ソーシャルなクルーグマン2
稲葉先生がコメントをしておられます。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080513/p1
>付言するとhamachan先生のおっしゃる「リベラル」は松尾さんのいう「反右翼」に、「ソーシャル」は松尾さんのいう「左翼」に通じる。
後半はほぼその通りだと思いますが、前半は違うような。
アメリかっぺ方言の「リベラル」が由緒正しいヨーロッパの「ソーシャル」にあたるというとき、念頭においているいかにもアメリカ風リベラルというのは、まさにニューディール的なケインジアン福祉国家の路線であって、松尾さんの「反右翼」とは軸が異なるでしょう。
「ソーシャル」よりも松尾流「反右翼」に重点が置かれているのは、アメリかっぺ方言の「リベラル」よりもじゃぱにいず方言の「りべらる」の方ではないでしょうか。憲法で大事なのは、25条でも27条でもなく、ただただひたすら第9条であるというような。そういう感覚は、ヨーロッパの社会民主政党にもなければ、アメリカの民主党にもないように思われます。
(追記)
私が本ブログで「リベサヨ」と呼んできたのは、多分この枠組みでいうと、「反右翼」のみをアイデンティティとし、「ソーシャル」な志向が欠落しているじゃぱにいず風味の「りべらる」のことでしょうね。
そのいみでは「リベサヨ」というのはあまり適切ではないのでしょうねえ。
この関係で、ホームレス支援を続ける憲法学者というユニークな立ち位置にいる笹沼弘志さんが、近著『ホームレスと自立/排除』の中で、こういう風に樋口陽一さんを批判しているのが興味深いところです。
>樋口は、中間団体=社会権力批判としての個人主義の基礎を、その主体像に求め、近代立憲主義の担い手としての「強い個人」モデルを提起した。企業や労働組合など団体に依存する弱い個人ではなく、自己決定=自己責任により、国家や団体など権力に対抗する「強い個人」である。
>だが、樋口は、他者に依存せざるを得ず、だからこそ服従を強いられる弱者が強くなるための条件を積極的に描こうとせず、あえてとにかく頑張れという道徳論的な主張を行うにとどまっている。
>しかし、樋口の「強い個人」論は、団体対個人という枠組みの中で構想され、あくまでも個人の自己決定=自己責任、自立を倫理的に説くにとどまり、現実の個人が置かれている支配服従構造を等閑視しているため、結果として、個人の自立を強調して過重な個人責任を負わせ国家責任・企業責任の後退を正当化する新自由主義的改革と歩調を合わせているように思う。
>樋口の「強い個人」論は、単に弱者の人権をすくい取れないというだけでなく、自己決定=自己責任により、強くなろうとして、実際に勝ち残ったと思っている人々の自発的服従を捉えきれないという問題を孕んでいる。企業に支配されながら、自らの労働時間を自由にコントロールできると思いこんでいるホワイトカラーたちや、そうした自律的存在がいると思いこんでいる労働法学者や規制改革論者。彼らと共通の罠に囚われる危険がある。
云われていることはかなりの程度共感できることろもあるのですが、しかしやはり(そういうネオリベな「自立」ではない)「自立」を価値基準としてきちんと立てる必要はあるはずだ、と私は考えています。中間集団をファシズムなどといたずらに敵視するのではなく、それを個人にとってのシェルターとしてきちんと活用できるような仕組みの中で、やはり個人の自立をめざしていく必要があるはずだと。
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差別されてるから左翼と対等に扱えない。差別される者が色んな行動をとるのは仕方ない。「仕方ない」が僕のキーワードです。「仕方ある」ようにせよ。それがラディカルデモクラシー論など現代政治哲学の最前線の主張で、彼らも右と左をぶった切ります。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=641
投稿: 宮台の駄文www | 2008年5月15日 (木) 22時38分