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2008年9月19日 (金)

ホームレスの自由/強制と排除/包摂

なんだか一部では図書館/ホームレス問題というのが話題になっているようですが、

http://d.hatena.ne.jp/rajendra/20080902/p1(図書館はあなたの家ではありません)

この問題は、畢竟するところ、自由/強制と排除/包摂をどう考えるかに帰着するように思われます。

4272330535 現代日本の「リベラル」な人々の一つの典型的な考え方が、憲法学者の笹沼弘志さんの『ホームレスと自立/排除-路上に<幸福を夢見る権利>はあるか』大月書店にみられるものです。笹沼さんは、社会的排除の極限としてのホームレスの幸福を追求する権利を強調します。そこはわたしも同感するところです。しかし、笹沼さんは、それを単なる生存権としてではなく、ある種自由権的にとらえようとします。「路上に幸福を夢見る権利」という副題は、それを象徴的に表しています。

社会的排除としての路上生活。しかし、笹沼さんの攻撃は公園などの公共施設からホームレスを「排除」しようとする行政の行動に向けられるのです。路上生活をする権利を自由権的に擁護しようという考え方です。そして、「保護」という名の下にシェルターなどの収容施設に入れようとするのは違憲だ、と主張します。そういうパターナリズムがいけないんだ、というわけです。

リバタリアンによるパターナリズム批判は、それはそれとしてあり得る議論だと思います。しかし、自由こそが最も尊重されるべき価値で、保護という名の強制は一切拒否するというのであれば、その経済的帰結は自らの自己責任で背負うべきではないでしょうか。リバタリアンは、その点は(おそらく)一貫しています。一貫してはいますが、私はその結論に賛成ではありません。むしろ、私はホームレスにも最低限世間並みの「幸福を夢見る権利」はあるべきだと思います。しかしながら、そのことは、「あくまでも路上にとどまって幸福を夢見る権利」を必ず保障しなければならないという意味ではないはずです。

ホームレスに保障されるべきは、ホームレスのまま図書館を訪れる権利ではなく、ホームレスという状態を脱して図書館を訪れる権利ではないでしょうか。

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コメント

ネオリベの人たちなら、公園や図書館はさっさと民間に払い下げてしまっていて、ホームレスの住む所など最初から存在しないと思うのですが…

はじめまして。いつもブログ読ませていただいています。

自由と保護の問題は、ホームレス問題の根幹にかかわるものであると思います。
ホームレスの自由を守ることは、おそらく生活保護とかシェルターとか社会保障に限定される問題ではなく、自由な社会をつくるという意思と関係していると思います。自らと異なる生き方を認めようということです。
このような考えはご指摘のとおりリバタリアン的であり、ホームレスからの脱出を妨害しているという非難もある程度妥当であるとおもいます。
しかし、生き方の幅という視点を導入すれば、それが無用な対立項であるようにも思うのです。人が自由であるために、社会保障はあるのだと思うのです。

濱口さんがおっしゃるとおり、リベラルな人々には確かに経済的格差の問題を、文化的差異の問題に矮小化してしまう傾向があると思います。濱口さんの問題意識は共有するところです。

わたしは、そもそも絶対的にどっちが正しいかなどという答えを出すことはできないと思っています。ただ、意図と異なる帰結を不可避的にもたらすであろう考え方に対しては、その旨を指摘する必要があると思っています。

ホームレスのホームレスとして生きる自由は最大限に認めるよ、ただし、それによって自分が何かを受忍する義務は認めないよ、生存権なんてナンセンス、というリバタリアンは、首尾一貫していますし、意図と帰結は一致していますから、わたしはあんたと考えが違う、という以上のことは言いようがないでしょう。

それに対し、問題なのはホームレスの生存権を擁護しているつもりで、実はその自由権を擁護することにのみ性急ないわゆる「リベラル」です。彼らはホームレスの自由を守ろうとするあまり、ホームレスの生存のための強制すらも家父長主義として敵視します。

おそらくその意図は善意に充ち満ちているのでしょう。

しかし、ホームレスのホームレスとして図書館を訪れる権利を自由権的に擁護しようとする言説の帰結は、ネット上で様々な形で示されたように、ホームレスの生存権すらも否定する自然発生的な反発の声の噴出であったわけです。

実は、これは福祉国家が揺らいでいき、「排除型社会」に移行していった事態の再現という面があります。

排除型社会をもたらしたのは、実は福祉国家のパターナリズムを批判することに性急であった「リベラル」ではないのか、ということですね。

これと同じ現象は、本来親の地位や経済力にかかわらず等しく教育や様々の社会的サービスを受ける権利を保障すべき「子供の権利」を、妙に自由権的に解釈し、管理教育がけしからんとか、制服着用は人権侵害だとかいったことに血道を上げたあげく、「子供の人権」を語ること自体に対して冷笑的な社会的雰囲気を醸成するのに大いに貢献した「リベラル」な教育論者たちにもいえるように思われます。

「自由権」として本当に見ている、とは思えない

「どのような生存権をより尊重すべきか」という優先順位の相違ではないのかな
必然的に、その解は政治的に与えられる

「路上生活をする権利」についてですが、これって、ホームレスの中の強者の論理ではないかな、という感じを受けます。

自分がホームレスになったら、と想像してみますと、路上で暮らす・寝る、ということを「権利として享受」したいと思えないです。中高年女性ホームレス、とか、子連れホームレス、とか、老齢ホームレス、とか、立派なダンボールハウスを作ってそこでの生活を楽しみたい、と思うよりも、できれば、どこか、襲撃される不安を感じずに、安心して雨露をしのげるところをほしいと思うのではないでしょうか。

一般的に、強い人間ほど自分が振り回すことのできる自由を制約されることを嫌って、自由権的主張をする傾向にありますから、当然のことだと思います。

たぶん、自分たちの権利を、労働者の団結権としてよりも市民的な結社の自由としてとらえたがる日教組の方々は、それ以外の労働者よりも強い人々なんでしょう。同じ団結権でも、強い人ほど、一人でも闘う強い個人の集まりというイメージでとらえる傾向にあるようです。

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