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2008年6月14日 (土)

松尾匡「はだかの王様の経済学」

41bye34nctl 松尾匡さんの新著『はだかの王様の経済学』は、『近代の復権』で示された松尾流マルクス解釈を分かりやすく説明すると共に、それが最先端のゲーム理論と一致することをクリアに教えてくれる名著です。

中身については、別のところで詳しく解説されていますので、そこにリンクを張っておいて、

http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20080612/p1

私が違和感を感じたところだけちょっと。それはやっぱり、最後の処方箋としてのアソシエーションのところです。

そのご立派なアソシエーションがまさに疎外が生み出すはだかの王様にならない保障はどこにあるんだろう、と。

いや、理論的にどうこうというよりも、まずはこういう実例が頭に思い浮かんでくるものですから。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/yutaka.html(ゆたか福祉会事件評釈)

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コメント

 お取り上げいただき本当にありがとうございます。ご指摘の件は常々問題意識にあり、システム論的にどうすればいいかということについては、『市民参加のまちづくり』(戦略編)で、まさにこの「ゆたか福祉会」事件などを例にとって試論しております。今度の本のレベルでは、疎外を克服しようとして疎外をもたらすことがないよう心がけようという、意識の問題として最後に強調することのほうが重要だと思った次第です。
 労働問題系の人達からは、むしろ、あるべき労働運動についての言及がないことの方がとがめられるかなと思っていたのですが...。分量の問題でばっさりと削除せざるをえず残念でした。また少しは勉強を重ねて別の機会を待ちたいと思っています。

いささか失礼なエントリーにわざわざコメントいただき有り難うございます。本来ならば、松尾さんの論旨の大事なところをきちんと説明したうえで、こういう疑問点があるよと云うべきだったのですが。

「アソシエーション」系の活動については、このゆたか福祉会のように凝集性が強ければ強いほど、ある種の強迫的共同体性が強調され、一方生協のように一般志向性が強ければ強いほど、市場経済下の企業と同様の経済合理性が追求され、どっちにせよ、その「アソシエーション」が偉大で自分が「みじめっ!」という疎外の構図に近づいていく様な気がします。

それくらいならむしろ、疎外は人間社会につきものと割り切った上で、王様もそんなに偉大じゃないし、自分もそんなに惨めじゃない、と適度に相対化できるような社会の方が望ましいのではないか、と、云うのが中途半端を自認する私の今の心境です。

実は同じことが労働運動にもいえるのではないかとも思っています。

>実は同じことが労働運動にもいえるのではないかとも思っています。

そこんところを詳しく!!

 そうそう、まさに濱口先生のおっしゃる点がポイントというのが、『市民参加...』(戦略編)での私の主張で、目指されるべきものが開放性と合意性の両立なのに、開放的になれば市場的変質に、合意的になれば閉鎖社会的変質に陥ってしまう。そこで、このことを自覚して、双方への指向性の交代とか、組織を組み合わせることとかが必要になると論じています。
 その点では、NPOも協同組合も何ら特権的位置にあるわけではなく、形式上は公事業であろうが営利会社であろうが、疎外の危険もアソシエーション化の可能性も大雑把に言えば同等なのだと思います。

 ただ、上から一挙に全体的変革を目指すと、新たな疎外に変質しても逃げられませんので被害が大きくなるけど、個々のミクロな取り組みで変質が起こったら、見放したり逃げたりできる点がいいのかなと。まあ、渦中でコミットしている人にとっては、そのコストもばかにはならないというのはわかりますけど。

そこまで云ってしまうと、わざわざ「アソシエーション」を称揚する意味というのは奈辺にあるのだろうか、と。

上から一挙にではなく個々のミクロの取り組みで・・・というのであれば、それをまさに実行してきたのが182ページ以降でやや冷ややかに分析されている「日本型企業制度」ではなかったのか、と。

