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2008年4月 8日 (火)

リバタリアンな団塊の世代

「代替案」というブログに、雨宮処凜さんの書かれた記事が引用されていて、たいへん興味深いものがありました。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3acf222a439537072916d8c0c85a3fe5

>さて、雨宮さんの記事は、京都の若者向け労働組合「ユニオンぼちぼち」のパネルディスカションの際に起こった「事件」を書いたものでした。パネルディスカッションは、反貧困そして生存のため、若者がどのように連帯していけばよいのか真剣に話し合うものだったそうです。その際、フロアーにいた団塊の世代の学生運動経験者らしいオジサンが、「甘えるな」「一人一人がしっかりしていない」「戦略意的に生きてこなかった結果」などと、すごいケンマクで「フリーター=自己責任論」をまくしたて、あげくの果てには会場にいた生活保護受給者に対し、「生活保護を受けられるだけでも有り難いと思え」などと暴言を吐いたというのです。

ブログ主の関さんは、これを赤木風の世代間対立として捉えて書かれているのですが、私には団塊の世代という一世代の特性がよく現れているのではないかと思われました。

以前からこのブログでも何回か書いていますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_a90b.html(リベじゃないサヨクの戦後思想観)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_dbb1.html(日本における新自由主義改革への合意調達)

日本の戦後革新派知識人というのは、「日本はもっと市民社会にならなくちゃいけない、もっと個人の自由を」と、国家からの自由と市民的自立をもっぱら追い求め、自由主義の持つ野蛮な市場至上主義や非民主的性格に関心を向けず、福祉国家なんて大変いかがわしいものであるかのように見てきたんですね。

さらに、戦中戦後の日本型20世紀システムの中で確立した日本型雇用による企業内労働市場への労働者の包摂(それ自体は西欧型20世紀システムたる福祉国家の機能的等価物)を、前近代的な集団主義と個の未確立だと見なし、ひたすら非難してきました。

そういう価値観を全身に浴びて、60年代末の学生運動を戦ったのが団塊の世代であってみれば、彼らの価値基準がもっぱら個人と自由におかれるのは見やすい道理でしょう。「68年組」が社会連帯よりも個人の自由を追求した点では欧米と同じですし、それを70年代以降のネオリベラリズムが巧妙に掬い取ってきたのも共通ですが、それに対して「ふざけんじゃねえ、俺たちの生活をどうしてくれる」と一喝すべき左翼陣営が保守派よりも百万倍リベラル志向であってみれば、止めどがなかったのも宜なるかなでありましょう。

>私は、いわゆる「全共闘運動」というものに対して決定的に嫌悪感を抱いています。全共闘が掲げた「大学解体」「自己否定」などという全く訳の分らないスローガンには怒りを覚えます。運動の目的も何も分らない。甘ったれもいいところだ。そんならアンタたちがトットと大学を退学すればよいだけじゃないですか。何で勉強したい人々の邪魔しながら大学をバリケード封鎖などしなければならないのですか?
 連帯などはじめから求めていないから、各個人がバラバラに孤立していくしかなかったのです。彼らは破壊しか知らず、創ることなど何もできなかった。信州大学全共闘で破壊活動ばかりしていた猪瀬直樹が、小泉政権による日本破壊政策の片棒を担いだのは、象徴的なことだったと思います。

あえて弁護的にいえば、猪瀬直樹的心情にとっては、田舎の人々の「連帯」精神で、その生活を支えるために道路が造られるなんてこと自体が、そういう自由民主党的社会民主主義が許しがたいんでしょうねえ。

そういうウルトラリバタリアンな全共闘のなれの果てが社会民主党という名の政党に入ってきているというのも、またいかにも日本的ではありますが。

こういう凄まじいばかりの年季の入ったねじれ現象を見れば、昨今の「ねじれ」なんぞほとんどねじれの気配すらないというものです。

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コメント

少しずれますが・・・私の会社に年長フリーターのことを「幼稚園のねんちょう組と同じ。」と嬉しそうにのたまうおじさまがいます。私ども中堅からみたら、彼こそスキル無し能力無しの幼稚園児と同じなのですが、本人は一人前のつもりでおり、「自己責任」という台詞が大好きです。労働市場の荒波に放り込まれたら、一週間ともたないでしょう。時代と組織に守られてきた逃げきり世代のおじ様達の勘違いはとどまるところをしりません。

「あいつらのために税金払ってんじゃない!」って、欧州では福祉受けてる人達を指してるのかもしれないけど、日本では「公務員」指してない???

