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2008年3月21日 (金)

雨宮処凜氏のOJT

爆問学問の話の流れで、ぶらり庵さんが、

>職業レリバンスを全く意識しない大学生活を送り(文学部女子)、幸いに資格は問わない試験(知識は問われた)で実業団に移籍でき、移籍後も、日本の組織の特徴であろうところの、自己の希望と無関係な人事異動に従順に従って、ひたすらOJTで現在の職業への「レリバンス」を磨いてきましたね、振りかえってみると。

と語っていますが、全く異なる人生コースで、同様にOJTの重要さを語っているのが、雨宮処凜さん。

http://www.magazine9.jp/karin/080312/080312.php

>こんなことを強く思うのは、私自身がまさに「仕事をしながらトレーニングさせてもらった」からだ。しかも相当良質な「教育」をしてもらった。編集者にマンツーマンで、物を書くということについてものすごく勉強させてもらった。そうして小説やエッセイなどを書き、出版してきたわけである。
 こんなことを言うと、「結局雨宮さんはニートよりは努力し、戦略的な生き方をしている」というようなことを言われることがある。が、「物書き」になるということについて、自分で言うのもなんだが、私はまったく「努力」していない。なってからは少しは努力しているが、なるための努力は1ミリもしていない。だって、私が本を出すきっかけは、私が右翼団体を脱会するまでを描いたドキュメンタリー映画「新しい神様」が劇場公開されることになった、というそれだけのことだ。ということは、私が物書きになる、そのチャンスを作ったのは、「右翼団体に入った」ということである。誰が「戦略的に」、或いは「キャリアアップ」のために右翼団体に入るだろう・・・。まったくの奇跡のような偶然で、物を書くようになり、そうしたら編集者の人がいろいろ教えてくれたのだ。そしてただのフリーターだった私は「物を書く」ということを、仕事をしながら学んでいったのである。

これは、例の赤木智弘氏について語っている中での言葉ですが、最後に

>日本の企業社会に、「人を育てる」という感覚が戻ってくれば、事態は少しはいい方向に変わるのではないか。

と、売れ線狙いのマスコミ的にはあまりにも平凡に見える言葉を書き付けています。

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コメント

結局のところ、労働教育は要るのか、要らないのか…。

> 働き、賃金を得ながらトレーニングさせてくれということだ。それはあまりにも真っ当な要求で、そもそもひと昔前の日本の企業というものはそういうものだったと思う。とりあえず正社員として採用して、給料を払いながら仕事を一から教えていくというやり方。
> が、今はどうか。企業は即戦力ばかりを欲しがり、「新人を育てる」などという余力、余裕はないというところが圧倒的多数だろう。
>
> スキルを習得する機会さえ与えられないまま、「即戦力ではないから」と切り捨てられる不条理。
マガジン9条〜雨宮処凜がゆく!〜(047)
http://www.magazine9.jp/karin/080312/080312.php

発言を引用して頂きましたので、労働教育について、私見を。
二つ考えられると思います。学校教育における「労働教育」と、OJTとしての「労働教育」と。
1.学校教育において:大学まで含めて考えます。あるお医者さんは「現在の日本では、国民の三人に一人から、二人に一人がガンになっている。であるから、早いうちからガン教育をすべきである。」との見解を持っています。「誰でも将来働くから、早期から労働教育」「誰でも将来消費者になるのだから(これは「労働者」よりももっと高い確率ですね)早期から消費者教育」、と、いろいろ展開できると思いますが、現在わたし達が直面している問題が、小学生が成人する頃、どのようになっているかを考えると、具体的な教育内容を考えるのはなかなか難しいですね。何についても進化が早く、次世代がすぐに出てくるのが今の社会ですし、そういう進化の速度はあがる一方のように思います。私の考えでは、そのように先が見えずに進化してゆく社会の中でも、「なぜそうなるのか」を調べ、「何が問題(重要)か」を発見し、どのような対処の選択肢があるかを考え、最終的に自分はそれにどう対処するかを決断し、それに関して、必要なら他者との調整を行う、という基本の人間的技術を磨くことで、あらゆるありうるリスクに対応できるように「教育」するのが、ワンストップ・リスクマネジメント型教育として有効だと思います。働く上で問題にぶつかったときは、その力を活用してそれに取り組む、それから、そもそも、問題を発見するには、発見する感受性(何かおかしい!という)を磨かねばなりませんけれど、それは、もう家庭で「まともな暮らし方」をするのが基本ですね。それがベースにあれば、「まともでないこと」は、「何か変!」と感じられますが、そこで狂ってしまうと、そもそも問題を問題として発見することが困難になりますね。今の社会は進化が早く、かつ、子どもが昔よりも幼い部分が多いのに、大人の世界に簡単に入り込めるようになっているので、自立して調べたり考えたりするステップを早めることが必要ですが、日本の受験教育(とりあえず、OOに入るために、疑問を持たずに一定のルールにのっとった訓練のみを行う)は、その障害になっているのでは、と思っています。大学では、自分の好きな対象を選んで、自由にこうした訓練をすることがおそらく、本来の「職業レリバンス」につながるはずだと思うのですが。
2.OJT、というより、職場において:昔は、企業内教育だけでなく、それこそ、職場の中での人間関係にもとづく「教育」がありました。それに果たす労組の役割がどれほど大きかったか、昔はそこで育てられて、今は管理層になりあがった人たち(主として団塊の世代)が、それを忘れていると、わたしは見ています。日本の特徴で、若い頃に組合活動をし、それを前提に管理職になってゆく、という企業風土を持つ職場がけっこう多かった(今はどの程度なのかがよくわかりません)ことがあると思います。組合は、特に、異年齢、異ポスト、異部局、ときに異企業・異業種までをつないで、労働教育を行う役割を果たして来たと思います。わたしは、『労働組合運動に生きる 石垣辰男の仕事』(労働経済研究所、1994年刊)という本を今読んでいますが、石垣さん(1928-1994)は、早稲田を出て電機労連から労働経済研究所の仕事をなさった方とか。この本を読むきっかけになったのは、労働者の暮らしの国際比較を知りたくて『国際比較から見た日本の職場と労働生活』(学文社、2005年刊)を手にしたところ、「はしがき」に「この調査を最初に提案したのは、当時の電機労連調査部長、石垣辰男氏であった。石垣市は永遠の文学青年で、酔うとフランス文学とドイツ文学を語って夜を徹するようなお方だった。」とあり、どういう方だったのか気になってのことでした(文学部女子ぶらり庵もそれに近いかも、なので)。公表された石垣さんのお仕事は、でも、文学はほとんど表に出ず、りっぱな労働問題のお仕事でした。で、論文の中には、「ある機械工の職業的生涯」という、職工さんのOJT論も。このように、労働から眼をそらすことなく、けれども、おそらく後進をひろく生活まで目配りして育てた人たちがいたと思います。現在、ぶらり庵の周囲にみる管理職層は、そういった恩をきれいに忘れ、かつ、現在の若年層はむしろ早期教育によって様々なリスクに対応させてゆかねばならないのに、「依らしむべし、知らしむべからず、権力は自分が握るが、お仕事は若い者にやってもらおう!」というどうしようもないのが、なぜ、こんなに多いのだろう、と思うくらい多いですね。これも日本的特徴か。ですから、OJTとしての「労働教育」は、企業だけでなく、組合の問題でもあると思っています。ここで「組合」というのは、企業の管理ラインとは異なる、労働者のまとまりのいろいろな形を今後は考えてゆかないとならないとも思っていますが。

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