マルクス的な「疎外」克服を一番見事に実現したのが(少なくとも理念的に構成された)日本的企業システムだったんじゃないか。しかし、それこそが裏から見たら問題の源泉でもあったわけで。これはもう9年前に雑誌に書いたものですが、

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no126/tokusyu2.htm

>これをどう考えるかというのは、ある意味で哲学的な問いである。労働者が自発的に長時間労働するということは、それが「疎外された労働」ではなく、自己実現的労働になっているからだという面は否定できない。自己実現とは自己搾取なのである。家庭に帰りたがらず職場を家庭のように執着する「会社人間」は現在もっぱら嘲笑の対象になっているが、労働者が職場を家庭のように感じることのできない資本主義社会を人間の本質である労働からの疎外だとして糾弾したのは若きマルクスの「経済学哲学草稿」であった。・・・

でですね、理論的にいえば、コミュニケーション不全が疎外の原因なのですから、個室になんか閉じこもらず、みんな大部屋でいつも(意味があろうがなかろうが)しょっちゅうコミュニケートし、仕事が終わっても飲み屋でコミュニケートし、休日もコミュニケートしていれば、疎外は少なくなるでしょうけど、そういう強迫共同体的相互縛り合いが一番うぜえんだ!というのもまた人間の本質でもあるわけです。

秋葉原の加藤氏のように類的本質からの排除も苦痛ですが、類的本質への強制もまた苦痛であり得るわけで、ここは一面的に見ると危ないところです。

> コミュニケーション不全が疎外の原因
> 強迫共同体的相互縛り合いが一番うぜ

だから、そのときそののきの気分で
ミクロに右往左往できれば、それで
いいんじゃないですかねえ。
気になるのは、政府が一方の傾向に
てこ入れするのはどうなんだろうと
いうことぐらいですかねえ。

> 個々のミクロな取り組みで変質が起こったら、見放したり逃げたり

> 強迫共同体的相互縛り合いが一番うぜ

内藤さん、ですか?

> 強迫共同体的相互縛り合い

統合失調症を増やします

------

> コミュニケーション不全が

人格障害を増やしますw

女工哀史といえばサヨクと脊髄反射してしまった山形浩生氏が「疎外」という字を見たとたんにポルポトと脊髄反射しちゃった実例を松尾氏が丁寧に解説していますが、

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_80618.html

ただ、その脊髄反射は全く根拠レスというわけではない、というのが、上で私と松尾氏がやりとりしている問題の本質でもあるわけです。

これは、宗教を論じるならフォイエルバッハ風によりもドーキンス風に論じた方がいいんじゃないか、という話にもつながるんですが、ある意味で疎外は人間の条件というか、自己疎外するミームが淘汰の中で生き残ってきたわけで、そこを舐めてかかると、手ひどいしっぺ返しを食らうということの歴史的経験がまさしく大きくは共産主義の実験であり、小さくはゆたか福祉会以下のミクロな経験なんじゃないかと。

ついでに、上で宿題になっている「あるべき労働運動」についていうと、本来「俺たちの労働条件を何とかしろよな!」というみみっちいけど大事な要求から始まったはずの労働運動が、なぜか組合員から集めた組合費の大部分を訳の分からん平和運動だの政治活動に浪費しまくり、組合員をそういうデモに動員して気勢を上げて「ああ、俺たちは偉大なことをしている!」と陶酔し、肝心の労働者の生活は、そういう「組合は革命の学校」的発想のもとで「みじめっ!」になってしまう、こういう疎外の二番煎じをやるというのが反面教師であるわけで。

>淘汰の中で生き残ってきた

適者生存というのは結果論としてはまあいいですが、適者であるかどうかを事前に判断できるかと言うと、主観的にはいろいろと推測できるという以上のことはあまりない

それはともかくとして、ある程度の自己疎外は単なる与件にしか過ぎないように見える。共産主義には自己疎外がなかったかと言えば、非共産主義と比較しても別に少なかったとは思えない

ということで、私の疑義は前者のほうにあるようです

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