西垣通 on 労働経済白書2008
雑誌『厚生労働』が恒例により労働経済白書の特集をしていますが、今年の石水調査官の対談相手は東大情報学環の西垣通氏。日本にIT専門家はピンからキリまで山のようにいますが、おそらくその筆頭のあたりにおられる方でしょう。『基礎情報学』や『情報学的転回』など、門外漢ながら興味深く読ませていただきましたが、石水さんもそういう一人だったようです。
その西垣氏が、対談ではかなり全開モードです。
>白書の分析は、私の経験からも、全くその通りだと思います。日本の長期雇用のシステムというものについてもう少し広い観点からとらえ直すことが必要だったんですね。それをやらないで、いたずらに短期的な成果報酬型、英米型というんですかね、極端なモデルに走ってしまった。これを今、産業界は猛省すべきではないでしょうか。また、事実、反省しつつあるわけですよね。
>日本人は、アメリカン・グローバリズムに乗ろうとしてなかなか乗れない。下手をすると、アメリカ流の良さみたいなものもうまく体現できなくて、自分たちの良さも失ってしまうということになりがちです。なぜ、そうなるのかというと、要するに、半端な知識人がいて、アメリカにならえと礼賛するからです。アメリカでちょっと生半可な知識を勉強した自称知識人が、これからはこういう時代になる、さもないとグローバルスタンダードに遅れるぞ、なんて脅す。
>いわゆる市場的なモデルというのは、私からみるとあまりにも物事を単純化しすぎている気がするんですよ。例えば、財というのは基本的に個人にだけ属するものなのでしょうか。・・・・・・かつては、従業員がアイディアを出して企業が特許を取っても、それでお金をたくさん欲しいなんて言い出す従業員はほとんどいなかった。・・・それに対して今、非常に大きく対立する考え方がある。最近出てきている考え方で、自分の特許によって莫大な収入を会社が得たんだから、それにあった分だけ会社よこせ、というものです。
>ミクロにみると、訴訟を起こすのは正しいようですけれども、アイディアというのは果たして自分一人から出てくるものなのか、そこは大事な問題ですよ。・・・・・・個人に全てを帰着させて、ここのプレーヤーが市場で競争すればいいんだというのは、あまりにも粗雑な議論だと私は思う。それだけで突き進むと、様々な面でひずみが出てくる。
>どうやら、完全知識あるいは完全情報の幻想というものがあると思うんです。これは新古典派経済学でもそうではないでしょうか。完全知識を持っていれば、完全な均衡状態が達成されるはずだというのは、市場経済論の根幹なのかもしれない。でも、一体、完全な知識というのは何なのですか。
>神様みたいに何でも知っている。それで全部合理的な解が市場を通じて達成されるはずだ、という考え方です。私はそういう市場原理はあまりにも抽象的なモデル過ぎて、様々な細部の切り捨てが行われているのではないかと思うわけですね。
>その現代経済学の考え方というのは、先ほどいいました完全情報というか、つまり、情報や知識をオープンにして万人が共有すれば、最適状態が達成できるという理論なのではありませんか。
>私は経済学者ではないけれども、もしかしたら現代経済学の中枢部分に、社会認識論としては決定的な誤りがあるのかもしれない。それに代わる新しい社会認識の学問として、私は基礎情報学を論じたいのです。
>基礎情報学は、情報や知識というものはそんなに簡単に伝わるものではありませんよ。と主張するわけですよ。記号の伝達と意味内容の理解とは別物です。・・・基礎情報学では、人間をオートポイエティックシステムととらえるのです。
>全て情報をオープンにすれば、何事も神様みたいにわかって合理的判断ができるんだ、という理論がまかり通っているなら、これはおかしい。人間だって生物で、神様ではない。認識論をすっ飛ばして、安易に客観世界を想定して、情報をオープンにして、後は市場原理にゆだねれば全てOKだ、と強弁するのは知的欺瞞です。
(石水)私たちも、先生の基礎情報学を学び、日本の未来を切り開くことができる労働行政でありたいと思います。
« 大津和夫『置き去り社会の孤独』 | トップページ | 季刊労働法222号のお知らせ »
コメント