フォト
2019年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

« 連合総研設立20周年記念シンポジウム記録集その1 | トップページ | 連合総研設立20周年記念シンポジウム記録集その3 »

2008年5月16日 (金)

連合総研設立20周年記念シンポジウム記録集その2

問題提起2 労働政策と生活保障

濱口/広井さんのお話は、2ラウンド目でますます広くなったのですが、私の2ラウンド目は、ますます世俗的な話になります。

第1ラウンドで私がお話ししたのは、この『福祉ガバナンス宣言』第1章で書いたことと大体同じです。この委員会にはもっとほかにいろいろな先生方がいます。本当は福祉国家とか福祉ガバナンスという議論をするのであれば、社会保障システムや生活保障システムといったテーマについて議論されていた、駒村康平さん、後藤玲子さんといった委員の方々にご登場いただくのが筋のような気もするのですが、労働を中心とした、仕事を中心に据えた福祉社会という視点から、生活保障をどう考えるかについて、ごく簡潔にお話ししたいと思います(編集部注̶当日配布資料の論文、濱口桂一郎「労働政策と生活保障」を巻末に収録したので、参照されたい)。

雇用保険(失業給付)と生活保護の断層

労働が商品として売られなくても済むような生活保障ということでいうと、もちろん日本にもそういうシステムがないわけではありません。雇用保険の失業給付や生活保護があるのですが、しかし、これらの制度にはいろいろと問題が多い。まず、失業給付は給付期間がたいへん短い。短い場合には3カ月、長くても1年弱です。しかも、カバレッジがかなり狭くて、いわゆる非正規雇用で働いている人たちはにはなかなか適用されない。そうすると、非正規雇用で働く人たちが失業しても失業給付を受けられないことになる。

一度入ったら抜けられない理由最後のセーフティネットとしての生活保護があるではないかと言われます。しかし、これも、よく言われているように、なかなか入れてくれない。「入れてくれないのはけしからん」というのがマスコミの論調なのですが、しかし、実は窓口の立場からすると、入れないのにも理由がある。なぜかというと、一たん入るとなかなか出ていかないというか、ほとんど出ていかない。これもやむを得ないところがあって、預金があったら入れない、親類縁者が扶養したら入れない、車があったら入れないという厳格なミーンズ・テストを行っていますから、身ぐるみはがれないと入れない。したがって、一度入ったらなかなか抜けられない。こうした事情があるので、たいへんに多くの方々が生活保護も受けられないで路頭に迷っている。ここをどうするか、ということが、いま大きな課題になっているわけです。

■ 最低賃金と生活保護の矛盾

それからもう1つ、最低賃金法の改正に関して、最低賃金が生活保護を下回っているのはけしからんではないかという議論がありました。

これももっともです。もっともなのですが、そこで最低賃金と比較されている生活保護基準は、実は18〜19歳の単身者のものなのです。若い単身者ですら、働いて得る賃金が生活保護の額より下回っている事態はけしからんということも、確かにもっともなのですが、しかし生活保護基準は生活のニーズに対応していますから、扶養家族が増えていけば、それに応じて増加していきます。そこまで最低賃金で面倒をみられるのかといえば、やはり無理がある。

労働に対する報酬と生活保障

実は民主党が出した最低賃金法改正案には、「全国最低賃金及び地域最低賃金は、労働者及びその家族の生計費を基本として定められなければならない」と規定されていました。しかし、では最低賃金額を家族数に比例して定めるのかとなったら、そんなわけにいかないでしょう。

生計費の一番高いところを基準に最低賃金を決めたら、単身者にもその水準を出すのかという文句が出るでしょう。このようになかなか解きほぐせない問題が出てきます。

ここをどう考えるかは、制度論としてもなかなかむずかしい問題なのです。しかし、この制度論を本当に解くためには、実は哲学のレベルで、労働に対する報酬と生活保障の関係をもう一度考え直す必要が出てくると思います。

いま、ヨーロッパで大きな流れになっているのは、基本的には「ウエルフェア・トゥ・ワーク」、福祉でずっと食べていくということではなくて、働ける人はできるだけ仕事を通じて社会に参加していこうという考え方です。すべての人が働いて社会に参加できる仕組みをつくっていこう、そのためには公的な負担もしましょうという「ウエルフェア・トゥ・ワーク」が大きな流れになっているのです。いままでの生活保護の仕組みは、本当にどうしようもなくなった人だけを対象としています。どうしようもなくなった人だから、ずっと生活保護の下にいる。一方、どうしようもある人はこの仕組みの中には入れない、そういう形でやってきたのです。

