地方分権の教育的帰結
ベネッセの教育情報サイトから、
http://benesse.jp/blog/20080929/p2.html
>文部科学省は2009(平成21)年度予算案の概算要求の中で、教材費の補助金を新たに創設するよう求めました。地方で教育予算の削減が続いていることを考慮したものです。地方分権や規制緩和により、使い道が限定される国の「補助金」から、自治体が自由に使える「地方交付税」へ、という流れが進められるなか、あえて逆行するような方針を打ち出した同省の対応は、一石を投じそうです。
またも、悔い改めない悪しき中央集権主義の霞ヶ関官僚どもが崇高な地方分権を踏みにじろうという悪逆非道か、とリベラルな皆様はついお考えかと存じますが、もう少し先までお読みください。
>国から地方自治体に来る予算には、補助金と地方交付税の二つがあり、近年では公立学校の先生の給与負担割合など、教育関係でも地方交付税の割合が増加しています。ただ、交付を受ける側の地方自治体では、財政難を理由に、計算上は教育予算として措置された交付税を「教育以外の分野に使っている」と指摘する声が、教育関係者などの間で強まっています。たとえば学校の図書購入費が多くの地方自治体でほかの予算に回ってしまっていることは、以前、本欄でも取り上げました。
>文科省の「地方教育費調査」の結果によると、地方の教育予算は10年連続で減少しています。分野別に見ると、学校教育費は5年連続減、社会教育費は10年連続減で特に減少幅が大きくなっています。地方教育費の減少は、少子化による児童・生徒数の減少も関係していますが、最近では子どもの減少幅以上に教育費が削減されており、地方自治体が財政難を理由に教育費を削っていることが大きな原因となっています。
崇高なる地方分権を実際に行使する側にとっては、子供の教育なんぞは二の次のようです。
>もちろん地方自治体が、十分に議論を尽くしたうえで、教育以外の分野に予算を掛けるという決断をすることが、一概に間違っているとは言えません。しかし、図書費や教材費など、一般にはあまり見えない分野の教育予算がどんどん削られているのも事実です。
教育に関する国の補助金は、地方の自由を縛るものなのか、それとも学校現場の条件整備に必要なものなのか。もう一度、教育予算の在り方を考える必要があるのではないでしょうか。
考える必要があるのは、もちろん、教育費の問題だけではありません。
福田前総理が消費者保護行政の拡充を取り上げたとき、かつては地方レベルでも活発に活動していた消費者行政サービスが地方分権のおかげで片っ端から縮小の憂き目にあっていたことが明らかになったことはまだ耳新しいところです。
(参考)日弁連「地方消費者行政の抜本的拡充を求める意見書」
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/data/080619_4.pdf
>ところが,地方消費者行政予算の推移を見ると,ピーク時の1995年度(平成7年度)が約200億円(都道府県・市町村合計)であったものが,1998年度(平成10年度)には163億円,2002年度(平成14年度)には144億円,2006年度(平成18年度)には116億円と大幅に減少している。つまり,2006年度の予算は1995年度に比べ約58%であり,約42%の減少である。
地方自治体の財政難が指摘されているが,一般会計予算は,ピーク時の2001年度(平成13年度)が89兆3071億円であったものが,2007年度(平成19年度)には83兆1261億円と,約93%に減少しているにとどまる(約7%の減少)。つまり,地方自治体の財政難に伴う予算減少幅に比べ,消費者行政予算の減少幅が異常に大きいことが分かる。
現在の地方政治の構造のもとで崇高な地方分権を推し進めると、どういう分野が真っ先に縮小廃止の憂き目をみるかは、物事の見える方々にはあまりにも明白ではないかと思われます。
(追記)
島根県という地方中の地方から地方分権への懐疑の声が上がっているので、参考までに引用します。9月22日の山陰中央新報から:
http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=506432035
>地方財政論を研究し、講義も担当している私が、最近つとに「地方分権」への懐疑を感じることが多い。島根県に赴任して四年目、県内自治体職員や住民の方々からじっくりと話をうかがう機会が増え、ますます強く感じるようになった。
現在のように「地方分権」が魔法の言葉となり、誰も異論を唱えることができない時代があった。軍国主義的中央集権体制が変革され、新しい地方制度が導入された戦後直後の時代である。この時代、「地方分権」を強く批判した論者がいた。京都大学で活躍した島恭彦である。
>ここで島は、国として「中央集権」的な補助金や交付金といった教育費に対する十分な財政措置を行わず、教育費負担を地方自治体・地方住民に押し付ける「地方分権」理念を激しく批判したのである。五十年以上たった現在、この時代同様に、「地方分権」理念の打ち出し方を批判しなくてはならないように思われる。
>この夏、県内で全国の学校事務職員が集う研修会があり、そこで私が耳にした「学校の中の貧困」の現実は、戦後直後の再現のように感じられた。この研修会で報告されたのは、毎月の学級・教材費の捻出(ねんしゅつ)や修学旅行のための積み立てもままならない家庭環境のなかで苦しむ子どもたちの姿である。自治体から小・中学校への財政支出削減のあおりで「義務教育の無償化」が空洞化され、家庭へ負担が転嫁されつつあった。また、県内のある市の予算担当者は「学校施設の耐震化工事は、補助率がかさ上げされたとはいえ調査だけで多大な費用がかかり、実施に二の足を踏んでいる」とため息をついていた。
こうした教育費の削減と家庭への負担転嫁の背景には何があるのか。いうまでもなく三位一体改革をはじめとした「地方分権改革」である。三位一体改革で地方交付税交付金や国庫補助金は九兆五千億円のマイナスとなる一方で、地方税の委譲は三兆円に止まり、結果、地方は全体で六兆五千億円のマイナスを被ることとなった。
中央省庁の支配から逃れ、地方独自の裁量が広がる、これが「地方分権」改革の掛け声ではなかったか。しかし、現実に地方自治体が手にしたものは何であったか。ある自治体の財政担当者は「私たちが分権改革によって得たのは、教育や福祉への歳出を削るという”裁量”だった」と述べている。義務教育国庫負担金といったこれまでは削減できないとされてきた経費が、「地方分権」改革の結果「地方の裁量」で削減可能になったのである。こうして三位一体改革によるマイナス六兆五千億円があいまって、教育や福祉の歳出削減が生じたのである。
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