをこそ強調しなければいけません。そこらの政治結社が連合に入っているわけではないんですから。

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コメント

憲法28条で認められた団結権は21条1項で認められた結社の自由の一環をなす、と、憲法の基本書(辻村p.316、佐藤幸p.632)に書いてありますから、憲法論的に変なことを言っているわけではないと思いますが、如何でしょうか。

尤も、日教組の存在目的の第一義が労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることにあることを考えると、その根拠がまずは特別法(?)たる28条にあるというのはわかりますが、中山発言に関してはあまり本質的でないような気がします。

しかしまあ、中山氏も日教組も、どっちもどっちという気はします。

もちろん、団結権も一般的な結社の自由の部分集合ですが、もし日教組の憲法的根拠が結社の自由でしかないのであれば、それは自由民主党とか日本共産党と選ぶところはないわけで、それなら、お互いに、

自民党をぶっ潰す!

共産党をぶっ潰す!

と言い合っても、別に十分アリでしょう。

日教組はそういう政治結社と同じ次元の存在なんでしょうか、という素朴な疑問なんですが。

いうまでもなく、日教組は労組として労働基本権を主張するでしょうし、それが侵害されたら、憲法28条を根拠に抗議するでしょう。(公務員労組だから一定の制限を受ける、という問題はありますが。)

でも、中山発言は日教組に労働組合としての団結権を認めない、労使交渉の相手とみなさないと言っているのではなく、日教組という組織そのものをぶっ潰すと言っている訳ですから、結社の自由を根拠に抗議するのは当然ではないかと思いますが、いかがでしょうか?

というより、中山発言じたいほとんど専ら政治的意図から出たとしか読めない発言ですからね。日教組は政治的にそれに対抗する立場にあるわけですから、その場合、かれらの政治結社的側面が前面に出て来るのもそれはそれで自然なことではないかと思いますよ。今回の問題に限っていうならば、教職員の労働上の立場が争われているとは言い難いところがありますからね。

尤も、官公労あるいはもっと一般的に労組一般を政治主体として認めないと考えるなら話は別でしょうし、また、中山発言が教職員の労働上の立場それじたいに言及しているなら仰るとおりだと思いますが、あの人がそこまで考えてものを喋っているようには見えませんからね。

労組が労働問題とは別の水準でものを言っているのが気にくわないというのはわかりますが、中山発言問題ははじめから政治的泥合戦でしかないと思いますよ。まして一方の当事者はあの(!)日教組ですから。

要するに、立場の問題ではなく論点の問題ではないかと、そう思うわけです。

ですから、それは、

共産党をぶっ潰す!

とか、

自民党をぶっ潰す!

とかいうのと同レベルでしょう、と申し上げております、
それが大臣の発言として適切だなどとは全然申し上げておりません。
政治的に大変不適切な発言ではありましょう。
しかし、労働者の団結権を公然と否定するというのは、それとは次元の異なる話なんですがね。

日教組をぶっ潰す!

を、上記と同水準の政治的発言としか感知できないこと自体が、ある種の社会的鈍感さを示しているように思われます。

まあ、ここにも現代日本の「ソーシャル」な感覚の欠如が見事に出ていると言うべきでしょうか。日教組自身も含めての。

うーむ。
だから、はじめから中山発言問題では、労働者の団結権は論点に上ってないんですよ。労働組合の団結権それじたいはいくら中山氏でも否定しないでしょうし、じじつ、似たような傾向団体的性質を持っていても、相手が(すでに弱体化している)国労ならあそこまで言わなかったでしょう。つまり、相手が相応の実力をもつ政治的傾向団体の本丸だからこそ、中山氏はあそこまでヒートアップしたのです。

先生がソーシャルな感覚の啓発に力を注いで居られるのは僕もよく知っていますし、ご著書の『労働法政策』は興味深く拝見いたしましたが、それでも中山発言問題は労働問題とは直接関係ありません。論点違いは事実ですから、知的誠実を貫くならそう申し上げるしかありません。

それははじめから分かっております。
相手が、本来労働組合たる日教組を(その政治的活動を理由に)政治結社として非難してきているときに、その土俵に乗って結社の自由を持ち出すんですかねえ、と言ってるだけで。