公務員と民間に壁があるのよね。民間から公務員へ、公務員から民間に、っていう流動性が足りないと思う

本当に「個人主義」ならば、それはそれで、相互の「個」を尊重し、逆に自立した個人こそが本来の連帯を作れるのではないかと思うのですが(「個人主義」のフランスで、連帯型大規模抗議行動が頻発するように)、団塊の世代の場合は、単なる、自分だけエライ、自分だけ良ければいい、自分のために他人を使う、という、利己主義、うーん、主義でもなくて、ただの幼児的な「わがまま」が多いように思います。これは周囲を見ていての経験なので、一般的にそうなのか、なぜそうなったのかを考えています。歴史的に考えて対応を考えないと、職場からは徐々に去っても、こいつら(と言いたくなる)大量の迷惑老人になっていくわけだし、そもそも、今の「クレーマー」型であり、かつ、依存型(すぐ救急車を呼ぶなど)世代の親世代ではないかと疑っています。
けっこう、ヨーロッパを「進んでいる」と持ち上げる人間がいるんですが、なぜか、自分は「自由・平等・博愛(連帯)」ではなくて、「既得権・序列・命令」なんですよね。で、年だけ食っていても、幼児的なので、議論がききません。年齢と、わがまま集団はわがまま集団なりに群れて勝ち上がってステイタスを得ているので、それをふりまわすし。最近、新聞で「ついに社長」と報道された、バカサラリーマン、あれがあいつらの理想なんだろうなあ、と思うと、がっくりします。

そういうのが、既得権のカタマリ的な公務員、それも上の方に多いのは事実で、「労働ビッグバン」さんのような反応も多いかと思いますが、そうでない人間もいます。hamachanだって、公務員だった(である、か)わけだし、どこでも、数少ないけれどがんばっているまともな人間はいるんですよ。公務員の世界だけでなく、どこでも同じです。

今回、hamachanがもっぱら「財金分離」で書かれている日銀総裁の件、でもこれは、一国の中央銀行のトップを適材で選ぶか、従来の、日銀×財務(大蔵)「たすきがけ」人事既得権確保路線を維持するか、という点からみると、問題はあると思うのですが。

私は、参議院で多数を占める野党が、国会承認人事でこういう「人事権の濫用」をすることがことごとく悪いとは必ずしも考えていません。

>政府の姿勢があまりにも反労働者的で、どんなに失業が出ても物価安定のみを追求するんだというような超タカ派の候補ばかりを提示してくるものだから、労働組合の組織的支持を受けている我が党としてはどうしても賛成できない!

とか大見得を切るんであれば、それはそれでなるほどという面もあるわけですよ。
早速今朝の朝日に、白川新総裁はタカ派じゃないかというような記事が出ていたようですが、いやそれがお望みだったのならそれまでですが。

猪瀬直樹って社民党だったんだっけ。知らなかったけど、ぶらり庵は社民党を、ある一点で好きなんです。残念ながら「政策」ではありませんが。
どういう点かというと、社民党って、まともな女性が切り回している小企業という感じがする点です。
ぶらり庵は女ですが、だからと言って、女びいきというか、女であるということだけで味方するつもりではないです。団塊の男も嫌いだけど、女も嫌い、というより、それこそ、欧米でそれなりに根付いたフェミニズムや女性の平等、それが日本で全然根付いてないのは、その時代に大量に(少なくともそれ以前にくらべて)社会進出したはずの女が、その後はほとんどが男と同じく、「連帯」ではなく、私利の追求に走った責任が大きいのではないかと考えています。で、大体、女が日本の組織の中で地位を追求するときは、男に媚びる(良く言って「立てる」、良くもないか)パターンが多いので、男より悪い。
そういう状況をずっと見てきているので、いつつぶれるかわからない弱小企業を、女性たちが自力で支えている感じの社民党に、その点でだけ、けっこう肩入れしたくなります。ここで何度か、衆議院・参議院の国会審議ビデオが見られることをご紹介しましたけど、時折、そういう審議を見ていると、出身が労弁、小児科医、NPOという、それぞれの議員が、ありとあらゆることに少人数でがんばって対応しているように思えます。