「トランポリン型の福祉システム」

これに対して、「どうしようもある人」を救済の対象として、何とかなるようにして、また出していくという仕組みこそが重要ではないかという議論が起きてきました。ブレア政権の言い方でいえば「トランポリン型の福祉システム」です。これからの福祉は、おそらくこのような
方向に考え方を変えていく必要があるだろうと思っています。

ただし、問題はそれだけでいいのかということです。そこがまさに90年代以来の、欧米における福祉見直しの議論の焦点のひとつでした。

最低賃金法改正における議論との関係でいえば、本人が働ければそれで生活できるというとき、その生活ニーズとは何なのかという問題があります。これは一見、最低賃金と生活保護だけの話のように見えますが、実は、もっと広がりのある話です。

つまり、生活保護基準には、本人の分もありますが、家族の部分もあります。子どもの教育費も、住宅費もあります。これはいったいどこで面倒をみているのか。生活保護だったら生活保護の中で全部面倒をみています。では、生活保護を脱却して働き始めた、という人の場合どうなるか。働き初めは、本人分の非常に安い給料しか払われません。では、誰が本人分以外の部分の面倒をみるのか、子どもたちや住宅費の面倒をみるのか。日本の雇用システムは、正社員については、こうした本人以外の部分も面倒をみるシステムだったのですね。これは歴史的にはたいへん長い経緯があるのですが、端折っていうと、新入社員のころは、本人だけが狭い部屋に住んで生活できる程度の低い給料から出発するけれども、その後、結婚して子どもができて、家族の生計費も子どもの教育費、住宅費もかさんでくるようになると、それに見合った水準の給料が支給されるようになる。そうしたライフステージの上昇に伴う生計費は、全部給料の中で面倒をみるという仕組みになっていました。

ところが、一たん正社員の雇用システムからこぼれ落ちると、このような生活保障が全部なくなってしまいます。そこをいったいどういう形で面倒みるべきか、という問題が、最低賃金と生活保護という形で出てきている問題の背後にあるのではないかと思います。

子どもや住宅について小さい政府基本的には、この問題への対応の中にこそ、これからの日本の福祉国家-あえてここは福祉国家と言いますが-のありようを考える際の、1つの方向性が示されているのではないかと思います。

実は、日本の福祉国家が「大きい政府」か「小さい政府」か、という問題は、どこに注目するかによって、見方が違ってきます。年金にしろ、医療にしろ、日本は必ずしも小さい政府ではありません。ある意味ではむしろ大きい政府であるという面がある。一方、ヨーロッパにはごく普通にあって日本にほとんどないのが、子どもの面倒をみるシステム、あるいは住宅の面倒をみるシステムなのです。現金給付を行うだけではなく、現物給付的なやり方(例えば、教育費負担をなくす等)、あるいは各種の補助措置を講じるなど、ヨーロッパではさまざまな手段を通じて、この分野での保障の仕組みが展開されているのですが、この分野に関する限り、実は日本はたいへん小さい政府になっています。なぜ日本がこの分野でたいへん小さい政府でいられたかというと、そこを企業が全部面倒みていたからです。議論をつめていけば、おそらく、こうした仕組み全体の見直しに進まざるを得ないだろうと思っています。

非常に大きな話と小さな話の間をどうつないでいくかは、なかなかむずかしいところかもしれませんが、私は福祉国家論を考えたときに、日本に今まで欠けていた部分は、むしろこの小さな話が関わる生活保障システムの問題ではないかと考えています。それがある意味で露呈したのが、雇用保険と最低基準と生活保護をめぐる三大噺なのではないかとも思います。

« 連合総研設立20周年記念シンポジウム記録集その1 | トップページ | 連合総研設立20周年記念シンポジウム記録集その3 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 連合総研設立20周年記念シンポジウム記録集その2:

« 連合総研設立20周年記念シンポジウム記録集その1 | トップページ | 連合総研設立20周年記念シンポジウム記録集その3 »