正直言って、わたしは政治結社としての日教組を擁護する気持ちはありません。勝手に右翼と喧嘩してればよろしい。

しかし、全国の教育労働者の代表組織には、重要な存在意義と責任があります。近年、労働者としての権利主張をすること自体がけしからんかのような言論も多く見られるだけに、そこはきちんと言っておく必要がありましょう。わたしははじめからそこにしか関心はありません。

連合加盟の某民間産別の者です。私が最初にテレビで中山氏の発言を聞いた時思ったのは、「憲法で保障されている労働組合をつくる権利の否定だ」ということです。これは、自民党をぶっ壊すというのとはまったく意味が違うのだと家族に熱弁をふるったのでした。
政治的な側面で日教組が批判されたということは十分承知です。でも、労働組合に携わっている人間ならば、こういう言葉を聞いたときに、瞬間的というか神経反射的に感じるのは「労働組合の否定」ではないでしょうか。だから、私はhamachan先生のおっっしゃることに同感です。
日教組の抗議文には、理屈ではなく感覚的に違和感があります。組合運動をやってきたものの素朴な感覚です。あえて言えば、だから日教組は嫌われる・・・
連合の声明文は、まあ、どういう人が書いているか想像がつくので、あえてコメントしません。

要するに、先生御自身のアクチュアルな関心の話をなさりたいということでしょうか。先生のそういうお気持ちはわかりますが、それはあくまで気持ちの問題であり、記述そのものがそういう趣旨になっているかどうかという問題および中山発言問題における論点とは別の話です。

エントリ本文の記述上はあくまで「日教組の憲法上の基礎が21条に求められるとするのは、本来労働組合であるはずの日教組を政治団体として解釈するものであり、適切でない」と、そういう記述になっています。この文意にしたがう場合、通常は一般法と特別法の関係と解釈されている21条1項と28条との関係を、パラレルあるいは競合する規定と解釈することになり、憲法解釈上疑義が生じます。そして、そういうことには関心がないと仰るのであれば、本文の記述は先生にとって不本意な内容を語るものであり、記述として不適切だということになってしまいます。

中山発言は政治家が特定の団体を公然と「潰す」と言っているのですから、不当労働行為云々の問題を当然に含むような一般ルール、つまり憲法21条に抵触します。この時点で、日教組の対応を俟つことなく、すでに一般法たる「集会・結社の自由」の問題になっているのです。大前提たる一般的ルールそのものが侵されようとしているときに、その一般ルールを前提としてはじめて成り立つ特別ルール(団結権)を楯に身を守ろうというのは論理的にスジが悪いと思いますが如何でしょうか。

尚、僕も日教組を政治的・社会的に擁護する気は全くありません。為念。ただ、だからといって何をしても構わないというわけではないのだというより一般的な正義が問われたのが今回の騒動なのではないかと思った次第です。

日教組の強い県というと、全教の弱い県でしょうか。
大臣もこちらを持ち上げてくれればよかったんですけどね:)

一般規定と特別規定がある場合、特別規定をさしおいて一般規定ばかりを振り回すこと自体が問題です。一般規定は適用範囲が広い分、保護水準は低いからです。

上でも申し上げているように、憲法28条に基づく労働者の団結権は、21条に基づく一般の結社の自由よりも適用範囲が狭い分、保護の水準は高いのです。

例えば児童保護を問題とすべきところで、一般ルールこそが大事だ、子ども子どもって言うな、人間はみんな保護すべきだと言うのは(論理的には間違っていなくても)愚かでしょう。

一般の結社の自由であれば、例えば政治結社や宗教団体などが、お互いに「ぶっ壊す」「ぶっ潰す」というのは、十分許容範囲でしょう。(ご自由に任意の固有名詞を入れてください)

しかし、労働者の団結権については、使用者側が労働組合を「ぶっ壊す」というのは許容されるものではありません。公務員はマッカーサー書簡以来労働組合法の適用が除外されていますが、だからといって不当労働行為が憲法上許されるものではありません。