ただし、先にも書きましたが、政策では疑問も多いのが残念。

依然として「世代」の問題を考えています。
「団塊の世代」ってとてもダメな世代だと思うのですが、なぜそうなのか、と。
歴史の中で、ある世代が、「ロスト・ゼネレーション」とされることは時折あると思います。最も有名なのは、もちろん、第一次大戦後のヘミングウェイの世代ですけれど、アメリカでは、ベトナム戦争も、世代のトラウマとなっているように思います。
ただ、日本の「団塊の世代」は、戦争と直接の関係にはないこと、とか、それから、「ダメな世代」というのはあるのに「良い世代」はないように思えること、など、なかなか面白いですよね。

団塊の世代は確かに「勘違い」世代かもしれません。

高度成長の波に乗って地位と賃金と安定を獲得した世代、のはずですが、その方達の今の非正規雇用者(就職氷河期世代)に対する物言いは「我々の若い時代はもっと大変だった!」「努力が足りん!」「甘えてる!」なんですねぇ。

自らが経験してきたことがすべてである、と、、、
経験外の状況は受け入れたくない・認めたくないんでしょうね。

単純な思考のワナに陥ってしまっているんじゃないっすか、あの世代。

NSR初心者さま、hamachanさま

なぜ、その特定の世代が「勘違い」で、単純な思考のワナにはまっているのか、についてぶらり庵は、ある程度、こうではないか、という推測は持っていますので、もう少し整理してから書かせて頂きたく思います。

あと、彼らが好んで説教する「就職氷河期」世代、今に社会のお荷物になる可能性のある世代は、おわかりでしょうけれど、団塊ジュニアの世代です。かつ、今、あまり言われていないけれど、この先、長いスパンで一番問題になる(社会のお荷物になる)グループは、高齢化してかつ単身化した(女の方が「長寿」だし)団塊女性だと、ぶらり庵は考えています。フェミニズムとか、思秋期、とか、「おひとりさまの老後」(まさにその世代の著者による非社会学的「勘違い」老後本、これものちほど)の団体さんです。

さて、月曜。

「団塊の世代」について。平成19年版『高齢社会白書』のまとめでは、「団塊の世代」とは、「高学歴化」「都市移住」「サラリーマン化」を特徴とするとされています。
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2007/gaiyou/html/jg110000.html
とても大雑把に言って、戦前までの、それぞれの地方で、義務教育程度が標準で、親の後継などのおおむね地元での職に就いて生活する、という生活パターンが、敗戦後の景気回復に伴って、団塊の世代の成長と共に、急変したわけです。実際には、大学進学率はそれほど高くなかったとは思いますが、それまではエリートのものだった大学が、誰でもしようと思えば進学できる大衆化へと舵を切った時期で、「大学を出て都市で大企業のサラリーマンになる」というのが、「理想像」となったのですね。学校を出てからは、高度成長の波に乗って、ばっちり「終身雇用、年功序列」。で、その理想像そのままに歩いてきているマンガがあるわけです。単にこうした「流れ」に『幸運にも』乗れただけなのに、「団塊の世代」自身は、自分達は、親の世代に比べると、「学があり」「都会的」「近代的」、子どもの世代に比べると「良い仕事を選び」「自力で出世」と、要するに、「自分たちだけがエライ」、しかもそのエラさを自力で獲得した、とまとめて勘違いする結果になったように思います。安定した社会は、文化のきちんとした世代間継承があるのが本来だと思いますが、「団塊の世代」は、親世代を拒否し、子世代をバカにして、本来は安定していた(のではないかと思われる)日本社会の文化の世代間伝達をめちゃめちゃにしたのではないか、と、1948年生まれのぶらり庵は考えています。
この「勘違い」とは、要するに、自分についての客観的認識がない成り上がりが、運と成り行きでありついたに過ぎない恵まれた地位を、自力で獲得したかのように思い、自分の本来の出自を見捨てて、何か別のものになろうとする、「自分ではない何者かになろうとする虚偽」、と、ぶらり庵には見えます。

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