そういう違いがある以上、特別規定をさしおいて一般規定のみに関心を集中すべきというのは奇妙な発想です。

はじめて納得のいく説明を頂きました。あくまで中山成彬氏の発言をいち政治的個人の発言として考える場合、仰るとおりであって、「潰す」と言ったところでせいぜい品性の問題に止まり、日教組は「できるもんならやってみろ」とでも言っておけばいい。しかし、そうならなかったのは、中山氏が五日間とはいえ国土交通大臣を勤めたからでしょう。いち行政官庁のトップであるわけですから、かれは強大な公権力を行使することができます。しかも氏の発言はその力を特定の組合を潰すために行使するつもりともとれるものでした。これは、一般規定たる21条1項に違背すると同時に、その特別規定たる28条に違背する。しかし、特別規定は一般規定に優先するので、この局面では28条に反するとされるのが適切であると。先生のこれまでの記述は、このあたりの場合分けが微妙に混交しているため、論旨不明瞭な部分があります。しかし、08時07分のコメントの記述を踏まえるならば、以上のように類推することができ、ようやく先生の意図と記述の論旨がつながります。

さて、以上のことを踏まえるとして、さらに気になることがあります。

特別法優先の原則があるにしても、結局論理的にはやはり28条の団結権保証が及ぶとする場合21条1項の保証も当然及ぶことになるわけで、奇妙ではあっても中山発言は21条1項の問題として論ずる余地があります。しかし、仰るように特別規定を無視するのは奇妙です。なら、どうしてかれらはその奇妙なことをしたのか。

いちばん考えられるのは政治的効果狙いということでしょう。28条に限って応答文を出した場合、話が労働問題に局限されるのでそういう向きにしか賛同がえられないが、21条1項の問題となるとより広い範囲の関心を引くことができると。日教組なら考えそうなことですが、まあ、そういうことなら、先生も僕も勝手にしてくれというほかないでしょう。

しかし、かれらが判例の流れから考えてスジが悪いと考えていた場合、それは大きな問題に繋がります。マッカーサー書簡では争議権と団体交渉権が禁止されていますね。この二つが否定されるなら、あとのひとつは実質意味を持ちません。尤もいったんは「二重のしぼり論」など判例法理が確立しましたが、1973年にそれが否定され、以後一貫して公務員の労働基本権はほぼ否定されている状態が続いております。

その流れを受けて日教組が「これじゃあ自分たちが28条などと言っても意味がない」と考えはじめたとするならば、無意味な特別規定をさしおいて一般規定のみに関心を集中するという奇妙なことをするのは当然であるし、それどころか、まさにこの三権否定の流れによって日教組の悪名高い政治性は生みだされたのだということすら言えることになります。ならば、日教組の政治性を冷笑しても意味はなく、70年代以後の判例の流れおよびイデオロギー的にそれと親和的な政治的立場を批判すべきだということになりそうですが、プロとして如何お考えでしょうか。

長文失礼いたしました。

公務員に否定されているのは三権ではなく、団体交渉権(正確には労働協約締結権)と争議権で、団結権は(警察・消防・自衛隊を除き)認められているのですから、ここで問題となっている団体を結成する権利自体については、結社の自由との並びではやはり団結権を出すべきでしょう。

も一つわたしが直感的に感じたのは、上のいっちゃん氏のコメントにあるように、日教組以外の労働関係者だったら、間違いなく違和感を感じるだろうな、ということでした。同じ公務員労組でも、日教組じゃなく自治労とかだったら、たぶん間違いなく28条を持ち出していたはずで、まあ、その辺の感覚のずれを日教組の方々はどこまで感じているのかな、というのがこのエントリーを書いた一つの理由でもあります。

それから、わたし自身の個人的偏見をきちんと出しておきますと、わたしは戦後労働運動が反戦平和運動など必ずしも労働者の権利利益に関わらない政治活動に精力と資源を注ぎ込んできたことに対して、もっと大事なことに人的物的資源を使うべきだったんじゃないの、という批判的見解を持っておりまして、その辺の偏見がこのエントリーににじみ出ているというご指摘は甘んじて受けます。

日教組を労使関係の中においてみると、「使」側は、教育委員会ではないかと思いますが(中山氏も「県」単位の話をしているので、国=文部科学省、よりも、各都道府県の方が適当かと)、日教組の、良くも悪くも「存在感」に比して、教育委員会って、全然存在感がありませんよね。今回の話にも全く出て来ませんが、日教組をだめだと言う人が、では、教育委員会を持ち上げるとも思えませんね。教育委員会が存在感を示してがんばるところでは、「教育」や「労使関係」よりも、これまた「日の丸・君が代」という感じですしね。

そういう教育委員会には誰も触れずに、日教組だけを論じるのはいかがなものか、という印象を持っているぶらり庵です。

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